yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

「あなたの髪の毛はなくならない」

聖霊降臨後第23主日 2019年11月17日

 

「あなたの髪の毛はなくならない」

ルカによる福音書21章5~19節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

教会の暦では、来週で一年の最終の聖日の礼拝、教会暦の一年の終わりを迎えます。このため、今週の礼拝は、先週もお話した通り、世の終わり、終末について、イエスさまのみことばを聞いてまいります。

 

今日のみことばの舞台はエルサレムの神殿です。エルサレム神殿は、イスラエルの人たちにとっての誇り高き場所で、自分たちがイスラエルの民、神の民であるとのアイデンティティを確認する場でもありました。当時の建造物としては、たいへん立派で丈夫で素晴らしいものだったのですが、その神殿に見惚れて、すばらしいと話し合っていた人々がいました。イエスさまは、その人たちの話しているのを聞いて、「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」とおっしゃいます。いつか必ずその神殿が崩れ去ると予告されるのです。事実、イエスさまがおっしゃった通り、エルサレムの神殿はその後、数十年して、ローマの攻撃によって崩壊してしまいます。この神殿に限らず、この世の、私たちの周りにあるものは、どれだけ素晴らしく丈夫なものであっても、それらは決して永遠に残されるものではなく、いつか必ず滅び消え去り失われるものです。

 

エスさまは、その神殿についてお話されることを通して、世の終わりの日、終末についてお話なさったのですが、聖書の歴史観は、神さまがこの世界を創られた初めがあり、やがてこの世界を終わらせる終わりの日が来るというものです。だから、いつまでもこの世の中がダラーっと続くわけでもないですし、グルグルと時間が回っているという考え方でもありません。初めがあり、そして必ず終わりがある、というもので、さらにはその終わりの日には、この世のものは全て滅び消え失せると、聖書を通して私たちに告げられています。そして、神さまがもたらしてくださる新しい天と新しい地に私たちは生かされると、聖書のみことばは私たちに約束をしているのです。

 

さて、そのイエスさまの言葉を聞いた彼らは、イエスさまに「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」と尋ねました。世の終わりはいつなのか?そしてその時、一体どんなことが起こるのか?それは、彼らのみならず、多くの人たちにとって、たいへん気になるところです。ですから、昔から、巷では、なんとかの預言とかハルマゲドンだとか、そんなものが流行るわけです。

 

彼らの問いに対するイエスさまの答えは、次のようなものでした。その時には、救い主を名乗るものが大勢現れて、わたしがそれだ、時が近づいたと言う。戦争や暴動の噂が立ち、民は民に、国は国に対して敵対をする。大きな地震が起こり、方々に飢饉や疫病が発生して、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。さらには、キリストを信じるものたちが迫害される。身内に裏切られたり、攻撃されたり、命奪われたりする。

 

どれもがとても恐ろしいことばかりですが、しかし、私たちはこのイエスさまの言葉を聴きながら思うことがあるのではないでしょうか。それは、こうしたこと全ては、まさに今の世の中に当てはまるのではないかということです。混沌とした混乱した世の中になってしまい、世の闇を感じる出来事も多くあり、恐ろしい災害や事件が各地で頻繁に起こっています。家族の不和や信仰に対する不理解も私たちに身近なことです。まさにイエスさまが告げておられることどれもが、今私たちの世の中にそのまま当てはまるように思えてなりません。

 

それでは、聖書のみことばが告げている世の終わりの日、終末は私たちにとって間もなく起こることなのでしょうか。この疑問に対する答えは、然りであり、同時に否であると言えるでしょう。

 

まず、然り、その通り、終末は近いということをお話したいと思います。イエスさまが来られた時、イエスさまは人々におっしゃいました。「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と。そうです。イエスさまの到来のその時からすでに終末、世の終わりの日は近いのです。ですから、キリストを信じる者たちはどの時代でも、その終わりの日が今日かもしれない、明日かもしれないという思いを抱き、そうした終末は近いとの緊張感を心に抱いて、このおよそ2000年の間代々と過ごしてきました。私たちも終末は近いとの思いや緊張感を持って生きることは、とても大切なことです。終末なんてまだまだ先のことで自分には関係ないことだとか、世の終わりなんて本当には起こらないおとぎ話のようなものだとか、そんな思いで過ごすのではなく、イエスさまがおっしゃった「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とのみことばを心に刻んで、世の終わりの日、そして神の国の完成の日は、私たちにとって近づいているとの思いをもって、緊張感をもって過ごすことは大切なことでしょう。

