yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年6月3日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第2主日 2018年6月3日

 

「いのち溢れる日」

(マルコによる福音書2章23節~3章6節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

私はこの季節の北海道の山々を眺めるのが好きです。とても美しい、新しい命溢れる若い緑の色をしていて、見ていて、心が豊かになる思いがいたします。先週、いつも私の礼拝用のストールを作ってくださる方が、新しいストールを私に送ってくださいました。これは明るい若草色のストールです。今の季節の山々の緑と同じ色です。教会の暦では、聖霊降臨後の季節を迎え、礼拝の色(典礼色)は緑の季節を迎えているのですが、実はこの緑の季節で、聖霊降臨後の早い季節には若草色のストールを着用し、その月日が経過していくと、今度は深い色の緑のストールをする、そうした工夫をしてもよいという習慣があるそうです。先週のみことばは、イエスさまとニコデモの会話のみことばで、私たちが神さまによって新しく生まれさせていただく、また神さまとのかかわりの中で新しく生きていくということの大切さを受け止めましたが、私たちも若草のように、そのように神さまからいただいた新しいいのちを、神さまのみことばを聞くことを通して段々と深められ成長させていただくことを、ストールの緑色の変化を通して受け止める、そうした意味があるようです。私たちも、この若草色のストールから、そのように、神さまから新しく生まれさせていただいた幼な子であり、少しずつ神さまによって成長させていただきたいと、そうした思いを新たにしたいと思います。

 

さて、ある教会にいらしていたお年を召した方が「自分は毎週、一週間に一度、教会の礼拝に来ることが、何よりもの楽しみです。教会に来て、礼拝をして、教会のみなさんと一緒にお話をして、一週間を生きていく力と喜びをいただくのです。そのために一週間の毎日の体調を整えています。」そうお話してくださるのを聞いて、それを聞かせていただいた私までもとても嬉しい気持ちになりました。そして、私もそんな風に年を取ることができればと思いましたし、もし教会にいらしている私たちみんながそうした思いでいられるならば、それこそ何よりもの伝道・宣教になるのではないかと思います。喜びをもって礼拝に集い、それを一週間の生きる力にする、一人ひとりがそうした思いで、毎週の礼拝に与っている教会、何と素敵な教会だろうと思いますし、もしそうした教会に新しい方がみえられたとき、きっとみんなのその喜びは自然とその人にも伝わっていくのではないかと思ったのです。

 

今日の第一朗読は、申命記のみことばですが、それは神さまがイスラエルの人にお与えになられた十の戒め、十戒のうちの一つです。「十の戒め」というと、何か守らなければならない戒律、きまりのように聞こえますが、もともとは「君たちはそのように生きていくなら、神さまの前に、また人々とともに、喜び豊かな、よりよい人生を送ることができるよ」と神さまがお与えくださった、神さまからのお約束を表します。家庭で親が、あるいは幼稚園や学校で先生方が、子どもたちに「これお約束だよ」と教えてくれることがあります。「トイレの後は手を洗うんだよ」とか、「お友達が悲しむことを言ってはならないよ」とか、そうしたお約束は、何も「トイレの後に手を洗わなければ君はダメな人間だよ」とか、「友達が悲しむようなことを言ったら罰が当たるよ」とかいうことを表すのではなく、「トイレの後に手を洗うと黴菌が落ちて、悪い病気を予防出来て、健康に過ごすことができるよ」とか、「友達が悲しむことを言わないでいたら、友達も自分も喜びをもって楽しく仲良く過ごせるよ」とかいう、「結局は自分のためにもみんなのためにもなるよ」という教えであり、聖書の中の十戒も、同じように、自分も神さまも周りの人もみんな、より喜びをもって、豊かに生きていくことができる、そのために神さまが人々に教えてくださったものです。

 

