yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年7月8日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第7主日 2018年7月8日

 

「弱いからこそ強い」

(マルコによる福音書6章1~13、コリントの信徒への手紙二12章9~10)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

道内と道外で大雨の被害がありました。被害に遭われた方々に神さまからのお慰めとお支えを心よりお祈りいたします。先日もお話しましたが、地球全体が悲鳴を上げているようなそんな思いがいたします。私たち人類のみならず、すべての被造物をお救いくださる神さまの御国が速やかに到来することを祈るとともに、神さまの救いを私たちは宣べ伝え続けたいと願います。

 

さて、今日もみことばに聴いてまいりましょう。今日の福音には、二つの出来事が伝えられています。まず一つは、イエスさまがご自分の故郷にお帰りになって、礼拝の時にお話をされた時の出来事です。そこに集っていた人たちは、イエスさまのお話が力強いものだったのでしょう。驚いて言うのです。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」

 

エスさまの故郷に暮らしている人たちでしたので、イエスさまの家族のことも、またイエスさまがどのような子どもであったか、また青年であったか、よく知っているわけです。ですから、「あのマリアの子が…」「あの大工のイエスが…」「こんな力強いお話をして、あんな奇跡を起こして、なぜそんなことができるのか、どこでそんな力を身に着けたのか」と、みんながたいへん不思議に思ったというのです。

 

そして、彼らはイエスさまに「つまずいた」と、みことばは伝えています。「つまずく」という言葉は、もともと「疑念を抱く」とか、「憤りを抱く」という意味を持つそうです。聖書のもともとの言葉であるギリシア語では、「スカンダロス」という言葉で、英語の「スキャンダル」の元となった言葉です。私たちも政治家や芸能人のスキャンダルを耳にするわけですが、そうすると、その人に対して憤りを抱いたり、疑念を抱いたりして、その人のことを信頼できなくなってしまいます。イエスさまの故郷の人たちも、イエスさまに対して、「なんであんなことできるんだよ」「できるわけないじゃん、絶対何かトリックやインチキがあるに違いない」そんな感じで、憤ったり、疑念を抱いたりして、それ以上、イエスさまのことを信頼できなくなってしまったことを、「つまずいた」という言葉は表しているのでしょう。

 

エスさまはそれに対して、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とおっしゃっていますが、何週間か前にも同じようなことをお話しましたが、私たちも「自分は神さまやイエスさまのこと、また聖書のことをよくわかっている」という思いは、もしかしたら、その自分が「わかっている」と思っていることとは違う何かが起こるなら、それを素直に受け入れられず、つまずいて、信仰が揺らいでしまうことも、あるかもしれないと、そんなことを考えさせられます。イエスさまは、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」とあります。「自分たちはよく知っている」「わかっている」という思いが、そこで暮らす人々がせっかくのイエスさまのみわざを受けることを妨げてしまったのです。自分には知らないこと、わからないことがまだまだたくさんある、「だから神さま、私に教えてください。イエスさま、私の心を開いてください。」そうした謙虚な思いで信仰生活を送り、また聖書と向き合うことが大切なことなんだなと思います。

 

今日の福音で伝えられている二つ目の出来事は、イエスさまが、ご自分の12弟子を宣教の働きにお遣わしになられたという出来事です。イエスさまは、彼らを二人ずつ組にしてお遣わしになられます。神さまの救いを伝え、また、神さまの愛を届ける働きは、信仰の仲間と助け合い、祈り合い、語り合いながらなされていくことであるということを、私たちはここから受け止めたいと思います。「私一人でも何がなんでも宣教するんだ」という思いも時には必要でしょうが、しかし、本来、「共に働く」というその姿勢が大切なのです。なぜなら、私たちはそれぞれ弱さを抱えているからです。だから、一緒に助け合い、祈り合う仲間が必要なのです。また、そうした弱さがある者でありながら、そのことをすぐに忘れてしまい、ついつい自分を絶対化してしまう、そうした者でもあります。もちろんそれも私たちの弱さであるわけですが、なかなかそれに気づかず、自分だけが暴走してしまったり、他の人たちを全部悪くしてしまったりということが、よくあります。そのため、「それはちょっと違うかもよ」「こんな風にしてみた方がいいかもね」と、そのように語り合える仲間の存在が私たちには必要なのです。イエスさまが弟子たちを二人ずつ組でお遣わしになられたことには、そうした意味があるのではないでしょうか。

 

エスさまは、弟子たちに汚れた霊と闘い、追い出す権能、権限を与えられました。私たちにもその権能、権限が、イエスさまから託されています。私たちの周りで苦しむ人に接して、また苦しみを抱えているこの世界で生きていく中で、その人やこの世界を苦しめている、その得体の知れない何かと、私たちはイエスさまからいただいた力によって闘い、それを追い出すために働くのです。その力は、私たち自身が初めから持っている力ではありません。イエスさまから託された権能、権限です。「イエスさま、いま苦しみの中にあるこの人を、またこの世界を助けてください。その苦しみを取り除いてください。」と粘り強く祈り、「イエスさまなら必ずそうしてくださる」と信じることです。また、もし、私たちがかかわることによって、その苦しむ人が助けられることがあっても、「私が助けてあげたんだよ」と、そうした思いになるのではなく、「イエスさま、この人のことを助けてくださってありがとうございます。イエスさま、そのためにこの小さな私を用いてくださり、ありがとうございます。」と、感謝することです。

 

