yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

人よりも神に従う

昨日は、北見牧師会が行われ、先般、基督兄弟団が発表した共謀罪法反対の声明から学びがなされた。

戦時中のホーリネス=きよめ教会の流れを汲む同教団は、当時の治安維持法による弾圧と教会解散、さらには棄教せざるを得なかった指導者たちもいたという痛みを覚えつつ、今回その声明を発表したという。

タイミング的に法案が衆議院を通過した後の発表だったということで、「遅い」とか「アリバイ作りの声明か」とかなどの批判もあったとのことだが、しかし社会的な発言がほとんどなされない同教団の精一杯の意思表明として、私は評価したい。(私に評価されても、何の価値もないわけだが…)

ところで、声明でも触れられている戦時中の弾圧について、当時の社会状況において、彼らが再臨信仰を説き、真の王である神のみ前で、天皇もまた裁かれるとの立場を譲らなかったことが問題であり、当時そうした立場は控えるべきだったとの反応が、他の教派の人々から少なからずあったそうだ。

私は、これを聞いて、たいへん残念に感じた。当時の弾圧は、100%国家に非があるのであって、教派の側の罪を問うのは筋違いだ。また、キリストこそ真の王であり、真の主であるとの信仰は、国家やこの世の状況によって左右されるべきものではない、決して譲ることのできない一点ではないか。たとえ、それが当時は現人神と言われていた天皇であっても、他のあらゆる人々と等しく、彼もまた、主である神の支配下にあり、神の裁きを受けるべき一人である。この当然とも言える信仰の基本を保ち続けた教派が、もしその信仰のゆえに非難されるとすれば、それを非難する側は一体どんな信仰を告白するのか、たいへん興味深く思う。(もちろんこれは皮肉である。)

天皇の退位による代替わりが近づき、また特定秘密保護法、安保法制、共謀罪法と、かつての歴史を再び繰り返すのかと危惧される悪法が次々と定められ、日本国憲法が大きな危機を迎えている今、今一度、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(聖書 使徒言行録5章29)との信仰をしっかりと心に刻みたい。

2017年9月17日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第15主日 2017年9月17日

 

「与えられる信仰」

(マタイによる福音書16章13~20)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先日、木曜日の夜に、弟子屈の摩周で家庭集会が行われたのですが、その日は、そのまま弟子屈に宿泊しました。そして翌朝、目覚めて、しばらく経った7時過ぎに、携帯のJアラート、警報が鳴りました。まもなく、外では、サイレンが鳴り響き、町内放送が流れ、非常に不気味なサイレンに、朝からたいへん嫌な気持ちになりました。テレビをつけたら、ミサイルの話ばかりで、これまた辟易しました。

 

まず何よりもそのように他の国を脅かすことをする行為に憤りを覚えます。同時に、実際には、そのミサイルは、上空5百キロ、宇宙空間を飛んで、日本の遥か数千キロ、日付変更線の近くに落ちたのに、ここまで大騒ぎをするこの国の政府や報道の姿勢にも大いに疑問を覚えます。また、このことをめぐって、私たちの日本を含む、どの国も戦争という愚かな選択をしないことを、切に願い、平和の主に祈るばかりです。

 

そしてもう一つ考えさせられたことがあります。それは、私たちは今申しましたように、目に見えない宇宙を飛んで、遥か日付変更線の近くに落ちたミサイルについて、このように大騒ぎしているわけですが、世界を見渡すならば、きっと今この時も、目に見えるすぐ頭の上をミサイルが飛び交っていたり、あるいは、自分や愛する人のすぐ近くに実際にミサイルが落ちて負傷をしたり亡くなったりしている人たちがおられるということです。私たちは、そのような人たちの痛みを覚え、平和と安全をともに祈り、平和の器として歩む心を忘れずにいたいと願います。

 

さて、そうした騒動の中でも、私たちは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とおっしゃる主のみことばを心静かに聞く時を過ごしましょう。主のみことばこそが、私たちを堅く立たせてくださいます。たとえ、どんなことがあっても、この世がどんな風になろうとも、なおも私たちがしっかりと立つことができる堅固な永遠の岩の土台として、私たちを支えてくださるからです。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と告げられている通りです。

 

今日も私たちは福音のみことばに聴いてまいりますが、イエスさまが、まず弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。「人の子」とは、イエスさまご自身を表しますので、「みんなはわたしのことをどんな風に言ってるの?」とお尋ねになられたのです。それに対して、彼らは、人々がイエスさまについて言っていることを答えました。「洗礼者ヨハネだと言っている人もいれば、「エリヤ」「エレミヤ」「預言者の一人」だと言っている人もいると。ここで名前が挙がっているだれもが、神さまがもたらしてくださる世の終わりの救いの日に関係のある人たちです。ですので、人々のそうした印象は、神の救いを告げ、ご自身救い主として働かれたイエスさまを表すのに、あながち間違えではないということになります。

 

エスさまは、弟子たちのそうした答えを聞かれて、さらに弟子たちに尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。たいへんドキッとさせられる、ズバッとした問いかけです。最初の「みんなは何て言っている?」という問いかけには、リラックスして、「こういう風に言う人もいれば、ああいう風に言っている人もいます」と、そんな風に答えることができますが、「では、あなたがたはどう思う?」「あなたはどういう風に言うの?」などと問いかけられるならば、私たちは身構えてしまいます。なぜなら、それが、ただ漠然な問いかけというのではなく、本当に真剣な問いかけに聞こえますし、だから私たちも真剣に答えるべきと思うからです。

 

ペトロが弟子たちを代表して答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」「メシア」とは、もともとは油注がれた者という意味ですが、やがて、神さまが世の終わりに遣わされる約束の救い主、キリストという意味を持つようになりました。ですから、ペトロは、イエスさまに「あなたは救い主キリスト、今まさに生きておられる神の御子です」と答えたのです。これは、イエスさまがどんな方であるのかを表すのに、これ以上ない、パーフェクト、100点満点の答えです。ですから、イエスさまも彼におっしゃいます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 

ここで何よりも大切なことは、私たちが、イエスさまがどんな方であるのかを正しく受け止めて、その信仰を告白するのには、それは人間のわざではなく、天の父、すなわち神さまの働きであるということです。周りでみんながあんな風に言っている、こんな風に言っている、本にこう書いてある、音楽や絵画でこう表現されている、これらは信仰への関心を持ったり、あるいは、学んだりそのきっかけとはなるでしょうけれども、でもそこからそれが信仰そのものとなるためには、神さまが私たちに信仰を与えてくださることがどうしても必要なのです。これを別の観点から言うならば、私たちが今、イエスさまをメシア、救い主、キリスト、生ける神の子と信じることができているのは、神さまが私たちに信仰を与えてくださっているからにほかなりません。もちろん一所懸命勉強したり、お祈りしたり、というのは、それは大いになすべきことでしょうし、信仰にとって有益なことでしょう。でも人間的な努力や能力によってではなく、神さまが私たちを導き、信仰を与えてくださるということを、今日ぜひ心に刻みたいと思います。

