yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年4月22日 礼拝メッセージ

復活節第4主日 よい羊飼いの主日 2018年4月22日

 

「囲いの中も外も」

ヨハネによる福音書10章11~18)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先週までは私たちは、復活なさったイエスさまと弟子たちとの出会いの出来事を伝えるみことばを聞いてきましたが、今週からは復活なさったイエスさまが私たちにとってどういうお方であり、今も生きておられるイエスさまと私たちはどういう関係にあるのか、みことばより聞いてまいります。

 

今日、復活節第4主日は、「良い羊飼いの主日」と呼ばれます。復活なさったイエスさまが私たちにとって良い羊飼いである、イエスさまが復活なさったことによって、私たちにとって良い羊飼いになってくださったということを受け止めるのです。イエスさまが私たちにとってよい羊飼いであるということは、羊があってこその羊飼いですから、私たちがイエスさまの羊であるということをまた表しています。

 

このことを受け止めるために、私たちが羊であるとは一体どういうことであるのかということについてまず考えたいと思います。これは毎年のように繰り返しお話していることですが、羊とはたいへん弱い動物であるということを、私たちが受け止めることがとても大切になってきます。羊は目が離れているから周りはよく見えているようですが、あまり遠くが見えず、自分の前で起こっていることが見えない動物です。群れで生活する動物で、一匹だけはぐれてしまうならどうしてよいかわからずパニックになってしまう。道にも迷いやすい。暗いところが苦手です。ライオンや狼などの猛獣にすぐにやられてしまいます。

 

私が牧師になるための準備をする神学校に通っていた時、学校では毎日礼拝の時間、チャペルの時間があるのですが、ある学生が、自分が羊にたとえられるのはあまり好まなかったとお話していましたが、たしかに羊のような弱い動物にたとえられるのは気が進まないかもしれません。しかし、私たちは聖書のみことばを通して、イエスさまがよい羊飼いであり、私たちはその羊であるということを聞きます。このことは、私たちがそのように弱い羊のようなものだ、羊のようにそうした弱さがある存在であるということを、いつも忘れずに心に刻んで過ごすことが大切であるということを表しています。イエスさまの前に決して強い者ではない。弱い私たちなのだということを、私たちは忘れてはならないのです。

 

私たちも、自分にはちゃんといろんなことが見えていると思っていながらも、実のところはそんなに見えていない。特に自分の前で今何が起こっているのか見えていないものです。また、自分は一人が好きなんだということを言いながらも、しかし、どこかで孤独に耐えられない弱さがある。そもそも「人が独りで生きるのはよくない」と、神さまが天地創造の際におっしゃったように、私たちは一人きりで生きるのではなく、支え合って人と人との間で生きてこそ人間としてよりよく生きていくことができる存在なのです。一人突っ走って生きていくと、どこかで道に迷ってしまう。どうしてよいかわからなくなってしまう。再び歩むべき道に戻れなくなってしまう。特に神さまとの関係の中で、神さまに従って生きることが時にうざく感じて、煩わしく感じて、自分の好きな道を生きていこうとして、どんどん人生に迷ってしまう。よく言われることですが、聖書の中で用いられる罪という言葉は、もともと的外れという意味です。本来目指すべき的から外れて生きていること、これが聖書が語る罪です。私たちも本来は神さまの御心に従った生き方、人を大事にした生き方、つまり神を愛し人を愛する生き方をすべきところを、実際はそうできない。的外れな歩みをして、その的へともう戻れなくなってしまっている。私たちの前に立ちはだかるこの世の大きな力に、すぐ負けてしまう、飲み込まれてしまう。そうした弱い私たちであるということを、私たちはいつも忘れてはならないのです。そして毎年、必ず、この良い羊飼いの主日に、私たちは、そのことを思い起こし、改めて心に刻むのです。

 

