yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年5月27日 礼拝メッセージ

三位一体祝日 2018年5月27日

(掲載が遅くなりすみません)

 

「新しく生まれる」

ヨハネによる福音書3章1~17節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは先週、聖霊降臨祭を迎え、今日は、その次の主の日、聖霊降臨後第一主日ですが、毎年、私たちはこの日を三位一体の祝日として礼拝をいたします。

 

三位一体、これは、私たちが信じる神さまが、父と子と聖霊のお方であり、しかし、だからと言って、三人の神さまがおられるというのではなく、神さまはただおひとり唯一のお方であるという信仰を表す言葉です。この三位一体を私たちがどういう言葉で説明しても、なかなかしっくりくるように説明することは難しいです。今までいろんな人が、なるべくわかりやすく三位一体を説明しようと、いろんなたとえを使って説明をしてきました。水と氷と水蒸気はどれも元素記号で表すならば同じHOだけど、それぞれ違う現れ方をしているだとか、ある一人の男性が、同じ一人の男性であっても、彼の親から見れば息子であり、彼の子どもから見れば父親であり、彼の妻から見れば夫であるという三つの役割があるだとか、ひとつの卵は、白身、卵白と、黄身、卵黄と、殻から成り立っているだとか、一つの三つ葉のクローバーには三つの葉っぱがあるとか、三位一体を少しでもわかりやすく説明しようと、そうした説明がなされてきました。でも、実際には、そのどれもが三位一体の信仰とは、なんとなく違った感じでの説明になってしまっています。

 

それでは、この私自身が三位一体をどう受け止めているのかというと、これまた不十分な説明になってしまうその限界を受け止めつつお話しするなら、神さまの私たちへの永遠の愛、その関わりから考えています。つまり、神さまは天と地のすべてのものをお創りになり、それらとともに私たちをもお創りくださった。神さまがそのように創造の働きをなさり、それで神さまの私たちへのかかわりが終わってしまったのかというと決してそうではない。神さまの前に罪に陥り、神さまから離れてしまった私たちのため、独り子である神、主イエス・キリストが人となり、十字架と復活によって、私たちを救い、私たちに永遠の命を与えてくださった。そのように神さまが救いのわざを成し遂げてくださって、「じゃあ、あとは自分たちでちゃんとその救いを信じて生きていきなさい」と、神さまは私たちを放置なさるのではない。聖霊なる神さまが、キリストの体である教会と、教会に属する信仰者たちを通して、私たちに神さまの救いのメッセージ、福音を届けてくださって、私たちの心を開き信仰を与えてくださり、私たちがこの地上の生涯を終えて天に召されるその日まで、あるいはこの世の終わりの救いの完成のその日まで、私たちをしっかりと導いてくださる。その働きをなさるため、キリストの教会も支え用いてくださる。

 

このように、天地創造、この世の初めから、救いの完成、この世の終わりまで、神さまは父と子と聖霊のお方として、一貫して、私たちへ関わり続けてくださり、私たちへの愛を注ぎ続けてくださるお方であって、三位一体の神さまのそのどれ一つも欠けては、神さまのその永遠の愛とかかわりは成り立たないし、あるいはそれぞれがバラバラに存在してもそれは成り立たない、神さまがまさに三位一体のお方であるときに初めてそれが成り立つ、だから神さまは三位一体のお方でなければならない、そのように私は三位一体の神さまへの信仰を抱いています。

 

