yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年6月10日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第3主日 2018年6月10日

 

「これだけは ゆるされない」

(マルコによる福音書3章20~35)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

主なる神さまが、独り子イエスさまの十字架の苦しみと死により私たちのすべての罪を赦し、イエスさまのご復活により死に打ち勝つ新しい命、永遠のいのちを与えてくださった、これこそ神さまから私たちに恵みとして与えられた最も大切な信仰です。この信仰は、私たちに本当に大きな慰めですし、私たちキリスト教会がその初めより実におよそ2000年間ずっと大切に信じ伝えてきたものです。

 

ところが今日のみことばで、イエスさまは「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」とおっしゃり、永遠に赦されない罪について言及されます。「すべて赦される」とおっしゃりながら、「永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とおっしゃるわけですから、私たちはこれを聞いて、たいへん戸惑ってしまいます。イエスさまはすべての罪を赦してくださるお方ではなかったのか、それなのに永遠に赦されない罪があるとは一体どういうことなのだろうか、罪の赦しに例外があるのだろうかと、そんな疑問が沸いてきます。また、もしそうであるなら、果たして私自身はこの永遠に赦されない罪を犯していないだろうかと心配になりますし、日々罪深い歩みをしている自分を省みる時、今日イエスさまがおっしゃっておられるこの永遠に赦されない罪を、この私もきっと犯しているに違いないと絶望的な思いになるのです。今日、イエスさまがおっしゃっているこの「永遠に赦されない」ところの聖霊を冒涜する」とは一体何を表すのか、みことばから聞いてまいりましょう。

 

まず、今日のみことばの背景を受け止めてまいりたいのですが、イエスさまが戻られた家に沢山の人たちが集まってきて、「一同は食事をする暇もないほどであった」といいます。きっとみんなイエスさまのお話を聞いたり、病気を癒していただいたりして、しかも次から次へと人々が集まり、大変な騒ぎになっていたのでしょう。そこにまずイエスさまの身内の人たちがやってきます。そして、イエスさまを取り押さえようとしたというのです。なぜなら、「あの男は気が変になっている」と、イエスさまについて身内の人たちが非難されていたからでした。「あのイエスという男、お前の身内だろう。あいつおかしいんじゃないか」とか「あのイエスというおかしくなっている男、君の身内なんだからどうにかしてくれ」とか、そんな風に言われていたのでしょう。これ以上その非難の声が広がらないために、イエスさまを取り押さえて、これ以上もうバカなことはやめさせようとしたのだろうと考えられます。

 

先週聴いたみことばの出来事、当時の宗教の指導者から見るなら、イスラエルの人たちに何よりもと言ってよいほど大切にしていた安息日を、否定するかのようにも思える言動をしたり、不思議な力を使って驚くべきことをなさったりするイエスさまのわざ、それらが、イエスさまを大事に思わない人たちには「気が変になっている」としか思えないものであったわけです。そして、イエスさまの身内の人たちも、あまりにも近過ぎて、イエスさまがどういうお方なのか、その本質を受け止めることができず、むしろイエスさまのせいで自分たちまで、他の人たちからいろいろ言われるのが嫌で、イエスさまのなさっていることを無理やりにもやめさせようと、彼らはするのでした。ここから、私は、「自分はイエスさまのことよくをわかっている」という思いは、本当に大切なものを見失ってしまい、また、イエスさまの働きを妨げてしまうということを思いました。

 

さて、そのように身内の人たちが、イエスさまを取り押さえて、その働きをやめさせようとしていたその時、今度はエルサレムから来た律法学者たちがイエスさまを非難し揶揄し始めました。エルサレムから下って来た律法学者たち」、これは彼らが当時の宗教におけるエリート中のエリートだったことを表しています。エルサレムイスラエルの人たちにとって誇り高い立派な神殿がそこにはありました。宗教の中心地、日本的な言葉で言うならば「ご本山」です。そこから来た「律法学者たち」です。彼らは、聖書や宗教のきまりを厳格に守るファリサイ派のメンバーであり、さらにその中でも律法、つまり聖書の言葉を熱心に研究し、人にも教えていた、いわば聖書の言葉の専門家でした。そんな彼らがイエスさまを非難し、揶揄するのです。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とかそんな風にです。

