yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年6月24日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第5主日 2018年6月24日

 

「だいじょうぶ!」

(マルコによる福音書4章35~41)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

聖書は、「初めに、神は天地を創造された」と、神さまが天と地とそこに住むあらゆる命、そして私たち人間を創られた、天地創造の出来事を最初に伝えています。そして、その際に、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めてよかった」と、神さまが創られた、そのすべてのものがとても素晴らしく、とても美しく、とてもよいものであり、さらには、「天地万物は完成された」と、この世界が何一つ欠けのない、完全にパーフェクトな状態であったことをも伝えています。

 

しかし実際には時として、この世界で自然災害が襲ったり、痛ましい事故や残酷な事件があったりして、神さまが天地創造を完成された時にご覧になられたように、極めてよかった、完成された状態からは大きく異なっているとしか、私たちには思えないような現実が起こります。みなさんもご存じのように、つい先日も、私たちの国の大阪で大きな地震があり、その犠牲となられた方々、被害に遭われた方々がいらっしゃいます。私たちは心を痛めつつ、愛する人を失った人々に神さまからの慰めと癒しが与えられるように、また被害に遭われた方々に神さまからの平安と守りが与えられるように心からお祈りいたします。同時に、そのような痛ましいことが起こるたびに、私たちは、嘆き悲しみつつ大きな疑問を抱くのです。もし神さまがお創りなられたこの世界が、聖書が伝えているように、極めてよい、完成されたものであるのなら、なぜそうしたことが起こるのだろうかと。

 

私たちは、それに対して、これが正解であるという答えを見出すことはできません。けれども、私がそのことを考える時、思うことがあります。それは、聖書が天地創造に続いて伝えている出来事から考えさせられることです。聖書は天地創造の出来事に引き続き、神さまと最初の人間アダムとエバとの間に起こった一つの出来事を伝えています。神さまはアダムとエバを、エデンの園という本当に素晴らしい、極めてよい場所で暮らすようになさいました。そこは、神さまと(人を含めた)すべての被造物との間も、人と人との間も、さらには人と他の被造物との間も、本当に調和のとれた、とても麗しい完全な場所でした。その際、神さまは、そのエデンの園に生えているどの木からも実を採って食糧としてもよいけれども、善悪を知る知識の木からは実を採って食べてはならないと命じられます。しかし、人はそれを破り、その木からの実を採って食べてしまいました。その結果、人はその素晴らしいエデンの園から追い出され、それ以降、多くの苦しみを避けることのできない世界で生きなければならなくなったのです。いわゆる楽園喪失と呼ばれる出来事です。

 

私は、まさにその時に、最初に神さまが創造されたこの世界の、そのどこかに大きな歪み、ゆがみが生じてしまったのではないかと思うのです。神さまとすべての被造物との間、人と人との間、そして人と他の被造物との間に保たれていた、極めてよかった完成されたエデンの園における完全な調和が、その出来事以来、どこかで崩れてしまったのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙で、パウロが、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」と言っていますが、このあらゆる被造物=その中にはもちろんこの地球も宇宙も含まれます、そのうめきや苦しみの中で、この世界で、災害や事故や事件、そうしたいろんな痛ましいことが起こるのではないだろうか、そのように私は考えています。もしかしたら、この地球がどこかで悲鳴を上げているのかもしれない、そんな風にも思います。

 

しかし、そうした中で、今日の第一朗読、ヨブ記38章のはじめの言葉から、私は大きな慰めと希望と勇気を与えられました。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」みことばはそう告げています。大きな災害や事故や事件が起こると、私たちの心は大きく騒ぎます。悲しみ、嘆き、憤り、いろんな思いで心の中がぐちゃぐちゃになってしまいます。きっと大阪で被害に遭われた方の、今の心の中もそうした状態でしょう。そのような中で、「主は嵐の中から…答えて仰せにな」るのです。どうしようもできない、そのぐちゃぐちゃな心の嵐の中で、そのただ中で、神さまは私たちの嘆きや叫びに答えてくださるお方です。そして、「ここまで来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」とおっしゃって、神さまが私たちの苦しみを堰き止めてくださいます。私たちは、今日、まずこのことを今一度心に刻み、地震の被害に遭われ、心の中に大きな嵐が今まさに起こっている人たちのことを覚えて祈り続けたいと願います。