 

同時に、終末は間もなくなのかとの問いに対する否という答えについてお話しします。それは、いまこの世の中で起こっている様々な現象は、たしかにイエスさまが話された終末の徴に合致しています。ですから終末は確かに近いと言ってよいわけですが、けれども同時にこれらのことは、よく考えてみるなら、いつの時代にも起こってきたことであり、これからも起こることです。

 

いつの時代にも、自分が再臨のキリストだ、今こそ終わりの日だと、人を煽動する者たちが現れました。戦争や暴動の噂もいつの時代にもありました。様々な争いがなかった時代こそ今までなかったと言ってもよいでしょう。いつの時代も、民は民に、国は国に対して敵対してきたのです。大きな地震も、方々に飢饉や疫病も、どの時代にもありましたし、天体に恐ろしい現象や著しい徴も、あらゆる時代に見られました。キリストを信じる者たちが迫害されることや身内に裏切られたり攻撃されたり命奪われたりすることも、これらもいつの時代にも起こってきたことです。また、これからもきっとどの時代にも起こることでしょう。こうしたものと全く無縁で私たちが過ごすことこそ本当に稀有なことで、実際は、いつも私たちはこうした終末的な出来事と隣り合わせなのです。だから、世界で大きな戦争が起きたから終末だとか、大きな災害があったから世の終わりはすぐだとか、私たちはそんな風に焦って恐れる必要はありません。

 

焦って恐れるのではなく、いつか必ずこの世界の終わりが来る、それはいつかわからないけど今ここで備えておくという姿勢が私たちにとって大切なのです。ルターが言ったとされるけれど、実際はそうではないようなのですが、次のような言葉があります。何度も紹介したことがある言葉ですが、「たとえ明日が世の終わりの日であっても、私は今日リンゴの木を植える」という言葉です。つまり、私たちはたとえ世の終わりの日が明日来ても、あるいはいつ来ても、与えられている役割を今日も精一杯果たしていくのです。明日世の終わりが来ると、今日植えたそのリンゴがどうなってしまうのか、無駄な働きになってしまうかもしれません。でもたとえこの先がどうなるかわからないし、この働きが無駄になるかもわからないけれども、私たちは今日、主に与えられている務めを果たしていく、そのことが大切なのです。先週もお話しいたしましたが、天のみ国に属する民として地上を旅する私たちです。天に属する者として、地に足をつけて、一歩一歩、世の終わりのその日まで歩み続ける、それが今日もみことばから私たちが受け止めたいことです。

 

今日のお話のタイトルを「あなたの髪の毛はなくならない」としました。3年前同じ箇所でお話しした時のタイトルは「髪の毛はなくならないのか」でしたが、今年は少し信仰深く「あなたの髪の毛はなくならない」と宣言、断言したいと思います。なぜならイエスさまがそうおっしゃっているのだから、それをしっかり信じたいと思ったのです。

 

これは今日のイエスさまの「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」とのみことばから付けたタイトルですが、しかし、今朝も鏡を見ながら、現実はどうだろうかと考えさせられるわけです。私たちの人生の歩み、日々、いろんな苦労があります。また年を重ねて私たちは段々と弱っていきます。そんな中で私たちの髪の毛は白くなったり、薄くなったりするのです。毎日鏡を見ていると、段々髪の毛が少なくなっていって、その現実を受け止めきれず、結構ショックを覚えます。そしてその薄いところを隠そうとブラシを使い必死な抵抗をして、これがなかなか大変です。その意味では、実際問題としては、私たちの髪の毛は少なくなり、失われていきます。体力も衰えて、思考も鈍く働かなくなっていくのです。今日のみことばの冒頭にあったエルサレムの神殿のように、またこの世のあらゆるものと同じように、私たちの肉体もやがて滅び消え去りゆくものです。