 

ベルゼブルとは、これは旧約聖書で主なる神を信じるイスラエルの人たちにとって、周辺の国々の人々が信じていた神、バアルの一つの呼び名だったようです。そのバアルの宗教では、たくさんの農作物の収穫を得るためということで、神殿でみだらな行いがなされていました。人間のその行為を見て神さまたちも嫉妬して性的な行為をして、それにより雨が降り、たくさんの収穫が得られるという教えだったためです。イスラエルの人たちは快楽をよしとするその教えに惹かれ、主なる神さまを捨てバアルの神に走ってしまうということがよくあり、主なる神さまがそれに嘆き、怒り、悔い改めを呼びかけている箇所が、旧約聖書にたくさん出てきます。そうした歴史的な背景からでしょうか、新約聖書ではそのベルゼブルは、人を神さまから離れさせる悪霊や悪魔のトップ、その頭的な存在を表す名前となっていました。つまり、彼らはイエスさまをそのベルゼブル、悪霊や悪魔の頭とみなし、だからこそ「あのイエスという男は特別な力を持っていて、人々を扇動したり、また、悪霊にとり憑かれているとしか思えない、他の誰にもどうすることもできない重い病気や障がいの人をも、その悪霊の頭としての力で癒すことができる」と思っていたのです。「そんな恐ろしい怪しげな奴を、世にのさばらせておくわけにはいかない。すぐにでもやめさせなければならない」と、彼らは考えたのでしょう。

 

しかし、そうした彼らに、イエスさまはおっしゃいました。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」つまりこういうことです。サタン、悪霊、悪魔が、同じサタンを追い出すことができるわけないじゃないか。一つの国が内輪で争っているなら、そんなことをしているうちに他の国に攻め入れられて、その国は滅びてしまう。家庭や家族、一族も、お互いその中で争い合っているなら、めちゃくちゃになってしまう。サタン、悪霊、悪魔もそれと同じだ。もしサタンとサタンが争っているなら、そのどっちも駄目になって滅びてしまう。わたしがもしあなたがたが言うようにサタンの頭なら、その私がサタンと闘い、サタンを人から追い出すなんてそんなことできない。また、人が強盗に入る時に、まずその家の中にいる強い人を縛ってから、その家のものを盗み出すように、私自身が、まずサタンの中で一番強いその頭を征服し、彼に勝利した者でないなら、人から悪霊を追い出すことなんてできない。私はそのようにサタンと闘い勝利した者だと。イエスさまはそのことをここでおっしゃっているのです。

 

強盗のたとえまで出して、たいへん強い激しい言葉でおっしゃっています。イエスさまが主なる神の言葉を伝えたり、人の重い病気や障がいを癒されたりするその働きは、決して生易しいものでなく、それは、イエスさまにとっても大きな闘いであったことを、私たちはここから受け止めます。神の子として、サタン、悪霊、悪魔との真剣勝負を、イエスさまはなさり、勝利されたがゆえに、イエスさまは神の言葉を人々に語り、また多くの人を癒すことができたのでした。さらにイエスさまがこの先に向かわれる最終目的地である十字架もまた、大きなサタンとの戦いでした。サタンはイエスさまに言うのです。「この十字架から降りて来い、そしてみんなに自分が神の子であることを証明せよ」と。でもイエスさまはそんなサタンの誘惑に負けない。自分の命を懸けて、そのわざを成し遂げます。自分が死ぬこと、ただそのことによってのみ、勝ちとることができる、私たちの罪の赦しのためにです。そして、その死に打ち勝つことによってのみ、私たちに与えられる永遠のいのちのためにです。イエスさまは、そのためにこの地上に来られたのでした。サタン、悪霊、悪魔と闘って勝利するため、そして、その勝利を私たちにも分かち合ってくださるために。このことは決して、イエスさまがサタンの一味であったり、頭であったり、そんなことではできっこないことでした。そのことを、イエスさまはここで実に激しい言葉でおっしゃるのです。

 