安息日を守ってこれを聖別せよ」という今日のみことばも、そうした神さまの私たちへの思いが込められた大切な教えです。安息日とは週に一度、神さまを礼拝する日であり、その日に神さまを礼拝することが私たちが神さまの御前で、人々と共に、喜びをもって豊かな人生を送るために大事なことだという、神さまからの私たちへの、私たちを思って与えてくださったお約束、それがこの安息日を守ってこれを聖別せよ」の心でした。しかし、しばらくの歳月が経過していく中で、その最初の神さまの思いは残念ながら段々と忘れられていってしまいました。「安息日を守らなければ、絶対にダメだ!ゆるされない!」そんな風に人々はそれを受け止めるようになり、安息日にはあれをしてはならない、これをしてはならないという細かいきまりが、沢山作られていきました。遠くへ歩いて行ってはならないとか、どんな作業もしてもならないとか、そんな感じです。現代もイスラエルの人たちに、そのたくさんのきまりは有効だそうで、安息日に火を使ってはならないから、イスラエルのホテルでは安息日には暖かい料理は出ないだとか、エレベーターを操作することも安息日に仕事をしてはならないので駄目なため、安息日にはエレベーターがすべての階に自動的に停止する設定になっているとか、ユダヤ教の会堂のトイレは人が操作しなくても開閉できるように、自動ドアになっているとか、そのような事実があるそうです。そうした安息日をめぐるいろんなきまりの中で、人はそのきまりに雁字搦めになり、窮屈な生活を強いられるようになったのです。

 

今日の福音書は、そうした安息日について、イエスさまが語られたことが伝えられています。まず2章の終わりですが、イエスさまの弟子たちが畑で麦の穂を摘んで食べていたことに対して、当時の宗教の指導者たちがイエスさまに「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と非難したことが伝えられています。つまり、イエスさまの弟子たちが、「安息日に禁止されていた収穫の作業をしているのはけしからん!」というわけです。しかし、結局彼らは、それに対するイエスさまの答えの前に黙るしかなかったのですが、けれども、ただそれだけでは終わらず、今日のもう一つの出来事3章の初めの出来事に続いていきます。そこでは、安息日の礼拝に、一人の手の不自由な人が参加していました。イエスさまに敵対する人たちは、イエスさまがその人にどう接するか、注目していました。なぜなら安息日に人を治療する行為は禁じられていたからです。もしイエスさまがその人を癒されるなら、安息日のきまりを破ったという重大な罪で、イエスさまを訴えようと彼らは企んでいました。それに対しても、イエスさまはとても大事なことを語られて、その人のことを癒されるわけですが、それに納得がいかない彼らはイエスさまを殺す=死刑に処すことを相談し始めるのでした。

 

さて、私たちに大切なことは、そこでイエスさまが安息日について何を語られたかということです。イエスさまはまず2章でおっしゃいます。安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」と。つまり、先ほどお話しましたように、神さまは、安息日を守りこれを聖別せよ」というお約束を、決して人があれをしてはならない、これをしてはならないと、そんな風に雁字搦めにされてしまうために、人に与えたのではなく、人がより良く豊かに喜びをもって生きることができるために与えられたものだということを、ここでイエスさまはお話されるのです。弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べていたのは、彼らが飢えて空腹に耐えられなかったかもしれないし、あるいは、ちょっと「あれ採って食べちゃおうか」という遊び心であったかもしれません。聖書の解説が書かれた注解書によって、その解釈は異なりますが、しかしそのいずれの理由だったとしても、「あいつら安息日に、あんなことしてけしからん!律法違反だ!」と眉をひそめて、人を非難して裁くための安息日ではなく、神さまに生かされていることを喜び、私たちがより豊かに生きるために安息日がある。そのように、「人の子」、つまり、イエスさまが、神さまの本来の意図を伝えるのでした。

 

