yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年5月13日 礼拝メッセージ

主の昇天 2018年5月13日

 

「新しい物語」

使徒言行録1章1~11、ルカ24章44~53)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

今週のこのメッセージは、私にとってかなりレアな体験の中で生み出されたものです。私は、3日の木曜日より扁桃腺が腫れて熱が出ておりました。ま、それ自体は、一年に何度かあることですから、私にとってあまり珍しいことではありませんので、「また扁桃腺の熱か」と思っておりましたら、いつもなら大体二日ぐらいで下がる熱も、今回はなぜかなかなか下がらず、長引きまして、土曜日の北見教会の礼拝を終えて、その帰り道にまた熱がどんどんあがってきて、日曜日には大麻教会での礼拝をフラフラになりながらもなんとか終えて、そのあとダウンしました。月曜日の朝に幼稚園の礼拝を終えた後、病院に行ったら、「あ、これ、すぐ入院だね」ということになり、厚別の病院を紹介されて、あれよあれよという間に、即、緊急入院となってしまいました。

 

入院なんて子どもの時や、あるいは高校生の時の盲腸の経験ありますが、成人して自立してからはしたことがありませんので、どれぐらいの料金がかかるかもわかりません。それで、まず、旭川の両親に「これから入院するけど、お金ない」とメールをしました。しかし、冷静になって、よく考えてみますと、これってオレオレ詐欺そのものに誤解されても仕方がないような行為だったなと思います。ま、ある意味、リアルオレオレ詐欺なわけですが。

 

ということで、入院中の病院の病室で準備されたのが、今日のメッセージです。病室のベッドの脇にパソコンを置くのにちょうどいい高さと大きさの台があって、それがとても使いやすいので、にんまりしながら、片手には点滴を受けながら、このメッセージを作成いたしました。

 

さて、今日の第一朗読は使徒言行録の初めのところで、福音の朗読はルカによる福音書の終わりのところでした。実は、この使徒言行録の初めと、ルカ福音書の終わり、この二つは特別な関係にあります。第一朗読の使徒言行録の初めは、こんな言葉から始まっていました。テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。ここにテオフィロさんという、一人の人物の名前が挙げられています。このテオフィロとは一体何者なのかと申しますと、はっきりしたことはわかってはいないのですが、きっとローマの位の高い官僚、役人ではなかっただろうかと考えられます。そのテオフィロさんに、使徒言行録の著者は「先に第一巻を著し」贈ったと言います。イエスさまの、その生涯と教えについて、イエスさまが天に昇られる日までのすべての事柄が、その第一巻に記した内容だとのことです。そして、この使徒言行録を、今から第二巻として著すのです。その第二巻では、「使徒言行録」と呼ばれるくらいですから、イエスさまによって遣わされた使徒たちが、聖霊の導きの中でどうしたことを語り、どのような行動をしたのかについて語られています。その第二巻のための巻頭言が、今日の第一朗読、使徒言行録の初めの部分です。

 

では、そのこの使徒言行録の著者が既に書いた第一巻とは、一体何の書物であるのかといいますと、それは私たちもよく目にしているものです。ルカによる福音書の初めをご覧ください。そこには、次のようなことが記されています。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」。ここにもテオフィロさま」の名前が登場していますよね。このルカによる福音書の著書は、彼テオフィロさんにこの福音書「献呈する」と記されています。

 

つまり、このように、使徒言行録とルカによる福音書は同じ、ローマの高官と考えられるテオフィロさま」に書き贈られたものであり、ルカによる福音書がその第一巻であって、使徒言行録がその第二巻であるということになります。そしてそれを著した著者も同一人物で、つまり、「ルカ」であるのです。ところで受取人のテオフィロですが、これはどうも本名ではないのではないだろうかと考えられています。「テオ」つまり「神」そして「フィロ」「フィロス」つまり「友」ですので「神の友」というような名前です。ルカが尊敬してやまない親しいある人物に「あなたは自分では気づいていなくても、もう既に神の友とされているんですよ」そんな思いを込めて、ぜひあなたにもイエスさまのことを知ってほしい、信じてほしい、一緒に信じたい、そう願って、二巻の書物を書き送ったのかもしれませんね。

