yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年10月1日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第17主日 2017年10月1日

 

「兄弟を得る」

(マタイによる福音書18章15~20)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

現在、ルーテル教会では、式文の改定作業が行われているのですが、今回の改定の一つに、信仰告白の文言の変更があります。現行では、式文をご覧になったらおわかりのように、「わたしは信じます」と一人称単数による告白となっていますが、改定式文ではわたしたちは信じます」と一人称複数による告白へと変更することにしました。

 

「わたし」わたしたちでは、単数形と複数形の違いなわけですが、この変更により、私たちが神さまへの信仰を告白するのは、ただ自分独りだけでしていることではなく、また私だけの独自の信仰を告白しているというのでもなく、いま一緒に礼拝に与っている教会のみなさんと、また世界中の主の民のみなさんと、さらには、時代も超えて代々の信仰の兄弟姉妹のみなさんと、一緒に一つの信仰を告白している、そのことを受け止めたいということを意図しており、またそのことを願っています。信仰とは、もちろん神さまと私の一対一の関係の事柄ですが、同時に、ただそこにとどまらず、ともに同じ信仰を告白する兄弟姉妹、神の家族とともに信じる共同体的な事柄でもあるという、この視点はとても大切なことです。

 

だから「別に教会など行かなくても、自分独りで聖書を読み、お祈りをして、神さまを信じていればそれでよい、それは立派な信仰だ」というようなお話を聴くと、私はそれに対して心から同意する気持ちにはなれません。「う~ん、本当にそれでいいのかな?ちょっと違うんじゃないのかな?」という思いを抱くのです。なぜなら、信仰とは、「わたしは信じます」ということにとどまらず、わたしたちは信じます」という共同性のあるものであり、同じ信仰の仲間と一緒に語り合ったり、学びあったり、祈り合ったり、賛美し合ったり、ということもまた、もっと素晴らしいことで、もっと大事なことではないだろうかと思うからです。

 

さて、今日のみことばで、イエスさまもまた、信仰の歩みをそのように共同体的なものとして受け止められ、弟子たちにそこで起こるある一つのことについて、非常に具体的なお話をなさっています。それは、信仰者の群れ、共同体、教会の中で、その仲間のうちの一人が罪を犯した場合に、信仰の仲間、兄弟姉妹、家族として、私たちは一体どのように対応するのがふさわしいのかということです。

 

私たちは教会について、「聖徒の交わり、聖なる公同の教会を信じます」と告白をしています。教会は、神さまによって聖とされた聖徒たちの群れであって、この世から特別に取り分けられた聖なる交わりであるという信仰を告白しているのです。しかし、その聖なる教会に集う、聖徒たちは、一体、どんな者たちであるのかというと、それは一人ひとり弱さや欠けがあり罪を犯す、そうした者たちなのです。もちろん神さまによって罪を赦された者たち、その意味で聖なる者、聖徒たちであるわけですが、しかし、ルターが言ったように、「罪びとにして同時に義人」である人たちなのです。神さまによって赦され、救われ、義、義しい者と認められた者たちだけれども、同時に依然として罪人であることには変わりはありません。ですから、教会に招かれたからと言っても、また、神さまの救いに与り義とされたからと言っても、教会のみんながもはや何も罪を犯さなくなるということはありません。依然として罪を犯しうる、いえ、犯さないでは生きていけないそうした存在です。ですから、教会の中で、同じ信仰の友、信仰の「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」ということが起こってきます。教会は、そうしたこととは全く無縁の空間ではありません。

 

