イエスのことば 権威ある教え
イエスの語る言葉は、権威ある者としての教えだったという。
それを聞くみんなが感嘆し、悪霊が苦しみ逃げていくほどに。
イエスの言葉は、神ご自身の言葉として、人を癒し、救い、生かす、力の言葉だ。
会堂で語っていた他の人たちのように、「律法はどうだ」、「聖書はどうだ」という、そんな字面だけで人を裁くための言葉ではなく。
その人と一緒に苦しみ、闘いながら、その中で語られる、人を元気づける愛の言葉。
文字は殺すが、霊は生かす!
それと比べて(イエスと比べること自体そもそもおこがましいが)わたしの言葉はどうだろう?
もちろんイエスのように、人を癒し、救い、生かす、力強い、その人を元気づける愛の言葉を語りたいと願っている。
でも実際はなかなか難しい。人を生かす言葉よりも、人を傷つけたり、元気を奪ったりする言葉を語っているのではないか。
礼拝のメッセージも、他の牧師たちの説教を聞くとき、「自分もあんな風に語れたら、もっと神さまからの喜びの知らせ、福音がみんなに届くのにな」と思う。「あぁ、ダメだな。無力だな」と思わざるを得ない。
悩み苦しんで生きることと必死に闘っている人と語り合う時も、もっとその人に寄り添い、その人が慰められて元気になる言葉を語りたいと願うけど、うまくその思いを届けられず、「自分は役立たずだ」と、もどかしさを感じる。
けれど、そんな貧しく無力なわたしであっても用いてくださるイエスが、わたしを通して、わたしが思いもしなかったような働きをしてくださることを信じたい。
そのためにまず、わたし自身、イエスの権威ある力強い愛の言葉に向き合い、そこに生かされたい。
また、イエスの言葉を通して、自分自身のうちにある悪霊を明らかにされて、イエスの権威ある言葉によって追い出していただきたいと願う