 

マルティン・ルターは、小教理問答の使徒信条の「わたしは聖霊を信じます」の解説の中で、《私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます。けれども聖霊が、福音によって私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちに私をきよめ、支えてくださることを信じます》と答えています。このように、私たちがイエスさまのもとに導かれ、信じることは、私たち自分の力によってはできないことであり、それは、人間のわざではなく、ただただ、聖霊、つまり神さまのお働きであることが言われています。

 

そして、私たちがそのようにイエスさまに対する信仰を神さまから与えられることは、イエスさまから「あなたは、幸いだ」「幸せだよ」と言っていただけることだということも、ぜひ今日大切に受け止めたいと思います。イエスさまを信じることができることは、もちろん私たちにとって「幸い」、幸せなことであるけれども、ただそのように私たちの側からだけでなく、イエスさまからしても、それは「幸い」なことだということなのです。このように、イエスさまへの信仰をめぐって、私たちもイエスさまもお互いに喜び合うことなのだということは、とても嬉しく感謝なことではないでしょうか。

 

エスさまは続けて、ペトロにおっしゃいます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」、このように、イエスさまは、彼に「ペトロ」という名前をお授けになりました。彼のもともとの名前は、先ほど呼ばれていた「シモン・バルヨナ」というものでした。これは「ヨナの子シメオン」という意味ですが、イエスさまを信じることで、このように全く新しい名前が与えられたのです。「ペトロ」、これは「岩」という意味です。日本的に言うなら「岩男さん」という感じになりますでしょうか。私たちが子どもや孫に名前を付けるときには、何も考えずに名付けるということはしないでしょう。その子がどんな風に育ってほしいのかをよく考えて、その願いを込めて名前を付けます。私の場合は、「真樹」という名前ですが、木のようにまっすぐ育ってほしい、そんな願いが込められていたと親から聞きました。でも実際には、当時はやっていた芸能人の名前でもあったようですがそれは置いておきまして、イエスさまが「シモン・バルヨナ」につけられた「ペトロ」という新しい名前も、きっと彼が岩のような堅い信仰に生きるようにという願いが込められた名前であったのかもしれません。

 

エスさまを信じて新しい名前が与えられる、このことはイエスさまを信じて新しい人として生かされるということ、また新しい使命を帯びて生きていくということも表しています。私たちも、イエスさまを信じる者として、新しい一人として生かされています。「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と聖書が告げている通りです。そして、イエスさまを信じる者として、新しい務めが、私たちには与えられているのです。それは、イエスさまが「わたしの教会」と呼ばれる教会に向けて与えられた務めです。私たちは、イエスさまを信じる者として、イエスさまの教会に招かれており、その教会に与えられた務めを、イエスさまから託されているのです。

 

しかし、ペトロに与えられたこの「岩」という名前ですが、ペトロ本人のことを思うときに、正直、「どうかな?名前負けしてるのではないの?」という思いになります。なぜなら、彼は今日の福音のすぐ後でも、イエスさまから「サタン、引き下がれ」とまで言われてがっつりと叱られています。また、この何週間か前の個所では「信仰の薄い者よ」などと言われていましたし、やがてイエスさまが捕えられた時には、彼はイエスさまのことを「知らない」と三度も言ってしまうし、イエスさまを見捨てて逃げてしまうし、イエスさまが復活なさってもなかなか信じられずにいつまでもうじうじと引き籠っていたし、教会のリーダーになってからも、しっかり立てずにパウロから叱られてしまうし、そんな風になかなか、がんとした堅い岩のような立ち方はできずにいました。むしろあっちに揺れこっちに揺れ、そんなふにゃふにゃだった弱々しい彼の姿に出会うのです。私たちはとても親近感を覚えるわけですが、イエスさまはそんな彼であってもペトロ、と呼びました。そうです。彼自身はそのように弱々しい、ふにゃふにゃな者であったかもしれないけれども、でも、イエスさまが彼を岩として立たせてくださった、イエスさま自身が彼の岩となって導いてくださった。だから、彼はペトロ、岩として、イエスさまを信じ働く、新しい歩みに生かされていくのです。

 

その岩の上に、イエスさまの教会が建てられます。ふにゃふにゃな弱いペトロの上ではなく、その彼を岩として導いてくださるイエスさまの上に、彼を励まし力づけるイエスさまの言葉の上に、教会が建てられます。私たちのこの教会も、イエスさまが「わたしの教会」と呼んでくださるイエスさまの教会であり、そして、弱い吹けばすぐ飛んでしまうような私たちの上ではなく、その私たちを岩として堅く立つことができるよう導いてくださる、岩なるキリストとそのみことばの土台の上に建てられている堅固な教会であることを、今日受け止めたいと思います。「陰府の力もこれに対抗できない」そうした力強さを、イエスさまは教会に与えてくださいます。そうです。死んで、その死に打ち勝って復活なさるイエスさまの教会なのですから、死の力、陰府の力も、イエスさまの教会を脅かすことはできないのです。

 

そして、その教会に与えられている務めについても、イエスさまは続けて語っておられます。「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。教会には、「天の国の鍵」が与えられているのです。それは天の国の門を開く鍵です。天の国の門は、残念ながら、私たち人類が繰り返し犯す重い罪のゆえに、固く閉ざされていました。旧約聖書の創世記で、最初の人アダムとエバが、神さまとの約束を破って、神さまから禁じられていた木の実を採って食べて、エデンの園から追放をされてしまいます。その際に、園の入り口には燃える炎の剣と、神さまから遣わされた天使のようなケルビムが配置されて、もはや誰も入ることができないように固く封印されてしまいました。それと同じように、天の国の門も、神さまとの約束を何度も破った人の罪のゆえに、誰も入れないように固く閉ざされていたのです。でも、その天の国の門を開く鍵が、今、イエスさまから教会に授けられているのです。

 

私たちは、その鍵を開けて、人々を天の国に、そしてイエスさまに「つなぐ」ための務めが与えられています。また、そのために、人々の罪を「解く」務めが私たちに与えられているのです。つまり、人々を天の国に招くように、私たちには、イエスさまから委ねられています。多くの人とともに、天の国を、イエスさまの救いを喜び合うためにです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私たちを導き、信仰を与えてくださり、心から感謝いたします。イエスさまを信じ、新しく生かされ、イエスさまの教会に導かれているものとして、天の国を多くの人と喜び合うことができますように、私たちを導いてください。私たちの真の岩なる救い主イエスさまのお名前よってお祈りいたします。アーメン

 

あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-09-17.mp4 - Google ドライブ

 

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黙想 マタイ16:13~20

マタイによる福音書16章13~20節 黙想

 

13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 

 エスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき=イエスの旅は続く。人々を天の国を告げ、そこに招く旅、そして、そのための十字架と復活へ向けての旅。

フィリポ・カイサリア地方には、他宗教の神殿があった。そうした街の中でイエスは、メシア(救い主・キリスト)、神の子という信仰を告白する出来事。私たちのこの国の中での信仰告白

 

(イエスは、)弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。=まず、イエスは周りの人々がイエスのことをどう思い、どう言っているかを弟子たちに尋ねる。人々が神について、イエスについて、教会について、キリスト教について、どんな印象を持ち、どういう風に思っているか、私たちが知っていることは、その人たちとともに生き、また宣教をする上で有益なことである。

 

弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」洗礼者ヨハネ~人々に救い主の到来を告げた。彼自身もメシアだと思われたが、彼はきっぱりとそれを否定した。

エリヤ~世の終わりの主の日の到来の際にエリヤが再来すると旧約聖書に預言されている(マラキ4:5~6)。洗礼者ヨハネもマラキの再来だと思われた。

エレミヤ~迫害に遭いながらも、自分の命を顧みずに、人々に主の日の到来を告げた預言者。彼の世の終わりに再びこの世に遣わされると、イスラエルの人たちは信じていた。

預言者の一人~神から遣わされ、神の言葉として世の終わりを告げる働き。

このように、このうちのどれもがイエスの働きからすれば、イエスを表すのに、あながち間違えではない。人が言っていること、本が言っていること、絵画が伝えていること、映画が表しているもの・・・それらは、私たちがイエスと出会い、イエスを神の子、救い主という信仰をもつための手引きやきっかけとなる。だから、あまり否定的にそうしたものを受け止めないことも大切ではないか。

 

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」=世の中で、イエスについていろいろ言われる中で、そして私たちもそれを受け止めた上で、エスの言葉を聞き、イエスの癒しをいただき、イエスとともに旅する中で、では、あなたがたは、あなたは、イエスをどう受け止め、どう信じるのか。

信仰とは、誰がどう言っている、何がどう説明しているということからの、では、あなたはどう信じるのかという、キリストからの問いかけに答えていくこと。私なりの言葉での信仰告白

でも、それは同時に、一人きりの告白ではない。この場には、信じる仲間たち、教会の交わりがある。その中での告白。信仰とは個人的なものであり、同時に、共同体的なものである。教会共同体の中で、私なりの告白が与えられていくと捉えるべきか。

 

シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。=ペトロはイエスの問いかけの中で応答する。信仰とは応答である。キリストが問いかけてくださる。その中で応えるのだ。

メシア~キリスト、油注がれた者、世の終わりに遣わされる約束の救い主。

生ける神の子~今も生きて私たちにかかわり続けてくださる、命を与えてくださる神の子。神の御子。御子である神。

 

すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。=信仰の告白をすることは幸いなこと。また、信仰の告白は、私たちの人間的な思いでできるものではない。天的な出来事。神が与えてくださる出来事。

「私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます。けれども聖霊が、福音によって私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちに私をきよめ、支えてくださることを信じます。」(マルティン・ルター「小教理問答」使徒信条の聖霊についての解説)。信仰は自分の理性や能力によってではなく、神の働きによる。

そのことを忘れてはならない。自分の努力でわかったと思ったり、信じている自分を何か優れているように思いあがったりするなら、信仰の歩みは失敗する。今日の後のペトロも同じ(21節以下を参照)。

シモン・バルヨナ~ヨナの子シメオン、彼のひとりのこの世の人としての出自と名前。

 

わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。=前節の名前に対して、ここにイエスによって新たな名前が与えられる。聖書の中で名前は重要。特に新たな名前が与えられるとき、新しい約束と使命を与えられたものとして歩みが始まる。アブラハムヤコブパウロ…。ヨナの子シメオンも「ペトロ」と呼ばれる。彼の新しい使命が与えられた、新しい出発。それはという意味。日本的に言うなら、岩男というような感じか。

しかし、ペトロ自身は、この後にすぐイエスに叱られるように、また、十字架の際にイエスを見捨てて逃げてしまうように、さらには教会の指導者として働いているときにパウロに注意されてしまうように、本当に弱くどうしようもなく優柔不断なもの。彼自身は決して岩のような堅固な者ではない。でも、彼は岩と呼ばれる。なぜなら、そんな弱いどうしようもない彼に、神が信仰を与えてくださるから。彼自身の強さではない。弱くどうしようもない彼を強めたもう神の働きによって、ふにゃふにゃな彼であっても堅固な岩なのだ。私たちも自分を勘違いしてはいけない。私たち自身は、ヨナの子シメオンであり、白井真樹であり、弱く失敗してしまうものであるが、その私を強め導いてくださる方によって岩としての歩みが与えられる。だから自分自身ではなく、誇る者は主を誇れ!

そして、イエスは岩の上に教会を建てる。この岩はペトロのことか。そうであるなら、「あなたの上に」と言えばよい。岩の上に建てられた家の話を思い起こす(マタイ7:24~25)。イエスのみことばを聞いてそれを行う。主のみことばの上に建てられた教会。

その教会に結びあわされるとき、もはや陰府の力(直訳するならその門)も、私たちに勝つことはできない。なぜなら、生ける神の子であるメシアの支配下に私たちが組み入れられるから。《この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」》(1コリント15:54,55)

 

わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。=前節の陰府の力は、陰府の門。それと同じように天の国にも門があるということか。その門の鍵。この鍵は唯一ではなく、複数。イエスを信じ、イエスとともに生き、教会の交わりに生かされる人、みんなにこの鍵が与えられる。

この鍵を持つ役割は、つなぐこと解くこと。教会には、そして、その交わりに入れられている私たちには、人々を天の国につなぎ、人々の罪を解く、その役割、使命が与えられている。また、この「つなぐ」「解く」は当時の宗教的な指導者が用いていた言葉である。彼らは、律法による義務を人々につないだり、解いたりしていたのだ。しかし、今や、そのように律法が人々をしばる時代は終わった。いまやイエスの福音に生かされる教会が、人々を天の国につなぎ、人々の罪を解くのだ。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)

 

それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。=弟子たちへのイエスのまさかの口止め。これは何を意味するのか。なぜなら、イエスはまだ十字架と復活を経ていない。真の信仰はイエスの十字架と復活の中で、そのイエスとともに旅する中で与えられるものだから。だから彼らのイエスとの旅は、なおも続くのだ。そしてその中で、彼らの信仰が少しずつ堅くされて(それでも疑ったり、失敗したりしてしまうのだが…)、イエスをメシア、生ける神の子として宣教する働きへと遣わされるのだ。マタイ28:16~20参照

2017年9月10日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第14主日 2017年9月10日

 

「絶えず祈り続けよ」

(マタイによる福音書15章21~28)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちにとって祈りは、とても大切なことですが、祈りについて学ぶ機会は多くないもしれません。私たちが祈りについて考えて学ぶためによい手引きとして、フォーサイスというイギリスの牧師が書いた「祈りの精神」という本があります。これは今よりおよそ100年も前のものですが、今を生きる私たちが読んでも、とても大切なことが書かれていますので、少し内容から、本文をそのまま引用するのではなく、分かりやすい言葉に言い換えて紹介させていただきますね。