 

それでは「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」とおっしゃったイエスさまは私たちに嘘をつかれたのでしょうか。私たちを少しでも喜ばせ安心させようと、気休めをおっしゃったのでしょうか。そうならば、なかなか残酷なことです。昔から「食べ物の恨みは恐ろしい」との言葉がありますが、髪の毛の恨みもなかなか恐ろしい。それは昔も今も変わりません。

 

旧約聖書の列王記に、こんなお話が伝えられています。預言者エリシャが山を歩いていたら、子どもたちが彼に向かって「禿頭よ、登っていけ」「禿頭よ、登っていけ」と、からかったのです。その声にエリシャはイラッときたのでしょう。子どもたちのことを睨んで呪うと、熊がやってきてなんと子ども達を八つ裂きにしてしまってのでした。実にその子どもたちの数42人というなんとも恐ろしい話です。それだけ髪の毛のことを人は気にしてしまうのです。

 

また、私の父と私と私の息子の三世代の話をしたいと思います。私の父がある年代から髪の毛薄くなってきたので、私が中学生ぐらいの頃だったかな、「お父さん最近ハゲてきたね」と少し父のことをからかいました。父は笑いながらも「いや、そうか。そんなことないだろ」などと答えていたのですが、私もある年代から髪が薄くなってきました。すると息子に「父さん、最近、髪の毛薄くなってきたな」と言われたのです。それを聞いて、私は結構ショックを受けて、その時に初めて自分は子どもの頃に父にどれだけひどいことを言ったのかと深く反省をしました。でも私も負けていられませんから、息子に「人には遺伝子とかDNAとかいうものがあるのを忘れないように」と話しておきました。

 

このように髪の毛が薄くなってなくなってくるというのは結構心が痛むことで、イエスさま「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」とおっしゃったじゃないですか。なのになぜ?と嘆きたくなります。しかし、どれだけ嘆いても、実際、私たちの髪の毛は段々と薄くなり、体は衰え、思考は鈍っていきます。

 

けれども、私たちは知っています。私たちが髪の毛が薄くなり、身体が衰え、思考は鈍っていく、そんな人生の日々を歩んでいるその苦労、その重荷、その弱さを、主が受け取ってくださるということをです。主がそうした私たちと一緒に歩んでくださる、私たちはそのことを信じることができるのです。

 

質量保存の法則という化学の法則があります。化学反応の前と後で物質の総質量は変わらないという法則です。今日のみことばもこの法則で考えたいのです。たとえ私の頭の上から私の髪の毛がなくなっても、それはもはやただ失われてなくなってしまうのではありません。主が愛のみ手の中に私のすべてを受け取ってくださいます。ですから私の髪の毛は、イエスさまの約束の通り決して一本もなくならないのです。毎朝、シャワーを浴びる際、排水溝に抜けた髪の毛が詰まり、こんなに抜けてしまったのかと思いますが、でも私たちの人生のすべてを主が御手にしっかりと受け取ってくださるのです。だから、たとえ私たちの髪の毛が頭の上からなくなり、頭が光輝くようになっても、それで自分が惨めになってしまうのでなく、ますます主の栄光の光に私たちは生かされます。歳をとって体が衰えるときも、私たちは主の力に生かされ、段々と思考が鈍くなっていっても、主の知恵により私たちは導かれるのです。

 

そうした一歩一歩を、主とともに歩む。それこそ私たちの終末への備えであり、主が与えてくださる命を生かされる歩みです。イエスさまは今日のみことばの結びで、「忍耐によって命を勝ち取りなさい」とおっしゃっています。私たちはこの招きに応えて、これからも主と共に、この地上を一歩一歩旅していこうではありませんか。

 

大丈夫です、あなたのすべては主の愛の御手の中にあります。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、愛に溢れる主の御手の中に私たちのすべてが受け取られていることを信じ、感謝いたします。いろんな苦労がありますし、段々と衰えいく私たちですが、その主の愛の御手の中で、地に足を付けて一歩一歩歩んでいくことができますようにお導きください。キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン