yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年5月6日 礼拝メッセージ

 

復活節第6主日 2018年5月6日

 

「真の愛の中で」

ヨハネによる福音書15章9~17)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

先週、私たちは、イエスさまのぶどうの木のたとえから、私たちがイエスさまにつながって生きることの大切さを受け止めました。イエスさまが差し伸べてくださった手に、私たちも手を添えて、イエスさまとつながりあって生きる、そのときはじめて、私たちに豊かな実りが与えられることを受け止めたのです。先週のみことばでイエスさまは、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」とおっしゃっていました。また、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ともおっしゃっていました。このようにイエスさまは、私たちがイエスさまにつながって生きる中でこそ、はじめて実を結ぶことができるけれど、イエスさまを離れては、私たちが実を結ぶことはできないどころか、そもそも何もできないのだと、繰り返し語られるのです。

 

ですから、イエスさまにつながって生きる、そのことが私たちの出発点であり、いつも忘れてはならないことです。私たちが自分の力で何か良い働きができるというのではなく、イエスさまが私たちに良い働きをさせてくださる。そして、私たちがしたことで何か良い結果が与えられたとしても、得られた結果、その実は、イエスさまから与えられたものである。私たちはそのことを心に刻みたいと思います。「私がこんなにやったから」とか、「自分がすごいから」とかいうのではなく、イエスさまが私につながっていてくださったから、そこから力を与えられて、それをすることができるのです。

 

今日のみことばは、その先週のぶどうの木のたとえの続きです。イエスさまは今日のみことばで、「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃっています。実は、今日のみことばの「とどまる」という言葉は、先週のみことばの「つながる」という言葉と、聖書の原文のギリシア語ではまったく同じ言葉で語られています。ですから、先週の「わたしにつながっていなさい」というイエスさまのみことばは、イエスさまの「わたしの愛にとどまりなさい」ということを表しているということが、ここからわかります。また、イエスさまは、「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃる際に、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」とおっしゃっています。その上でイエスさまは、「わたしの愛にとどまりなさい」と私たちにおっしゃるのです。ですから、イエスさまが私たちを愛してくださっているその愛の中に、私たちがとどまって生きること、それがイエスさまの愛に留まるということであり、イエスさまにつながって生きるということです。

 

今日、イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」ともおっしゃっています。キリスト教は愛の宗教だとよく言われます。そして私たちが人を愛し、また互いに愛し合うことが大切だということもよく言われます。しかし、私たちがそこで忘れてはならないことは、イエスさまが「わたしがあなたがたを愛したように」とおっしゃっているという、このことです。ただ漠然と「愛が大切だ」、「互いに愛し合わなければならない」というのではなく、イエスさまが私たちを愛してくださっている、その愛の中で、その愛に導かれて、私たちも人を愛し、互いに愛し合って生きるのです。これが、ヒューマニズムの愛と、イエスさまの語られる愛は違うと言われる所以です。ヒューマニズムは、私たち人間の意思、人間の力ということを強調するわけですが、イエスさまの語られる愛は、先週のぶどうの木のたとえにあったように、私たちはイエスさまを離れては何もできない、イエスさまにつながっていなければ実りを得ることができない、でもそんな私たちであっても、イエスさまはなおも私たちを愛してくださっていて、そのイエスさまの愛の中で、私たちははじめて人を愛し、互いに愛し合って生きていくことができるのです。だからイエスさまに愛していただくこと、イエスさまの愛の中にとどまって生きること、このことが私たちにとってどうしても必要だし、そこを忘れてはなりません。

 

エスさまはおっしゃります。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」エスさまは、今日のみことばで、私たちのことを「友」と呼んでくださいます。英語で書かれたこどもの聖書物語の本を読んだことがあります。日本語では「イエスさまのお弟子さんたちは」となるところを、英語のその本では「Jesus’ friends」つまり「イエスさまのお友達たちは」と書いてあって、とても新鮮な思いがしました。私たちがイエスさまを信じて、イエスさまに従い、イエスさまの弟子として生きていくということは、何か堅苦しい、苦虫をつぶした顔のようにして生きていくことではなく、イエスさまの愛の中で、イエスさまの友達として喜びをもって生きていくということなのだということを、今日のみことばから思います。だからイエスさまは今日のみことばでおっしゃるのです。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」喜びに満たされて生きる、それが、私たちがイエスさまの愛の中でイエスさまの弟子として私たちが生きていくということです。

 

しかし、その喜びは、ただ手放しでバカ騒ぎするような喜びとは違います。イエスさまが今日「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とおっしゃっていますが、まさにイエスさまご自身が、私たちのために十字架で命を捨てられました。この十字架の愛に基づく喜びです。イエスさまが命を懸けて私たちを愛してくださっている、それほど大切な友と私たちのことを思ってくださっている。そのことを感謝する心から得られる喜びです。その喜びの中で、私たちは互いに愛し合う歩みをしていくのです。イエスさまの尊い命が私たちのためにささげられた、そして私たちの友となってくださった。だから私たちも人を愛し、互いに愛し合う歩みをしていくのです。

 