 

フォーサイスは、祈らないことこそが最悪の罪、また最大の罪だと語ります。もちろん世の中にはいろんな罪や犯罪など思わしくないものがあるわけですが、それらすべては信仰者が祈らないことの結果として起こることだというのです。私たちは祈ることでこそ、神さまとの交わりが与えられ、そしてそのことから他の人への関心も与えられ、共に生きる歩みになるのであって、もし私たちが祈らなければ、私たちは孤独になってしまい多くの罪が生まれてくる。ですから、祈らないことこそ、最悪で最大の罪なのです。また、祈らないと、祈ろうとする心も失われ、結果祈れなくなってしまい、霊的に飢えて、信仰者として生きていけなくなってしまいます。

 

さらに彼は、粘り強く祈るということについて語ります。粘り強く祈る中で、神の意向を私たちは変えることができると信じあることが大切なのです。時に神の意志に逆らうように見える祈りであっても、その祈りをすることが逆に神さまの意志に適うことがあるのです。イエスさまが、主の祈りで教えられた「御心がなりますように」という祈りは最も尊い祈りですが、それは私たちが諦めて祈る消極的な祈りなのではなく、本当に真剣に粘り強く祈る中で祈られていく願いなのです。

 

また、不断に絶えざる祈りが大切だと彼は言います。いつも食事をしないと生きていけないように、私たちはいつも祈らなければ信仰者として生きていくことはできない。いつもキリストにあって神と共に生きるため、絶えず祈ることが私たちに必要なのです。祈る気持ちになれないと思うときでも、その時こそ、祈る気持ちにまで祈り続ける。疲れて眠れない時、無理にも横になって静かにしていると、ようやく眠れるようになるのと同じようにです。祈るのが嫌な時には、なお一層祈るのです。神さまは絶えず私たちに関わろうとされているのですから、私たちも絶えず祈るのです。

 

彼は、また祈りの失敗ということについても述べています。なぜ祈りが失敗するのか。それは、私たちが祈りを中止するからです。祈りをやめない限り、その祈りは神さまから決して拒絶されることはありません。祈りが聞かれなかったと言うとき、それは、祈りがもはや過去のもの、終わったものになってしまっているのです。

 

なぜ今日はこうしたお話をしているかと申しますと、今日の福音に登場するこの女性は、まさに彼が語っていることをそのまま生きていると思ったからです。彼女は、イエスさまのもとに赴き、イエスさまに「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と願い出ました。

 

その場所はティルスとシドンの地方で、その女性はカナン人だったことを福音は伝えています。つまり、外国の地の外国人女性、異邦の地の異邦人女性でした。異邦人が、イスラエル人であるイエスさまに助けを求め、さらに異邦人の女性がイスラエルの男性であるイエスさまに話しかけることは、いずれもタブーなことでした。しかし、彼女はそんなことはお構いなしに、ただ一心に娘のことを思って、必死にイエスさまのもとへ赴き、願いを訴え出るのです。

 

「主よ、ダビデの子よ」、彼女はそうイエスさまに向かって叫びます。イエスさまを主と呼び、また、ダビデの子、つまり約束された救い主として受け止めていたのでしょうか。そうだとすれば、彼女は異邦人でありながら、非常に優れた信仰を持っていたことになります。「わたしを憐れんでください」これは、物乞いをしている人が通りがかった人に叫ぶ言葉です。あるいは、奴隷が自分の主人にお願いをする時に言う言葉です。「ご主人様、私にどうか憐れみを!」。ですから本当に自分を低く小さくして叫んでいる彼女の姿を、ここから受け止めることができます。奴隷は主人から憐れみをもらわなければ生きていくことができません。物乞いも通りがかりの人からお金や品物を憐れんでもらわねば生きていけないのです。また、そうした奴隷や物乞いをしていた人は身分的にも最下層な人たちでした。彼女は、そのように自分を最も低い立場において、あなたが憐れんでくださらなければ、私はもうだめなのです、そんなすべての希望をイエスさまに託して謙虚に大胆に「わたしを憐れんでください」と叫ぶのでした。

 

「主よ、憐れんでください」、これは私たちの礼拝の中でも、毎週唱えているキリエの言葉です。私たちは、彼女のように、神さまの前に自分を本当に低く小さくして、あなたの憐れみなしには私は生きていくことができない、そんな思いで「主よ、憐れんでください」と唱えているでしょうか。ただ式文に印刷されている毎週唱える言葉として、あまり深く考えずに唱えているだけということはないでしょうか。「主よ、憐れんでください」というキリエのことばは、実は本当に重みのある切実な言葉なのです。キリエは、罪の告白と赦しの際に用いられます。ですから、神さまの憐れみ深い赦しをいただくことなしに、私はあなたの前に立つことができません。私は生きていくことすらできません。ですから、主よ私を憐れんでください、そんな真剣な祈りであるということを、ぜひ心に刻みたいと思います。

 

彼女の願いは、娘のことでした。娘が「悪霊にひどく苦しめられて」いたのです。これは、きっと誰にも手の施しようもないほど、重い病気であったことを表していると考えられます。悪霊というのですから、原因がわからない、人にはどうもできず、悪霊の仕業にするしかないほど重いものであったのでしょう。きっと、これまでにいろんな医者や癒しの奇跡を行う人に見てもらったけれど、誰一人、どうすることもできなかった。でも、イエスさまなら必ず何とかして助けてくださるはずだと信頼して、彼女はイエスさまに全力で願い出るのです。

 

しかし、イエスさまは彼女に何もお応えにならず、ただ黙っておられました。彼女がどれほど必死に祈り願っても、イエスさまは沈黙なさっていたのです。その理由は後でお話ししますが、彼女はそれでもなおも諦めずイエスさまの後を追い、イエスさまに向かって叫び続けました。それを見かねたイエスさまの弟子たちが、イエスさまに向かって言います。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」彼らのこの言葉から、二つの可能性が考えられます。まず一つは、ただ単純に、彼らが彼女の叫びをうるさく迷惑で、うざく感じて、「どうにかしてください。うるさくてたまりません。黙らせてください。追い払ってください」と言ったという可能性です。もしそうだとしたら、これは何とも残念なことです。目の前に苦しみの叫びをあげている人を見ながら、それを煩わしく思い、黙らせて、なかったことにしようとしているわけですから。

 

でも、私たちはそんな弟子たちを他人事として責めることはできないなと思います。私たちが自分の目の前にいる隣人が傷つき痛みを負って、苦しみの叫びをあげているときに、それにどのように対応しているでしょうか。その叫びを無視したり、無関心であったり、その人を自分たちの交わり、あるいは心の中から追い出そうとしたり、うるさいと言って黙らせようとしたり、そんな姿があるのではないか、そのことを今日の弟子たちの姿から思います。

 

