yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年7月15日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第8主日 2018年7月15日

 

神の国は なお我のもの」

(マルコによる福音書6章14~29)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

大雨の被害が、本当に大きなものとなってしまいました。200人を超える方々が犠牲となり命を失い、今なお避難生活を余儀なくされている方々、様々な面で不自由な生活を強いられている方々が大勢いらっしゃいます。犠牲となられた方のいのちを神さまが憐れみのうちに受け取ってくださるように、また、いま大変な中を過ごされている方を神さまがお支えくださり、一日早く平安が取り戻されるように、さらには、私たちもその人たちと共に生きるために何ができるか神さまが示してくださるように、心からお祈りします。

 

さて、今日もみことばに聴いてまいります。私たちは、毎週、このように礼拝で聖書のみことばからメッセージを聴くわけですが、私は、そのメッセージは、福音、すなわち喜びの知らせであるべきと考えています。どれだけ厳しい悔い改めを迫るみことばでも、あるいは、悲しく残酷な出来事が伝えられているみことばでも、そのみことばから、慰めや励まし、救い、そうした喜びのメッセージを、私たちが受け取ることが大切だと思っています。ところが、今日の福音書には、そこから喜びのメッセージを聴くことが、困難な出来事が伝えられています。

 

今日のみことばは、先週の続きですが、先週のみことばには、イエスさまの弟子たちが、イエスさまから、宣教の働きのために遣わされた出来事が伝えられていました。イエスさまと弟子たちのその働きにより、あらゆる場所の多くの人々にイエスさまのことが知れ渡りました。もちろんイエスさまを信じ受け入れた人も大勢いましたが、そうではない人もまた大勢いたことでしょう。その人たちの中で、イエスとは何者かということについて、いろんな話がなされていました。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」と言う人や、「彼はエリヤだ」と言う人、あるいは「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいたと、みことばは伝えています。

 

それを脅え震えながら聞いていた人物が一人いました。当時のユダヤの王の立場にあったヘロデ・アンティパスです。彼は、自分の権力を利用し、洗礼者ヨハネの首をはねて殺してしまった人物で、人々がイエスさまのことを「洗礼者ヨハネの生き返りだ」と人々が言う声を聴いて、きっとそうに違いないと思ったのです。自分が殺した人物が生き返り、力強いわざをしている。それは彼に非常に大きな恐怖であり、脅威だったことでしょう。その死者ヨハネの生き返りであるイエスさまに自分が祟られるか呪われるかという恐怖、あるいは彼が復讐のため自分の命や地位を脅かすかもしれないという脅威を感じながら、彼は人々の話を聞いたと思うのです。

 

そもそもなぜ彼はヨハネを殺したのでしょうか。彼ヘロデ・アンティパスには、ヘロディアという妻がいたのですが、彼女はもともとヘロデの異母兄弟のフィリポと結婚をしていました。しかし、ヘロデとヘロディアが恋仲となり、結局はヘロディアはフィリポとの結婚を解消し離縁して、ヘロデと結婚をします。しかし、そのことで、洗礼者ヨハネが、厳しく二人を糾弾したのです。「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と。それを面白くなく思ったヘロデは、ヨハネを捕えて投獄しました。そして、妻ヘロディアも、自分たちのことをごちゃごちゃ言うヨハネに恨みを抱き、彼を殺してしまおうと企みつつ、それを実行できないでいたのです。

 

彼女がヨハネをすぐに殺すことができなかったのには、一つ理由がありました。それは、ヨハネを捕えて投獄した夫ヘロデでしたが、そうしながらも、同時に夫はヨハネを聖なる人として保護して、ヨハネの教えを聞くのを楽しみにしていたためでした。しかしだからと言って、ヘロデが特段、信仰深かったというのではなく、彼には、どこか宗教オタクというか、ミーハーな面があったのだろうと思います。後にイエスさまが捕えられ裁判にかけられた際にも、「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」と、ルカ福音書に、彼が、そうした宗教的なことに興味を持っていたか、みんなが騒いでいるイエスさまのなさる奇跡を自分も目にしてみたいと興味本位に思った様子が伝えられています。

 

