yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

【再掲】 わたしはなぜ平和に取り組むのか

わたしはなぜ平和に取り組むのか

ルター派神学の視座より~

 

 私はひとりのキリスト者、また牧師として、どんな信仰的な根拠により平和に取り組むのか、ルーテル教会の信仰に基づき考えたことを述べたい。これが、みなさんそれぞれが信じる宗教の信仰や教理、また、政治的信念に基づく平和への取り組みを考え、互いに対話するきっかけとなれば幸いである。

 《聖書のことばに導かれて》 「平和を実現する者は幸いである」「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は剣で滅びる」「悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」「殺してはならない」・・・。神は、聖書を通して私たちが平和に生きることと、その責任を呼びかけている。私たちはその使命に応えて生きる。

 《全生涯の悔い改め》 宗教改革の発端とされる文書「贖宥の効力を明らかにするための討論」(95箇条の提題)の第一条で、マルティン・ルターは、《私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めなさい」と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである》と述べた。私たちの日本の国と教会が、かつて戦時中に神と世界の隣人に対して犯した大きな罪は、いかなる賠償をしても、それをもってその罪がゆるされる「免罪符」や「免償符」とは決してなり得ない。日本人の一人として、私たちには、全生涯をかけてその罪を悔い改め続け、世界の隣人との和解のために努める責任がある。それは、私たちの礼拝の課題でもある。イエスは言われた。「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」

 《試練の中で聖書を読む》 ルターは、私たちが聖書を読む際に「祈り」と「黙想」と「試練」が大切であると述べた。社会から逃避して、どこかに閉じこもってではなく、この世のただ中で、様々な関わりにおける試練の中で、私たちは聖書を読み、神の言葉を聴くのだ。それは、ただ個人的・精神的な試練だけではない。社会的・政治的な試練も当然そこには含まれる。平和が脅かされている今、この国と世界が抱える痛みと苦しみ、その試練のただ中で、私たちは聖書を読み、神の言葉を聴き、宣教するのである。

 神の国とその二様の統治》 「神は二つの統治を定めた。…霊的統治と…この世の統治である」と、ルターは述べているが、これは長い間、教会また信仰者は、霊的なこと(信仰や魂の事柄)にかかわるべきで、この世のこと(社会的・政治的な事柄)にかかわるべきでないと、二元論的に誤解されてきた。しかし、神は最愛の御子を賜ったほどに、この世を愛しておられる。その神が、霊的な領域もこの世の領域も、その両方を統治なさる。その両方の統治のもとに私たちは生かされており、このため、信仰や魂や教会だけでなく、社会や政治や国家も、そのすべてが私たちの課題なのだ。

 《究極的なものと究極以前のもの》 ディートリッヒ・ボンヘッファーは、ドイツのルーテル教会の牧師であるが、ナチス抵抗運動に加わり、ヒトラー暗殺計画に加担した罪で処刑された。彼は、教会の使命は神の福音を宣教する究極的な事柄であるが、その使命のために、この世の様々な究極以前の事柄への取り組みが必要であると述べた。「キリストの恵みの到来を妨げる人間の不自由、貧困、無知の深淵が存在する」ため、「神の究極の言葉の宣教と共に、究極以前のもののためにも配慮することが、どうしても必要になってくる」。当時、ナチス支配下で、社会的・政治的課題にかかわることは、究極的な事柄である福音宣教の務めのため、不可欠な究極以前な事柄であった。私たちの平和への取り組みも同様である。

 《その時、牧師としてなすべきことは》 「正気を失った人が運転する車が、次々に子どもを轢き殺すなら、その時、牧師としてなすべきことは、子どもの葬儀を司式して家族に慰めを祈るだけでない。車に飛び乗って運転手を引きずり降ろすことだ」と、ボンヘッファーは語り、ナチス抵抗運動に加わった。私もまた、ただ教会の中だけに留まるのではなく、「安倍政権」という正気を失った運転手を引きずり降ろさねばならない。幸い、私たちは、今のところは!PRやデモ、署名、倒閣、選挙など、民主的な方法でそれが可能なのだ。

《神の前で神と共に神なしで》 ボンヘッファーは、「神の前で 神とともに 神なしで 生きる」とも述べている。この世を見るなら、たしかに神などいないような大きな暗闇と悪魔的な力を思う。でもその中でもなお、私は、この世を統治される神の御前で、私を導きたもう神がともにおられることを信じて歩みたい。今この時に生きるひとりとして、同時代を生きる人たちとともに。

《「安保法制」に反対する第8回旭川宗教者の集い》での発題より