弟子たちのことばから考えられる尚一つの可能性は、ここで弟子たちが「イエスさまなぜ黙っておられるのですか、彼女が叫びながらついてきているではないですか、いつものように彼女を助けて、彼女をここから去らせ解放してください」と願い出たのではないかというものです。伝統的には、そうした解釈もなされてきました。私たちはそんな弟子たちの気持ちもよくわかります。私たちも苦しんでいる人を前にして、「イエスさまどうかこの人を助けてあげてください」という思いになります。その苦しみがあまりに大きかったり、長く続いたりするなら、「なぜイエスさま助けてくださらないのか」そんな思いにもなるのです。

 

エスさまは答えられました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。これは、イエスさまが遣わされた目的が、イスラエルの人たちに救いを告げられるためだという意味です。もちろん、神さまは世界中のすべての人をお救いになられるために、イエスさまをこの世にお遣わしになりました。でも、イエスさまご自身は、まずイスラエルの人に救いを告げ、そしてやがてイエスさまが十字架にかかり亡くなられて復活し天に帰られた後に、弟子たちに聖霊が降り、彼らの働きにより、その救いがイスラエルから異邦人へ、世界中へと宣べ伝えられる、これが神の救いの計画であったと考えられます。ですから、イエスさまは、まず自分はイスラエルの人に救いを告げるという使命を受け止めておられたのでしょう。でもきっとイエスさまにとって、この彼女の心の叫びは痛いほどによくその苦しみが分かったと思います。ですから、きっとそうした彼女を思う痛みをもって、でも自分はイスラエルの人の救いのために遣わされたのだと、自分に向かって、言い聞かせたのではないでしょうか。

 

しかし、彼女はめげません。なおもイエスさまにひれ伏して自分を小さくして願い出ます。「主よ、どうかお助けください」。彼女は娘のために退くことはできないのです。そして、イエスさまは必ず願いを聞いてくださると信頼していました。でもイエスさまの答えは尚も実に釣れないものでした。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。ここで「子供たち」とは、イスラエルの人たちを表します。そして「小犬」とは、イスラエルの人たちが異邦人のことをたぶんに侮辱して「犬」と呼んでいたのです。ですから、イスラエルの人たちのための救いを彼らから奪って、異邦人にあげるわけにはいかないという意味のことを、イエスさまはここでおっしゃったのです。イエスさま、なんと酷いことをおっしゃるのだろうと思われるかもしれません。でも私はきっと、イエスさまだってきっと何とかしたかった、でも自分が神さまから与えられている務めを考えるなら、今の私にはどうすることもできないんだ、そうした悲しみと苛立ちの中で語られた言葉ではないかと思っています。

 

でも彼女は、ここでなおも一歩も引かず、イエスさまに言うのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」たくましい限りです。どんなに辛い状況でも、なおも諦めず、しかもユーモアを捨てずに生きている彼女の姿を思います。「イエスさま、おっしゃる通りです。私たちはあなたの前に小さな、また取るに足りない、汚れた小犬にすぎません、でもそんな私たちにもあなたは恵み深いお方です。あなたの恵みのほんの一かけらでもよいですから、私にください。それで充分です。」そう彼女はここで答えます。自分の小ささ、本来ならふさわしくないものであることを認めた上で、なおも謙虚にかつ大胆にイエスさまに助けを求めて願い出るのでした。イエスさまは答えられます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そして、その時、彼女の娘はいやされたのです。ついに彼女の願い通りになるのでした。

 

必死に諦めず、イエスさまの助けを信じて願い続けた彼女の姿を思います。イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とおっしゃいました。これは「求め続けなさい、捜し続けなさい、門を叩き続けなさい」という意味です。祈りをやめてしまわない、中止しない姿勢を、私たちは彼女から知らされます。イエスさまは必ず助けてくださる、必ず恵みを与えてくださる、そのことを信頼して祈り続けた彼女の姿に学びたいと思います。

 

また、イエスさまは、彼女の苦しみの叫びを聴き、当初の計画を変更し、超えられない壁を乗り越えてくださいました。ご自分の計画と凝り固まって動かれるのでなく、私たちの心の叫びをしっかりと聞き、今ここでの私に何が必要なのか考えて実行してくださるお方を信頼し、謙虚にかつ大胆に祈り続ける者でありたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

神さま、御子イエスさまが私たちの心の叫びを聴き、答えてくださることを感謝します。どうか私たちが祈りを途中で中止してやめることなく、信頼して、謙虚に、そして大胆に祈り続けることができますように導いてください。本来なら御前にふさわしくないこの私を招き導き顧みてくださることを心より感謝いたします。イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画:

2017-09-10.mp4 - Google ドライブ

 いつも録画に使っているiPhoneの調子が悪く、礼拝中の録画はできませんでしたので、改めて執務室で撮り直したものをアップしました。

 

http://cdn.higherthings.org.s3.amazonaws.com/imgs/uploads/myht/lectionary/christ_canaanite_woman.jpg

 

黙想 マタイ15:21~28

マタイによる福音書15章21~28 黙想

 

21エスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24エスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26エスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 

エスは、「ティルスとシドンの地方」に行かれる。そこは、異邦人の地だ。

そこに暮らす、一人の「カナン人」の女性(彼女ももちろん異邦人!)が、娘のことで、イエスに願い出る。

彼女は、イエスを「主」と呼び、「ダビデの子」(約束のメシア、救い主)と呼ぶ。彼女のイエスへの信頼の深さ。

「わたしを憐れんでください」=物乞いが通りがかりの人に言う言葉だ。「ご主人様、わたしに憐れみを!」。それぐらい自分を低く、その行く先を、すべてイエスに委ねている彼女の姿。もし、あなたが憐れんでくださらなければ、わたしにもう先はもうない的な、必死な訴え。私たちのキリエは、どういう思いで願っているか。これほどの必死さを持って祈っているだろうか。

「娘が悪霊にひどく苦しめられています」。彼女の必死な願いは、自分自身のことではなく、自分の娘のこと。いや、自分の娘の苦しみを、わがこととして苦しまれる母親の姿。悪霊にひどく苦しめられている=人にはどうしようもできない、人の手の届かない、そうした重い病の状態

エスはそこで何も答えられない。苦しみの中の叫びでの、イエスの沈黙。

弟子たちは、彼女を黙らせようとする。イエスに従ってきながら、目の前にいる人の痛みを煩わしく思い、それをなかったことにして、黙らせようとする彼らの姿か。

私たちはどうだろうか。私たちもイエスに従うもの、イエスとともに歩むもの。けれど、目の前にいる傷つく隣人の痛みの叫びをどのように受け止め、どのように対応しているだろうか。無視したり、無関心であったり、聞いて聞かないふりをしたり、追い出そうとしたり、無理やり黙らせようとしたり、そうした側面があるのではないか?