 

さて、今日も、福音のみことばに聴いてまいりましょう。今日の福音は、私が好きなみことばの一つです。「その日の夕方になって」とのことばから始まっています。イエスさまと弟子たちがその日一日、宣教の働き、癒しの働きに忙しく過ごし、疲れを覚えている、その一日がいま終わりを迎えようとしています。そしてまた暗い夜の闇が、間もなく彼らに訪れようとしていました。「その日の夕方になって」、この言葉から私たちはそうした事実を受け止めます。私たちが使う言葉に「黄昏る」という言葉がありますが、この言葉を多くの人が「ぼーっとして過ごす」とか「物思いにふける」とかそんな意味で用いていて、私も今までそうした意味で用いていたのですが、実はそれは誤っており、正しくは「日が暮れて薄暗くなる」という意味から「盛りを過ぎて衰える」という意味を持つ言葉だそうです。ですから、「人生の黄昏」というと、私たちが若い盛りを過ぎて段々と勢いを失って衰えていっていることを言います。そして、私たちも、そうした人生の黄昏を迎えます。「その日の夕方になって」、この言葉から、そうしたことをも考えさせられました。

 

エスさまはその夕方、黄昏時に、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と声をかけられました。私たちは日々の疲れを覚える弱さの中でも、また、間もなく闇が近づいてきているその時にも、盛りや勢いを失い段々と衰え行く人生の黄昏の時にも、イエスさまの「向こう岸に渡ろう」という言葉を聞いて生きてまいります。「向こう岸に渡ろう」、たとえ私たちがどんな状態にあっても、新しい場所、そして、向かうべき場所が、イエスさまから与えられるのです。

 

弟子たちは、そのイエスさまの招きに応えて、イエスさまと共に船に乗りこんで、向こう岸を目指して船旅を始めました。「ほかの舟も一緒であった」と、みことばは伝えていますが、これは同じこの世の中に生きる人々とともに人生を旅するキリストの教会、またその教会に連なる私たち信仰者の姿でしょうか。しかし、その船旅のさなかに「激しい突風が起こり」ます。それは「船は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と言いますし、イエスさまに向かって彼ら弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」と訴えているほどですから、命の危険を感じるほど、彼らにとって恐ろしい大きな危機だったことでしょう。もしかしたら、そこで彼らは「ほかの舟も一緒であった」ことなど、もはや忘れてしまい、自分たちの苦しみだけしか見えなくなっていたかもしれません。

 

しかし、そのように彼らが恐れ騒いでいたとき、イエスさまはどうなさっていたか。なんと、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」、そう今日のみことばは伝えています。これは、普通ならあり得ないような展開です。弟子たちは、必死になって、その寝ているイエスさまを起こし、先ほども申しましたように、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」とイエスさまに訴えました。するとイエスさまは起きられて、風を叱りつけて、湖に向かって「黙れ、静まれ」と言われ、風も波も静められます。そして弟子たちに向かっておっしゃるのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。

 

私は、最初、このみことばを聞いて、たいへん驚きました。弟子たちが命の危険を感じている、それほどの本当に大変な危機の中で、なぜイエスさまは呑気に、悠長に眠っておられるのかと。「ひどいじゃないか、すぐに起きて、彼らを助けるべきだろう」と、そう思ったのです。しかも、起きたと思ったら、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちに向かっておっしゃったイエスさまに、「おいおい、それはないだろ、これで叱られてしまうなら、彼らはたまったものじゃないぞ」と、そんな風にも思いました。でも、何度か繰り返して、このみことばを聞く中で、段々とそれとは違った風に受け止めるようになりました。

 

