yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年4月29日 礼拝メッセージ

復活節第5主日 2018年4月29日

 

「つながりあって」

ヨハネによる福音書15章1~8)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

マルティン・ルターは、十戒の第一の戒め「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」について、大教理問答の中で「ひとりの神とは人間がいっさいのよいものを期待すべき方、あらゆる困窮に際して避けどころとすべき方である。…今あなたがたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである。」と説明しています。私たちは、「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」という戒めから、私たちが他の宗教の神々や何か手で作った偶像を拝んだり信じたりしてはならない、そんな意味だと考える場合が多いかもしれません。しかし、ルターはそうしたことではなく、繰り返しになりますが、「ひとりの神とは人間がいっさいのよいものを期待すべき方、あらゆる困窮に際して避けどころとすべき方である。…今あなたがたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである。」と、この戒めについて説明するのです。

 

「困ったときの神頼み」という言葉があり、キリスト教ではその言葉をあまりよく捉えない人も多いのですが、ルターはここで「あなたが困ったとき、ちゃんと神さまを避け所としているか」「もう逃げる場所がないという時も、あなたは神さまの懐に助けを求めて飛び込んでいるか」「あなたがいろんなよいものを、ちゃんと神さまに期待しているか」「あなたの心をどこにつないで、誰に信頼しているか」そのことを私たちに問いかけています。私たちがもし神さま以外のものにいろんなものを期待しているなら、それは私たちが神さま以外のものを私たちの神としていることだ、私たちが作り上げた偽りの神である偶像を信頼していることだという意味です。どうでしょうか。

 

私たちは何に期待し、何を避け所、逃れ場とし、何に心をつなぎ、何に信頼しているでしょうか。もちろん神さまです、とそう答えたいと思うのですが、実際は怪しいものです。自分の能力だとか、お金だとか、持ち物だとか、地位だとか、他の人の目だとか、そうしたものに私たちが期待したり、それを避け所としたり、そうしたものに私たちの心をつないだり、信頼したりしていることを思います。それは、そうしたものを失ったとき、露になります。つまりお金が無くなったり、地位を失ったり、能力が足りなかったり、他の人の目が冷たくなった時、私たちは途端に「どうしよう、どうしよう」と不安になり、恐れ、「もうだめだ」と諦めモードになったり、パニックになったりしてしまう。神さまが私たちといつどんな時も共にいてくださり、私たちのためにすべてを整えてくださっているのだから、本当はそこで何の心配もいらないし、恐れる必要もないのだけれど、そうできない。それは、私たちが神さまよりもその他のいろんなこの世のものに期待し、避け所とし、心をつなぎ、信頼していること、つまりそれらのこの世のものを、私たちが、私たちの神としてしまっていることの現れなのです。

 

今日の福音で、イエスさまはそんな私たちにおっしゃいます。「わたしにつながっていなさい。」エスさまにつながって私たちは生きていく。先週のメッセージの初めに、復活なさったイエスさまが私たちにとってどういうお方なのか、今も生きておられるイエスさまが私たちにどのようにかかわってくださるのか、そのことを私たちはみことばから聞いていきたいとお話ししましたが、今日は、復活なさったイエスさまこそ、私たちにとって一切の良いものを期待し、あらゆる困窮に際して避け所とし、私たちの心をつなぎ、信頼すべきお方であり、そのように私たちにかかわってくださるお方であるということを、私たちは受け止めます。

 

でもイエスさまにつながって生きるというのは、私たちにとってなかなか困難なことのようにも思えます。もちろん、イエスさまにつながって生きていきたいと、私たちは願いますし、そのように努めます。でも、実際のところ、イエスさまの崇高な教えを私たちはなかなか行うことはできないですし、イエスさまの十字架の道に従うこともなかなかできません。今よく使われる言葉で言うなら、イエスさまの前にまったくもってヘタレな私たちです。ですから、イエスさまが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」などとおっしゃっている言葉を聞いて、それを文字通りに受け止めようとするとき、正直、私は「なかなか難しい、いや、私にはできないな」という思いになりますし、そこから「私たちはイエスさまがおっしゃる通りすべてを捨てて、十字架のイエスさまに従わなければ救われません」などという説教を聞くと、「私は救われないんだな」と思わざるを得ません。もし今日のイエスさまの言葉が「あなたがたはわたしにしっかりとつながっていなければもうだめだ」という意味なら、もうダメなんだなと思うのです。今日イエスさまが、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」とおっしゃっているように、「私はイエスさまにつながっていられないから、投げ捨てられて枯れてしまって、火の中に投げ入れられて焼き滅ぼされてしまうしかない」、そうした者なのだと思います。そして事実、イエスさまが今日「わたしにつながっていなさい」と、ただそのようにだけおっしゃっているなら、私はまさしくそうした残念な運命を辿るしかありません。

 

でも、イエスさまは「わたしにつながっていなさい」とだけおっしゃったのではありませんでした。続けておっしゃるのです。「わたしもあなたがたにつながっている」と。イエスさまが私たちにつながっていてくださる。これは大きな恵みです。私は自分の力では、イエスさまにつながっていることはなかなかできない。でも、そんな私たちにイエスさまが「わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃってくださっている。私たちは、ただそこでのみ立っていくことができるのだと思います。

 

