yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年4月23日 礼拝メッセージ

復活節第2主日 2017年4月23日(22日 北見教会でのメッセージ)

(23日は、大麻教会での私の牧師就任式で、先輩牧師が説教してくださったため、前日、北見教会でしたメッセージをアップしますね)

 

「主の息のかかった者」
ヨハネによる福音書20章19節から23節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは、先週、主イエス・キリストのご復活、復活祭、イースターの祝いをしました。昨日のMさんのお宅での家庭集会でもお話をしたのですが、十字架にかかり、苦しみの末に死なれた神の御子イエス・キリストが、復活なさった、これが私たちの信仰の基本であり、本質です。十字架で苦しみ死なれたイエスさまが復活なさった。このことがなぜ大切なのか。それは、神さまは、十字架で苦しみ死なれたイエスさまをそのままで終わらせなかった、十字架で苦しみ死なれたイエスさまのご生涯を神さまは良しと認められたということだからです。

 

以前、旭川の教会に、あるキリスト教を標榜しているけれど、私たちからするならば、異なる教えであると判断しているグループで聖書を学ばれたという方が、イエスさまが十字架で苦しみ死なれたことについて、「あれは、イエスが失敗したのですよね」とお話しされたことがありました。私たちの普通の感覚からするならば、あんな惨めな十字架で、あんな酷い死に方をされたわけですから、それは失敗だったと思えるかもしれません。そして、今から2千年前に、実際にイエスさまを十字架につけた人たちも、そう思っただろうし、弟子たちも、イエスさまが人々から十字架にかけられて、それで終わってしまったという思いでいたことでしょう。

 

でも、神さまは、イエスさまのご生涯を十字架の死では終わらせられませんでした。イエスさまを死から復活させられました。これは、イエスさまの十字架が、「失敗」ではなかったということです。人々を極みまで愛され、人々を赦し、救いを成し遂げるために、イエスさまが十字架を引き受け、死なれたことを、神さまは決して失敗とはなさらない、そのイエスさまの十字架、苦しみ、死が、実は、神さまの計画として、尊いみわざであり、大いなる栄光であり、勝利であったということを、神さまは、イエスさまを復活させられることで示されたのです。

 

私が若かりしときに「愛は勝つ」という歌が流行りました。「必ず最後に愛は勝つ」という歌詞の歌でしたが、イエスさまの愛が失敗で終わりではなく、勝利した出来事、それがイエスさまのご復活、イースターの出来事です。

 

さて、先週、私たちはマタイ福音書の28章から、マグダラのマリアともう一人のマリアが、復活なさったイエスさまと出会った出来事について聞きましたが、ヨハネ福音書の20章ではマグダラのマリアだけが復活なさったイエスさまと出会ったことが伝えられます。そして、彼女が、イエスさまの弟子たちに、「わたしは主を見ました」と、イエスさまの復活の事実を伝えたのです。今日の福音は、それに続く出来事として伝えられているものです。

 

マグダラのマリアが、「わたしは主を見ました」と、イエスさまの復活の事実を伝え、それを聞いて、イエスさまの弟子たちは喜びにあふれて、落ち込んでいた彼らが元気になったかというと、実はそうではなかったようです。今日の福音は、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」ということばから始まっています。イエスさまが復活なさった、主は生きておられる、その知らせをマグダラのマリアから聞いたにもかかわらず、彼らは恐れの中で家の戸にがっちりと鍵をかけて、そこに閉じこもり、引きこもっていたというのです。復活の知らせを聞いても信じられなかった、なおも恐れの中にあった、そんな弱い、不信仰な彼らの姿が、ここで伝えられています。でも、私たちはそうした彼らを非難できるないと思います。なぜなら、この弟子たちの姿は、ほかならぬ私たち自身の姿でもあるからです。

 

