yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年9月17日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第15主日 2017年9月17日

 

「与えられる信仰」

(マタイによる福音書16章13~20)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先日、木曜日の夜に、弟子屈の摩周で家庭集会が行われたのですが、その日は、そのまま弟子屈に宿泊しました。そして翌朝、目覚めて、しばらく経った7時過ぎに、携帯のJアラート、警報が鳴りました。まもなく、外では、サイレンが鳴り響き、町内放送が流れ、非常に不気味なサイレンに、朝からたいへん嫌な気持ちになりました。テレビをつけたら、ミサイルの話ばかりで、これまた辟易しました。

 

まず何よりもそのように他の国を脅かすことをする行為に憤りを覚えます。同時に、実際には、そのミサイルは、上空5百キロ、宇宙空間を飛んで、日本の遥か数千キロ、日付変更線の近くに落ちたのに、ここまで大騒ぎをするこの国の政府や報道の姿勢にも大いに疑問を覚えます。また、このことをめぐって、私たちの日本を含む、どの国も戦争という愚かな選択をしないことを、切に願い、平和の主に祈るばかりです。

 

そしてもう一つ考えさせられたことがあります。それは、私たちは今申しましたように、目に見えない宇宙を飛んで、遥か日付変更線の近くに落ちたミサイルについて、このように大騒ぎしているわけですが、世界を見渡すならば、きっと今この時も、目に見えるすぐ頭の上をミサイルが飛び交っていたり、あるいは、自分や愛する人のすぐ近くに実際にミサイルが落ちて負傷をしたり亡くなったりしている人たちがおられるということです。私たちは、そのような人たちの痛みを覚え、平和と安全をともに祈り、平和の器として歩む心を忘れずにいたいと願います。

 

さて、そうした騒動の中でも、私たちは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とおっしゃる主のみことばを心静かに聞く時を過ごしましょう。主のみことばこそが、私たちを堅く立たせてくださいます。たとえ、どんなことがあっても、この世がどんな風になろうとも、なおも私たちがしっかりと立つことができる堅固な永遠の岩の土台として、私たちを支えてくださるからです。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と告げられている通りです。

 

今日も私たちは福音のみことばに聴いてまいりますが、イエスさまが、まず弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。「人の子」とは、イエスさまご自身を表しますので、「みんなはわたしのことをどんな風に言ってるの?」とお尋ねになられたのです。それに対して、彼らは、人々がイエスさまについて言っていることを答えました。「洗礼者ヨハネだと言っている人もいれば、「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一人」だと言っている人もいると。ここで名前が挙がっているだれもが、神さまがもたらしてくださる世の終わりの救いの日に関係のある人たちです。ですので、人々のそうした印象は、神の救いを告げ、ご自身救い主として働かれたイエスさまを表すのに、あながち間違えではないということになります。

 

エスさまは、弟子たちのそうした答えを聞かれて、さらに弟子たちに尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。たいへんドキッとさせられる、ズバッとした問いかけです。最初の「みんなは何て言っている?」という問いかけには、リラックスして、「こういう風に言う人もいれば、ああいう風に言っている人もいます」と、そんな風に答えることができますが、「では、あなたがたはどう思う?」「あなたはどういう風に言うの?」などと問いかけられるならば、私たちは身構えてしまいます。なぜなら、それが、ただ漠然な問いかけというのではなく、本当に真剣な問いかけに聞こえますし、だから私たちも真剣に答えるべきと思うからです。

 

ペトロが弟子たちを代表して答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」「メシア」とは、もともとは油注がれた者という意味ですが、やがて、神さまが世の終わりに遣わされる約束の救い主、キリストという意味を持つようになりました。ですから、ペトロは、イエスさまに「あなたは救い主キリスト、今まさに生きておられる神の御子です」と答えたのです。これは、イエスさまがどんな方であるのかを表すのに、これ以上ない、パーフェクト、100点満点の答えです。ですから、イエスさまも彼におっしゃいます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 

