yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年6月17日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第4主日 2018年6月17日

 

「オートマティック」

エゼキエル書17章22~24、詩編92編13~16、マルコ福音書4章26~34)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちが自分自身を見つめる時、その罪深さと弱さを痛感いたします。しかしそうした私たちを神さまが赦し育ててくださる、これは私たちに大きな慰めであり希望です。今日の第一朗読と詩編、そして福音書のみことばは、みな、神さまが私たちを養い育ててくださり、豊かな実りを与えてくださる、このことを共通して語っています。

 

まず第一朗読のエゼキエル書では次のように語られていました。「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。」

 

梢とは、木の幹や枝の先っぽの部分のことです。背の高いレバノン杉(レバノン杉とはどういう木か調べてみましたら、杉と呼ばれるけど実は松の一種で、高さが実に40メートル程にもなるとのことでした。)その大きく立派な木から生え出ている小さな小さなその梢を、神さま自ら切り取り植えてくださる。また、その木から生えたばかりの、今にも折れてしまいそうな柔らかい若枝を、神さま自ら切り取り、イスラエルの高い山、その神々しい場所に植え変えてくださる。まずそのことが語られています。これはその前の章を見るとわかるのですが、神さまに背き、その御前に何度も何度も罪を犯し、そのことで傷ついたイスラエルの人たちを表しています。彼らが自分たちの犯した罪のせいで、深く傷ついていた。それは彼らの自業自得です。にもかかわらず、神さまは、そんな彼らを憐れみ、赦してくださり、悔い改めて新しく歩み始めようとする彼らを受け止めてくださるというのです。彼らは、大きなレバノン杉の小さな梢のように取るに足らないほどの小さな者で、すぐに折れてしまいそうな柔らかい若枝のように弱々しい者だけれども、神さまがそんな彼らを本当に丁寧に大切に扱い、新しく植えてくださる。神さまのみもとに導いてくださる。そのことがここで約束されています。

 

そして、神さまはその梢と若枝を植えるだけでなく、育ててくださるお方であることが続けて語られます。その小さな梢、弱々しい若枝を神さまはみもとで育て、「うっそうとした」というのですから、本当に立派な木へと育て、さらにはそこにたくさんの鳥、多くの命が宿るようにしてくださると、語られています。罪を犯し、傷つき、自ら滅びの道を歩んでいた彼らを、神さまは憐れみ赦してくださるだけでなく、新しい歩みを与え、養い、彼らを通して多くの人たちが命満たされるように育ててくださるのです。「主であるわたしがこれを語り、実行する」と、本当に力強い神さまの約束です。

 

これはかつてのイスラエルの人たちに語られただけではありません。新しい神の民、新しいイスラエルである私たちにも語られている神さまの約束です。私たちも神さまに背き、その御前に多くの罪を犯し、神さまを悲しませ、周りの人も悲しませ、さらには自分自身もその罪のせいで、辛い思いをし、滅びの道を歩まねばなりませんでした。それはまさに私たちの自業自得で、身から出た錆にほかならないわけですが、神さまは、そんな私たちであっても、にもかかわらず、見捨てず、その悔い改めの歩みを受け止めてくださるのです。神さまの御前に梢、また、若枝のような、そんな小さな私、弱々しい私を、神さまは憐れみ赦し、愛をもって大切に受け取り、新しく生かしてくださる。そして、養い育て、私たちが生き生きと生きていけるようにしてくださり、さらには、こんな私たちを、他の人たちが生き生きと生きていけるため用いてくださる。そのことを神さまは今日のみことばで、私たちにも力強く約束してくださっています。

 

続いて詩編ですが、その結びで次のように語られていました。「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない」

 

初めにお話ししましたように、ここでも神さまが私たちを育ててくださることが語られています。主の家、神の庭、つまり神さまのみもとで、私たちに豊かないのちが与えられ、私たちが白髪になっても、つまり、私たちが歳を重ね、肉体的に弱さを感じるようになっても、なおも神さまが私たちに豊かな実りを与え、生き生きと生かしてくださり、さらには神さまを力強く証しして宣べ伝えることをさせ続けてくださると語られています。歳を重ね、身体が弱くなってくると、自分はもう神さまのために何もできなくなったと、私たちはそんな思いになるかもしれません。でも決してそうではないと、ここで語られるのです。もちろんそれまでできていたのに、歳を重ねると、できなくなることもたくさんあって、段々と寂しさが増していきます。けれども、歳を重ねても、身体が弱くなっても、そのことでできなくなることが増えていっても、そのありのままの姿で、私たちが神さまに生き生きと生かされ、豊かな実りを与えられ、なおも神さまを証しして生きることができる、神さまがそのために人生の喜びや慰めを私たちに与えてくださいます。

 

今日の第二朗読の終わりでパウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と語っています。私たちは、歳を重ねても、いろんなところに弱さを感じるようになっても、このキリストにある新しさに日々生かされるのです。そして、その中で、日々新しい喜びと実りと証が与えられます。アンチエイジングという言葉があります。年を重ねる中で、どのように若さを保って生きていくか、美容や健康の分野でよく言われる言葉ですが、どれだけその努力をしたとしても、いずれは私たちのお肌も衰えるし、健康も弱っていきます。でも、私たちは、たとえ髪の毛が白くなったり、照り輝くようになったりしても、なおも死に至るその日まで、世が追い求めるアンチエイジングとは異なる、キリストにある新しさ、神さまによる若さに生かされ、成長させていただける、みことばは私たちにそう告げています。

 

