教会暦「王であるキリスト」「キリストの支配」をめぐって
しかし、現在、私たちの委員会で議論となっているのは、それとは別の理由による。それは、「王」とか、「支配」とかいう言葉は、こんにち私たちにはあまり関係のない、身近ではなく、一般的ではない用語であって、あまりしっくりこないというものだ。
たしかに、「王」も「支配」も、私たちがそう日常的に頻繁に使う、一般的な言葉ではないだろう。だから、そうしたものを、今わざわざ取り入れるということに疑問が呈されることは理解をする。特に、教会でそうした言葉を用いているのを、非キリスト者が聞くならば、奇異に思うかもしれない。
けれども、私は、こんにちの日本や世界の動きを観るときに、今こそ、「この世の力が私たちを支配しているのではなく、私たちを治められるのはただキリストのみ」「だれか偉そうな世の為政者が、私たちの上に立つ王ではなく、キリストこそ王」「キリストは、みんな仕えて愛することで、真の平和を私たちにもたらす支配者であり、王である」というメッセージは、とても大きな意味を持っているのではないかと考えている。
この主日が定められた背景に、宗教改革の伝統にある教会に対抗する意味合いもあったと述べたが、もう一つ、これが定められた時代は、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンの台頭した時代であった。そのような中で、そうしたこの世の暴力的で傲慢な権力者ではなく、愛と平和の君なるキリストこそ真の王・支配者であるとの告白を込めて定められた主日でもあるのだ。これは、私たちにとっても、とても大切な告白ではなかろうか。
真の王であるキリスト、来たりたまえ。アーメン