私たちは先週、喜び豊かに主のご復活、イースターをお祝いいたしました。でもどうでしょうか。イエスさまのご復活をお祝いしている者として、いつも私たちは喜びにあふれて、力がみなぎる生活をしているのかと問うなら、全然そうではない自分自身に出会います。イエスさまは復活された。本当に復活された。この知らせを聞きながら、でも何かあったらすぐ、どっぷりと落ち込んでしまい、もうだめだ、そう思ってしまう。いろんなことで不安になり恐れを持ちながら、なかなか次のステップに進めない。あるいは、人の前で心開けず、自分の心の戸に鍵をかけて、閉じこもり引きこもってしまう。そんな私たちです。これは、イエスさまが復活なさった、その知らせを聞きながらも、恐れて、家の戸にがっちりと鍵をかけて閉じこもり引きこもっていた、イエスさまの弟子たちと変わりがない、同じ姿だと思わずにはいられません。

 

しかし、そんな彼らの固く閉ざされて家の中に、そしてがっちりと鍵をかけて誰も明けることができない心の戸の中に、入りこんで来られる方がいらっしゃいます。『そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた』。あの重い大きな石で堅く閉ざされていた墓を破り、死から復活なさったイエスさまが、固く閉ざされた彼らの真ん中に、その心の扉を破って、おいでになるのです。そして、「あなたがたに平和があるように」と告げられました。ヨハネ福音書の中で、復活なさったイエスさまが、このように、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃったことには、実は特別な意味があります。

 

エスさまは、十字架にかかる前の夜、捕えられる直前に弟子たちに、平和を与えてくださることを約束されて告げられたのです。ヨハネ14章27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」同じく16章33「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」

 

エスさまが与えてくださる、世が与えるのとは異なる真の平和、そして、世で苦難があっても、なおもその中でイエスさまの勝利を信じて与えられる平和、それが、今や、復活なさったイエスさまが、彼らの、そして私たちのただ中においでになられたときに、「あなたがたに平和があるように」と告げられることによって与えられるのです。

 

しかし、ここで興味深いなと思うのは、イエスさまはただ「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに告げられただけではなかったことです。今日の福音は、「そう言って、手とわき腹をお見せになった」と伝えています。手とわき腹、そこには何があったか。言うまでもありません。その手には、イエスさまが十字架につけられ、釘が打たれたその釘跡がはっきり見えたことでしょう。また、そのわき腹には、槍で刺しつかれたその傷跡がはっきり見えたことでしょう。イエスさまは、わざわざその手とわき腹の釘の跡、槍の跡を、弟子たちに示されるのです。イエスさまが与えてくださる平和は、生半可なものではありません。それは、イエスさまの尊い傷、つまり十字架の苦しみとその死によって与えられるものなのです。イエスさまが私たちを愛して、ご自分のすべてをささげられた、あなたのためなら死んでもかまわないと、私のために命すら惜しまなかった、そのことによって与えられ、勝ちとられた平和を、ご復活なさったイエスさまは、私たちに与えてくださいます。「弟子たちは、主を見て喜んだ」と、今日の福音は伝えていますが、自分たちのために命すら惜しまず十字架を引き受け、そのことにより平和を与えてくださったイエスさまと出会えた喜びを、私たちはここから受け止めたいし、私たちもその喜びに生かされたいと思います。

 

エスさまは、念を押すように、もう一度、「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに告げられました。この十字架の傷により、あなたに平和を確かに与える、そうしたイエスさまの宣言ということができるかもしれません。そして、イエスさまの平和をいただき、イエスさまの平和に生かされるとき、私たちに新しい務め、使命、ミッションが与えられます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。そうです。イエスさまの平和を携えて、私たちは生きていくのです。イエスさまの十字架、そして復活によって、イエスさまご自身からいただいた平和を、ただ自分の手の中に握りしめているだけでなく、それを、「これ、あなたにもあげるよ」と渡していく、「どうぞ」と分かち合っていく、その歩みへと私たちは遣わされます。

 