私たちの人生の旅の中でも、イエスさまが一緒にいてくださるはずなのに、イエスさまの助けを感じられないような、そうした時、苦しみが続くときが少なくありません。それはあたかも、今日のみことばで、弟子たちが嵐の中で恐れ騒いでいるのにもかかわらず、彼らと同じ船に乗っておられたイエスさまが眠っておられた出来事のようです。そんなとき、弟子たちが「ほかの舟も一緒であった」そのことを忘れて、自分の苦しみだけしか見えずに、「先生、わたしたちがおぼれても構わないのですか」とイエスさまに向かって訴えたように、私たちも自分の苦しみだけしか見えなくなって、「イエスさま、私たちがどうなってしまっても構わないのですか」そんな思いになります。

 

しかし、私は思ったのです。イエスさまが、今日のみことばで、嵐の際に船の中で眠っておられたのには、そのことにイエスさまなりのきちんとした意図があったのではないだろうかと。それはどんな意図かと申しますと、彼ら弟子たちのことを信頼して、「君たちだったら、きっと大丈夫!この危機を乗り越えられるはずだ」そうイエスさまは信じて、あえてすぐに彼らに助けの手を差し伸ばすことをされなかったのではないかと、そう思いました。もし、どんな時も、すぐにパッと簡単に助けの手を差し伸ばしてしまうなら、彼らがイエスさまに信じ従う者として、いつまでも自立した歩みをすることができなくなってしまいます。ですから、イエスさまだってすぐに彼らを助けたいのをじっとこらえて我慢しておられた姿が、この船の中で眠っておられるイエスさまの姿だったのではないか、そう思うようになったのです。「船は波をかぶって、水浸しになるほどであった」のですから、きっとその船の中で眠っておられたイエスさまにだって、たくさんの水がかかっていたことでしょう。それは、当然、イエスさまにとっても、苦しいことだったはずです。でも弟子たちのために、その苦しみの中でも、イエスさまはそれを耐え、あえてそこに留まられるのです。

 

子どもが思春期を迎える頃、子どもが何か困難の中にある時、その子の成長のために、親がすぐに具体的に助けるのではなく、今すぐにでもどうにかしてあげたい気持ちをぐっとこらえて、しばらくの間、わが子がその困難と闘う姿を見守る、そんな時があります。それは親にとっても大変辛いことです。でも、「きっとあの子なら大丈夫、立ち上がることができる」とそう信じて、その子の成長、自立を考え、あえてすぐに手を差し延ばさず見守るのです。イエスさまもきっとそうした思いで、ご自身苦しみつつも、じっとそれに耐えながら、船の中で眠っておられたのではないだろうか、そのように思います。

 

でも、だからと言って、決してイエスさまはただいつまでも眠っていただけではありませんでした。彼らが「もうだめだ」!と、そう思ったそのギリギリのところで、イエスさまはちゃんと起き上がられ、風と波を静められ、彼らを助けてくださいました。私たちに対しても、イエスさまは、「君なら大丈夫!きっとできる」そうやって私たちのことを信頼して、痛みを覚えながらも見守ってくださっておられ、でも、その中で、私たちが「もうだめだ!」という、そうしたギリギリのところでは、決して私たちを見捨てず、必ず助けてくださる。イエスさまはそうしたお方であるということを、今日、私たちはみことばから受け止めたいと思います。

 

エスさまがご覧になるなら、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と、きっといつまでもそう言われてしまい続けるであろう、そんな私ではあるけれども、でもそんな私であっても、にもかかわらず、「君なら大丈夫!きっとできる」そう信頼して見守ってくださる、そしてもうだめだというギリギリの時に助けてくださる、イエスさまのその暖かいまなざしを心に刻み、主を信じ、主に従ってまいりたい。そのお方は、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」とまことに驚くべき力強いお方です。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

様々なことに恐れ不安になる弱い私ですが、御子の暖かなまなざしの中に見守られていることを感謝いたします。また、困難の中で立ち上がれずダメになってしまいそうなその時、御子の助けの御手が延ばされることも感謝します。これからも私たちをお導きください。大きな地震で困難の中にある人たちを助け守り平安を与えてください。そのことで失われた尊い命をあなたが御手に受け取ってくださり、その周りの人を慰め癒してください。私たちの教会に、私たち一人ひとりにできることを示してくださり従わせてください。愛の主、救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 

2018-06-24.MP4 - Google ドライブ

 

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