次に3章でイエスさまは、その手の不自由な人に「真ん中に立ちなさい」と、彼を会堂の真ん中に招かれた上で、人々に向かっておっしゃいます。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と。神さまを礼拝する日である安息日に、人々は、手が不自由で生きる上での困難を抱えている人のことを、イエスさまがどうされるか、それ次第ではイエスさまを訴えようという思いで見ていて、その人の抱えている痛みだとか苦しみだとかそんなことを一切無視していたことに、イエスさまはきっと耐えられなかったのだろうと思います。だから彼を真ん中に招きます。こうした傷ついている人、困難を抱えている人こそ、神さまの御前に招かれており、あなたがたの共同体のその真ん中に招かれるべきであり、安息日はそうした日にほかならないと。だから、安息日にあれをしてはならない、これをしてはならないと、あなたがたが考えているそんなことよりも、もっと大切な神さまの御心は何か、それを忘れてしまっているあなたがたは、神さまが望まれる善よりも悪を、人の命を救うよりも殺すことをしているのではないかと、イエスさまは彼らに問われるのです。

 

安息日、それはもともと二つの意味を持っていました。一つは、神さまによるいのちの創造を覚える日です(出エジプト20章)。神さまが天地を創られ、私たち人類をも造られて、七日目に神さまはその働きを終えてお休みされた。そのことを覚え、私たちも神さまによって創られた者として、そのことを感謝し、いのちの充電をしてまた新たな一週間を生きていく、そのための日だったのです。もう一つは、神さまによる解放と救いを覚える日です(申命記5章)。エジプトで奴隷だった人々を神さまはその苦しみから解放され、彼らを救われた。そのことを週に一度は思い起こし、私たち自身、神さまに救われ自由が与えられている者であり、また私たちの周りのいのちも神さまの救いと解放の中にある、そのことを感謝して、喜びをもってまた新しく生きる、そのための日でした。このように、神さまが人々のためにと定めてくださった大切な喜びの安息日が、その本来の意図からあまりにもかけ離れていたことに、イエスさまは憤られ、悲しく思われた。そして、黙っていることができなかったのです。

 

エスさまは、神さまを礼拝する日である安息日を、神さまから与えられた命のあふれる日であると、そのことこそ、私たちに大切なことなのだと、神さまの本来の意図を取り戻し回復されようとなさいます。その本質をあなたがたは見失ってしまっているではないかと、イエスさまは彼らを糺されるのです。けれども、その言葉は彼ら全員に届いたわけではなく、先ほども申しましたように、これをきっかけにイエスさまに敵対する人々の間でイエスさまを殺すための相談がされ始めます。そして事実、やがて、イエスさまは安息日の律法を破った者として彼らから訴えられ、十字架にかけられて殺されてしまうのでした。

 

しかし、そうした人の企みを超えた神さまの大きな働きと計らいにより、驚くべきことがそこで起こります。神さまを礼拝する安息日に、なお一つな重大な新しい意味が加えられることになりました。安息日が、イエスさまの十字架を思い起こし、ご復活を祝う日として、私たちの真の救いと永遠のいのちを喜ぶ日となったのです。それまでユダヤ教安息日、礼拝の日は土曜日でした。しかし、やがてキリスト者たちは、日曜日を、彼らの礼拝の日、安息日として守るようになりました。なぜなら、イエスさまが十字架の死から復活なさったのが日曜日の朝だったからです。このように神さまによるいのちの創造の日である安息日、神さまによる解放と救いである安息日を、イエスさまが、ご自身の十字架と復活によって、より豊かなまことのいのちと救いの日として、より新しく、より大切な日となさいました。イエスさまが「人の子は安息日の主でもある」とおっしゃっているように、まさに、イエスさまこそが、安息日のまことの主となられたのです。

 

私たちも、神さまによるいのち、神さまによる救い、そして、何よりもイエスさまの十字架と復活を心に刻む、その喜びの日、いのち溢れる日として、この安息日も、神さまから礼拝に招かれています。大いなる喜びと心からの感謝をもって礼拝に与りたい、そして、いのちの充電をし、自由を与えられて、この礼拝から一週間の歩みに送り出されたいと心から願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、あなたが与えてくださった安息の日、あなたからの命と救いを喜び、御子イエスさまの十字架を思い起こし、復活を祝う日として、私たちが大切にし、喜びと感謝をもってあなたを礼拝することができますように、これからも豊かに導いてください。安息日の主、イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-06-03.MP4 - Google ドライブ

 

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