もし「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」、まずは自分とその人の二人だけで語り合うように、イエスさまはおっしゃいます。腹を割って話し合うのです。あなたのこのことで私はこんな風に思った。あなたのこうしたことが間違えていると思う。改善した方がよいのではないか。そう真剣に語り合うのです。「行って二人だけのところで忠告しなさい」とイエスさまはおっしゃいます。ある人が自分に対して何か過ちを犯し、その人から被害を受けたからと言って、私たちは「誰々さんがこんなことをしたのよ」「誰々さんのせいでこんな風になったのよ」と、大っぴらにぺちゃくちゃ、いろんな人に話すのではありません。その人にわかってもらうように説明をするのです。いえ、その人にわかってもらうようにと言うよりも、お互いに分かり合えるように、話し合うのです。そして、その結果、相手がわかってくれて、分かり合えたとき、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と、イエスさまはおっしゃいます。再び同じ信仰の仲間として、また兄弟姉妹、すなわち神の家族として、一緒に歩んでいける。もっと深い絆で結ばれて歩んでいけると、イエスさまはおっしゃるのです。

 

でも、それでわかってもらえない時、分かり合えない時もあります。自分の気持ちを他の人に伝えることやお互いに理解し合うことは、なかなか難しいものです。「話せばわかる」ということがよく言われ、私ももちろんそう信じて人と接することはとても大切な姿勢であると思いますが、同時に、実際には、多くの場合は、「話してもわかり合えない」ことも多いのです。それは、こっちはこっちで正しいと思い込んで話していて、なかなか相手の話を聞きとろうとしないことが少なくないですし、相手も「自分は悪くない」、「自分は正しい」とか「そうしたのは、やむを得なかった、私には私の事情があるのだ」とか、そんな思いになっていることが少なくないためです。あるいは、相手も自分が悪いとわかっていても、それをどうしても認めたくないということだって多いでしょう。そうした中で「話せばわかる」どころか、「話せば話すほど余計にこじれてしまう」となることも多いのです。それが罪の奴隷である人間同士のかかわりの限界とでもいうことができるかもしれません。

 

その時、どうするか、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と、イエスさまはおっしゃいます。ここでも、ペラペラ大っぴらに話すことは控えて、本当に信頼できる、他の人には話を伏せてくれる、そんな人を連れて、その人と会いに行って、また語り合うのです。「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」とイエスさまはおっしゃっています。「証人の口によって確定される」というと何か裁判のようですが、平たく言うならば、客観的に事実を確認できるということです。ここで大切なことは、もちろん罪を犯したその人の事実が確認されることですが、同時に、最初の一対一の対話では、もしかしらそれを忠告する側の事実の誤認があったかもしれません。誤った裁きをしてしまうこともあるでしょう。だから、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」とイエスさはおっしゃいます。本当の事実は何か、誤解はないか、無実の罪を着せているようなことはないか、そのことを確かめるのです。そこで、その罪を犯した人が自分の罪を認めて悔い改めたり、あるいは誤解が判明したりして、そのようにして互いに分かり合うことができるならば、再び兄弟姉妹として、神の家族として深い絆で歩んでいくことができるのです。

 

しかし、それでも分かり合えないと言うことも少なくありません。そして、そうしているうちに、誰が話したということがなくても、みんな固く口を閉ざしていたとしても、段々と事態は明るみになり、みんなが知るところとなっていきます。そして、話に尾ひれや背びれがついて、あることないこと話が広まって行ってしまいます。そうした中でも、教会はその人と再び兄弟姉妹、神の家族として共に歩む努力を怠りません。みんながどう言っていて、どんな噂がある、そんなことでキリストの体である教会とそこに集められている一人ひとりが信仰の兄弟姉妹を諦めることはしません。教会全体の痛み、また課題として、その人と向き合い、寄り添い、語り合います。そして、世間がどう言っていようとも、事実は何か、またその人が神様の前に悔い改めて歩もうとしているのか、そのことだけを受け止めるのです。そして、もしその人が悔い改めて歩もうとするならば、また兄弟姉妹、家族として共に歩んでいきます。もうそれ以上どうこう勘ぐって話すのではなく、主にある赦しの中でともに歩んでいくのです。

 