あるいは、ここでの弟子たちの訴えは、彼女を助けないイエスに対する、弟子たちの不思議な思い、あるいは苛立ちを表しているのか。「なぜイエスさまは彼女をすぐに助けてくださらないのか」、「イエスさまなら助けてくださるはずではないか」、「イエスさまどうにかしてください。彼女の問題を解決してあげてください。」これまた、私たちの姿だ。私たちもまた、人々の、また世界の痛みを観て、イエスに対してそうした思いになるものだ。

「イエスは・・・お答えになった」。だれにか?彼女に?弟子たちに?ご自身に?原文を見る限り、これはわからない。ただ「イエスは答えた」だけ。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。イエスは自分にそう言い聞かせているのだろうか。

神の救いの秩序。まずはイスラエルから、そして、異邦人へ。今はイスラエルの救いの時、そして、自分の十字架、復活、昇天、その後に弟子たちに聖霊が降り、全世界に幅員が伝えられる。そのようにイエスは、神の救いの計画を受け止めていたのかもしれない。

でもそうであったとしても、彼女の叫びはイエスの心を揺さぶっていたのだろう。どうにかしたいけど、今はできないのだ。そうしたイエスのディレンマを感じる。

これは教会が抱えるディレンマと重なるかもしれない。なずべき務めが多くある。さらに多くの課題が私たちの周りには少なくない。そうした中で、なかなか踏み込めず、着手できないことも多い。自分自身にその現実を言い聞かせなければならないのだ。

しかし、彼女はあきらめずに、イエスの前にひれ伏して、「主よ、どうかお助けください」と願い出る。信仰とは、このように、謙虚で、かつ大胆なものだ。

エスはなおも彼女に向って、自分は彼女を助けることができない旨を伝える。「子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。イスラエルの人たちは、異邦人のことを侮蔑的に「犬」と呼んでいた。だからこれは、神の子どもであるイスラエルの人の救いを取り上げて、小犬である異邦人を救うことはできないという意味であろう。なかんか越えられない大きな壁がある。

でも彼女はなおもイエスに向かって言う。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。自分を神の前に小さな取るに足らない小犬であると認め、そうであっても、神は恵みを与えてくださるお方であって、その恵みからこぼり落ちる、ほんのちょっとのかけらでも、もうそれで私にとっては十分であるという、彼女の信仰告白

エスは、彼女の願いを受け止められ、また、その信仰を称賛される。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」

エスがみことばを語られたまさにそのとき、彼女の娘は癒される。

 

最初、イエスは、イスラエルの人の救いの優先を理由に、彼女の訴えを退けられた。でも、彼女の必死な思いとイエスへの信頼ゆえに、イエスの心を動かし、最終的には彼女の願いの通り、彼女の娘はイエスによって癒された。

必死に願う。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」求め続ける、探し続ける、たたき続ける。祈りを「過ぎ去った過去のもの」としない。信頼して継続する祈りを。「祈りは聞かれなかった」というのは、その祈りをもはや止めて過去のものにしてしまっていること。

彼女のイエスへの返答。必死さの中での心も余裕。ユーモアを忘れない生き方。

自分を神の前に小さなものと受け止める姿勢。本来、神の救いにふさわしくない存在であることを受け止める。でもそうした私であっても、なおも恵みを与え、救ってくださるイエス

恵みは、見た目の大小にはよらない。主が顧みてくださる。それで十分。人から見たらほんの小さな取るに足らないようなものかもしれない。でも、それでも私にとっては、かけがえのない尊い恵み。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。イエスは5つのパンと二匹の魚で、五千人以上を満腹させることができるお方。水を良質のぶどう酒に変えられるお方。見た目で恵みは判断できない。

神、そしてイエスは、人の苦しみの叫びによって、ご自分の計画を発展的に変更なさるお方である。アブラハム、ヨナ書でのニネベの人たち、などなど。

ここでもイエスは、一人の女性の必死な叫びにより、イスラエル人だけの救いから異邦人への救いへと、計画を変更なさった。それが異邦人へのかかわりのきっかけとなる。開かれた心、開かれた姿勢。自己完結しない使命。

私たちの教会、私たちの歩みも、隣人の痛みの叫びを聞き、それによって軌道修正、計画変更することの大切さを受け止めたい。

みことばこそ癒し、みことばこそ奇跡。

 

 

2017年9月3日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第13主日 2017年9月2日

 

「荒波を超えて」

(マタイによる福音書14章22~33)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日のみことばも、先週に引き続き、イエスさまのなさった奇跡を伝えています。先週もお話ししましたが、私たちが聖書の中のそうした不思議な奇跡の出来事を聞くとき、それが本当なのか、そうではないのかということに拘るのではなく、イエスさまは、今日、この出来事を通して、一体、私たちにどんなことを語りかけてくださっているのか、そして、私たちはそれを聞いて、どのようにイエスさまに従っていくのかということを大切に受け止めたいと思います。

 

今日のみことばは、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸へ先へ行かせ」と伝えることから始まっています。イエスさまは、5千人以上の人たちをたった5つのパンとわずか二匹の魚で養われた出来事のすぐ後、弟子たちと離れられて、再び一人の時間を過ごされます。それは、お祈りをなさるためでした。「夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とある通り、それなりの長い時間だったと考えられます。イエスさまは、先週もお話ししましたが、きっと洗礼者ヨハネの死を悼み、また、イエスさまの周りに集まってきた一人ひとりの痛みを覚えながら、そして、彼らだけで船旅に出かけた、弟子たちの歩みとその働きのために、心を込めて祈られたことでしょう。

 

今日はまず、このことから、私たちの歩みと働きは、イエスさまの祈りの中にあるということを受け止めたいのです。イエスさまは、私たちのために祈ってくださっています。私たちは、決して、自分自身の力で歩んだり、働いたりしているのではありません。私たちは、イエスさまの祈りに包まれて、力を与えられ、支えられて、歩み働いているのです。イエスさまは、弟子たちをただ彼らだけで無理やり向こう岸へ行かせて、後はもう「我関せず」というのではなく、ここで彼らのために祈っておられたことでしょう。そして、私たちのためにも、イエスさまは祈ってくださり、しっかりと私たちを見守っていてくださることを、きょう初めに受け止めたいと思います。

 

さて、今日のみことばは、弟子たちの船旅を伝えています。初めにお話ししましたように、イエスさまは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」られました。「向こう岸へ」という言葉は、とても印象深い言葉です。弟子たちの信仰の歩みが、今、「向こう岸へ」と、つまり、新たな場所、新たな次のステップへと向かっていく、イエスさまがそこへ向けて、彼らのことを送り出されるのです。船は、昔からキリストの教会のシンボルとされてきました。船の形で建てられている教会堂も少なくありません。また現在も、世界教会協議会という世界的なキリスト教の教派を超えた交わりの組織のシンボルとして船が用いられています。このように、イエスさまを信じ、イエスさまに従う者たちの交わりであるキリストの教会は、この世界を旅する舟にたとえられてきたのです。そして、また私たち一人ひとりの人生の歩み、また信仰の歩みも、船旅にたとえることができます。私たちは地上に産声を上げてから、この世の生涯を終え、神のみもとに召されるその日まで、人生の船旅、信仰の船旅をしていると言えましょう。そして、イエスさまは、そのように船旅をする、弟子たちを、教会を、そして私たちを、向こう岸へ、新たな場所、新たな次のステップへ送り出されるのです。