ルーテル教会の作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハは、多くの優れた作品を作りましたが、彼は自分が作った曲の楽譜の終わりに「SDG」と3文字のアルファベットを記しました。これはラテン語の「Soli Deo Gloriaソリ・デオ・グロリア」の略で、日本語では「ただ神に栄光」という意味です。バッハは、そう記すことで、自分の作品がどれだけ優れたものであろうとも、それは「あいつすごいよね」と自分がほめたたえられるためではなく、ただただ神さまの栄光のため、神さまが与えてくださった力で、神さまがほめたたえられるために作った作品であるという心を込めたのです。私たちも、私たち自身がほめたたえられるために、人ととかかわり、またこの世界のために奉仕するのではなく、神さまから、イエスさまからいただいた力で、神さま、イエスさまがほめたたえられるための働きであることを忘れずに大切にしたいと思います。

 

また、イエスさまは、弟子たちをお遣わしになる際に、『旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた』とも、今日の福音は伝えています。まず、彼らに許されたことですが、杖一本とを持つことと履物を履くこと、そして下着を一枚着ることです。下着を一枚も着ないで出かけてしまうなら、それはとても大変なことになってしまいますので、これは当然なこととして、杖一本と履物について考えたいのですが、これはきっと「君たち自身が地に足を付けて生きる中で働け」ということであり、また「自分たちの足を使って働け」ということなのではないか、そんなことを、私はここから受け止めました。私たちが一人の人として地に足を付けて生きる、その中でこそ、神さまの救いを伝え、神さまの愛を分かち合う働きができるということ。また、「どうしたら教会に人が来てくれるんだろうね」とそんな風に待っているのではなく、自分から出かけて行くということ。そのことがこの杖一本と履物に込められた意味ではないかと思うのです。

 

次に彼らに許されていないことですが、パン、つまり食べ物、袋、つまりその袋に入れる持ち物、またお金、そして二枚目の下着、つまり着替えを携えていくことです。これらを持っていってはならないと、弟子たちは、イエスさまから命じられるのです。また、イエスさまは私たちにもそのことをおっしゃいます。なんと厳しいことかと思います。そんなの無理だよという思いになります。しかし、私たちはこのイエスさまのことばを「持っていってはならない」という禁止の命令としてではなく、「持っていかなくても大丈夫だよ」というイエスさまからの暖かい言葉として聴きたいのです。「あなたがたは何も持っていなくても大丈夫。わたしがあなたがたのためにすべてを準備するから」イエスさまはそう今日のみことばで、弟子たちに、そして私たちにおっしゃっているのです。

 

旧約聖書の創世記に、アブラハムが山の上で自分の子どもを犠牲として神さまにささげなければならないと思ったその時、そこに山羊がいて、それを犠牲として子どもは無事で済んだという物語が伝えられています。その時、アブラハム「主の山に備えあり」と言いました。私たちも「主の山に備えあり」そのことを信じて、神さまが、イエスさまがすべてを与えてくださる、備えてくださる、そう信頼して歩むことが、今日のイエスさまのみことばの心であると思います。

 

続けてイエスさまは、「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい」とおっしゃっています。神さまの救いを伝え、神さまの愛を分かち合う働きは、一朝一夕ですぐ実りが与えられるものではありません。腰を据えてじっくりと時間をかけて、かかわりを持ち続けることが大切であるということを、今日のイエスさまの言葉から思います。何より、頑なでなかなか悔い改めない私のためにイエスさまがどれだけ長い間忍耐してくださったか、なかなか実りの得られない私たちにどれだけ長い時間かかわり続けてくださっているかを考えるとき、私たちも自分がかかわるその人に時間をかけて働きかけることの大切さを思わざるを得ません。

 

同時にイエスさまは、「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」ともおっしゃっています。「できないから、また、うまくいかないからと言って、もうだめだと落胆せず、その時は新しい次を目指して歩み出せばいい」と、イエスさまはそうおっしゃるのです。「どうしても私がどうにかしなければ」、そう思わなくてもよいのです。「できないから私はダメだ」そんな風に思うこともないのです。その時は立ち上がって新しい次へ向かう、そのことも大切な時があります。イエスさまもちゃんとそのことをわかってくださっています。「彼らの証へと足の裏の埃を払い落としなさい」、なんだかとても厳しい、荒々しい言葉ですが、私たちにはその人に届けることができなかった、履物の裏の埃のような私の証が、いつか用いられることを信じたいと思います。イエスさまは別の箇所で、「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」とおっしゃっています。私たちが思いもしない形で、神さまが働きかけ続けてくださることを信じ、委ねつつ、次の新しい一歩を歩み出すのです。

 

このように、イエスさまは、弟子たちに、そして私たちに、「あなたがたの弱さの中で、その弱さを抱えつつ、仲間と共に、神さまの救いを伝え、神さまの愛を分かち合う働きをするように」とおっしゃって、私たちをお遣わしになります。自分自身を見るなら、神さまの救いを伝える伝道なんかできない、神さまの愛を分かち合う奉仕なんかできないと、正直そのように思います。でも、イエスさまは、その弱さのある私たちを、そのありのままの姿で送り出してくださるのです。

 

今日の第二朗読でパウロは言っています。『主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。』私たちもこの言葉を胸に刻み、弱さあるまま、主に遣わされる新しい一歩を踏み出そうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

弱い私たちです。しかし、主の力に支えられて、弱さあるまま、あなたの救いを伝え、あなたの愛を分かち合う歩みができますように、私たちをお遣わしください。共にその労を担う信仰の仲間を与えてくださっていることも心より感謝いたします。大雨の被害に苦しむ人々を助け、癒してください。また、台風が続けて起こるこれからの季節も、すべての人をあなたがお守りください。あなたの御国が一日も早く速やかに来ますように。私たちの救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-07-08.mp4 - Google ドライブ

 

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