 

今、今日の第一朗読の使徒言行録と第二朗読のルカによる福音書の関係についてお話しました。ところで、この使徒言行録のはじめの部分とルカによる福音書の終わりの部分は、同じ一つの出来事を伝えていました。それは、イエスさまが天に昇られた出来事です。イエスさまの昇天の出来事が、第一巻と第二巻の共通のテーマで、その二つの書の橋渡しの出来事となるのです。イエスさまの昇天の出来事で、イエスさまのご生涯を伝えるルカによる福音書の記述は閉じられます。そしてまた、このイエスさまの昇天の出来事こそが、やがて聖霊に導かれてなされる使徒たちの働きの新しい物語のプロローグとなるのです。終わりであり、始まりである出来事、それがイエスさまが天に昇られた出来事です。

 

このように、ルカがテオフィロへ書き送った書物の第一巻と第二巻の橋渡しとなった、イエスさまが天に昇られた出来事は、一体、どのような意義がある出来事なのでしょうか。今日はそのことをご一緒に受け止めてまいりたいのですが、イエスさまの昇天は、弟子たちにとって、彼らの自立、独り立ちの出来事となったのでした。イエスさまが天に昇られる。これは弟子たちにとって、イエスさまとの別れの出来事でした。十字架でイエスさまを失い、せっかくご復活によって再会することができたのに、またイエスさまが天に帰られて彼らのもとからいなくなってしまう。イエスさまの昇天は、そうした出来事であったのです。けれども、イエスさまの昇天の際、弟子たちは悲しんだのではなく、今日の福音書「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と伝えているように、大喜びと賛美の心でこの出来事を受け止め、それは十字架の時の彼らの姿とは大きく異なるものでした。

 

エスさまは復活なさってから40日間、弟子たちとともに過ごされ、彼らの心の目を開いて、つまり彼らが心の底から信じることができるように、神さまのこと、イエスさまのこと、聖書のこと、救いのこと、十字架のこと、復活のことなどすべてをわかりやすく彼らに話されました。そのようにして彼らを励まし、強め、彼らにやがて聖霊を贈るとの約束をなさって、イエスさまは弟子たちを福音を伝えて歩む者として整えられたのです。そして、今やそのイエスさまが天に帰られ、それからは弟子たちは彼らに約束の聖霊が降るのを待ち、聖霊が降ったら、聖霊の導きの中で、彼らは自分の足で立って宣教の働きを担う者とされるのでした。それがイエスさまの昇天の出来事なのです。イエスさまは弟子たちを信頼して、福音を宣べ伝えるという大きなわざを、彼らに託して、ご自分は天に昇られ、全世界のすべての人の主となられるのです。

 

エスさまの十字架を前にして逃げてしまった弟子たち、イエスさまの復活の知らせを聞いても信じることができず戸に鍵をかけて引きこもっていた弟子たち、復活なさったイエスさまと実際に出会いながらもまだ信じられず引きこもり続けた弟子たち、あるいは、イエスさまに遣わされながらも出かけることができず、漁師としての昔の生活に戻ってしまっていた弟子たち、そんな情けのない頼りない、ふらふらしたチャランポランな弟子たちではありましたが、でもイエスさまはなおも彼らを信頼して、彼らが分かるように、彼らの心に語りかけられ、彼らに福音宣教の大切な働きを託して、委ねて、ご自分は天に帰られるのです。

 

そして、事実、その後、彼らのもとに聖霊が降り、今までの情けない頼りない弟子たちの姿が嘘であったかのように、実に力強く宣教の働きを始めます。彼らの目の前にどんな力強い人がいようとも、どんな恐ろしい結果が待っていようとも、恐れることなく、イエスさまから託された福音を彼らは伝えるのです。それはきっとイエスさまがこんな自分たちを信頼してくださっている。こんな自分たちを用いてくださっている。その喜びに彼らが満たされたからでありましょう。