そうした彼のもと、獄中にありながらも、しばらくの間、命は守られていたヨハネでしたが、結局ヘロデに殺されてしまいます。ヘロデが自分の誕生日に、家族や親族、また高官たちや軍や政財界の有力者たちを集め、パーティーを催した際の出来事です。その余興として、ヘロディアが離婚した前の夫フィリポとの間にもうけた娘が、踊りを披露したところ、ヘロデはたいそう喜び、何でもいいから好きなものを褒美にあげようということになったのです。もちろん彼は素直に妻の連れ子の踊りを喜んだのかもしれませんし、招待客たちの前で、自分の妻の連れ子への自分の寛大さや、気前のよさを自慢したかったのかもしれません。あるいは、その贈り物をみんなに見せつけることで、自分の豊かさや、そうした豪華なものを所有している自分の権力の大きさを自慢したかったのかもしれません。きっと、そんないろんな思惑があったことでしょう。ヘロデは、人々の面前で、彼女に「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、さらには「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と豪語するのでした。すると彼女は母親に何を願うかを尋ね、母親の言う通り、彼女は「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と、ヘロデに答えるのです。ヘロデは、本意ではなかったのですが、みんなの手前、やむを得ず、彼女の申し出の通り、衛兵にヨハネの処刑を命じます。そして、ヨハネの首を彼女に渡し、彼女は母にそれを渡し、こうしてヘロディアの企みが実現したのでした。

 

何とも恐ろしい酷い出来事です。ヘロデも、ヘロディアも、またその娘も、みんながみんなおかしいと思います。自分のした悪さを指摘されたからと言って、その相手を殺すほど恨み、実際に殺してしまうヘロディア。まして娘に洗礼者ヨハネの首をヘロデに要求するように申し付けるなんて母親としてもどうかしています。またその娘も娘です。母親に言われたからと言って、それをそのままヘロデに伝えるとは…。そして、ヘロデです。「お前が願うなら、この国の半分でもあげよう」と人前で豪語したり、人目を気にして、人の命を簡単に自分の好き勝手に扱えるモノのように奪ってしまったり、この家族のみんながみんなどこか大きく狂っていて、正気ではない、そう思わずにはいられません。人が権力を持つことと、その権力の甘い蜜を吸いながら生きることの恐ろしさでしょうか。

 

私たちは、この話を実に恐ろしいむごい話だなと、そんな風に、私たちから遠い話で、私たちには関係のない話のように思うかもしれません。しかしです。私たちは私たちの生きているレベルで、もしかしたら、ヘロデのような、あるいはヘロディアやその娘のような、彼らと同じ面を持っているということはないだろうか、そのことを省みたいと思います。自分の持っているものは自分のものなのだから、自分の好き勝手に使ってよい、そんな思いで、周りのことを考えることなく、自分の好きにそれを使ったり、独占したりしていないだろうか。自分のまずいところを他の人から指摘されるとそれを受け入れることができず、逆にその人を恨んでしまったり、憎んでしまったり、自分の心の中からその人を追い出してしまったり、他の人にもそのことを同調するように求め、自分と自分の周りからその人のことを精神的に抹殺や処刑をしてしまうようなことをないだろうか。人目を気にしたり、周りの大きな声の言いなりになったりして、他の人のことを傷つけたり、正しいことを貫けなかったり、そうした面がないだろうか。そんなことを思います。もちろん私たちはヘロデやヘロディア、その娘と全く同じ恐ろしいことはしないでしょう。実際に人の命を奪ったり、それにつながるようなことをしたりはしないと思います。そうした力もないですから。でも、私たちがもし彼らと同じ権力を持ったり、彼らと同じような立場になったりしたらどうでしょうか。もしかしたら、私たちもヘロデやヘロディアやその娘と同じようなことをしてしまうかもしれない。私たちは私たちなりに彼らと同じ自分勝手さや残酷さを持っていることを見つめ、認め、悔い改め、神さまの赦しを願いたいと思います。

 

