yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年5月20日 礼拝メッセージ(聖霊降臨祭)

聖霊降臨祭 2018年5月20日

 

「本当のいのち」

エゼキエル書37章1~14節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日は、第一朗読、旧約聖書エゼキエル書の37章からみことばを聞いてまいりたいのですが、そこには、たいへん不思議で、かつ、たいへんグロテスクな出来事が伝えられていました。

 

預言者エゼキエルは、神さまによって、ある谷へと連れて行かれます。「そこは骨でいっぱいであった」と言います。エゼキエルはその谷を一周させられました。するとどこも骨、骨、骨。辺り一面夥しい数の骨で満ちていました。しかもそれらの骨は、みな「甚だしく枯れていた」と伝えられます。そこにはもはや命の痕跡は一切なく、全くの死そのものの現実だけがそこにあった。そうした光景を私たちは受け止めます。

 

なぜそんなに大量の骨がそこにあったのでしょうか。9節に「これらの殺された者」という言葉があるように、そこにある枯れ果てた数多くの骨は、多くの人たちの命が奪われたもので、生きることが許されなかった。そのことを表しています。生きることを途中でやめさせられ、命奪われ、殺されてしまった人たちの骨で満ちている、その谷に、エゼキエルは独り立たされるのでした。実に壮絶な光景です。

 

多くの人たちが殺されている、その状況を思う時、私たちは、そんなに沢山の人たちの命が奪われてしまうなんて、何と酷いことがそこで起こったのだろうと思います。いろんなテロや戦争、大量殺人のニュースを聞いた時もそうした思いになります。しかし私たちがそこで忘れてはならないことは、もちろん沢山の人たちの命が奪われたわけですが、そこには一人ひとりの生きていた人がいて、その一人ひとりの命が奪われて、それが夥しい数になったということです。もし百人の骨がそこにあるなら、百人一人ひとりそれぞれの人生が奪われたということ。千人でも一万人でも、千人一人ひとり、一万人一人ひとりの人生が奪われたということ、私たちはそのことを受け止めたいと思います。

 

さて、夥しい数の枯れた骨で満たされたその谷、そこで一体どんな酷い出来事が起こったのかと考えるわけですが、神さまは驚くべきことをおっしゃいます。11節、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と」。これらの骨は実際に死んだ人たちのものというのでなく、実際は生きているイスラエルの人たちの姿だと言います。彼らが生きながら『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と絶望のうちに言っているというのです。

 

イスラエルの人たちは、神に背いた結果、国を失ってしまい、バビロニアという近隣の大きな国に強制連行されていました。彼らはそこで本当に辛い日々を過ごさねばなりませんでした。かつて戦時中、日本にも朝鮮半島や中国から多くの人たちが強制連行されてきて、辛い生活を余儀なくされました。敗戦後、外国の地に残され、大変辛い思いをした日本の人たちもいます。また、沖縄は長い間アメリカの占領下で主権を奪われて人々は暮らしていました。このように他の国で、あるいは他の国の占領下で生きるということはたいへん辛いことです。イスラエルの民は、その生活の中で疲弊し、命が枯れて、希望を失ってしまう苦しみを経験していたのです。生きながらにして死んでいる、命奪われてしまっている、そんな現実の中で暮らしていました。まして、それが自分たちの罪のゆえであり、それゆえに神さまとの関係も絶たれてしまった。彼らにとって耐えがたい日々でした。

 

そうした状況の中で、神さまはエゼキエルに尋ねます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるのか」。普通に考えるなら、もはや生き返るのには難しい、無理な状況です。枯れ果てた骨、命の欠片もないその骨、希望を失い命が枯れて生きている人々。もはやそこに命の希望を見出すなんて不可能なそんな状態です。でもエゼキエルは答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」私たち人間的な目で見るなら、そこには命も希望も全くない。すべては枯れ果ててしまっている。でも、そうした中で、なお一つの望みをエゼキエルは神さまに託すのです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。神さまあなたのみが、ただあなただけが、この状況をどうにかしてくださいますと。

 

しかし、神さまは、ただ超自然的な現象でその枯れた骨をパッと生き返らせるのではなく、エゼキエルに命じます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしは主であることを知るようになる」。

 

そうです。この枯れた骨、命も希望も絶たれた人たちが今一度生き生きと生き返るのには、主の言葉が彼らに語られることが必要でした。神の言葉が語られる、ただこのことによってのみ、枯れた骨、命奪われ、希望を失った人たちが、もう一度生きる者とされるのです。そして、そのための働きが預言者エゼキエルに命じられます。神がパッと起こす超自然的な現象によってではなく、神さまは、ご自分のしもべ、働き人を用いて、生きる希望を奪われている人たち一人ひとりにみことばを語りかけることにより、命の希望を届けられるのです。

 

エゼキエルは、神さまの語ることに従い、主の言葉をその枯れた骨に語りかけました。すると何とも不思議なことが起こるのです。「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」。ありえないことがここで起こります。枯れていた骨が、カタカタと音を立てて、もう一度生きる者とされたのです。神の言葉が語られることによってです。命も希望も奪われたところ、そこに主の言葉が語られるとき、命が生じます。人に新たな命、新たな希望が与えられるのです。

 

