yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年4月9日 礼拝メッセージ

枝の主日・受難主日 2017年4月9日

 

「わたしのための十字架」
(マタイによる福音書26章1節~27章66節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは、今年は3月1日の灰の水曜日から、四旬節の日々を過ごしてまいりましたが、9日日曜日から始まる一週間がその四旬節の最後の一週間となり、その週は聖週または受難週と呼ばれ、イエスさまの十字架に向けた歩みを具体的に覚える特別な一週間を過ごします。私たちの教会では、この聖週・受難週の一週間、週日、ウィークデーの礼拝は行われませんが、特に、木曜日は聖木曜日または洗足聖餐木曜日と呼ばれ、イエスさまが弟子たちの足を洗われ、最後の晩餐をなさったことを覚える日として、また金曜日は聖金曜日または受苦日と呼ばれ、イエスさまが十字架で死なれたそのことを覚える日として、礼拝が行われる教会も少なくありません。

 

その聖週・受難週の初めの日である今日は、教会の暦で、二つのことを覚えることになっています。今週の週報にも「枝の主日・受難主日」と二つの教会暦の名前を記しました。そして、今日の礼拝では、この二つの教会暦が、よくわかるような工夫をしてみました。まず、礼拝のはじめに、救い主イエスさまをお迎えする祈りを交互に唱え、イエスさまがエルサレムに来られた、いわゆるエルサレム入城と呼ばれる出来事を伝えている福音の言葉を、ご一緒に聴きました。そこでは、人々が「主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高きところにホサナ」と言いながら、喜びにあふれてイエスさまをお迎えした姿が伝えられていました。これは、救い主イエスさまをお迎えする私たちの姿でもあります。「ホサナ」というのは、「お助けください。お救いください」そんな意味を持つ言葉であるそうです。私たちも、「お助けください。お救いください」という願いをもって、喜びをもってイエスさまを心の中にお迎えいたします。そして、イエスさまも私たちのその願いに応えて、神さまから遣わされた救い主として私たちのただ中においでくださいます。今日は、礼拝の初めに、まずこのことを覚え、私たちもあの2千年前にイエスさまをお迎えした人々と同じ体験をしてみたいなと思いました。

 

もう一つ、今日の礼拝で工夫したことがありました。それは、福音書の朗読の際にです。たいへん長い長い日課でした。これは、私が選んだわけではなく、本来、今日の日課として定められているのが、あの長い日課、つまりマタイによる福音書の26章の初めから、27章の終わりまでなのです。このように、この受難主日には、その年に定められている福音書に記されているイエスさまの受難の物語を、始めから終わりまで通してすべてがその日の日課として、本来は定められています。しかし、あまりにも長いので、その中の一部だけを礼拝の中で聴き、また説教のテキストにしている教会が多いわけです。でも、私は、この受難主日に、定められている日課すべて、つまりその年の福音書で伝えられている受難の物語全部を通して聞くことに、意義深さを感じています。そのことを通して、イエスさまの受難・十字架の出来事を、一つの動きのある出来事として受け止めることができるからです。もちろんその受難の物語の中で伝えられている一つ一つの出来事に注目することも、大切な意味あることであると思います。しかし、受難物語を通しで全体を読むときに、人々や弟子たちはこんなことを言ったり思い、またイエスさまもこのような歩みをされて、十字架へと向かわれ、また捕らえられ、苦しみ、殺されたのかということを、受け止め、私たちもそれを追体験できるのではないかと思って、毎年、受難物語を通しで読むことを大切にしています。

 

そして、その長い受難物語の朗読の際に、みなさんにも協力をしていただき、イエスさまの受難物語に登場する人々の語った言葉の部分を、みなさんにもご一緒に読んでいただきました。これも私が毎年大切に実践していることです。このことを通して、私たちもイエスさまの十字架への歩みの中で登場する一人ひとりであるということを受け止めたいと考えてのことでした。イエスさまの十字架がただ今から2千年前の昔の出来事というのではなく、その出来事は歴史的には確かに過去に一度だけ起こった決して繰り返されることのない出来事であるけれども、しかしそれは、私たち一人ひとりにかかわる出来事であり、私たちもイエスさまを十字架に追いやり、イエスさまに向かって「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ一人ひとりであるということを受け止めたいと思うのです。

 

そう申しますと、「いや、私が、イエスさまを十字架に追いやるなんて、そんなことはない」、「私が、イエスさまに向かって十字架につけろと言うなんて、そんな恐ろしいことをするはずはない」、そのように思われるかもしれません。しかし、胸に手を当てて、自らの歩みをよく省みてみたいのです。

