yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年6月18日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第2主日 2017年6月18日

 

「今を精一杯生きる」

(マタイによる福音書6章24~34)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

教会の礼拝堂の布や牧師の式服やストールの色が緑になりました。ここ数週間は、毎週、週替わりで、色が変わりました。5月28日は昇天主日で白、6月4日は聖霊降臨祭で赤、11日は三位一体主日で白、そして今日は緑で、秋まで緑の日が続きます。それぞれの色にはきちんとした意味があります。色を全部説明すると長くなるので、今日は、これからしばらく用いる緑についてだけお話しします。

 

季節は、まだ寒い日はありますが、日中は段々と暖かくなってきました。それに伴い、野原や森や林では、緑美しく植物が成長する姿が見られます。礼拝で私たちが用いる緑も、これと同じで、私たちの信仰の成長を表します。植物が土の中の養分をいただき、日の光に照らされ、豊かな雨の水で成長するように、私たちも聖書の中のイエスさまのみことばという養分をいただき、神さまの光に照らされながら、豊かな聖霊の導きにより、信仰が成長するときを、この緑の季節に過ごします。今まで私たちはイエスさまのご降誕、救い主の顕現、ご受難、ご復活、聖霊の降臨、三位一体と、キリストのご生涯と神さまの私たちへの救いのわざについて、礼拝の度に受け止めてまいりましたが、今日からは、福音書で伝えられているイエスさまのことばと、イエスさまがなさったわざを受け止めることを通して、私たちの信仰の成長を目指すのです。

 

今日のみことばは、イエスさまが山の上でお話された、山上の説教と呼ばれるお話の一部です。この山上の説教は、5章から始まっています。そのはじめにこんな風に記されています。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」。このように、イエスさまが、当時ご自分の周りに集まって来た群衆、人々の姿を見て、山に登り、弟子たちに、お話をなさったのが、山上の説教です。

 

その群衆、人々は、一体、どんな姿だったのかは、さらにその前、4章の終わりにあります。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレムユダヤヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」。イエスさまの周りに様々な病気や苦しみに悩んでいる人たちや、悪霊に取りつかれているとしか思えないほどの人にはどうにもできない重い病気や障がいを抱えている人たちが大勢来て、その誰しもが、イエスさまの助けをどんなに必要としているか、また、イエスさまの助けをどれほど喜んでいるか、その様子をイエスさまがご覧になり、山の上でお話しになるのです。

 

そのお話をなさったのは、イエスさまの「弟子たち」に向かってでした。このことから、私たちは二つのことを受け止めたいのです。一つは、イエスさまの弟子たちも様々な困難を抱え、イエスさまの助けを必要としていた者たちで、イエスさまの助けをいただき喜んでイエスさまに従ってきた人たちだということです。ですから、イエスさまのことばは、大変かれらの心に染み渡ったことでしょう。

 

しかし、それとともにもう一つ大切なことを、私たちは受け止めたいのです。今申しましたように、イエスさまのお話は、確かに弟子たちを癒し、慰め、励ますお話でした。でも、かれらはそれを聴いて、ただ自分たちが喜ぶだけではなく、イエスさまのお話に学び、それに従う、また、出会う人たちにイエスさまのなさったことを伝え、実践するという大事な役割が託されたのです。「君たち、頼んだぞ」「あなたに託したよ」という願いを込めて、イエスさまは弟子たちにお話されます。私たちはそのことを受け止めながら、山上の説教のみことばを聴くことが大切ですし、もちろん今日のみことばも、そのように、弟子たちを慰め励ますとともに、かれらがその心を持って歩み、その務めを担っていってほしいとのイエスさまの願いが込められているということを受け止めたいのです。

 

エスさまは、今日のみことばで、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とおっしゃっています。また、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」ともおっしゃっています。このように、「思い悩むな」「心配するな」「案ずるな」というのが、今日、イエスさまが繰り返しおっしゃっていることです。「思い悩むな」という日本語は、何か上から命令されているような思いになるかもしれません。でも、違います。イエスさまは「思い悩まなくてもいいよ」「心配いらないよ」ということを、ここでおっしゃっているのです。

 

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。これらのみことばは、もはや何の説明も要らないほど、とてもはっきりとイエスさまがおっしゃっているメッセージが私たちに伝わってきます。

 

「空の鳥だって神さまから食べ物が与えられ養われている。野の花だって神さまによって美しくきれいにされている。」「あなたがたは神さまから鳥よりも花よりも価値ある者として創られ、生かされているのだから、何も心配いらない」「神さまがあなたに食べ物も、着る物も、住む所も与えてくださる」だからそのことを信じて、神さまに信頼していればば大丈夫と、イエスさまはおっしゃっています。

 

先ほど申しましたように、イエスさまの周りに集まって来たのは、いろんな困難や苦しみを抱えて過ごしていた人たちです。その人たちの中には、重い病や障がいを抱えた人たちもいました。だから仕事もなかなかなかったでしょうし、それゆえ生きるための糧を得ることにも苦労したでしょう。そうした中で、みんな、今日をどうしよう、明日をどうしようと深刻に悩みつつ過ごしていたと考えられます。イエスさまはそんな人たちの心に「大丈夫。心配いらない。神さまがあなたの大変さちゃんとわかっててくれて、ちゃんと配慮してくださるから。だから信じて行こうよ」と語りかけるのです。

 

何か困ったこと、苦しいこと、大変なことがあるとき、私たちも、毎日、朝を迎えたら、いろんな心配を抱えながらも、その今日という一日は何とか生きていくしかありませんが、そうした時は、今日が終わって、明日が来るのがとても怖くなったり心配になったりします。夜、「今ここで寝て、朝起きたら、また明日が来ちゃうんだよな」と、そんな思いになり、段々心がふさぎ込んできますし、それが長い間続くと、何だか段々と病んでくるような思いがいたします。

