yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年6月4日 礼拝メッセージ 聖霊降臨祭

聖霊降臨祭 2017年6月4日

 

「いのちを与える聖霊

(使徒言行録2:1~21・ヨハネ福音書7:37~39)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日は、聖霊降臨祭です。この聖霊降臨祭は、イエスさまのお誕生を祝う降誕祭・クリスマスと、イエスさまのご復活を祝う復活祭・イースターとともに、キリスト教会にとって最も大切な3つのお祭りの一つに位置付けられます。また、私たちがイエスさまのご復活をお祝いしながら今まで過ごしてきた復活節、イースターの季節の締めくくり、その総仕上げ的な位置づけもなされます。

 

この聖霊降臨祭を、「ペンテコステ」とも呼びますね。「ペンテコステ」は、「50」を意味するギリシア語です。何から50かと申しますと、ユダヤ教の過ぎ越しの祭から50日です。今日の第二朗読の使徒言行録に、「五旬祭という言葉がありましたが、これは過越祭から50日を記念して祝われるユダヤ教のお祭りで、作物の収穫を喜び祝う祭りで、ギリシア語ではそれを「ペンテコステ」と呼んだのです。その五旬祭ペンテコステの日に、弟子たちに聖霊が降り、多くの信徒たちが生まれたため、聖霊降臨祭をペンテコステと呼びます。弟子たちの宣教の実りとして多くの信徒が与えられた、実に、収穫のお祭りの日にふさわしい出来事が、この日に起こったわけですね。

 

それとともに、もう一つ、私たちが覚えておきたいことは、今日、聖霊降臨祭・ペンテコステは、イエスさまのご復活、イースターの日から数えて50日目にあたるということです。その日に、弟子たちに聖霊が降り、多くの信仰者が与えられました。ユダヤ教の五旬祭の日に聖霊が降ったというのと、ご復活、イースターから50日目に聖霊が降ったという二つの意味で、ペンテコステなのです。

 

初めに、聖霊降臨祭・ペンテコステは、降誕祭・クリスマス、復活祭・イースターとともに、キリスト教会にとって最も大きなお祭りの一つであると申しました。しかし、クリスマスやイースターと比べると、ペンテコステは、教会での扱いが小さいと申しましょうか、影が薄いと申しましょうか、そんな現実があります。聖霊降臨祭は、あまり大々的に祝われず、ただ礼拝をして、それで終わりという教会が多いのです。私は、これはとても残念だと思います。なぜなら、イエスさまの弟子たちに聖霊が降った、この出来事は、たいへん大きな、とても大事な出来事だからです。イエスさまの弟子たちに聖霊が降ったからこそ、彼らが大胆にイエスさまの救いの福音を宣教するようになって、それを聞いていた人たちもまた聖霊の導きによって、弟子たちが語る宣教のメッセージを受け止め、受け入れ、信じて洗礼を受ける決断へと導かれたのです。そのことにより、イエスさまを信じる者たちの交わり、その群れ、つまりキリストの教会が、このペンテコステの日から誕生しました。ですから、聖霊降臨祭・ペンテコステは、「教会の誕生日」としても位置付けられます。また、その後もずっと、イエスさまを宣べ伝える者たちは、聖霊の導きの中で、大胆に福音を伝え、それを聞いた人たちも聖霊の導きによって救いの信仰に導かれてきました。そのようにして、世界中で福音が告げ知らされるようになり、世界中で信仰者が起こされるようになって、世界中に教会が建てられたのです。さらには、場所を超えて、時代を超えて、現代の私たちの教会にも、聖霊が降り、聖霊の導きによって、福音を宣べ伝えていることができているわけですし、また私たち自身にも聖霊が降り、聖霊の導きにより神さまを信じる信仰が与えられています。

 