私たちが弱い羊のような存在である、このことを私たちが謙虚に受け止める時、復活なさったイエスさまがそんな弱い羊である私たちにとっての良い羊飼いであるということの大きいな慰めが、初めて心に響いてくるのだろうと思います。自分は強いものだ、誰の助けも必要としない、自分独りで大丈夫だ、何ら間違えたこともしていない、そんな風に思っているならば、イエスさまがそんなあなたのよい羊飼いであると言われても、あまりピンとこないだろうし、その必要性を感じることができないのではないかと思います。ですから、まず私たちが自分の弱さをしっかりと見つめること、そしてその弱さを認めること、その弱さに打ち砕かれること、そのことがとても大切なことです。

 

そんな私たちに向かって、イエスさまは今日の福音でおっしゃいます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。新約聖書ギリシア語で書かれています。ギリシア語は、動詞の形を見ればその主語が何であるかがわかる言語です。わざわざ「私は」という主語がなくても、動詞の形をみれば、この主語は私であるということがわかるのです。ですから、主語が省略されることが多いのですが、イエスさまがここで「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃるとき、わざわざ「わたしは」という主語が語られています。この場合、本来は省略できる主語がわざわざ語られているわけですから、その「わたしは」という主語が強調されているということになります。つまり、ただ単に「わたしは良い羊飼いである」ということを、イエスさまがここでおっしゃっているのではなく、もっと強いニュアンスで、そのことをお話なっておられるということになります。「ほかの誰でもなく、このわたしこそが、羊のために命を捨てる、その命を惜しまない、よい羊飼いなのだ。」そんな風にイエスさまはここでおっしゃっているのです。

 

とても力強い言葉です。次の言葉を見る時、よりその力強さを思います。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」これもギリシア語から直接訳すならこんなニュアンスになります。「しかし、羊飼いではない、雇い人は、それが自分の羊じゃないので、オオカミが来るのを見ると、羊を放って、逃げて行ってしまう」。つまり、この雇い人と良い羊飼いの違いは、良い羊飼いは羊たちのことを自分の羊だと思っているけれど、雇い人たちは別に自分の羊だとは思っていないというところにあります。良い羊飼いはこれは自分の羊たちなのだから、他の誰かではなく、この私こそが、羊たちを守るんだ、そのために命を惜しまないんだと。でも他の人たちは、別の自分の羊だと思っていないから、自分の身の危険を感じたら、羊をそこに放っておいて、わが身を守るために逃げてしまうと、そうしたことがここで語られているのです。

 

私は、来月で47歳になります。47年間生きてきて、人生の中でいろんな失敗をしてきました。今もしてしまいます。そうした中で、私はよい人に出会い、助けられてきたなと感謝のうちに思います。周りのみんなから見捨てられても仕方がないようなそんなとき、ある恩師が「俺がどうにかして責任を取るから、お前はお前でできることをしっかりしろ」と、そんな風に言ってくれました。そして、あまり私自身はそのようにしっかりすることはできなかったのですが、でもその恩師はその言葉の通り、どうにかしてくれましたし、最後まで見捨てず私にかかわってくれました。他のみんなから見捨てられてもどうしようもないようなそんなとき、そんな中でも「たとえ他のみんながどうでも俺がどうにかする、俺が責任を取る」、その言葉はどれほど私にとって心強かったことでしょう。そして、その恩師は、私を守るために、周りのみんなからいろんなことを言われました。その恩師自身が傷ついたり、腹を立てたり、悲しく思ったりする、そうしたこともたくさん言われました。でも、恩師は自分の言った言葉に責任を取り、それをちゃんと守ってくれて、そのことで私を守ってくれたのです。そうした中で、私は人生のピンチから立ち上がることができました。今日の福音のみことばからそうしたことを思います。

 

エスさまが「ほかのだれでもなく、私こそが、羊のために、あなたがたのために命を捨てるよい羊飼いだ」そうおっしゃるとき、たとえ周りのみんなが「わたしたちはもう知らない」「別にあいつら自分の羊じゃないし」と見捨ててしまっても、また、置き去りにして逃げてしまっても、「他のみんながどうであっても、わたしだけは絶対にあなたがたを見捨てない。あなたがたのために命を張って、必ずあなたがたのことを守る」と、そう堅く誓ってくださるのです。私たちは、そのイエスさまの堅い誓いの中で守られて生きていくことができます。