 

しかし、その船旅に、嵐が起こります。思いもかけない嵐が、突然、私たちを、そしてキリストの教会を襲うことがあります。思ってもみなかった出来事が、ある日突然降りかかるのです。それが出発して間もなくであれば、船が出かけた場所に戻ることもできたでしょう。しかし、「船は既に陸から何スタディオンか離れて」いました。ですから、もはや後には戻れません。かと言って、前にも進むこともできない状態です。弟子たちはそこで立往生してしまうのです。教会の船旅、私たちの船旅も、襲い来る嵐の逆風と荒波によって、もはや戻ることもできずに、かと言って、前に進むこともできない、そうした困難や危機的な状況に立ち往生してしまうことがあります。

 

しかし、どんなに大変な中にあっても、必ず夜明けが訪れます。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」。そうです。弟子たちのもとに、私たちのもとに、イエスさまがおいでになることによって夜明けがもたらされるのです。イエスさまが恐れと不安の暗闇を打ち破って、新たな夜明けの、朝の光を、私たちに届けてくださいます。

 

その際に、イエスさまは、「湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」と、みことばは伝えています。イエスさまは、神さまだから、その神さまパワーを存分に発揮して、あたかもスーパーマンウルトラマンのように、空をビュンと飛んで来られたらよいのに、そうされませんでした。あるいは、ドラえもんのように、どこでもドアを使って、シュッと瞬間移動なさったわけでもありません。イエスさまは、湖を歩いて彼らのもとへと来られます。このことは、イエスさまにとっても、決して楽ではなかったことでしょう。強い風がそこに吹いているのですから。大きな波も起きていたことでしょう。イエスさまは、その中を歩いて彼らのもとへおいでになります。そうです。イエスさまもまた、襲い来る嵐に苦しまれながら、弟子たちのもとへおいでになるのです。イエスさまは逆風に立ち向かい、荒波を乗り越えて、大変な思いをして弟子たちのもとにおいでになります。このことは、イエスさまにも、とても困難なことだったでしょう。

 

エスさまは、そのように、たとえご自分が困難や苦しみを引き受けられることになったとしても、ご自分を信じ、ご自分に従う弟子たち、私たちのことを助けられます。決して苦しみの中に信じる者を放っておかれないのです。ここに、私たちは、苦難のしもべ、十字架の救い主の姿を受け止めます。たとえ、自分が苦しんでも、自分の命が脅かされても、いや、実際にご自分の命を失うことになっても、苦しみの中にある私たちを必ず助けにいらしてくださる救い主です。時として、私たちは、イエスさまのことが見えなくなってしまいます。イエスさまが苦しみの中で何もしてくださらないとそんな思いになることもあります。でも、イエスさまはご自分に従う者たちを決して見捨てることはありません。ご自分が苦しみ、命を失っても、私たちを見守り、助けてくださるお方であることを、私たちは今日知ることができます。

 

しかし、イエスさまがそのようにすぐそこにおいでになったのに、残念ながら、弟子たちはそれに気づくことができません。イエスさまが今彼らのために働こうと、すぐ近くにいらしてくださっているのに、それに気づくことができず、彼らは、むしろ恐れてしまうのです。この彼らの姿は、まさしく私たちの姿です。イエスさまが私たちを助けるため、すぐそばまでいらしてくださっているのに、私たちはそれに気づけず、恐れ、慌てふためき、叫んでしまう。弟子たちは、すぐそこにいてくださるイエスさまに「幽霊だ」と叫びましたが、私たちも、イエスさまがすぐそこにいて、働きかけてくださっているのに、それを受け止めることができず、起こりもしないことに、不安になり、恐れてしまうのです。

 

でも、イエスさまは、そんな彼らに、また、私たちに「すぐ」話しかけられます。もしかしたら、私たちから見るなら、イエスさまは長い時間沈黙しているようにしか思えないかもしれません。イエスさまの御声が長い間聞こえてこないかもしれません。でも、イエスさまの時と、私たちの時は違うということを、今日私たちは受け止めたいと思います。イエスさまは、私たちにとって本当に必要な、ギリギリのその最善の時に、「すぐ」私たちに、みことばを話しかけてくださるのです。

 

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、イエスさまはそう、はっきりと力強くおっしゃいました。たとえ私たちの周りでどんなことが起こっていても、イエスさまが私たちのもとにいらしてくださるその時、真の安心、平安がもたらされます。イエスさまは、「わたしだ」とおっしゃいました。これは、とても強い意味を持つ言葉です。旧約聖書出エジプト記で、モーセが、神さまに名前を尋ねたとき、神さまは「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えられました。これは、「有って有る者」と日本語にされることもあります。イエスさまの「わたしだ」というのは、この「わたしはある」と同じ言葉です。つまり、イエスさまは、ここで神としての権威によって、お話しされるのです。また、「わたしはある」これは、必ずたしかにおられる、存在なさるという意味です。つまり、私たちの周りから何が失われても、どんなことが起ころうとも、「わたしはたしかにある」「わたしこそが必ずいる」イエスさまは、神として、そう告げられるのです。このように、神であるイエスさまが、今、私たちのために、苦しみと困難を引き受けて、私のもとにたしかにいらしてくださり、私を助けてくださる。だからもう「恐れることはない」と、イエスさまはおっしゃいます。恐れは、このお方によって、私たちから取り除かれるのです。恐れはこのお方の前に今や敗北するしかありません。

 

ペトロは、イエスさまの助けをいただき、荒波の中、逆風に逆らって、新たな一歩を歩み出そうとします。そして、イエスさまの言葉に従って、彼が一歩を歩み出した時に、それが可能となりました。一歩、二歩と、彼は湖の上を歩みを進めます。けれども、そのように歩む中で、彼は自分に向かって吹いている強い風に心を奪われました。そのとき、再び彼の心は恐れに支配され、もう前に進むことができなくなり、溺れかけてしまいます。イエスさまの言葉に従って、ただ一心にイエスさまを見つめているときは前に進むことができましたが、その中で、イエスさまの言葉や助けを忘れ、逆風や荒波を見て、自分自身の力に頼ろうとするとき、もはや前には進めなくなり、溺れかけてしまう。弱さや傲慢さを抱えている私たちの姿を、このペトロの姿から思います。

 

そんなペトロ、そして私たちに、イエスさまは手を伸ばされます。そして、その手をしっかりと捕まえてくださるのです。私たちを捕えたもう力強く、また優しい主の御手。このイエスさまの御手に捕らえられてこそ、私たちは歩むことができます。イエスさまは、しっかり私たちの手を握っていてくださいます。イエスさまを信じ、イエスさまに従う歩みの中で、私たちは、何度も失敗を繰り返し、それゆえに、たまに、いや、いつも、イエスさまに叱られてしまうかもしれません。でも、それでもなお、イエスさまは何度でも何度でも、そのたびに私に向かって、手を伸ばし、しっかりと私を捕えてくださるのです。