けれども、その生き返りつつあった人々にまだ一つだけ欠けているものがありました。「しかし、その中に霊はなかった」と、エゼキエルが証ししている通りです。天地創造の出来事を思い出します。神さまは初めの人アダムをお創りになられた時、土でその形をかたどられました。けれども、それはまだ土の人形、土くれであり、生きた者にはなりませんでした。そこで神さまはどうされたか。その土の人形、土くれに、神さま自らが命の息を吹き込まれたのです。その時、初めてそれは人として生きる者となりました。神さまの命の息が人の中に吹き込まれること、そのことが人が人として生きるためにどうしても必要だったのです。私たちもただ生きているだけでは、本当の意味で人として生きていることになりません。神さまの命の息が吹き込まれて、神さまとのかかわりの中で生きて、初めて人として生きる者とされます。

 

今日のエゼキエル書では、「その中に霊はなかった」と語られていますが、実はこの「霊」という言葉と、創世記の命の息の「息」という言葉は、旧約聖書のもともとの言葉であるヘブライ語では同じ言葉です。人の中に霊がないということは、神の命の息がないということを表しています。神さまはエゼキエルに命じておっしゃいます。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る」。エゼキエルは神さまに命じられた通りにしました。すると、霊が人々の中に入り、生き返って自分の足で立ったと、今日のみことばは伝えています。「彼らは生き返って自分の足で立った」印象深い表現です。今まで枯れ果てて命も希望も奪われていた彼らが、神の言葉が語られ、その霊が自分の中に吹き込まれると、生き返り、自分の足で立った、自立した歩みをするのです。そして「彼らは非常に大きな集団となった」といいます。満たされていた枯れた骨がみんな生き返り、命満ちる谷となりました。

 

「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆いていたイスラエルに、神はエゼキエルを通して語られます。「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」。神さまはこのように「わたしはお前たちの墓を開く」とおっしゃいます。墓、もう望みもなく、命もない、その終焉の場所。けれども、神さまはそこで人に命を与えられます。その墓の中から人を引き上げ、イスラエルの地、命の故郷へと連れ帰ってくださるのです。何の希望もない。もうだめだ。死ぬしかない。そんな墓の現実。でもそこでこそ、主の言葉が語られ、神の霊が吹き込まれて、墓から引き上げられ、新たに生きる者とされるのです。

 

これはエゼキエルの時代に起こった出来事を証しているものです。けれども、私たちはこれをただの過去の歴史上の出来事として聴くだけではなく、私たちの物語として受け止めることが、今日求められています。私たちの周りで沢山の枯れた骨を実際に目にすることはないかもしれません。けれどもこの世の大きな力の中で、生きながらにして生きる希望を失っている人たちが大勢います。命枯れた思いの中で過ごしている人たちがいます。悲しみの涙も枯れてしまい、心がカラカラで生きている人が多いのです。いろんな凶悪な全国な事件が私たちに知らされます。これもまた生きる希望を失った人たちの現実でもあります。このように枯れた骨で満たされた谷は、何も過去のエゼキエルの時代のことだけでなく、今日のこの私たちの社会の現実でもあるのです。

 

神さまはそうした中で私たちに尋ねられます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるのか」。私たちは、その問いに何と答えることができるでしょうか。命枯れてしまった人たちで満たされたこの社会で、その人たちが生き返ることができるのか。この問いに私たちは答えを持ち合わせておりません。でもエゼキエルの声が私たちの心に響いて聞こえてくるのです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。そうです。この現代においてもまた、人々が生き返ることができるのかというその問いに、私たち自身は答えを持ち合わせていないけれど、神さまだけがその答えを知っている。神さまだけがそこに答えを与えてくださるのです。

 

神さまは私たちにも命じます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」もうだめだ、何の希望もない、生きていけない、そう思われるまさにそうしたただ中、枯れた骨の谷の真ん中で、私たちは主の言葉を語ることが命じられています。何らかの希望があるから、実りを期待できるから、神の言葉を語るというのではありません。一つも希望がない、何の期待もできない、枯れ果てたその場所で、私たちは神の言葉を語るのです。

 

その神の言葉をどう語るのか。ただ字面を追って語るのではありません。ただ学問的に教えるのでもありません。神さまは私たちに命じておっしゃいます。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る」。そうです。その人に神の霊が、神の命の息が吹き込まれて、その人が生き返り、自分の足で立って歩むことができるように願いつつ、生ける神の言葉を語るのです。その時、命の奇跡がそこに起こります。

 

枯れ果てた骨がカタカタと音を立てて組み合わされ、肉や皮膚がつき、立ち上がり、神の霊によって生き返る。普通に考えるならあり得ない驚くべきことが、主の言葉がその人に語られ、その人に神の霊、命の息が吹き込まれるとき、そこに起こるのです。

 

今日は教会の暦で聖霊降臨祭、ペンテコステです。イエスさまの復活から50日たった五旬祭の日、イエスさまの弟子たちに、神さまの霊が降り、彼らが力強く神の言葉を宣べ伝え始めました。そのことで多くの者がキリストの救いを信じ、永遠のいのちに生かされ、信じる者の交わりであるキリストの教会が誕生したのです。それからおよそ2千年が経過した私たちもその出来事の流れの中にあります。私たちも、この枯れた現代に、神さまの霊に導かれ、出会う一人ひとりに神の言葉を語り、命の息がその人に与えられることを願って働きたいと思います。

 

何の希望もないようなところでも、何の期待を持てないようなところでも、そうした枯れた骨の谷のただ中で、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と、神さまの働きを信じ、私たちに託された働きを担い続けたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、あなたのみことばと聖霊によって私たちを生き生きと生かしてください。どうか私たちが困難を抱えるこの現代に、あなたの霊に導かれて命のみことばを語り続けることができますように、主イエス・キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

 

動画 

2018-05-20.MP4 - Google ドライブ

 

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