けれども残念ながら、それでもその人が自分の罪を認めず悔い改めないということも起こってきます。その場合、どうするか。イエスさまはおっしゃいます。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」これは実に厳しい言葉に聞こえます。「異邦人」「徴税人」、彼らはいずれも、神さまの救いに与ることができないと受け止められていた人たちです。聖なる集いにふさわしくないとされていたのです。そうした人たちと「同様に見なしなさい」ということですから、これは、何度忠告しても、教会のみんなで話しても、その人が自分の罪を認めず悔い改めないなら、もう救われなくても仕方ないとそんな風に扱いなさい。聖なる交わりである教会から追い出してしまいなさい。そうしたことをイエスさまはここで告げておられるのでしょうか。もちろん毅然として態度でその人と向かい合っていくことは大切です。「何したっていいのよ、大丈夫よ」と言うことが、必ずしもよいわけではありません。そんなことしたら教会の秩序が保てなくなってしまいます。

 

でも、ここで「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と告げておられるのは、一体誰なのかと、私たちが考える時、これがただそうした毅然とした厳しい言葉であるだけではない、もっと違った意味があることに気づかされます。ここでお話しなさっているのは、もちろんイエスさまです。かつてイエスさまが徴税人マタイをご自分の弟子として招かれ、そしてマタイがその喜びのうちにイエスさまやイエスさまの弟子たち、そして多くの徴税人や罪人たちを食事に招いたときに、当時の宗教的な指導者たちが、イエスさまの弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難したことがあります。それに対してイエスさまは答えられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

そうです。イエスさまは、正しい人ではなく、罪びとを招くためにこの世界においでになられた方です。そして、罪びとを赦し、彼らを天の国に招かれます。そのために、ご自身、十字架を引き受け、ご自分の命すらささげられました。そのように罪びとの赦しのために命がけで働かれるお方が、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と、ここでおっしゃるのです。ですから、これは、その人たちはもう裁かれても仕方ない、見捨てられるのはやむを得ない、決してそんな最後通告ではありません。なおも、わたしは見捨てない、わたしが悔い改めに導く、だからその人をわたしに委ねよ、わたしはその人を招くために来たのだ。失われた一匹の羊を決して諦めず、自らの危険を顧みず、必ず探し出すイエスさまは、そうおっしゃっているのです。

 

私たちはそのイエスさまのことばを信じて、イエスさまにその人のことを委ねます。私たちの手には負えないかもしれない。でもだからと言って、「もうだめだ」とその人を見捨てるのではなく、また、憎しみの中で追放するのでもなく、「イエスさま、あなたが働きかけてください。」「あなたはきっと助けてくださいますよね。」「再び兄弟姉妹として歩むことができることを期待して、信じて、希望を持って、あなたに委ねます」という、そうした心で、イエスさまにその人を委ねるのです。

 

このように、私たちはその人がたとえどんな人でも、それが私たちの手には負えないような人でも、なおも諦めないのはなぜか。それは、イエスさまが、この私を決して諦めなかったからです。失われた羊であり、罪人の頭、その最たる者である、この私をも、イエスさまが決して諦めず、私のために十字架にかかり、命がけで、悔い改めと赦しへ招いてくださった。神が私を救うために死なれた。だからこそ、私もまた、たとえその人がどんな人でも、決して諦めず、信仰の仲間、兄弟姉妹、神の家族として、かかわり続けるのです。もう無理だと思っても、なおもイエスさまにその人を委ねるのです。それが、十字架の救い主イエスさまを中心とした、神の家族、兄弟姉妹として、「わたしたちは信じます」と信仰を共に告白するキリストの教会の交わりなのです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

御子イエスさまが、自らの危険を顧みることなく、わたしを探し出し、命がけで私を赦し、救いへと招いてくださったことを感謝します。その、あなたのわたしのことを諦めない愛に導かれ、わたしたちも一人ひとりの兄弟姉妹を諦めずにかかわり続けることができますように。たとえ私たちの手に負えない人であっても、だからと言って見捨てるのではなく、御子が働きかけて心を開いてくださることを信じて、その御手に委ねて、心を一つにして歩むことができますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が 、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2017-10-01.mp4 - Google ドライブ

 

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