マルティン・ルターは、小教理問答書で私たちが毎週礼拝の中で信仰告白として唱える「使徒信条」の解説の中で、「わたしは聖霊を信じます」という告白の解説として、次のように語っています。「私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます。けれども聖霊が、福音によって私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちに私をきよめ、支えてくださることを信じます。」このように、私たちが自分ではイエスさまを信じることができないのはもちろんのこと、イエスさまのみもとに来ることすらできないのだけれども、そんな私たちを、聖霊がイエスさまのみもとに導き、福音を語りかけ、信仰を与えてくださる、そして聖霊が、私の信仰の歩みを支えてくださると、ルターは、聖霊についての自分の信仰を説明します。このように、聖霊降臨の出来事は、今から2千年前のイエスさまの直弟子たちにとってだけでなく、今日の私たちの信仰にとっても、とても大きな、大切なものなのです。なぜなら、聖霊なしでは、教会もないし、私たちの信仰もないのですから。あの聖霊降臨の日から、今までずっと聖霊の働きが続いています。今日の第二朗読の使徒言行録に、「突然激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」とありますが、聖霊「風」にたとえられます。イエスさまも、「風は思いのままに吹く」と神さまの聖霊について風をたとえにお話しされたことがありました。まさに、聖霊の風に押し出されて、弟子たち、また代々の福音を宣べ伝える者たちはその働きへと送り出され、また、すべての信仰者もまた聖霊の風に押し出されて信仰に導かれてきたのです。

 

ですから、クリスマスやイースターとともに、聖霊降臨祭・ペンテコステも、教会の中で、もっと大切に祝われてほしいと願っています。その試みとして、聖霊が炎の舌のように降ったと今日のみことばにあることを覚えて、ペンテコステに火を起こしてバーベキューを行う教会もあります。私が仕えていた旭川教会でも何年か前から、ペンテコステを覚えて、炭火を起こして、ジンギスカンをしています。その名も「炎のジンギスカン」でした。あるいは、ペンテコステに、炎のような舌として聖霊が降ったことを覚えるために、ペンテコステの礼拝には、みんな何か赤いものを身に着けてくるようにしようという教会もあります。赤い服を着たり、赤いショールをつけたりです。私も今日このように赤い式服を着ていますし、式服の中の牧師シャツも今日は赤いものを着用しています。炎の絵を描いたワッペンを作ってみんな胸につけるという教会もあるようです。ほかには、今日の使徒言行録で、弟子たちが、いろんな国の言葉で福音のメッセージを語ったことを覚え、今日の礼拝の聖書のみことばを、いろんな国の言葉で読むという試みをしている教会もあります。このように、聖霊降臨祭・ペンテコステを少しでも意義深く、喜び豊かに過ごそうと願ってなされる試みは、とてもよいことだなと思います。

 

ですので、私たちの教会でも、今日の聖霊降臨祭を意義深く、喜び豊かにみなさんとご一緒にお祝いしたいなと考えて、ささやかですが、お土産を用意させていただきました。鎌倉名物の鳩サブレーです。なぜ、聖霊降臨祭に、鳩サブレーなのか。意味があります。聖書に、聖霊が鳩のように降ったと伝えられているところがあり、カードにもあるように、聖霊のシンボルとして鳩の絵が描かれるためです。今日は、ぜひこの鳩サブレーを食べて、私にも聖霊が降り、私のうちに聖霊がおられるということを受け止めて、一緒に聖霊降臨・ペンテコステを喜び感謝してお祝いできればと思います。

 

さて、今日の福音書では、イエスさまがユダヤ教の仮庵祭というお祭りに参加された時のことが伝えられています。この仮庵祭は、かつてイスラエルの民が、エジプトでの奴隷の苦しみにあったとき、神さまによって救い出されて、その後、神さまの導きの中を、仮庵、仮の住まいで、小屋やテントでの生活をしながら、荒れ野を旅して、神さまが与えてくださる約束の地に入ることができたことを思い起こし、感謝するお祭りでした。そのお祭りで、水が大切な役割を果たしました。イスラエルの民が荒れ野を旅していたとき、そこは乾燥していて、水を得ることがなかなかできませんでした。そうした中で、彼らのリーダー、モーセが杖で岩を打ったら、神さまがその岩から水を湧き出させてくださったのです。彼らはその水を飲んで生き長らえて、旅の元気も与えられました。そのことを思い起こすため、仮庵祭では、池から水を汲んで運び、そして神殿に注ぐ儀式が行われました。そのことを通して、神さまが水を与えてくださり、命をつないでくださったことをみんなで喜び、感謝したのです。