でも、これも初めに申しましたように、どこかで不十分なところがある理解であり、信仰です。私たちがどのように説明しようとしても、また、どのように理解しようとしても、神さまはこういうお方で、三位一体というのはこういう信仰だということを、しっかりと十分に完璧に言い表すことはできません。しかし、それでよいのだと思いますし、そうした不十分さを私たちが受け止めていることは実はとても大切なことなのではないかと、私は思っています。なぜなら、私たちが信じる神さまは、私たちが自分の頭で理解し、口で説明できるほど、ちっぽけなお方ではないからです。私たちが捉えきれない、私たちの理解も説明も遥かに超えた偉大なお方、神さまはそうしたお方ではないでしょうか。「信仰の神秘」という言葉があります。何でもかんでもいとも簡単に水戸黄門の印籠やトランプのジョーカーのようにそれを掲げるのは、何かずるく、いい加減のような気もしますが、けれども、三位一体の信仰については、やはり「信仰の神秘」という言葉で表現するのがいちばんぴったりくるし、しっくりくると、私は思っています。私たちの理解を超えて、でも、たしかに存在し、私たちを愛し関わり、共にいてくださる神さま、これが父と子と聖霊の三位一体の神さまです。

 

さて、三位一体について説明しきれないと言いながら、その説明が長くなってしまいましたが、今日の福音のみことばを聞いてまいりましょう。今日は、一人の人物、ニコデモについてのみことばです。彼はファリサイ派に属する」人物で、ユダヤ人たちの議員であった」と言います。熱心な信仰を持っており、また人々から尊敬も寄せられていた人物だったことでしょう。ファリサイ派というのはユダヤ教の一派であり、聖書やユダヤ教の伝統の中で大事にされてきたいろんなきまり、律法を厳格に守ることを大切にしていた人たちでした。

 

彼が「ある夜」エスさまのもとを訪れます。なぜ彼は昼間ではなく夜にイエスさまを訪れたのか。昼間はユダヤ人たちの議員として」自分がやるべきことが忙しかったからかもしれません。あるいは、イエスさまとファリサイ派の人たちは少なからず対立していた関係にありました。そうした中で、日中の目立つ時間に、ファリサイ派の一員であるニコデモが、イエスさまのもとを訪れるのは、他の仲間たちに何を言われるかわからない、そんなことを彼が気にしたかもしれないとも考えられます。または、彼は熱心な信仰者として、どうしてもわからない、不安なことがあった。どうしてもそれを解決したい、答えを得たいと願って、ある夜、イエスさまのもとを訪れたのかもしれません。

 

ニコデモは、イエスさまのことを高く評価していました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」エスさまにそう語りかけます。それに対して、イエスさまはおっしゃいました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ここで福音は「イエスは答えて言われた」と伝えていますが、ニコデモのはじめの言葉に対して、このイエスさまのおっしゃった言葉は、別に「答え」になっていないように思います。あまりにも唐突なことを、イエスさまはおっしゃった、そんな風に思えます。でも、まさに、これこそニコデモが、わざわざ夜にイエスさまのもとを訪れた動機でありました。彼の心にあった信仰の疑問や不安、その求めを、彼が具体的に語りだす前に、イエスさまは先立って、ずばり、そのことについて答えられ、お話なさるのです。

 

それは人が神の国を見る」ということについてでした。神の国に入る」とか神の国に生きる」と言い換えてもよいでしょう。ニコデモは、熱心に信仰生活を送り、厳格に律法を守って、一所懸命、議員として奉仕していても、その神の国への疑問、不安を解決することはできませんでした。イエスさまはそんな彼に対して、人が神の国を見るために、新たに生まれることが必要だと、おっしゃるのです。このイエスさまの答えにニコデモは驚きました。彼は、それなりの年齢になっていたと考えられます。そんな自分が新たに生まれるなんて、そんなことができるのか、無理ではないかと、彼は思ったのです。ですから、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と、彼はイエスさまに答えます。年を取ってもう一度母親のお腹の中から生まれるなんてことできないでしょうと。

 