幼稚園に新しい子どもたちが入ってきました。子どもたちの中には新しい生活に慣れるまで不安で、泣いている子もいます。そうしたとき、先生方が子どもたちに手を差し伸べて、手をつないでくださる。しっかりと抱きしめてくださる。そうした中で、子どもたちの不安が少しずつ取り除かれ、笑顔で幼稚園で過ごすことができるようになってきます。先生との信頼関係もできていきます。時にはお友達が心配して、そうした子どもたちを自分の中に受け入れてくれる場合もあります。そのようにして子ども同士が一緒に過ごす喜びが湧いてきます。イエスさまが「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃるとき、イエスさまと私たちの関係が、そのような先生と子どもの関係、子どもたち同士の関係のようなものだと感じました。イエスさまが手を差し伸べてくださっている。イエスさまが抱きしめてくださっている。そのイエスさまの手に、私たちの手を添えていくこと。イエスさまの抱きしめてくださった背中に私たちの手も回していくこと。それが私たちがイエスさまにつながるということだと思うのです。イエスさまが「ちゃんとわたしがあなたにつながっているから、だからそのつながりの中で、あなたも私につながり合って生きていけばいいんだ」そうイエスさまがおっしゃっている。それが今日の「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」というイエスさまのみことばに込められた心であると受け止めたいと思います。

 

エスさまは次のようにも今日おっしゃっています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。先週、新約聖書の原文はギリシア語で書かれていて、ギリシア語では動詞の形を見れば、主語を省略することができる。それゆえに主語がわざわざ書かれていることは、その主語が強調されている。そんなお話をいたしました。今日のイエスさまの言葉「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」も、本当なら、「わたしは」という主語はわざわざなくても、動詞の形を見れば、「ぶどうの木」であるのは、これを語っておられるイエスさまご自身のことだということがわかるわけですが、今日のみことばでもわざわざ「わたしは」という主語が原文でも語られています。ですから、イエスさまはここで単に「わたしはぶどうの木」とおっしゃっているだけでなく、「ほかの誰でもなく、このわたしこそがぶどうの木で、あなたがたはその枝なのだ」と、「わたしは」ということを強調しておられるということになります。イエスさまは、他の誰でもなく、他の何物でもなく、このわたしこそが、あなたがたにしっかりとつながっている、ぶどうの木であり、あなたがたはそのわたしの枝だと、力強くここで語っておられるのです。

 

この世のいろんなもの、お金も物も自分の地位も、名誉も、能力も、他の人の評判も、他の人の目も、それらはどれも生きていく上で、あるに越したことはないものなのは、そうでしょう。でも、それらはどれも不確かなものです。何かのきっかけで失われてしまうことがあります。一瞬でそれらすべてを失ってしまう、そうした不運な、あるいは不幸な出来事だって起こるかもしれません。あるいは、そもそも最初からそれらに恵まれないという場合もあるでしょう。またさらに、私たちは誰しもいつかはこの世を去らねばなりません。その時、この世のどんなものも私たちは手放さなければならなくなります。冥途の土産という言葉がありますが、私たちは冥途に土産を持っていくことなどできない。あの旧約聖書のヨブが、次々自分を襲う災難の中で「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」と言っているように、私たちはいつしか必ず裸で空手でこの世を去って行かねばならないものなのです。

 

そうした私たちにイエスさまはおっしゃるのです。「そうしたこの世のほかの何物でもなく、このわたしこそがぶどうの木だ。あなたがたはその枝だ。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と。この世のあらゆるものを失っても、あるいは、いつかすべてを手放してこの世を去らねばならないその時も、イエスさまは私たちにしっかりとつながりつづけてくださるぶどうの木です。そして、私たちはそのイエスさまというぶどうの木に手を添えてつながり合って生きることがゆるされている枝なのです。そのぶどうの木であるイエスさまは、この世のすべてを失い、十字架の木にかかり、死なれた方、しかし、その死をもって死に打ち勝ち、復活なさって今も生きておられる方です。ですから、私たちがこの世のすべてを失っても、その命を終えて死んでも、イエスさまの手はなおも私たちに差し出され続けます。私たちが生きている時もすべてを失う時も死ぬ時も死んだ後も、イエスさまはそこで私たちになお手を差し伸べて「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。わたしはあなたの手を決して離さない」とそうおっしゃってくださるのです。

 

以前、私が働き、生活していた深川教会のベランダから見える近所の方の家の庭ではぶどうを育てていました。ぶどうの枝は、本当に細く弱々しいものです。嵐が来たり、雪が積もったりしたらもうだめになってしまうのでは…と思うようなものでした。でも、毎年、秋にはみごとなおいしそうなぶどうがたわわに実りました。枝は細く弱々しいけれど、ちゃんとぶどうの木から栄養が運ばれ、毎年実りが与えられていたのです。私たちも弱々しいものです。私は、体は人一倍太いですが、けれど、心はすぐに折れてしまいそうな弱い者です。神さまとの関係でも、すぐに離れてしまいそうなそんな者です。でも、イエスさまがそんな私にしっかりとつながっていてくださる。そして、みことばを通して、また、洗礼と聖餐を通して、栄養を与え、強めてくださって、実を実らせてくださいます。

 

それは、決して私自身の力ではありません。イエスさまが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と今日おっしゃっているように、イエスさまにつながっていなければ私自身は何もできません。けれど、そんな私たちにイエスさまがしっかりつながっていてくださり、実を与えてくださるとの約束に励まされ、感謝したいと思います。そして、私の手を握ってくださるイエスさまに私も手を添えて、私を抱きしめてくださるイエスさまの背中に私も手をまわし、イエスさまとつながりあって生きていきたいと、そう心から願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

心細く弱い私にイエスさまがしっかりとつながっていてくださることを感謝いたします。どうか、私も差し延ばされたイエスさまの手に、私たちの手を添えてイエスさまとつながり合って生きていくことができますように。イエスさまというたしかなぶどうの木の枝として生かしてください。復活なさって今も生きておられる主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-04-29.MP4 - Google ドライブ

 

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