yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年4月15日 礼拝メッセージ

復活節第3主日 2018年4月15日

 

「復活のリアル」

ルカによる福音書24章36節b~48節)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

昨日は、北見教会の今まで用いてきた礼拝堂での最終の感謝礼拝でした。今の会堂は間もなく取り壊されて、そして今年の秋までには新しい会堂が与えられます。昨日の礼拝で小樽教会の木村先生が説教をしてくださったのですが、新しい礼拝堂は器であり、そこに集う人たちが何をするかが大切だ、それを忘れてしまうならその器は空しいものとなると話されて、本当にそうだと思わされました。みんなで礼拝をし、主の福音を宣教し、聖なる交わりを築くこと、それこそ教会にとって大切な務めであると改めて感じました。

 

さて、私たちが悲しんだり落ち込んだり恐れたりして心が塞ぎ込んでしまう時、人は自分の殻の中に閉じこもってしまいます。先週の福音で、イエスさまの弟子たちが恐れのゆえに、家の中に閉じこもり、戸に鍵をかけて引きこもっていたことも、そうした人の姿をよく表しています。そうしたとき、自分の抱えているその問題しか見えなくなってきて、それで心がいっぱいになってしまい、ますますふさぎ込んでしまい、なかなか殻から出てこられなくなってしまいます。

 

そのように塞ぎこみ引きこもっていた弟子たち。だれもその中に入れないように戸にはしっかりと鍵をかけて。しかし、そんな弟子たちのもとを、復活なさったイエスさまが訪れてくださった出来事を、先週私たちは聞きました。堅く閉ざし、がっしりと鍵をかけていた弟子たちの心の扉を、イエスさまが破って、その真ん中に立たれたのです。何度でも何度でも、イエスさまはそのように弟子たちのもとを訪れてくださいました。そのことによって、堅く閉ざされた弟子たちの心が、少しずつ少しずつ開かれていきました。私たちはちょうど今、春の季節を迎えていますが、大きなそして頑丈な雪の塊が暖かい日の光に照らされて、少しずつ少しずつ溶けていくように、弟子たちの心の塊も、復活なさったイエスさまが繰り返し繰り返し彼らを訪れる中で溶かされていったのです。

 

エスさまは今も生きておられ、私たちのもとをも何度でも何度でも訪れてくださると先週お話しいたしました。私たちの心の中の塊をも、イエスさまの愛の暖かさによって溶かしてくださるのです。そうした中で、私たちも心開かれ、癒されることを、信頼したいと思います。だれもこじ開けることができない、塞ぎこんでいる私たちの心の真ん中に、復活なさったイエスさまがおいでくださり、開いてくださる。そのことを信頼したいのです。

 

けれども、なおも人は弱く不信仰なものです。イエスさまが訪れてくださっているのに、なかなか信じることができません。それもそのはずです。弟子たちにとっても、私たちにとっても、イエスさまは十字架で死なれたお方であって、普通の常識なら、そこですべてが終わりだからです。ですから、イエスさまが復活なさって、今も生きておられ。自分たちのもとを訪れてくださった、このことをなかなか信じられないのです。弟子たちの前にイエスさまが現れても、彼らはそれを信じることはできませんでした。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と、今日の福音でルカは告げています。復活なさったイエスさまと出会って、彼らは亡霊、幽霊、お化けだと思ったというのです。

 

私たちも実際にイエスさまが目の前に現れたら、きっと彼らと同じように恐れおののくでしょうし、亡霊だ、お化けだと思うかもしれません。私たちはなかなか、自分の理解を超えたことを受け止めきれないのです。私が学生の時、ある教会で、ある方が聖書の学びをしていました。その人はイエスさまのことが大好きで惚れ込んだようなそんな思いで、その学びに参加していました。でも、その人がある日からパタッとその学びに来なくなりました。その方が、久しぶりに教会に来た時、なぜ学びに来なくなったかを話してくださいました。それは、キリストが復活なさったという出来事を学んだからだということでした。死んだ人間が生き返るなんてそんな馬鹿なことあるわけないじゃないかと、その方はおっしゃって、だからその時から学びには来なくなったのだとお話しておられました。でも、その方がそのように、また教会に来て礼拝に参加しておられる姿を見ながら、神さまはなおもその方の心に働きかけて、その方のことを招いておられるのだなと私は思ったのですが、このようにイエスさまの復活の出来事を受け止めるということは、普通の常識をもってはなかなか難しいことなのです。

 

でもパウロは、コリントの信徒へ向けた手紙の中で、そんな私たちに向かって言っています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

 

このように、「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられ」た、これが初代のキリスト者より今まで大切にされてきた大事な信仰です。先週、東方正教会の復活祭についてお話しました。その礼拝の中では「ハリストス復活、実に復活」と何度も言い交すと。実は、この「ハリストス復活、実に復活」は、このコリント書15章の言葉から採られたものです。キリストは復活なさったんだ、実際に復活なさったんだと、キリストの教会と信仰者たちは2000年の間言い続けてきたのです。

 