ここで何よりも大切なことは、私たちが、イエスさまがどんな方であるのかを正しく受け止めて、その信仰を告白するのには、それは人間のわざではなく、天の父、すなわち神さまの働きであるということです。周りでみんながあんな風に言っている、こんな風に言っている、本にこう書いてある、音楽や絵画でこう表現されている、これらは信仰への関心を持ったり、あるいは、学んだりそのきっかけとはなるでしょうけれども、でもそこからそれが信仰そのものとなるためには、神さまが私たちに信仰を与えてくださることがどうしても必要なのです。これを別の観点から言うならば、私たちが今、イエスさまをメシア、救い主、キリスト、生ける神の子と信じることができているのは、神さまが私たちに信仰を与えてくださっているからにほかなりません。もちろん一所懸命勉強したり、お祈りしたり、というのは、それは大いになすべきことでしょうし、信仰にとって有益なことでしょう。でも人間的な努力や能力によってではなく、神さまが私たちを導き、信仰を与えてくださるということを、今日ぜひ心に刻みたいと思います。

 

マルティン・ルターは、小教理問答の使徒信条の「わたしは聖霊を信じます」の解説の中で、《私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます。けれども聖霊が、福音によって私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちに私をきよめ、支えてくださることを信じます》と答えています。このように、私たちがイエスさまのもとに導かれ、信じることは、私たち自分の力によってはできないことであり、それは、人間のわざではなく、ただただ、聖霊、つまり神さまのお働きであることが言われています。

 

そして、私たちがそのようにイエスさまに対する信仰を神さまから与えられることは、イエスさまから「あなたは、幸いだ」「幸せだよ」と言っていただけることだということも、ぜひ今日大切に受け止めたいと思います。イエスさまを信じることができることは、もちろん私たちにとって「幸い」、幸せなことであるけれども、ただそのように私たちの側からだけでなく、イエスさまからしても、それは「幸い」なことだということなのです。このように、イエスさまへの信仰をめぐって、私たちもイエスさまもお互いに喜び合うことなのだということは、とても嬉しく感謝なことではないでしょうか。

 

エスさまは続けて、ペトロにおっしゃいます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」、このように、イエスさまは、彼に「ペトロ」という名前をお授けになりました。彼のもともとの名前は、先ほど呼ばれていた「シモン・バルヨナ」というものでした。これは「ヨナの子シメオン」という意味ですが、イエスさまを信じることで、このように全く新しい名前が与えられたのです。「ペトロ」、これは「岩」という意味です。日本的に言うなら「岩男さん」という感じになりますでしょうか。私たちが子どもや孫に名前を付けるときには、何も考えずに名付けるということはしないでしょう。その子がどんな風に育ってほしいのかをよく考えて、その願いを込めて名前を付けます。私の場合は、「真樹」という名前ですが、木のようにまっすぐ育ってほしい、そんな願いが込められていたと親から聞きました。でも実際には、当時はやっていた芸能人の名前でもあったようですがそれは置いておきまして、イエスさまが「シモン・バルヨナ」につけられた「ペトロ」という新しい名前も、きっと彼が岩のような堅い信仰に生きるようにという願いが込められた名前であったのかもしれません。

 

エスさまを信じて新しい名前が与えられる、このことはイエスさまを信じて新しい人として生かされるということ、また新しい使命を帯びて生きていくということも表しています。私たちも、イエスさまを信じる者として、新しい一人として生かされています。「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と聖書が告げている通りです。そして、イエスさまを信じる者として、新しい務めが、私たちには与えられているのです。それは、イエスさまが「わたしの教会」と呼ばれる教会に向けて与えられた務めです。私たちは、イエスさまを信じる者として、イエスさまの教会に招かれており、その教会に与えられた務めを、イエスさまから託されているのです。

 