今の世の中を見ると、これはとても大切なことだと思います。今、世界の平和が脅かされている、あるいは、一人ひとりの心の平安が失われている、そんな世の中です。そうした中で、私たちは、イエスさまが十字架と復活を通して与えてくださった平和を携えて生きていくのです。この世の中は、「やったらやり返せ、やられる前にやっちまえ」、そんな世の中です。あるいは、「愛なんて信じられない」と、孤独に生きていく、あるいはそれもできずに、生きていけない、そんな世の中です。私たちはその世の中に、そこに生きる一人ひとりに、イエスさまの十字架の愛を、その平和を分かち合うのです。

 

エスさまは弟子たちを遣わすにあたり、ただ「あなたがたを遣わす。さあ行きなさい」と告げるのではなく、これまた変わったことをいたしました。『そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦されなければ、許されないまま残る」』。イエスさまは弟子たちにふっと息を吹きかけられるのです。これは何を意味するのでしょうか。このことで思い出すのは、創世記2章で伝えられている、イエスさまが、最初の人であるアダムを創られた時の出来事です。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と、そこでは伝えられています。土の塊、土くれの人形に過ぎなかったものが、神さまの息を吹き入れられたときに、初めて人として生きる者となったのでした。「神さまの命の息により生かされている私たち」、それが聖書の初めから伝えられている、とても大切な信仰です。

 

そして、今、復活なさったイエスさまの息を吹きかけられて、弟子たちは世の中へ遣わされます。これを創世記の出来事とリンクさせて受け止めるならば、弟子たちはここで新たな命に生かされ、新たに生きる者とされた、そう受け止めることができるでしょう。先週お話ししたように、弟子たちは、イエスさまが捕えられ、十字架にかけられたときに、何もできず、みんなイエスさまを見捨て逃げ去り、裏切ってしまった。そして、今日の福音では、イエスさまが復活なさったとの知らせを聞きながらも、恐れて鍵をかけて、家の中に、そして自分の殻の中に閉じこもり引きこもっていた。そんな弱く不信仰な彼らでした。でも、そんな彼らに、イエスさまは平和を与え、命の息を吹きかけて、「さあ立ち上がって生きよ」と新たに生きる希望、生きる喜び、そして新しい命を与えてくださるのです。

 

弟子たちは、このイエスさまから与えられる新しい命に生かされて、イエスさまが与えてくださる平和を分かち合って生きていきます。いろんな心の傷があったことでしょう。取り返しのつかない失敗に苦しみ、後悔していた彼らです。でも、今やイエスさまが与えてくださる新しい命に生かされるのです。「こんな私でも赦されている」、「こんな私ももう一度新たに生きていくことができる」、「イエスさまが命がけで赦し、私を生かしてくださっている」、「ダメダメでボロボロで、本当、どうしようもないこの私だけど、でも、イエスさまが、あなたをゆるすよ、あなたに生きていてほしいんだよ、そう言って、私を生かしてくださっている」、その喜びをもって私たちは、イエスさまから与えられた赦し、もう一度、やり直すことができる喜びを分かち合いながら歩んでいくのです。

 

今日のメッセージのタイトルを「主の息のかかった者」としました。「息のかかった者」というと、職人などが弟子たちに、その師匠にかわいがられて、師匠の心を継ぐ者であるという意味があるでしょう。私たちはイエスさまの息がかかったものです。イエスさまに愛され、イエスさまの愛を継ぐ者として、喜びと感謝のうちに生きていきたい、生かされたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

御子イエスさまの復活を祝いながらも、ちょっとのことで恐れ、落ち込み、引きこもってしまう私たちです。でも、イエスさまは、そんな私たちの心の扉を破り、真の平和を与えてくださいます。失敗しても、やり直すことができる、ダメダメな私でも、あなたに生きていてほしい、そう告げて、命の息吹により、新たな命を与えてくださるイエスさまのご復活に感謝いたします。どうか、喜びのうちに生かされ、イエスさまが与えてくださる真の平和を分かち合って歩むことができるように導いてください。命の救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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