 

その仮庵の祭りの最終日、クライマックスの日に、イエスさまは、「立ち上がって大声で」、祭りに集まってきた人たちに向かって力強くおっしゃいました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イスラエルの民が出エジプトの際に荒れ野の旅路で、神さまから与えられた水を飲んで生きながらえたように、イエスさまは、わたしがあなたがたに命の水を与え、あなたがたを生かすと告げられるのです。

 

「渇いている人はだれでも」です。そこには何の例外はありません。たとえ、今までどんな歩みをしてこようが、そして人からどう思われ、自分で自分のことをどう思っていようが、そんなことを理由に取りこぼされることなく、だれであっても招かれているのです。たとえみんなが「あいつはダメだ」と言っていても、その人ももちろん招かれているし、自分で「私にはそんな資格がない」と思っても、その人も招かれています。人生に渇きを覚えている人、愛に渇きを覚えている人、真理に渇きを覚えている人、何の潤いを見いだせない人、だれでも、例外なく、みんな、わたしのもとに来なさい、そして、命の水を飲みなさいと、イエスさまはおっしゃいます。さあ、わたしのもとに来て生きよ、あなたに生きてほしいんだとおっしゃるのです。

 

福音書は、このイエスさまの呼びかけについて、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」と説明をしています。イエスさまが与えてくださるこの命の水は、神さまの霊であるというのです。神さまの霊によって、私たちは生かされるというのです。ですから、ただ心臓が動いて、呼吸をして、生きているというのとは、違った意味で「生きる」ということを、ここでイエスさまはおっしゃっています。私たちは今日このイエスさまのみことばから、あの創世記2章の出来事を思い起こしたいのです。最初、土で作られた人形は、それだけでは生きた者とはなりませんでした。でも、神さまの命の息が、その土の人形に吹き入れられたとき、その人形は初めて人として生きる者となったのです。私たちもただ生きているだけでは、本当の意味で生きているということにはなりません。私たちが本当の意味で人として生きる者となるためには、神さまの命の息が吹き入れられ、つまり神さまとの関係の中で私たちが生きていくことが必要なのです。神さまとの関係なしには、私たちは土の人形、生きていながら生きていない、死んだ状態なのです。そんな私たちにイエスさまは神さまの霊を吹き入れて、その霊によって、神さまとかかわりあう者として、私たちを生かしてくださるとおっしゃいます。

 

そして、そのように神さまの霊が私たちに注がれるとき、私たち自身が生き生きと生きられるようになるというだけではありません。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」、つまり、その私に与えられた生き生きとした命が、自分独りに留まらずに、私からあふれ出て、さらには流れる川のようになって、多くの人たちにその命が及んでいくと、イエスさまはおっしゃっています。コップに水を入れると、最初は空っぽでもだんだんと水がたまり、やがて満杯になり、あふれ出ます。さらに水を入れ続けると、あふれ出た水が段々と流れるようになります。それと同じように、私たちの渇ききった死んだような命が、イエスさまの与えてくださる神さまの霊によって、神さまとのかかわりの中で満たされて、あふれ出て、多くの人を生かすために流れ出すのです。その流れは、弟子たちに聖霊が降ったあのペンテコステの日から尽きることなく、留まることなく、現代まで続き、またこの先もずっと続いていきます。

 

私たちは、神さまを伝えるために自分には何ができるか、福音のために私にはどんな働きができるかと考えます。今日の使徒言行録の弟子たちの姿を思うとき、自分にはあんな力強い働きはできないなと思いますし、普段の生活でも伝道って難しいなと思います。でも、私が自分でその働きをするのではありません。私に与えられるいのちの霊が、私のうちで働き、溢れ流れ出て、みんなを生かすようにしてくださるのです。

 

聖霊降臨祭、ペンテコステおめでとうございます。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、聖霊によって私たちを信仰に導いてくださったことを感謝します。聖霊の導きをいただき、あなたとの交わりの中で私たちが生き生きと生かされ、またその命を聖霊の働きにより、周りの人に分かち合って歩むことができますよう私たちを用いてください。創り主なる聖霊よ、私のもとにおいでください。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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