 

エスさまはまた、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、そのようにもおっしゃっています。私たちのことを、良い羊飼いであるイエスさまは、ちゃんとわかっていてくださるというのです。私たちが羊のように弱い者であること。神さまの前に的外れな生き方をして迷ってしまっていること。本当は一人じゃ生きていけないということ。イエスさまは、そのことをちゃんと全部わかっていてくださる。他の誰でもなくわたしこそが良い羊飼いなのだから、わたしの自分の羊であるあなたがたのことをちゃんとわかっている、イエスさまはそうおっしゃるのです。その良い羊飼いであるイエスさまは、ご自分の言葉を守り、実際に私たちのためにご自身の命を投げ出されます。あの十字架の出来事です。罪と悪と死の力に囚われ、自分ではどうすることもできない私たちであるということを、イエスさまは知っておられたがゆえに、その私たちを救い生かすため、ご自身の命をイエスさまは投げ出されるのです。

 

今日のみことばの結びにイエスさまは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」とおっしゃっていますが、イエスさまはご自分の決断でそれを実行なさいます。イエスさまが十字架にかかった時に、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と周りにいた人がイエスさまに言いました。それまで嵐を静め、人の重い病気を癒し、死んだ人を生き返らせた、そんなイエスさまにとって、ご自分が十字架から降りて来ることは、実はたやすい朝飯前のことだったでしょう。でもイエスさまは十字架から降りてこられませんでした。できないからしなかったのではなく、できるけれどそれをしなかったのです。なぜなら私たちのことをよく知っておられたからです。もしイエスさまがここで十字架から降りてくるならば、イエスさまの大切な、命を懸けて守ると約束したご自身の羊である私たちが決して救われることはない、イエスさまがご自分の命を捨てることで初めて私たちの救いが可能になる、そのことをよくご存じだったがゆえに、イエスさまは「自分でそれを捨てる」とおっしゃった言葉を守られたのです。

 

東方正教会の復活祭で用いられる聖画、イコンで、イエスさまが、死者の国で棺の中のアダムとエバの手を引き上げているそんな様子を描いたものがあります。まさに、良い羊飼いであるイエスさまご自身が死の国に赴き、イエスさまにとって大切な羊である私たちのことをその死の世界から引き上げ救い出してくださった、それがイエスさまの十字架と復活の出来事です。

 

このようにご自身の命を懸けて私たちを救い出してくださったよい羊飼いであるイエスさまですが、今日もう一つとても大切なことをおっしゃっています。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。私たちは、イエスさまに導かれ救われ生かされている一人ひとりです。そして、この教会がそのイエスさまの羊の群れであると表現することができるでしょう。でも、そのように自分たちが導かれ救われて生かされている、ああよかったねと、私たちがただそこに満足し留まっているのではなく、未だ教会に足を踏み入れていない人、私たちの群れに加わっていない人もまた、よい羊飼いであるイエスさまのお導きをともに喜ぶことができるようになるために働く務めが、私たちに、私たちの教会には委ねられています。教会を、「囲い」と表現するのは何か閉鎖的な感じがして、おこがましいようにも思いますが、しかし、もはや囲いなどなく、その中も外も、ただ独りの良い羊飼いイエスさまの導きのもとにある、そのことを心に刻み、喜ばしい知らせ、福音を分かち合いながら歩んでまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

良い羊飼いであるイエスさま、弱く、さ迷う私たちを導き救い出してくださったことをありがとうございます。この喜びを分かち合いながら歩むことができるように私たちを導いてください。アーメン

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 

動画 2018-04-22.MP4 - Google ドライブ

 

https://www.lds.org/scriptures/bc/scriptures/nt/john/10/images/064-064-JesusCarryingALostLamb-full.jpg?download=true