yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年8月6日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第9主日 2017年8月6日

 

「種を蒔き続ける」

イザヤ書55章10~11節・マタイによる福音書13章1~9節)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今年も8月を迎えました。私たちは、まず、戦争の罪を深く悔い改め、心から平和を祈り、決意を新たにいたしましょう。ローマ・カトリック教会教皇であったヨハネ・パウロ二世が広島を訪れた際に語った「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」私たちも改めてこの言葉を心に刻み、私たちが愚かな戦争の罪を繰り返すことがないように、いま戦争が行われているところに、神さまが平和を与えてくださり、一日も早くその争いが終わるように祈り、また、私たちも神さまの平和の器として平和を作り出す歩みに仕えたいと願います。

 

さて、今日のイザヤ書のことばは、私が好きなみことばです。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」

 

私たちがみことばを宣べ伝えるとき、すぐにその成果が現れるとは限りません。何年みことばを伝えても、教会に来る人たちは増えるどころか、様々な事情で一人減り二人減りという寂しい現状です。洗礼を受ける人も、何年間に一人が加えられる程度です。ですから、多くの人たちが教会に集い、毎年何人も洗礼を受ける教会を、正直羨ましく感じ、自分たちの働きに空しさを覚えることもあります。もちろんそうした中で、「これでよかったのか、こうしたほうがよいのではないか」と、反省したり新しい試みをしたりすることは、大切なことです。でもだからと言って、何かをすると、すぐに豊かな実りが得られるとは限りません。

 

そんな風に思う私たちに、神さまは、今日、告げられます。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」神さまのことばが語られっぱなしで終わってしまうということは決してない。必ず、神さまの御心を成し遂げ、神さまが働かれ、その使命を果たすという約束です。なんと力強いみことばでしょう。どれだけ努力しても実りがない、だから「無駄かな、ダメかな」と空しく思いがちな私たちに、「決してそんなことはない」と勇気が与えられるみことばです。たとえ目に見える現実がどうであろうと、私たちはこの神さまの約束を信じて、私たちのできることをし続ける。先ほども申しましたように、もちろん色々省み、新しい試みもしながら、神さまが働き、神さまが私たちの働きを通して、自分の周りの人やこの街の人たちに語りかけてくださることを信じて、みことばを伝え続けることが大切だという思いが与えられます。

 

今日の福音で、イエスさまも、そのことを私たちに告げられます。今日のみことばは、種撒きのたとえと呼ばれるみことばです。ある人が種を蒔きに出かけます。当時のイスラエルの人たちの種蒔きは、私たちが考えるのとは違ったやり方でした。一粒一粒、土の中に種を植えるのでなく、もっと大胆なダイナミックなやり方でした。籠か何かに入った種を、バラーっと投げ撒くのです。そして自然に根付くのを待つというものでした。そのことを頭に入れて、今日のみことばを受け止めてまいりましょう。

 

その人も、そうやって、種をバラーっと撒きました。そのうちのある種は、道端に落ちます。そうすると、それを雀でしょうか。カラスでしょうか。やってきて、その落ちた種を食べてしまいます。また、石だらけで土が少ない所に落ちる種もありました。その種は、芽を出すところまではいきましたが、土が少ない土地なので、そこに根付くことはできず、しかも、照り付ける太陽の熱にやられてしまい、結局枯れてしまいます。さらに別の種は、茨の間に落ちます。そうすると、たとえ芽を出して根付いたとしても、伸び盛る茨に邪魔されて、太陽の光が当たらずに、結局、それも枯れてしまいました。そのように、たくさん撒いた種のうち、なかなか実らないのですが、しかし、きちんと畑のよい土地に落ちた残りの種は、そこで芽を出し、根付き、太陽の光も浴びて、恵みの雨も受けて、どんどん育ち、収穫の季節になると、三十倍も六十倍も百倍もの、たくさんの実りを得ることができたというお話でした。

 

このたとえ話を、イエスさまご自身が説明なさっていますので、それも併せて見てみましょう。18節以下のところです。

 

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 

ここで、道端にまかれた種、石だらけの地に撒かれた種、茨の中にまかれた種、そしてよい土地に撒かれた種、それらは撒かれた土地や土壌というそうしたことを、イエスさまはおっしゃっているのではなく、みことばを聞いた人が、それを受け取る際の姿勢についておっしゃっているとわかります。その人がみことばをどう受け取り、どう生きていくか、おっしゃっているのです。

 

つまり、道端に落ちた種は、みことばを聞いても、悟らず、根付く前に、何か悪いものにみことばが奪われてしまう。それは自分の心の中の悪いものかもしれないですし、誰か他の人のことかもしれません。語られたみことばに対し、「そんなことあるわけない」、「そんなのただの気休め」、そんな声が、みことばを心の中で芽を出さないようにしてしまうのです。あるいは、「いいお話だ、ぜひ続けて聖書のみことばを学びたい、信仰を持ちたい」と思うのだけれども、人生の歩みで辛いことや信仰生活で厳しいことが起こると、「いや、みことばどころでない、信仰なんて何の役にも立たない」と、つまづいてしまう、石だらけの地に落ちた種です。さらには、みことばを聞いて、「みことばっていいなぁ、神さまを信じたいな」と思うのですが、でも「これも大事だし、あれも大事だな」、「もし信仰を持つなら、これをできなくなる、あれも続けられない」、そんな思いの中で信仰が育つことができない、茨に落ちた種です。

 