 

こう見てまいりますと、イエスさまの昇天の出来事が第二巻のはじめ、新しい物語のプロローグであるということがよくわかってくるのではないでしょうか。たしかにイエスさまの昇天によって、イエスさまの物語は、一応一段落しました。ですからルカによる福音書がイエスさまの昇天の出来事で、その記述を終えていることはふさわしいことです。しかし同時に、この同じイエスさまの昇天の出来事から、今度はイエスさまの思いを継いだ弟子たちが、喜びの中で、イエスさまに託された働きを担う歩みへの一歩が始まっていく。それが使徒言行録の初め、新しい物語の幕開けなのです。

 

さて、今日は、教会の暦で、主イエス・キリストの昇天をお祝いする礼拝となります。実は主の昇天日の当日は、この前の木曜日でした。昇天日は毎年木曜にあたります。なぜかと申しますと、今日の使徒言行録の1章3節に「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあるように、復活なさってから40日間イエスさまは地上におられ、そして天に昇られたということから、復活の主日、その日曜日から40日後は毎年木曜日だからです。しかし木曜日にみんなで教会に集まって主の昇天をお祝いしようというのも実際にはなかなか難しいということで、その直後の聖日の礼拝にずらして昇天主日の礼拝としてもよいですよと定められていることに、私たちの教会も従っています。

 

エスさまは、天に昇られるにあたり、私たちにもまた、尊い救いの福音を託されます。頼りのない、信仰の薄い、ダメダメでちゃらんぽらんな私たちではありますが、でもイエスさまはそんな私たちの心の目も開いてくださいます。そして、わかりやすく、私たちの心の中に、神さまのこと、聖書のこと、救いのことすべてを語りかけ、そして私たちにも聖霊を贈ってくださる約束をなさり、出会う人たちに福音を伝えるため送り出してくださいます。イエスさまによって強められ、自立させられて、私たちも、私たちのそれぞれの生活の中で、イエスさまの福音を伝える者とされるのです。そうです。私たちの人生の物語も、自分の足で立って歩む新しい第二巻が、イエスさまの昇天により幕開けするのです。

 

エスさまは天に昇られて、全世界のすべての人の主となられました。イエスさまと出会うために、私たちはもはや遠くに、あるいは、何か特別な場所に行く必要などありません。たとえ私たちがどこにいてもそこで天を見上げて「イエスさま」と呼びかけるならば、イエスさまは私たちの声を聴きとってくださいます。それがイエスさまが天に帰られたことの大切な意味です。私たちはぜひこのことも私たちの周りの人、特に悩んでいたり、病の中にあったり、いろんな課題を抱えている人に伝えたいと思います。それも私たちがイエスさまから託されている大切な働きであり、この世にあって大きなニーズのある働きです。

 

さて、私は最初、今日のメッセージを入院先の病室で作成したとお話をいたしました。正直、今週は説教を準備できず、穴をあけてしまうかもしれないとも一瞬思いました。しかし、神さまは、そうした中でも、私に力を与えてくださり、みことばの準備をさせてくださいました。と申しますよりも、この仕事があったおかげで、入院中の日々も楽しく過ごすことができました。入院する際に家から病院に持っていく持ち物に、一か八かでパソコンを入れていって本当によかったです。今日も、このようにみことばからのメッセージが与えられたことに、みなさんと一緒に心から感謝したいと思います。みなさんも神さまのお守りの中で、ぜひお体に気を付けて、イエスさまに託された福音宣教の働きをこれからも共に続けてまいりましょう。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま 御子イエスさまが私たちに救いの福音を託してくださり、私たちが福音を宣べ伝えて歩むように、御子によって送り出されています。弱く信仰の薄いものですが、御子に支えられ、そして聖霊によって強められてその働きを担うことができますように。主キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

 

動画 2018-05-13.MP4 - Google ドライブ

 

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