yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年2月25日 礼拝メッセージ

四旬節第二主日 2018年2月25日

 

「十字架を負って」

(マルコによる福音書8章31~38)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

「親の心、子知らず」という言葉があります。親がわが子のことを気にかけ、本当に心配しているのに、当の子どもはちっともその親の思いを理解せず、親の思いを裏切る、あるまじき言動ばかりする、そんな様子を表す言葉です。福音書を読んでまいりますと、「親の心、子知らず」ならぬ、「主イエスの心、弟子たち知らず」、そんな姿が繰り返し伝えられています。イエスさまは、弟子たちのことを思い、彼らを愛されて、大切な言葉を彼らに語り聞かせたり、歩みを進められたりされているのに、当の弟子たちは、そんなイエスさまの思いを理解せず、ずいぶんと勝手なことを言ったりしたりしてしまっているのです。今日の福音のみことばもまた、そうした「主イエスの心、弟子たち知らず」の様子を伝えています。

 

エスさまは、弟子たちに向かって、ご自身の受難と復活についての予告をされました。イエスさまが人々から徹底的に捨てられて殺されることを彼らに告げられたのです。そしてその後、死から復活なさることもまた告げられました。よく、この出来事をイエスさまの「受難予告」という言葉で言われますが、実際には、受難だけでなく、受難から復活への予告がされていることを、私たちは今日改めて受け止めたいと思います。イエスさまの福音は、受難、すなわち十字架の死をもっては終わりません。その後、死から復活なさって完成するのです。また、イエスさまが死に勝利された復活の出来事もまた、ただそれだけ単独で起こった出来事なのではなく、それに先立つ十字架と、その苦しみと死の出来事があったからこそ起こったものであるということもまた、私たちは今日受け止めておきたいと思います。つまり、このように受難と復活がセットであってこそ、そこに神さまの救いが成し遂げられるのです。

 

さて、イエスさまがそのように受難と復活を弟子たちに告げられた際に、「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」とあるように、たいへん大きな決意を込めて、また、みんなに理解してもらいたいと心から願って語られました。しかし、それに対して、弟子たちは、このイエスさまの予告を正しく受け止めることはできず、弟子たちの代表格のペトロは、イエスさまをわきに連れて、その発言を諫めるのです。今日のマルコによる福音書には、ペトロがイエスさまに何と言ったかは伝えられておりませんが、マタイによる福音書では「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったと伝えられています。この彼の姿に、自分の思いでイエスさまを動かそうとする人間の姿が現れています。また、自分の思いが通らないなら、イエスさまに聴き従うことをせず、「主よ、とんでもないことです」とイエスさまの上に立って、すなわち自分自身がイエスさま以上に偉い神になり、不平不満を言う私たちの姿を、ここに見るのです。

 

それに対して、イエスさまはどうされたか。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」と伝えられています。ここでイエスさまは、ペトロだけでなく、そこにいた弟子たちみんなのことを見つめられたのでした。イエスさまに従おうとするすべての人へと注がれるイエスさまのまなざしを、私たちはここから受け止めます。なぜ、このとき、イエスさまは、イエスさまをわきへ連れ出して諫めたペトロだけでなく、イエスさまに従ってきた弟子たちみんなを見つめられたのでしょうか。それは、きっと彼らもみなペトロと同じ思いだったからでしょう。つまり、みんなイエスさまの告げられた受難と復活の予告を理解せず、ペトロと同じように、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」という思いでいたのです。そして、この出来事から、時代を超えて、場所を超えて、今日の私たちもまた、ペトロや他の弟子たちと同じ思いの中で過ごしている。だから、イエスさまは私たちをも見つめられます。

 

そして、イエスさまは大変激しい言葉で、ペトロのことを、また弟子たちのことを、さらには私たちのことを叱られます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。イエスさまを諫めたペトロに対して「お前はサタンだから、わたしの前から引き下がれ」と、叱責なさるのです。ここでのイエスさまの言葉から、私たちは、神の思いと、人間の思いの違いということについて考えさせられます。私たちは神のことを思って毎日を過ごし、また信仰の歩みをしているでしょうか。それとも人間のことを思って過ごしているのでしょうか。私たちの「よかれ」と思うことが、実は神さまの思いには反する場合があります。いや、実際にはそうしたことがとても多い。そして、そうした人間の思いによってイエスさまを諫めたペトロに、イエスさまは「サタン、引き下がれ」と告げられた通り、それは結局、サタンの思いなのです。

 

実は、今日の福音のすぐ前の箇所で、イエスさまから「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられた答えとして、ペトロが「あなたは、メシアです」と告白をしました。他の福音書では、その時、イエスさまは、その彼の告白を褒めています。けれども、今日の福音では、イエスさまの受難と復活の予告を受け止めることができなかった彼の姿が伝えられ、しかも、「サタン、引き下がれ」とまで、たいへん厳しく叱られてしまう。この出来事からわかることは、彼は、イエスさまのことをメシアと言いつつ、でも、どんなメシア、つまり救い主として信じて、従っているのか、実はまったく理解できていなかったということです。口では、「あなたは、メシアです」と、イエスさまに褒められるほどの告白をしておきながら、それがいったいどんな意味を持つのかは、彼はわかっていませんでした。

 

ここでペトロがそうであったように、人間の思いでは、イエスさまが一体どんなメシアであるのか、私たちには正しく受け止めることはできないのです。私たちが、イエスさまのことを自分で「わかった気になる」ことの危うさをここから受け止めたいと思います。ペトロは、きっと自分にはわかっているような気持ちで、「あなたは、メシアです」と、イエスさまに告白し、また、さらには、受難と復活を彼らに告げられるイエスさまのことを諫めたのでしょう。けれども、実際には、彼は、イエスさまのことを全然わかっていませんでした。私たちもです。私たちも聖書の学びを重ね、信仰生活を続ける中で、イエスさまがどんなお方であるのかわかったような気になります。でも実際には、何もわかっていない私なのです。

 

エスさまは、そうした人々の限界を知っておられました。だからこそ、「あなたは、メシアです」とイエスさまに向かって、ある意味、模範解答の正しい告白をしたペトロでしたが、にもかかわらず、イエスさまは「御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」のです。「あなたは、メシアです」、この答えは正しい。でも、それでは、イエスさまは一体どんなメシアなのでしょうか?それは、ほかでもなく、イエスさまご自身、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と予告されたように、人として、周りのみんなから徹底的に捨てられて、殺される受難と復活のメシアなのです。受難と復活のメシア、すなわち、ご自分の命を懸けて、人を愛されて、人を救うためにご自身、苦しみも死も厭わないメシア。そして、その命がけの愛の歩みがよしとされて、神さまによって復活させられるメシア。それが、神の子、メシア、救い主イエスさまなのです。

 

ですから、受難と復活なしのメシアは、私たちの側で誤ったメシア像を勝手に作り上げていることになります。私たちの自分の思いで、自分の都合の良い働きをしてくれる、そんな救い主の偶像を作り上げているのです。それは、イエスさまがペトロを厳しく叱られたように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」姿です。もっと言うなら、それは、「サタン、引き下がれ」、イエスさまの前から引き下がらなければならない、サタンの思いなのです。だから、受難と復活の出来事を受け止めることなく、イエスさまをメシア、救い主であると人々が勘違いして誤った受け止めをしないように、イエスさまは「誰にも話さないように」と、弟子たちに命じられたのでしょう。

 

ペトロを叱った後に、イエスさまは弟子たちに「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。私たちはこの世の生を、自分の身を削りながら、多くの重荷を負って生きていかねばなりません。イエスさまは、そうした私たちの生き方をわかってくださっています。そして、その私たちの歩みを、イエスさまの十字架の歩みと共なる、イエスさまに従う歩みとして受け止め、招いてくださるのです。「あなたがそのように、自分の身をすり減らしながら、重荷を負って生きていくのは本当に大変だよね。でも、わたしと一緒にその歩みを歩んでいこう」と、イエスさまはおっしゃいます。