 

エスさまは、そんなときに、私たちにも「大丈夫」「心配いらない」と語りかけてくださいます。目の前で起きている状況を見るならば、イエスさまのことばがあってもあまり何も変わらないかもしれません。なかなか酷い状態、暗い闇の状態が続きます。でも、私たちは、そうした中にありながらも、イエスさまの「大丈夫、心配いらない。神さまがちゃんとわかってくださり、配慮してくださるから」という言葉を胸に刻んで生きることができるのです。

 

旧約聖書の創世記に、「主の山に、備えあり」という言葉があります。アブラハムが、年老いて奇跡的に得ることができた一人息子の命が、ある山で失われる、そうした危機を迎えた時、間一髪のところで神さまがその危機から救い出し、息子の命を守ってくださったのです。その時から、イスラエルの人たちがその山を「主の山に、備えあり」と呼ぶようになったと伝えられています。まさに私たちも「主の山に、備えあり」この希望を持って、「明日のことは心配しなくても大丈夫。神さまがちゃんとしてくださる。だから今日一日苦労したそのあなたの苦労、もうそれで十分だ」とイエスさまがおっしゃってくださるみことばを日々胸に刻んで歩んでいきたいと願います。

 

先週、インターネットを見ていたら、ある牧師が旧約聖書のコヘレトの言葉7章14節のみことばを書き込んでいました。それを読みながら、今日のイエスさまのみことばと、通じるところがあるなと思いました。次のようなみことばです。「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ/人が未来について無知であるようにと/神はこの両者を併せ造られた、と。」つまり、順調な時、うまく行っている時はそれを喜び楽しめばよい。でも逆境の時、うまくいかず苦しみの時は、人間には未来はわからないものだということを受け止められるようにと、神さまは順調も逆境も両方お創りになられたのだということを心に刻めということです。

 

うまくないかない時、苦しい時、私たちがどれだけ心配しても、じたばたしても、それによっては、どうすることもできません。もちろんその逆境の中で、私たちができる限りの努力をすることはふさわしいことです。でも、もうダメだ、もう無理だと絶望したり諦めたりすることは、私たちの領域を超えています。私たちには本当にその先がどうなるかなんてわからないのですから。神さまが用意されている未来、神さまが用意されている明日は、私たちにはわからない。だから、私たちはそこで諦めず、絶望せず、「主の山に、備えあり」と心に刻んで、今日という日を、今を精一杯生きる、それがイエスさまが今日語りかけてくださっていることだと思います。

 

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」とイエスさまはおっしゃっています。神さまを信頼して、神さまの前に今を誠実に精一杯生きること、私たちがその中で、明日という日を迎える。「大丈夫、心配いらない」イエスさまがそうおっしゃっていることを、空の鳥や野の花を見つめながら受け止めつつ今日を生きる、そうした歩みを大事にしたいのです。

 

私の恩師が、私が牧師になるとき、牧師になる心構えを書いたメールをくださいました。その当時使っていたパソコンが故障し、何と書いてあったか、ほぼ覚えていないのですが、その最後に書かれていた言葉だけははっきり覚えています。それは、「そして、歩くこと」という言葉でした。礼拝のメッセージの準備が進まなかったり、仕事が行き詰まったり、いろんなことで落ち込んだりするとき、今もその言葉を思い出します。「そして、歩くこと」。今日のみことばを黙想しながら、イエスさまがおっしゃっているのもそのことだと思いました。自分の中に閉じこもっていると、もうダメ、もう無理としか思えなくなってくるかもしれない。でも、そんなとき視線を移して、空の鳥や野の花を見つめるとき、そこから神さまの暖かな愛、そしてイエスさまの「大丈夫。心配いらないよ」という語りかけを受け止めることができるのではないでしょうか。

 

今日は、このような話をしてメッセージを結ぼうと最初考えていました。しかし、準備をしている中で、私たちの国の大きな動きについての情報が入ってきました。もちろん社会や政治のことについては、いろんな意見や立場があるので、どれが正しくどれが間違えていると簡単に決めつけることはできません。しかし、だからと言って、今ここで、それについて何も語らず黙っていることも、みことばの務めを託されている者として無責任であり不誠実だと思いました。

 

はじめにお話ししたように、イエスさまが弟子たちに「君たちに頼んだぞ」「あなたに託したよ」との願いを込めて、今日のみことばを含む山上の説教を語られたことを今一度心に刻みたいと思います。そして、今のこの国で、また、この世界で、私たちが神の国と神の義を求めて、その実現のために生きるとは一体どういうことなのか、また、この国やこの世界に暮らす人たちが、本当に、明日のことを思い悩むことなく安心して平和に自由に過ごすために、私たちは一体どういう立ち方をして何をすればよいのか、イエスさまに問い、また応えながら歩んでまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたのあたたかな愛と配慮をいただいて日々生かされている恵みを心より感謝いたします。いろいろなことで不安になり、また恐れながら過ごしている私ですが、「心配ないよ、大丈夫だよ」と語りかけてくださる御子の声に信頼して、今日の日を精一杯生きることができますように。私たちの国とこの世界をあなたが守り支えてください。神の国と神の義が、私たち一人一人の歩みの中で、また、この国とこの世界の中で実現しますように。御子、主イエス・キリストのお名前によっ祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

https://www.reform-magazine.co.uk/wp-content/uploads/2014/01/chap_verse_feb14.jpg