 

小さな子どもの手を離すなら、その子は、すぐにどこかに行ってしまいます。そして、転んだり、水たまりの中に入ってしまったり、けがをしてしまったりするのです。そのたびに、その子どもの親や先生方は、「大丈夫?」と優しく声をかけたり、「手を離したら、こうなっちゃうんだから、ちゃんと手つないでいてね」と言い聞かせたり、さらには「だから離しちゃダメって言ったでしょ!」と、ついにはブチ切れて怒ったりします。そのように子どもを慰めたり、励ましたり、叱ったりしながら、でも、そのたびにまた子どもの手を取り、しっかりと握って歩む、その中で子どもの中に、「私は大丈夫」、「私は生きていていいんだ」という自信や基本的な信頼感が生まれてきます。私たちとイエスさまの関係も、これと同じです。

 

エスさまはペトロの手を取りながら、船に乗られます。その時、嵐は収まりました。弱さを抱え、失敗を繰り返してしまう私たち。でも、イエスさまがそんな私たちの手を取って、人生の舟、教会の舟に乗ってくださる。その時、私たちに起こっている嵐も静まります。

 

弟子たちは、そのイエスさまに驚いて、さんびして、「本当に、あなたは神の子です」と言って、イエスさまを礼拝しました。私たちのために祈ってくださるイエスさま、私たちのためにご自分の身に困難や苦しみを引き受け、命すら惜しまず、私たちを助けにいらしてくださるイエスさま。私たちにみことばを力強く語って励ましてくださるイエスさま。弱い私たちのために手を伸ばし、しっかりと捕まえていてくださるイエスさま。私たちの、また、教会の船旅に乗り込んで嵐を静めてくださるイエスさま。このお方が、本当の神の子として、私たちとともにおられ、私たちとともに旅をしてくださっています。だから、私たちは安心して向こう岸へ、新たなステップへ向けて渡ることができるのです。

 

「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」!ハレルヤ!アーメン!

 

主よ、私たちを導いてください。

 

いろんな嵐が私たちと教会の歩みの中で起こり、その中で慌てふためていしまう私です。御子イエスさまが私を助けにいらしてくださっても、そのことに気づけず、なおも大騒ぎしてしまっています。でもその私たちに、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃって、手を差し伸べ助けてくださる御子の深い愛を感謝します。どうか、みことばを信じ、みことばに従って、向こう岸に向かって一歩一歩旅することができますように私たちを導いてください。私たちのために祈ってくださり、また私たちのために苦しむを引き受け、命すら惜しまれなかった、救い主イエスさまによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-09-03.mp4 - Google ドライブ

 

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9月1日

今日は9月1日。

1923年の今日 関東大震災が起こり、10万人を超える方々が亡くなりました。

この震災と、またこの日には統計上、台風が襲来するのが多いということで、9月1日は、防災の日と位置づけられています。

私たちは、この日、もうひとつ忘れてはならない出来事があります。

関東大震災の起こった日、その日も風の強い日だったようです。ですので、各地で大火事が発生し、それが被害が拡大する要因となりました。

その際に、「朝鮮人が火をつけて歩いている」とか、「朝鮮人が井戸の中に毒を入れ廻っている」とか、「朝鮮人による暴動が起こった」とか、そうした謂われなきデマが広まり、それによって、大勢の朝鮮人が日本において虐殺されたのです。そのことで犠牲となったのは、八百人もしくは数千人を超えるとも言われます。

その際に、朝鮮人と間違えて殺された日本人や中国人もいたとのことです。(その中には、言葉を話せない障がいの方々が、「日本語を話せないから、あいつは朝鮮人だ」と誤認されて殺された人たちもいたそうです。)

「デマに基づき」と書きましたが、ただデマだけでなく、政府当局が「朝鮮人の暴動に気をつけるように」という通達を警察に出して、それも虐殺のきっかけとなったそうです。

当時のマスコミも、この通達やデマをもとに、朝鮮人が暴動を起こしたという、事実と異なる記事を書き、これまた、この事件をより大きなものとする要因となり、またこうした嘘の「記事」を根拠にして、虐殺を否定する人たちが近年出てきています。

一般市民たちが「自警団」を組織して、朝鮮人を虐殺することを、当局側や自治体は黙認をしました。ただ朝鮮人であると言うだけで、殺されることが許され、また奨励されたのです。

これは、決して繰り返されてはならない残酷な事件であり、それゆえ決して忘れてはならず、歴史の記憶と記録を継承していかねばならない出来事です。

その意味で今回、東京都知事や一部の区長が、この虐殺への追悼文を出さなかったことは大きな問題なのです。しかも、都や区は、この虐殺の加害者でもあるのに。

この事件から、現代の私たちが受け止めるべく教訓は、まずは、情報の受容についてです。

自分のもとに届く情報を、精査また吟味しつつしつつ受容しなければなりません。この情報は正しいのか、あるいはデマなのか。特に、ネット社会の現代、このメディアリテラシーはとても大切なことです。

また、メディアの側の問題です。政府当局の言いなりの情報に基づき、記事を作ったことが、この虐殺の大きな要因となりました。政府の伝える情報を批判的に受け止めて、自らの取材に基づき、真実を報道する姿勢が必要です。現在の日本のマスコミは、どうでしょうか。大いに不安を覚えます。

もう一つは、民族差別やヘイトスピーチを許さないことです。朝鮮人に対する日頃からの差別や偏見、排外思想がこの悲惨な事件に繋がりました。私たちは、同じ過ちを犯してはなりません。

「ちょんころ(朝鮮人)殺してやる」「良い韓国人も悪い韓国人も殺せ」これは昔に言われた言葉ではありません(昔も言われていたでしょうが)。これは、現代のヘイトスピーチで実際に言われている言葉です。こんな言葉を、言論の自由などと言って、認めてはなりません。

これは、言論の自由に基づく発言ではなく、殺害予告であり、脅迫罪であり、明らかな人権侵害です。こうした思想や発言が、いざと言う時に、信じられないような動きになっしまうのでしょう。

ヘイトスピーチを許さない、民族差別を許さない、共に生きる社会を目指す、そのために努めたいと思います。

三国人、外国人が犯罪を多く犯す…治安維持を頼む」と言ったことを、かつて石原都知事(当時)は、自衛隊に対して述べました。こうした思想を持ちつつあるこの国であることを危惧しますし、そのように公的な立場の人たちによる差別やヘイトスピーチがなされ、その人がその後も職務を継続することができる国であることを恐ろしく思います。

この国には、いろんなルーツを持つ人たちが共に暮らしているということも忘れずにいたいですね。

また、当時の虐殺は、みな「お国のために」という思いを持って、自分たちは大切なことをしているとの意識の中でなされたものです。ですので、こうした誤った「愛国心」もまた大いに危険であることを、私たちは受け止めておきたいと思います