 

今日の礼拝の初めに一緒に唱えたように、イエスさまのことを「ホサナ」「ホサナ」つまり「助けてください、お救いください」と喜んで心の中に迎えておきながら、どうでしょうか。このように教会で礼拝をしながらも、教会から一歩外に出たら、もうイエスさまのことなんて忘れてしまったり、都合が悪くなったら自分の心の中からイエスさまを追い出してしまったり、自分に心地よい聖書のみことばは受け入れて、そうでない言葉をこんなの無理だよね、できないよねと退けてしまったり、そうしたことを私もしていると気づかされるのです。それは、あのエルサレムの人々が、「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように、いと高きところにホサナ」、そんな風に言って、喜びながらイエスさまを迎えておきながら、でも、その後すぐに、その舌の根も乾かぬうちに、イエスさまに向かって「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んで十字架に追いやったのと同じ姿ではないでしょうか。

 

また、イエスさまにずっと従っていこう、イエスさまに仕えていこう、そう願いながらも、人々の前で、イエスさまなんて知らないそんな顔をしたり、自分がキリスト者であることを隠したりすることが、私たちの生活の中で時としてあります。あるいは、イエスさまを悲しませるような、裏切るようなことをしてしまうことだって少なくありません。それは、「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまづきません」と自信をもってイエスさまに向かって言いながら、いざ、イエスさまが捕えられて、自分の身に危険が及ぶかもしれないという場面になったら、「そんな人は知らない」と必死になって、イエスさまの弟子であることを否定したペトロや、捕えられたイエスさまの前から無残にも逃げ去った男の弟子たちと変わらない自分ではないか、そんなことをも思います。

 

あるいは、「これこそ神さまの御心」と自分が信じている正義を貫くことができず、周りのみんなに流されて、みんなと一緒になって、自分が信じることと違うことをしてしまう、そんなことも、私たちにはあります。これもまた、本当は、自分はそう思ってもいないのに、みんなに流されてしまい、「十字架につけろ、十字架につけろ」とイエスさまに向かって叫んだ当時の人々と同じ姿であると思うのです。

 

さらには、本当なら罪を犯して、その結果、この世から絶たれるべき者であったのに、イエスさまが十字架にかけられ、死なれることによって、ゆるされた、犯罪人バラバも、私たちの姿だということも思います。本当なら、罪びとである私たちこそ、神さまからも人からも捨てられて、この世から消え去っていくべき者であったのに、そんな私に代わって、イエスさまが十字架にかかり、そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、神さまからも見捨てられる苦しみの中で死なれた。そのことによって、私は救われたことも思うのです。

 

このように、イエスさまの十字架の出来事は、歴史的には2千年前に起こった出来事ではあるけれども、しかし、それは決して、私と無関係な出来事なのではなく、まさに、私たちのための、私のための今ここで起こっている出来事であるということを、今日、心に刻みたいのです。

 

しかし、イエスさまは、「ホサナ」「ホサナ」、「お救いください、お助けください」そうイエスさまを迎える私たちの声に応えて、私たちの救いのために、十字架へと向かわれます。自分が殺されてしまうことをわかっていながら、その歩みを進められるのです。そして、人々から、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。…今すぐ十字架から降りるがいい。…『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」そんな風に罵られても、イエスさまは十字架から降りて自分を救うことをいたしませんでした。自分を救うのではなく、私たちを救うことを、ただひたすら、イエスさまは貫くのです。自分を救えなかったからではなく、救えたのに、救わなかったのです。神の子であるイエスさまが、神の子であられるからこそ、神の子としての自分の地位も力も放棄して、惨めに十字架につけられ、神さまから見捨てられる、その道を、私たちのために選びとられるのです。

 

今日、受難主日、イエスさまの十字架が、このように、ほかでもなく、この私のための十字架であることを、今一度心に留めて、この一週間、聖週・受難週を過ごしたい。そして、その意味を深く噛みしめながら、私のために十字架を引き受けて死なれた救い主イエスさまが復活なさった、来週の復活祭を大きな喜びをもって迎えたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

私のためのイエスさまの十字架、心にしっかりと刻み込む一週間を過ごさせてください。そして、そのことの悔い改めと感謝の中で、来週のご復活の祝いを迎えることができますように。ホサナ、お助けください、お救いください。救い主イエスさまのお名前によって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン