yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年7月22日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第9主日 2018年7月22日

 

「まことのいやし」

エレミヤ書23章1~6節・マルコによる福音書6章30~34節および53~56節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日の第一朗読エレミヤ書で告げられているみことばを聞くとき、私は牧師として、本当に胸に突き刺さる思いがします。《「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。》

 

牧師としての働きを振り返る中で、私のかかわりが原因で、教会に定着しなかったり、教会から疎遠となったりした方々のことを思い起こします。もちろん人と人とのかかわりですので、その中には、必ずしも100%私のほうに問題があったというわけではなく、相手の側に多くの課題があったという場合もあるでしょう。けれども、だからと言って、私にまったく何も問題がないと、その責任を逃れることはできません。もう少し違ったかかわり方をすれば、もしかしたら異なる結果となったかもしれないということを思います。私のそうした今までの働きに対して、神さまから「災いだ」「わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」そう告げられている、まずこのことを今日率直に認め、深く省みたいと思います。

 

同時に今日のこのエレミヤ書は、そうした私に実に慰め深いみことばでもあります。神さまは次のようにおっしゃっています。《「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。》

 

私の働きのまずさのゆえに教会に定着しなかったり、教会と疎遠になったりした方々がいらっしゃるその事実に対して、神さまご自身がその人に直接かかわってくださり、その人を探し出して再び「集め」て、神さまの御前で生きるように「帰らせ」てくださる、そう告げておられる約束として、私はこのみことばを受け止めました。そして、神さまはさらに、その人たちを「恐れることも」「おびえることも」「迷い出ることもない」ように養い導かれる、そうしたまことの「牧者」、つまり羊飼いを立ててくださるとも告げておられます。

 

その牧者、羊飼いについて、神さまは続けて次のようにおっしゃいます。《「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。》

 

このみことばを私たちが理解するために、少し歴史的な背景について説明する必要があるでしょう。神さまが選ばれた民であるイスラエルの人々は、ソロモン王の死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂してしまいました。ソロモンが王国がより強大なものにしようとした結果、民の間の貧富の差が拡大し、また政治的な腐敗がなされ、さらには人々に強制的な辛い労働が強いられた結果でした。それらのことで民の間に不平不満や大きな傷が生まれ、それがソロモン王の後継者争いとも絡み合い、王国が分裂してしまったのです。そのように王国が分かれてしまった結果、いずれの王国もその基盤が弱くなって、周辺の他の国から狙われるようになります。そして、やがて北イスラエルも南ユダも滅亡してしまいます。

 

そうした中で、神さまが、今一度神さまの選ばれた民を、南のユダの人々も北のイスラエルの人々も、ともに「治め」「栄え」「正義と恵みの業を行う」「正しい若枝を起こす」との約束が、預言者を通して語られるのです。そのとき、神の民は「救われ」「安らかに住む」、つまりもはや他の国の脅威にさらされず安心して暮らすことができるようになると約束されます。

 

そして、ここで「わたしはダビデのために正しい若枝を起こす」と約束されている、神さまが立ててくださるまことの牧者、羊飼いとは、やがてダビデの末裔としてお生まれになられた、救い主イエスさまのことであると、キリスト教会では信じられてきました。人々の側の問題や失敗、不十分さのゆえに分かたれ、深い傷を負ってきた神の民を、神さまが立ててくださる真の羊飼いであるイエスさまが、直接導き、養ってくださり、彼らを救い、平安を与えてくださると、今日のエレミヤ書のみことばは受け取られてきたのです。

 

先ほど、私は、今日のこのエレミヤ書のみことばから、牧師としての私のかかわりのゆえに、教会に定着しなかったり、教会から疎遠となったりした方々のことを思い、痛みを覚えるというお話をいたしました。また、そうした中で、同時に、今日のみことばから、また、深い慰めをもいただくことができるということもお話しいたしました。まさに私のかかわりの不十分さやいろんなまずさや失敗を超えて、まことの牧者、羊飼いとして、神さまが救い主イエスさまをお立てくださり、イエスさまがその人に直接かかわり働きかけてくださっている、今日そのことを信じることがゆるされています。