でもイエスさまは彼にさらにおっしゃいました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」エスさまはここで「新たに生まれる」とは、「水と霊によって生まれる」ことだとおっしゃいます。つまり、ニコデモが言ったように、もう一度母親のお腹に入ってそこから生まれることではなく、一度、母親のお腹の中からこの地上に生まれた者が、ただその人生を生きていれば自動的にやがて神の国に入ることができるというのではなく、「水と霊とによって生まれる」ことが必要だと、イエスさまはおっしゃるのです。この「水と霊とによって」とは、洗礼の水によって、そして神さまの霊、聖霊によってということです。また、イエスさまが「新たに生まれる」とおっしゃったこの言葉は、聖書のもともとの言葉ギリシア語から直訳するなら、「上から生まれる」という意味になります。つまり「天から=神さまによって生まれる」ということです。このように、ただ母親のお腹の中から地上に生まれたその人生をそのまま生きていればよいというのではなく、神さまによって生まれさせていただき、神さまとのかかわりの中で生きる、それが新たに生まれる、神の国に入る生き方なのです。

 

エスさまはそれを今日の福音で、「肉から生まれた者」「霊から生まれた者」という言葉で説明なさいます。肉から生まれた者、それは母親のお腹の中から生まれた者ということです。霊から生まれた者は、神さまによって新たに生まれた、神さまとのかかわりの中で生きる者ということです。私たちみんな肉から生まれた者です。でもただ肉から生まれた者として「肉として」生きるだけでなく、神さまを信じて、神さまとのかかわりの中で、霊から生まれた者として新たに生まれさせていただき、「霊として」つまり霊的に生きる、そのことが今日語られています。

 

エスさまは続けて、「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」とおっしゃっています。これは、私たちが新たに生まれる、水と霊とによって生まれるということは、私たちが自分で難しく考えて理解するものではなく、風が思いのまま吹くように、私たちの理解を超えた神さまの御心によりなされる働きだということです。私たちがそんなことが可能なのかと考えることではなく、また、自分がそれにふさわしいのかと悩むことでもなく、神さまがあなたを新たに生まれさせようとお決めになり、神さまがあなたにそうしてくださる、そうした出来事だと、イエスさまはおっしゃっています。

 

ニコデモはなおも理解できず、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言います。イエスさまがそんな彼に「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」とおっしゃっていますが、ニコデモは聖書の専門家、教師として頭がよい人だったのでしょう。だから自分で考えて自分で理解して自分で納得する、それがこれまでの彼の生き方だったのだと思います。でも信仰の事柄は、ただそのように自分の頭で考え理解し納得するということでは解決できないことがあるのです。先ほど三位一体について「信仰の神秘」という言葉を言いました。私たちには捉えきれず理解しきれないことがある。神さまの働きとはそれほど大きなものだと。そのことを認めることが、私たちに必要です。小さな土の器である私たちを遥かに超えた偉大な神さまです。このことを認める時、私たちは、初めて、新たに、水と霊とによって、生まれることができるのです。

 

今日のみことばの結びでイエスさまは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とおっしゃっています。これは、聖書の中の聖書とも呼ばれる、とても大切なみことばです。私たちの理解を超えた神さまの深い愛が、私たちに注がれています。私たちが救われ、永遠のいのちに生きることができるようにという神さまの熱い愛です。あなたに生きろ、生きてほしい、一緒に生きていきたい、神さまはそう切に願っておられる。聖書や信仰に関していろいろ難しいことや分からないことがありながらも、この神さまの熱い愛を受け入れるとき、その中で、私たちは新たに生まれさせていただくことができます。三位一体の信仰もまた、この神さまの永遠の熱い愛の中で受け止め、大事にしていきたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

父と子と聖霊の神さま。あなたの深い愛を私たちに注ぎ、その偉大な働きによって、私たちを創り、救い、導いてくださっていることを感謝します。あなたの導きの中で、私たちがあなたを信じ、あなたへの感謝の中を歩むことができますように。父と子と聖霊の唯一の神に栄光が代々限りなくありますように。アーメン

 

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。アーメン

 

動画 2018-05-27.MP4 - Google ドライブ

 

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