黙想 彼らはみんな疑っていた
マタイ28章17節
新共同訳聖書 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
私訳 そして、(弟子たちは)かれ(イエス)にお目にかかって、礼拝した。かれら(みんな)は、でも、疑っていた。
新共同訳からは、弟子たちがイエスに出会い、ひれ伏したけれども、その弟子たちの中の一部は信じきることができず、疑いの中にあったことを、私たちは受け止める。
しかし、ギリシア語原文をみるとき、可能性として、イエスを礼拝した弟子たちであったけど、でも、かれらみんなの心の中に、どこか信じきれない、疑いを抱えていた、というニュアンスで受け取ることも可能な表現がなされている。誰か一部だけというのでなく、みんな疑っていたと。
そんな弟子たちの姿は、まさしく私たちの姿だ。毎週礼拝に与っている私。でも、どこかでしっかりと信じ切っていない、どこかで疑ってしまっているし、すぐにダメになりそうな頼りない信仰だ。教会は、そうした弱さある者たちの群れかもしれない。
けれども、にもかかわらず、イエスは、そんな弟子たち、そして、私たちを、宣教の働きに遣わされる。信じきることができず、なお疑いあるままで。
イエスの授かった天と地の一切の権能=すべてを御手に受け取っておられるイエスのまなざしの中で、私たちはでかけていく。すべての人をイエスの弟子、イエスの愛の中に生きる者とするために。そこでは、私たちの側で、あの人はダメだとか、無理だとか、判断したり、排除したりせず、すべての人に、このイエスの愛のまなざしを伝えていく。
そして、かれらに、父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける。決して私たちから遠ざかることも途切れることもない永遠の神の愛の中に、人々を結び合わせ、編みこんでいく。ともにイエスの教え=「互いに愛し合え!」を実践していく。
そのあなたがたの歩みに、わたしは世の終わりまでいつまでもともにいる、とイエスは約束したもう。たとえイエスが、今の私たちの目に見えなくても、世を去っても、インマヌエルの事実は、私たちから決して失われることも奪われることもないのだ。
この舞台は、ガリラヤの山。ガリラヤ、かれらの生活のど真ん中。そこへ、彼らは、このイエスの約束を携えて降りて行くのだ!私たちも、私たちのガリラヤへと、降りていこう!イエスの約束を携えて。