 

また、これは牧師としての働きに限らないと思います。牧師でなくても、私たちが神さまのみことばに導かれて、他の人に愛のかかわりをして、その人に仕えて、ともに生きようとするとき、私たち自身のいろんな不十分さのゆえに、そのかかわりがうまくいかない時があります。それは、私たちの忍耐力のなさであったり、自分勝手さであったり、傲慢さであったり、あるいは、必ずしもそうとは言えず、むしろ私たちがかかわりを持つその相手の側の問題であったり、いろんな原因が絡み合って、その人を神さまに繋げるどころか、その人から神さまをより遠ざけてしまったり、あるいは私たち自身その人と仲違いしたり、疎遠となってしまったり、そうしたことが少なからず起こります。私たちは、そうした私たちのかかわりの限界を、率直に認めたいと思います。

 

そうした中で、今日のみことばで、私たちはそのように不十分さを抱え、うまくいかないときも多いけれども、神さまが直接その人にかかわってくださり、また神さまは救い主イエスさまをまことの牧者、羊飼いとして立ててくださって、イエスさまがその人を導き、養い、お救いくださり、平安を与えてくださる、そのように約束されていることを、私たちの心に刻みたいのです。ですから、私たちは、私たち自身の不十分さを受け止めながら、その不十分さをまことの羊飼いであるイエスさまが繕い、補ってくださる、そのことを心にとめながら、人とかかわっていきたい、そう願います。

 

それでは、そのまことの牧者、羊飼いイエスさまのかかわりとは、一体どういうものなのか、今日の福音書のみことばから受け止めてまいりたいと思います。そのことを通して、私たちが他の人たちにかかわるそのかかわりについてもまた考えてまいります。

 

エスさまの弟子たち~マルコはここで珍しく使徒たち」という言葉を使っていますが、使徒とは遣わされた者という意味です。~イエスさまによって遣わされた彼らが、その働きの報告をした際、イエスさまは弟子たちに、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と告げられました。イエスさまの優しさ、暖かさを、このことばから思います。また、同時に、私たちが人とかかわりを持つ際に、休んだり、人々から離れて心静かに祈ったりすることも、必要なことであることも受けとめたいと思います。イエスさまに従って生きると言っても、ただ突っ走っているだけではなく、時には一旦立ち止まり、心と体を休め、また祈りのうちに自分の働きを省みることもまたとても大切なことなのです。

 

弟子たちはイエスさまの言葉に従い、人里離れた所に休息のために出かけられました。けれども、彼らを追って大勢の人たちがあらゆるところから、弟子たちが向かう先に先回りするということが起こります。そこでイエスさまはそうした人たちを「飼い主のいない羊のような有様」にご覧になられました。たびたびお話することですが、羊とは弱い動物です。羊は群れで生活しますが、その群れを離れてしまうと、いろんな危険に晒され、生きていくことが難しいのです。ですから、羊飼いが、群れの中で安心して安全に暮らすことができるように羊たちを見守り、養います。ここで弟子たちを追って集まってきた多くの人たちが、「飼い主のいない羊のような有様」にイエスさまの目に映ったということは、彼らが生きていく上でいろんな困難を抱え、深い傷を負っていたということを表し、彼らがイエスさまなしにはもうこれ以上生きていくことができないそんな状態であったことを意味しています。現代の人たちも同じではないでしょうか。生きていく上でいろんな困難を抱え、深い傷を負っている人たち、生きる辛さを覚えている人たちがたくさんいます。ですから、自分たちには気が付いていなくとも、現代の人たちにもやはり羊飼いイエスさまが必要なのです。

 

エスさまは、そうした彼らを「深く憐れ」まれます。聖書の中で、この「憐れみ」という言葉は、とても大切な言葉です。ただ上から目線で、「あの人たちかわいそうに」と思われたということとは違います。もっと重い意味を持つ言葉です。もともと「人のはらわた」を意味する言葉に由来します。また旧約聖書では、「母の胎」、「女性の子宮」を意味する言葉でもあります。そこから、人の痛みを見て、自分自身の腸がねじれるようなそんな痛みを覚える。あるいは自分のおなかを痛めて産んだわが子の苦しみを思って、母親自身が深く苦しむ。そうした意味を、聖書の中の「憐れみ」という言葉は表しているのです。ですから、イエスさまは、生きる辛さを抱えている彼らの「飼い主のいない羊のような有様」をご覧になられたということは、イエスさまご自身はらわたがねじれるような痛みを覚えられ、わが子の苦しみを思い親が苦しむような苦しみを、イエスさまご自身が感じとられたことが、ここで告げられています。イエスさまは現代の人たちのことも、そうしたイエスさまご自身の痛み、苦しみをもって、ご覧になっておられるということを、私たちはここから受け止めたいと思います。私たちも、他の人の痛みをただの他人事として傍観するのではなく、自分自身の痛みとして感じ取ることができるように祈りたいと思います。

 

そこでイエスさまが具体的に彼らになさったことは、三つのことでした。まず「いろいろと教え始められた」ことです。つまり、イエスさまは彼らにみことばを語りかけられました。生きていく上で深い傷を負っている人たちにイエスさまのみことばが必要です。イエスさまのみことばが彼らの傷ついた心を癒し、慰め、強めます。渇いた砂漠に注がれる水のように、イエスさまのみことばが彼らの心を潤し、その人を生かす命の水となるのです。私たちも、私たちの周りで希望を失っている人に、イエスさまのみことばを届けることができるよう祈り働きたいと願います。

 

次にイエスさまがなさったことは、今日のみことばでは読まれませんが、35節以下の出来事にあるように、彼らに食べ物を与えられることでした。この出来事については、同じ出来事を伝えるヨハネ福音書より、来週聞いてまいりますが、イエスさまがなさったように、実際に困っている人のその必要を満たすことが、その人の生きる力になります。今、この日本では、先般の大雨の被害で苦しんでおられる方々が大勢いらっしゃいます。このたび教団からその人たちを支援するための献金が呼びかけられていますが、私たちが、そうしたことに応えることもまた、その人たちの必要を満たし、イエスさまの愛を届ける大切なかかわりであることを、今日のみことばから覚えます。

 

エスさまがなさった三つ目のこと、それは今日の福音の後半に伝えられている出来事です。そこでは、イエスさまのもとに病気を抱えている人たちが運ばれ、イエスさまがその人たちの病を癒されたことが伝えられています。イエスさまはこのように人の心だけでなく、身体の健康をも回復させてくださるお方です。私たちの周りの病を抱えている人たちが癒されるように、私たちも祈りによって、その人たちをイエスさまのもとに運び、また、私たちも実際にその人の病んでいるところに手を置いたり、いろんな助けをすることによって、イエスさまの癒しのわざに仕えたいと思います。

 

私たち自身はいろんな不十分さがあるけれど、イエスさまが真の羊飼いとしてかかわり、癒してくださることを信じ、私たちも深い傷を負い、痛みを抱えている人々と共に生きるために働くことができるならばと、今日のみことばから願うものです。

 

 主よ、私たちを導いてください。

 

 神さま、人々に関わる際に十分なかかわりをできず、逆にその人を傷つけたり、あなたから遠ざけたりしてしまっているこの私をおゆるしください。そうした私の不十分さを超えて、イエスさまがその人のまことの羊飼いとなられ、その人を養い、癒しお救いくださることを感謝します。そのイエスさまの愛の働きに私も従い仕えて歩むことができるように導いてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 

動画 2018-07-22.mp4 - Google ドライブ

 

http://davidewart.typepad.com/.a/6a00d8345310da69e20223c84b1d0e200c-800wi