このように考えてまいりますと、「うん、そうそう、だから伝道って難しい」、「あの人はあのタイプ」、「あそこのあの人はこのタイプ」と、そんな風に思うのですが、でも同時に、私たちは尚もう一つのことに気づきます。それは、「あ、これは、私自身のことだ」ということです。神さまのみことばを聞いても受け取ることができなかったり、ちょっとしたことですぐにつまづいてしまったり、様々なことに煩わされて信仰が育つことができなかったり、もちろん、私の周りの人も、よく当てはまるかもしれないけれども、他の誰でもなく、この私もまた、いえ、他でもない、この私こそが、ここでイエスさまが語ってらっしゃる実らない種そのものだということに気づかされるのです。私自身が、みことばを受け取れない、すぐにつまづき、なかなか育たない、そのものだと。

 

では、私たちは実らないから、もうそこでダメなのかというと、そうではありません。自分自身を見るなら、たしかにみことばの実りをつけられない者だけれども、でも、神さまはそんな私を見捨てず、諦めずに働きかけ続けてくださる。イエスさまは、そんな私のために、命すら惜しまず、私を救い、命を与えてくださった。そうした中で、私たちに、信仰の芽が与えられ、育てられ養われて、三十倍も、六十倍も、百倍も実りを与えてくださると約束してくださると信じることが、私たちには許されているのです。

 

伝道とは、このことに気づくことがスタートではないでしょうか。「私はみことばを信じて救われてるから大丈夫」というところに立って、「まだ救われていないあの人に伝えよう」という、そんな上から目線の姿勢ではなく、自分自身、どうしようもない実りが得られない者だけれども、でもそんな私を神さまが見捨てず、捉え、育ててくださっていると気づかされる。イエスさまが命懸けで私を救ってくださり、命を与えてくださっている中で、私たちにも信仰の実りを与えてくださると知らされる。その喜びと感謝を分かち合い伝えていく。それが伝道だと思います。

 

もちろん、すぐにそれが受け入れられるわけではないでしょう。なかなか受け入れてもらえず、信じてもらえない。そうした現実があります。でも、私たちは諦めない。この私だって、このように神さまに捕らえられ、イエスさまに養われている。そうであるなら、神さまはあの人にも働いてくださり、イエスさまはあの人のことも育ててくださる。そう信じて、私たちはみことばの種を捲き続けます。最初に申しましたように、神さまは、「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と、力強く約束してくださっています。

 

実際には、「無駄だよな。ダメだよな」と思うことも少なくないですが、でも、私たちは、神さまの働きを信じて、なおも諦めずに、みことばを宣べ伝え続けたいのです。テモテへの第二の手紙の中で、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」と語られています。見た目でよい時だけでなく、見た目では思わしくないような最悪な時も、私たちは、神さまの約束を信じてみことばを宣べ伝え続けたい。神さまが私を諦めず、私を救い、養い、実りを与えてくださっているように、私たちも諦めず、みことばを伝え続けるのです。イエスさまは、三十倍、六十倍、百倍の多くの実りを約束してくださいます。その実りは、必ずしも、すぐにということではなく、もしかしたら私たちの知らないところで、あるいは、モーセが約束のカナンの地を山の上から望み見ながら結局彼自身はそこ入れずに人生を終えたように、私たちの働きの実りも、私たちがこの世を去った後に与えられるものかもしれません。でも、イエスさまが、必ず実りを与えてくださることを、私たちは信じて種を捲き続けたいのです。

 

「木を植えた男」という絵本があります。ある青年が長旅をした際、荒れ果てた不毛の地で水も食料も切れてしまうのですが、一人の羊飼いが彼に水を分けて、家に泊らせてくれます。翌朝、青年は、その羊飼いに着いていったら、羊飼いは丘の下に羊を放牧した際、丘の上に行き、どんぐりを100個そこに丁寧に植えるのです。彼は、今まで10万個どんぐりを植えて、そのうち2万本芽を出したといいます。しかし、そのうち、その半分はダメになり、結局1万本の木が、この丘に育つだろうと、そう信じて、毎日、毎日ドングリを植え続けてきたのです。この羊飼いは、早くに子どもと妻を亡くしていました。そこら辺一帯は、経済的な貧しさや生活の厳しさから来る、いろんな争いや混乱でとても荒れており、人々はみんな村を去り、廃れていました。もしこの地に木がなくなればこの土地も滅びてしまうと、羊飼いは考え、家族もおらず、時間も自由な自分が、そのために働こうと、その地にドングリを植え続けたのです。それから一年後、青年は戦争に駆り出されました。5年間の戦争が終わって、彼は、またそこを訪れます。村に近づくと、一万本の木が広がっているのを、彼は見ます。青年は、羊飼いはもう亡くなったと思っていましたが、彼は生きていて、なおもどんぐりを植え続けていました。やがて丘には緑が広がり、かつて干からびた土地に水が流れていました。獣たちも住むようになり、猟をする者たちがそこを訪れるようになりました。誰もこれが一人の羊飼いの働きだとは思いませんでした。その後も、羊飼いは木を植え続けます。やがてそこは森となり、再び、人々が暮らすようになり、花も植えられて、多くの新しい命も誕生しました。荒れ果てて希望なく命尽きて乾ききった地だった場所が、命あふれる希望に満ちた潤いの地となったのです。不毛の地でもきっと大きな森になると信じて毎日毎日ドングリを植え続けた、一人の羊飼いの働きによってです。

 

私たちも、この彼のように諦めずにみことばの種を蒔き続けましょう。神さまが森のように育て、イエスさまが豊かな実りを与えてくださることを信じて。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

かたくなで不信仰なこの私にみことばの種を捲き、諦めずに育ててくださり、実りを与えてくださることを感謝いたします。私もまた、あなたの働きを信じて、時がよくても悪くても、みことばを語り続けることができますように励ましお遣わしください。あなたが多くの実りを与えてくださることを信じます。御子イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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