けれども、実際に、私たちが人を愛し、互いに愛し合うというとき、これはとてつもなく難しいことであると言わざるを得ません。結婚式の司式をする際によくお話することがあります。教会の礼拝でもお話したことがあるかと思います。コリントの信徒への第一の手紙の13章に愛の賛歌と呼ばれるみことばがあります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」ここには、聖書が教える真の愛が語られていて、たいへん美しい言葉が列挙されているわけですが、クリスチャン作家の三浦綾子さんだったかと思いますが、この愛という言葉のところに自分の名前を入れて読んでみるように勧めています。「白井真樹は忍耐強い。白井真樹は情け深い。ねたまない。白井真樹は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。白井真樹は決して滅びない。」読んでいて、嘘ばっかりという思いになって、穴があったら入りたい、そんな恥ずかしい思いになってきます。つまり、私はこの聖書が語る愛を全然実践できていない、そこから実にほど遠く生きているなと、そう思います。そのような私が人を愛し、互いに愛し合うというのは、実際にはとても難しいことです。また、愛すると言っても、物を愛するわけではなく、生身の人間を愛するわけですから、やはり感情的なすれ違いもあります。相手に自分の気持ちがなかなか通じなかったり、こんなに一所懸命しているのにどうしてわかってくれないんだという思いにもなったり、私のほうも打算的になったり、いい加減なかかわりになってしまったり、裏切られたり裏切ったり、愛を貫くことができなかったり、それが私たちの現実です。

 

だからこそ、私たちは、イエスさまの愛にとどまる、イエスさまが私を愛してくださったようにということに立ち返ることが大切になってきます。本当ならイエスさまに愛されるにふさわしくないこの私であっても、イエスさまはご自分の命をささげてまで私のことを愛してくださっている。イエスさまを離れては何もできないそんな私を、イエスさまはちゃんと捕らえて導いてくださっている。そのことをいつも確認をして、その喜びと感謝の中で、私たちはまた愛の歩みへと出かけていくのです。愛について語られる際に、良く十字架の縦の棒と横の棒ということが言われます。つまり、十字架の縦の棒は、神さまから、あるいはイエスさまから私たちへの愛であり、横の棒は、私たち同士の愛であると。このように、神さまから、またイエスさまから私たちへの愛があってこそ、そこに導かれてこそ、私たち同士が互いに愛し合うことができる。その縦の棒を忘れてしまうなら、横の棒の私たちが愛し合うという、つながりはできません。

 

そのために大切なことは、私たちが聖書のみことばに導かれ、祈りの生活を大切にすることです。ついつい毎日の忙しさに流されて生きていってしまう私たちで、日曜日だけのクリスチャンになってしまいがちです。でもそうした中で、毎日、一日の間で少しでも聖書を開き、神さまに祈ることを生活の中に取り入れていくこと。その中で、イエスさまの愛の大きさ、ありがたさに、私たちが日々気づかされ、その愛を喜びながら過ごすようにされていきます。それがイエスさまの愛にとどまって生きるということではないでしょうか。

 

今日のみことばは、イエスさまが十字架にかかる前の最期の言葉の一つで、いわばイエスさまの遺言であると言えます。イエスさまの熱い思い、切なる願いが込められた言葉が、今日、私たちにも託されています。イエスさまは、私たちにぜひイエスさまの愛にとどまって、互いに愛し合って生きていってほしい、そう願って、十字架を引き受けられます。私たちも心してイエスさまの言葉を受け止めたいと願います。イエスさまは今日のみことばの結びで、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」とおっしゃっています。私たち自身を見るなら、実に頼りない私たちですが、にもかかわらず。イエスさまはそんな私たちを選んだとおっしゃいます。そして、実を残るようにしてくださり、そのために願うなら何でも与えてくださるようにしてくださると約束してくださいます。私たちは、このイエスさまの力強い約束の中で、互いに愛し合う歩みへと送り出されているのです。

 

ところで、「互いに愛し合う」ことは、一人ではできず、それは二人以上がいて、初めて可能となることです。しかし、はじめはイエスさまが私を愛する、そのことがスタートです。そのイエスさまの愛の中で、私も人を愛する。そして、その愛が相手にも伝わって、そうした中で互いに愛し合う関係が生まれていきます。さらにその愛が次の人に伝わって、その愛が少しずつ少しずつ大きくなっていくのです。以前にも紹介したことがあるかもしれません。こどもさんびかに「どんどこどんどこ」という歌があります。

「1.どんどこどんどこ歩いてゆけば どんどこどんどこ友達がきて どんどこどんどこ二人になって 君も笑ってぼくも笑って 神さまのこどもになって どんどこどんどこ歩いてゆけば 2. どんどこどんどこ歩いてゆけば どんどこどんどこ友達がきて どんどこどんどこ四人になって 君も歌ってぼくも歌って 神さまのこどもになって どんどこどんどこ歩いてゆけば 3. どんどこどんどこ歩いてゆけば どんどこどんどこ友達がきて どんどこどんどこ八人になって みんな仲良く肩を組んで 神さまのこどもになって どんどこどんどこ歩いてゆけば」

たいへんかわいらしい歌詞ですが、イエスさまの愛の中で、私たちが互いに愛し合う関係もこの歌のようであったらいいなと願います。そのためには、まず私がイエスさまの愛に生かされること、その愛の中で出かけていくことです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

御子イエスさまが命懸けで私を愛してくださることを感謝します。その真の愛の中で、私も人を愛し、互いに愛し合う歩みができますように。イエスさまを中心とした、イエスさまの愛に導かれる互いに愛し合う輪が少しずつ少しずつ大きくなり、この世界中を包み込みますように。私たちの友となってくださったイエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-05-06.MP4 - Google ドライブ

(体温39度以上の熱がある中、朦朧としながら語り録画しました。録画の仕方も話し方も変ですが、おゆるしください)

 

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