同時に、私たちは、この洗礼者ヨハネが殺された今日のみことばが伝えている出来事から、やはりこの世の力の身勝手さ、残酷さ、暴力性ということもまた、受け止めたいと思います。この世の権力や、その甘い蜜を吸っている人たちが、神さまの御心に反して暴走することが少なくありません。その時、そこで、あたかもモノのように不当に扱われてしまう命があります。人権を踏みにじられてしまい、尊厳を奪われ、実際に心や体に深い傷を負わされたり、命を奪われてしまったりする人たちがいます。神さまが示してくださる正しさが揺るがされてしまい、不正がまかり通ってしまうこともあります。暴力に対して、世の中全体が鈍感となり、その過ちに気づけなくなってしまう時もあります。私たちが神さまを信じる信仰が脅かされてしまうこともあるでしょう。私たちはそれらのことに、洗礼者ヨハネがそうであったように、ノーと言う勇気を持って生きていきたいと願います。それは、私たち自身に危険を及ぼすものかもしれない。周りの理解もあまり得られないかもしれない。でも、私たちが神さまの御心に従うために、また、イエスさまの愛に倣うがゆえに、あえてその苦しい道を選び取る必要がある時もあるのです。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのためのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」エスさまの約束の言葉を胸に刻みたいと思います。

 

ヨハネはヘロデに捕らえられ投獄され、その命は、ヘロデまたヘロディア、その娘といったこの世の力によって蹂躙された結果、奪われてしまいました。けれども、そのことで、神さまの計画が妨げられてしまうことはありませんでした。ヨハネが捕えられたその頃、ちょうど、イエスさまがガリラヤで宣教を始められます。そしてヨハネが処刑された後も、イエスさまの福音は方々に宣べ伝えられ、弟子たちにもその働きが託され、さらに広められていくのです。このように、ヨハネの命は奪われてしまっても、神の救いの計画はなお前進したのです。この世の力と対峙して生きる私たち自身は、弱い者です。私たちがどれだけ叫んでも、世の力に負けてしまい、その声はかき消されてしまうかもしれません。けれども、神さまの計画は、そこで妨げられることなく、なお続けられていきます。私たちは、そのことを信じ、たとえ小さな声でも、声をあげ続けていきたいのです。

 

今日のさんびか、教会讃美歌450番「力なる神」は、マルティン・ルターの作ったさんびかです。ルターは、「私は弱い者だけど、神であるキリストが力強い私の砦となり、戦ってくださる。だからたとえ世の悪が満ちていても、私は恐れない。世の悪の力は主の裁きの前に滅びるだけだ。たとえ私から何が奪われようとも、神の言葉は決して滅びず、神の国はなお我のものだ」と力強く歌います。当時の激しい弾圧のゆえに、ルター自身、心が折れてしまいそうになる中で、いえ、実際に心が折れて病んでしまった中で、彼はこの歌を歌い、教会の改革を進めていきました。このさんびかは、ルーテル教会で、また教派をも超えて、実に500年の間、歌い継がれてきました。また、ルターは「私がこのビールを飲んでいるこの時にも、神の国は前進する」と言ったそうです。たとえどんなことがあっても、神の国は必ずやってくるという、神への信頼を表す言葉です。私自身はヘタレで弱い者です。何かあると、すぐに、もうダメだ、もう無理だと思ってしまいます。けれども、先週もお話しましたが、私の弱さの中でこそ、神の恵みに満たされ、力強く歩むことができるということを信じて、たとえどんなことがあっても、何かが奪われても、『神の国はなお我のもの』、私たちもそう力強く歌いつつ立ち上がり、あるいは這いつくばりながらも歩んでまいろうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私の心の中にもある自分勝手さ、残酷さと、私が向き合い、あなたに悔い改め、あなたの赦しの中を歩むことができますように。この世の力により苦しめられている人、尊厳や命を脅かされている人と、私も共に生きることができますように。世の過ちに対して、否と言うことのできる正しさと強さをあなたが私に与えてください。私自身は弱い者だけれど、あなたがともにいてくださる、そのことに希望を持って勇気をもって歩んでいくことができますように。大雨の被害に苦しむ人たちをあなたが助け、お守りください。失われた一人ひとりの命をあなたの憐れみのうちにお受け取りください。私たちの救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-07-15.mp4 - Google ドライブ

 

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