けれども、なかなかイエスさまの復活という出来事を受け止められない弟子たち、そして私たちに、イエスさまはおっしゃいます。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」この光景をぜひ想像してみてください。どんな思いになられるでしょうか。私は何か拍子抜けした感じを受けました。ふさぎ込んでいた弟子たちのもとを訪れたイエスさま。そのイエスさまを恐れおののき、お化けだと思っていた弟子たち。何とも言えない緊張感を覚えるのですが、しかし、そこで、イエスさまは、「ほら、手や足に触ってごらん、お化けには肉とか骨とかないけど、わたしにはあるでしょ。だから恐れないで疑わないでいいから」そんな風におっしゃるのです。なんか緊張の糸がぷつんと切れてプッと噴き出すような思いになります。

 

エスさまの復活を信じるというと、何か大それたことのような思いになります。でも、そうじゃないのではないだろうかとここから思うのです。「いや、大丈夫よ、わたしはたしかに生きているよ」と語りかけてこられるイエスさまを「あ、そうか」と受け入れること。死人が復活するなんてありえないじゃないか、科学的にそんなことは無理だとか難しく突き詰めて考えるのではなく、「あ、そうか、イエスさま生きておられるんだ」と素朴に思うこと、これが復活信仰なのではないかと、そんなことを思うのです。

 

よく人がよりよく生きるために、「根拠なき自信」が大切だということが言われます。「ぼくは大丈夫」「わたしならできる」そんな思いです。じゃその根拠は何なのかと問われても、それを論理的に明確に答えられるわけではなく、「どうしてかと言われても、わからないけど、でも大丈夫、できるさ」そんな「根拠なき自信」が大事なのです。私たちが「なんだかわからないけど、イエスさま生きておられるんだ」この思いは、そうした根拠なき自信に通じると思います。難しく考え、イエスさまは復活しておられると科学的に証明する、このことはあまり私たちの力にはなりません。でもふさぎ込んでいる心に風穴を開けるように、イエスさまが「いや大丈夫だから。わたしは生きているんだから。さあ手を伸ばしてごらん」と語りかけてくださることを受け止める時、私たちも立ち上がって、新しい一歩を踏み出すことができるのだろうと思います。

 

とは申しましても、弟子たちはなおもイエスさまのご復活の事実をなかなか信じることができませんでした。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」と福音は告げています。きっと「え?嘘?まじかよ?」そんな感じだったのではないかと思います。そこでイエスさまはおっしゃるのです。「ここに何か食べ物があるか」。弟子たちはきっと恐る恐るだったことでしょう。魚を一匹イエスさまに差し出すと、イエスさまはそれを採ってむしゃむしゃ食べ始められたのです。想像すると、おかしくてたまらないそんな光景です。なんかふさぎ込んでいたり、信じられないでいたりすることが馬鹿らしくなってくるようなそんな印象を受けます。

 

復活信仰って、そうやって与えられるものだろうと思うのです。難しく考えるんじゃなくて、イエスさまが私たちの心に与えてくださる。イエスさまが魚をむしゃむしゃ食べられたというのも印象深いですよね。あ、復活なさったイエスさま、物食べられるんだと。ヨハネ福音書でも、復活なさったイエスさまが朝の食事の準備をしておられた姿が伝えられていますし、今日の福音書の前のところでも、旅する弟子たちと一緒にパンを分かち合われたイエスさまの姿が伝えられています。これは、きっと私たちがご飯を食べたりするそんな日常の一コマで復活なさったイエスさまが私たち任出会い、復活の信仰を与えてくださる、ふさぎ込んだ私たちに笑いを笑顔を与えてくださる、そのことが伝えられているのではないだろうかと思うのです。

 

ルカは今日の福音で続けて、イエスさまの言葉を伝えています。《イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」》

 

モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」これは旧約聖書全体を表します。イエスさまのおられたころはまだ新約聖書はありませんでしたから、旧約聖書全体というより聖書全体と言ってもよいでしょう。聖書のみことばを私たちが受け止めるとか、信じるとか、それは何も何か仰々しいことではなくて、日々の歩みの中で悩んだりふさぎ込んだり恐れたりするとき、そうした中で今も生きておられるイエスさまと出会って、笑顔になる、そうした素朴なことなんだということを、このイエスさまの言葉から受け止めたいと思います。

 

さらに、福音は、《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」》と告げています。

 

エスさまが、私たちの心の目を開いてくださる。ふさぎ込んでいる私たちの心の真ん中を訪れて、心の風穴を開けて、ホッとした思いと笑顔をくださって、そのようにして心の目を開いてくださるのです。そうした中で、イエスさまの十字架のこと、復活のことが、私たちも少しずつ受け止められるようにされていく。そして、自分の罪深さも知らされ、悔い改めへと導かれ、赦しの中で復活の証人として私たちも遣わされ用いられていくのです。信じるということも、イエスさまのことを伝えるために遣わされ用いられるということも、何か難しいように思うかもしれないし、事実、難しい面もたくさんあるけれど、でも、本質的には、もっと素朴で単純なことだということを、今日のみことばから知らされます。

 

日々の歩みの中で、日常の生活の中で、イエスさまによって生かされる命、そしてその中で与えられる素朴な信仰を喜び、大事にしたいと思いますし、その信仰を分かち合って歩んでいきたい。そのために私たちもまた遣わされ用いられていることを、心に留めたいと、今日のみことばから願わされます。 

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私たちが日々の歩みの中に復活なさった御子イエスさまと出会い、復活の信仰が与えられていくことができますように導いてください。そして復活の証人として、この私もまた遣わされますように。いのちの主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-04-15.MP4 - Google ドライブ

 

 

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(取り壊される北見教会の会堂より。

復活のキリスト)