 

このように、私たちがイエスさまに従うということは、この世の重荷がなくなって、自分の願い通りに楽に生きられて、幸せになるということではありません。私たちがイエスさまに従おうと願って歩んでいても、私たちにはなおも身を削るほどの重荷があるのです。むしろ、私たちがイエスさまを信じるからこそ、従うからこそ、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」生きていかねばならないということもあります。つまり、私たちがもしイエスさまを信じるとか、従うとか、そうでなければ、見て見ぬふりしてスルー出来るようなことも、イエスさまを信じ、イエスさまに従うがゆえに、そのように見過ごすことはできず、そのために私たち自身自分を捨て、自分の十字架として背負って歩まなければならないことも少なくないのです。でも、イエスさまはちゃんとその歩みをわかっていてくださっている。そして、それを受難と復活のイエスさまに従う大事な歩みとして受け止め、受け入れてくださっている。今日このことを覚えたいと思います。

 

エスさまは続けておっしゃいました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。私たちがただ自分のためにだけ生きるのか。それとも福音のために、イエスに従って生きるのか。そのことが問われます。「福音のために命を失う」ということは、私たちが福音に自分の命を懸けて生きる、福音のために最後まで生き抜くということです。「福音のために」、それは、イエスさまの受難と復活を信じて、その中で与えられる命に私たちが生かされることです。そしてまた、その歩みの中で、地上の生涯を終えて世を去っていくことです。樹奈と復活のイエスさまに招かれ、受け入れられている、自分を捨て、自分の十字架を背負って生きる私たちの歩みを、私たちがただ自分の力で、自分のために生きようとするのでなく、イエスさまの受難と復活による福音に慰められ、励まされ、力づけられながら、その人生の終わりまで歩む、それが「福音のために」生き、命を全うすることです。それは、私たちが全世界を手に入れることよりも、よほど価値ある歩みであると、イエスさまはおっしゃいます。「人はパンだけで生きるのではない」とイエスさまはおっしゃいましたが、私たちが「福音のために命を失う」、つまりイエスさまの受難と復活の福音の中で生かされ、死ぬことこそ、私たちがまことの命に生かされる歩みなのです。

 

今の時代は、イエスさまが今日の福音の結びでおっしゃっているように、本当に「神に背いたこの時代」です。そして、私たちもまた、その時代に生きる一人として、イエスさまとイエスさまの言葉を大事にしないで歩んできたことを思います。にもかかわらず、なおも、私たちはイエスさまの受難と復活によって、この価値ある真の命の歩みへといま招かれています。私たちは、神さまの思いに生きるのか。それとも人間の思い、しいてはサタンの思いに生きるのか。今、究極の神の思いであるところの、イエスさまの受難と復活による福音を受け入れて、その信頼と信仰の中で、歩んでまいりたいと願います。イエスさまは十字架の傷を示しながら、その命へと私たちを招いておられます。

 

ボンヘッファーは、「信じる者だけが従い、従う者だけが信じる」と言いました。私たちも、イエスさまの受難と復活の福音を信じつつ、イエスさまに従う者でありたいですし、また、イエスさまに従う歩みの中で、イエスさまがまさがまさに受難と復活の救い主であるという信仰を、新たにしたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

神さま 私たちが御子のことを自分の都合のよいように信じるのではなく、受難と復活の救い主であることを信じつつ、御子に従うことができますように。また、御子に従う中で、御子の受難と復活をより深く信じる心を、私たちに与えてください。私たちが自分の身を削りながら重荷を負いながら生きる歩む歩みを、御子が助け導いてくださることを感謝します。救い主イエスさまのお名前によって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-02-25.MP4 - Google ドライブ

 

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