しかし、ペトロに与えられたこの「岩」という名前ですが、ペトロ本人のことを思うときに、正直、「どうかな?名前負けしてるのではないの?」という思いになります。なぜなら、彼は今日の福音のすぐ後でも、イエスさまから「サタン、引き下がれ」とまで言われてがっつりと叱られています。また、この何週間か前の個所では「信仰の薄い者よ」などと言われていましたし、やがてイエスさまが捕えられた時には、彼はイエスさまのことを「知らない」と三度も言ってしまうし、イエスさまを見捨てて逃げてしまうし、イエスさまが復活なさってもなかなか信じられずにいつまでもうじうじと引き籠っていたし、教会のリーダーになってからも、しっかり立てずにパウロから叱られてしまうし、そんな風になかなか、がんとした堅い岩のような立ち方はできずにいました。むしろあっちに揺れこっちに揺れ、そんなふにゃふにゃだった弱々しい彼の姿に出会うのです。私たちはとても親近感を覚えるわけですが、イエスさまはそんな彼であってもペトロ、と呼びました。そうです。彼自身はそのように弱々しい、ふにゃふにゃな者であったかもしれないけれども、でも、イエスさまが彼を岩として立たせてくださった、イエスさま自身が彼の岩となって導いてくださった。だから、彼はペトロ、岩として、イエスさまを信じ働く、新しい歩みに生かされていくのです。

 

その岩の上に、イエスさまの教会が建てられます。ふにゃふにゃな弱いペトロの上ではなく、その彼を岩として導いてくださるイエスさまの上に、彼を励まし力づけるイエスさまの言葉の上に、教会が建てられます。私たちのこの教会も、イエスさまが「わたしの教会」と呼んでくださるイエスさまの教会であり、そして、弱い吹けばすぐ飛んでしまうような私たちの上ではなく、その私たちを岩として堅く立つことができるよう導いてくださる、岩なるキリストとそのみことばの土台の上に建てられている堅固な教会であることを、今日受け止めたいと思います。「陰府の力もこれに対抗できない」そうした力強さを、イエスさまは教会に与えてくださいます。そうです。死んで、その死に打ち勝って復活なさるイエスさまの教会なのですから、死の力、陰府の力も、イエスさまの教会を脅かすことはできないのです。

 

そして、その教会に与えられている務めについても、イエスさまは続けて語っておられます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。教会には、「天の国の鍵」が与えられているのです。それは天の国の門を開く鍵です。天の国の門は、残念ながら、私たち人類が繰り返し犯す重い罪のゆえに、固く閉ざされていました。旧約聖書の創世記で、最初の人アダムとエバが、神さまとの約束を破って、神さまから禁じられていた木の実を採って食べて、エデンの園から追放をされてしまいます。その際に、園の入り口には燃える炎の剣と、神さまから遣わされた天使のようなケルビムが配置されて、もはや誰も入ることができないように固く封印されてしまいました。それと同じように、天の国の門も、神さまとの約束を何度も破った人の罪のゆえに、誰も入れないように固く閉ざされていたのです。でも、その天の国の門を開く鍵が、今、イエスさまから教会に授けられているのです。

 

私たちは、その鍵を開けて、人々を天の国に、そしてイエスさまに「つなぐ」ための務めが与えられています。また、そのために、人々の罪を「解く」務めが私たちに与えられているのです。つまり、人々を天の国に招くように、私たちには、イエスさまから委ねられています。多くの人とともに、天の国を、イエスさまの救いを喜び合うためにです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私たちを導き、信仰を与えてくださり、心から感謝いたします。イエスさまを信じ、新しく生かされ、イエスさまの教会に導かれているものとして、天の国を多くの人と喜び合うことができますように、私たちを導いてください。私たちの真の岩なる救い主イエスさまのお名前よってお祈りいたします。アーメン

 

あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-09-17.mp4 - Google ドライブ

 

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