そして、その結びとおっしゃったのが、今日初めにお話した「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」という言葉でした。「はっきり言っておく」、これは、聖書の原文では「アーメン」という言葉が用いられています。アーメン、はっきり言っておく、これから言うことは間違えのない、たしかな本当の真実の言葉だということです。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」エスさまの命がけのサタンとの戦いとその勝利により、人の子ら、つまり私たち人間が犯すどんな罪も、また、イエスさまを悲しませるようなどんな言葉も、それはすべて赦される。これは、私たちにとって本当に力強い、そして慰めに満ちた言葉です。いつもたくさん罪を犯して生きている私であり、いっぱいふさわしくない汚い言葉を語ってしまう私です。でも、イエスさまはそのすべてを赦してくださる。「そのためにこそ、わたしが十字架にかかり、戦い、命を捨てて、また再びいのちを受けて勝利した」と、イエスさまはおっしゃるのです。「アーメン」と、この言葉を語り始められるイエスさまに、私たちも「アーメン、その通りです」と心から応えたいと思います。

 

しかし問題は次の言葉です。「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」最初にお話ししましたように、この言葉に私たちはたいへん戸惑い、また「自分は大丈夫だろうか、赦されるのか」と心配になり、「いやきっとダメだ、赦されないはずだ」と悲しく絶望的になるのです。しかし、私たちは今日そこで留まらず考えてみたい。まず、聖霊を冒涜する」、これは一体何を意味するのでしょうか。聖霊、それは神さまの霊です。あのペンテコステに弟子たちに降り、弟子たちを通して、御子イエスさまの十字架と復活による神さまの救いを、人々に宣べ伝える働きを始められた聖霊です。またそれから二千年の間、教会を通して、人々に救いを宣べ伝え続けている聖霊です。人々にイエスさまの十字架と復活による救いを宣べ伝え、その救いに人々を招き入れる働きをなさるのが、聖霊の働きです。ですから、その聖霊を冒涜する」とは、聖霊が伝える、イエスさまの十字架と復活による神の救いを否定することではないでしょうか。イエスさまが悪魔と闘い、十字架で命を捨て復活なさり、人々に命がけで勝ちとってくださったその救いを否定すること、これこそ聖霊を冒涜する」ことであり、永遠に赦されない唯一の罪なのです。

 

もっとわかりやすく言うなら、イエスさまが聖霊により「わたしが、あなたのすべてを罪を赦し、あなたを救う。そのためにわたしは十字架にかかり、命を捨て、また復活したのだ」と私たちに語りかけてくださることに対して、私たちはそのイエスさまにどう答えるのかということがここで問われているのだと思います。自分自身の罪を省みる時、こんなどうしようもなく罪深い汚れた私なんか、決して赦されるはずがない、救われるはずがないと、そう思わざるを得ません。でも、イエスさまは命がけの戦いに勝利なさり、そのどうしようもない私たちの救いを勝ちとってくださったのですから、もうそんな風に思わなくてもよい。「私なんか赦されない」、そう思い、私たちがそこにずっと留まり続けること、ただそれだけが唯一の赦されない罪であり、「わたしがあなたを必ず赦し、救う」とおっしゃるイエスさまの懐に「アーメン、感謝します」と、罪深い汚れたそのありのままの姿で、謙虚に大胆に私たちが飛び込み、神の家族として歩むことこそ、私たちに求められ、招かれていることなのです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

主なる神さま。御子イエスさまが、私たちのためにご自分の命を懸けて闘われ、あなたの救いを勝ちとってくださったことを、心から感謝いたします。私たち自身を見つめるなら、決してあなたの御前にふさわしくないどうしようもなく罪深く汚れたものですが、しかし、御子の勝利のゆえに、あなたの赦しを信じ受け入れることができますように。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-06-10.MP4 - Google ドライブ

(当日のメッセージの録画は、うまくいきませんでした。このため後日、北見のプレハブで、誰もいない中で取り直したものをアップしました。)

 

http://lutheran-church-regina.com/blogs/image/sermon-pr-ted-giese-june-7th-mark-320-35-jesus-terror-or-comfort.jpg