そして、今日のイエスさまの福音です。イエスさまは、今日、二つのたとえをお話されます。短いですので、もう一度、お読みいたします。『イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」』

 

ここでイエスさまが、神の国は次のようなものである」神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」とお話しされているように、この二つのたとえは、いずれも神の国についてのたとえです。神の国と聞くと、私たちは私たちが死んだ後に召され赴く、死後の世界としての天国のことを思い浮かべるかもしれません。もちろんそれも間違いではありません。私たちがこの地上の生涯、この世の命を終えたとき、神さまが永遠の天の御国に私たちを迎え入れてくださる。これは私たちのとても大切な希望です。しかし、聖書が伝える神の国とは、ただそうした死後、私たちが召される場所のことだけを表すわけではありません。神さまが私たちを支配なさる、そのことを表しています。もっとわかりやすく言うなら、神さまの導きの中で私たちが生かされること、それが聖書が告げている神の国であると言ってもよいでしょう。その延長線上に、死んだ後に私たちが召される天国もあるわけです。ですから、イエスさまは今日の二つのたとえで、神さまの導きの中で私たちが生かされるとは、一体どういうことであるのかを告げておられるということになります。

 

まずは、種のたとえです。人が種を蒔き、私たちにはどういう仕組みかわからないけど、ちゃんと芽が出て、毎日ちゃんと成長し、収穫が与えられることが語られています。次に、からし種のたとえ、吹けばどこかに飛んで行ってしまうような小さな小さなからし種。でもそれが植えられると、どんどんどんどん育ち、どんな野菜よりも大きくなって、たくさんの鳥がそれに巣を作るほど、とてつもなく大きな枝になることが語られています。

 

ここで語られているのは、小さな小さなものが、その仕組みを私たちはわからなくとも、たしかに大きく育ち、そこに豊かないのちを宿すということです。神の国、神さまの導きの中を私たちが生かされるとはそういうことだと、イエスさまはお話しなさり、やはり、今日の共通する主題、神さまが私たちを育ててくださることがここでも語られています。私たちが神さまを信じて過ごす中で、「こんなに長く信仰生活を送っているのに、なぜ私はこれほどまで罪深く、私の信仰はこんなに弱いのだろう」と思い嘆くことが少なくありません。神さまの悲しむことを繰り返ししてしまうし、何かあったらすぐに不安になるし。私たちが、そうした自分の姿をしっかりと見つめ、省みることはとても大切なことです。「自分は清く信仰深いのに、あの人は罪深く信仰も弱くてダメだ」、もし万が一、私たちがそんな思いを持っているなら、それこそ大きな問題です。自分の不信仰さ、罪深さをしっかりと見つめ、認めたいと思います。

 

しかし、私たちがそうした自分の姿を受け止める時、今日のイエスさまのみことばが、私たちの心に響いてきます。罪深いあなたの弱く小さなその信仰を、神さまが育ててくださると。私たちが自分で見るならば、もうどうしようもない、そんな自分でしかないかもしれないけれど、でも神さまがちゃんと芽を出させ、育て、こんな私たちでもそこで多くの命が育まれるように用いてくださる、イエスさまの約束が私の心に響くのです。

 

今日、イエスさまは「土はひとりでに実を結ばせる」とおっしゃっていますが、この「ひとりでに」という言葉は、新約聖書のもともとの言葉のギリシア語では「アウトマテー」という言葉です。この「アウトマテー」は、英語の「オートマティック」のもととなった言葉です。自動車のオートマティック車、オートマ車のオートマティックです。運転手がいちいち自分でギアチェンジをしなくても、走っている最中に車が自動的に、「ひとりでに」ギアを切り替えてくれる車のことです。私たちの信仰も、それは土の中にある種のような目に見えないものであるけれど、私たちがあれをしてこれをして、私たちが理解して、というのでなく、私たちがわからなくても、私たちには「えっ?いつの間に?どうして?」と、そのように思う驚くべきことだけど、神さまが私たちのその信仰を、ちゃんと育てて実りを与えてくださる。そうして神さまの導きの中に私たちを生かし、私たちを通して多くの人をも神さまの導きの中に生かしてくださり、神の国が広がる、イエスさまはそう今日お話しなさるのです。私たちの目には見えなくても、神さまは確かに働き、この私を育ててくださいます。

 

このように、今日のみことばは、繰り返し、神さまが私たちを育て実らせてくださると約束しており、「成長させてくださったのは、神です」パウロが語っているこの言葉を思い起こします。植物が育つ際、水や栄養分が必要なように、神さまも、私たちを養い育てるため、日々命の糧を与え、豊かに働きかけてくださいます。みことばにより、洗礼と聖餐により、また祈りやさんびにより、さらには他の人の暖かな愛のかかわりにより、私たちは、自分たちでは気づかないうちに、神さまの働きで「ひとりでに」育てられているのです。何よりも神さまは、御子、救い主イエスさまをお遣わしになり、その十字架と復活という驚くべき仕方で、罪深く弱い私たちの救いと命を「ひとりでに」成し遂げられました。私たちはこのことを深く神さまに感謝し、神さまの聖霊の導きより日々新たに生かされ、育てていただきたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

罪深く弱い私たちを、あなたの憐れみによって赦し、またあなたの働きによって育ててくださっていることを心より感謝いたします。御子の十字架と復活により罪赦され永遠のいのちを与えられたその救いの新しい命を感謝して、これからもあなたによって日々新たにされながら歩んでいくことができますように。あなたの働きのために、この私を用いてください。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-06-17.MP4 - Google ドライブ

 

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