yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年3月18日 礼拝メッセージ

四旬節第5主日 2018年3月18日

 

「一粒の麦」

エレミヤ書31章31~34、ヨハネによる福音書12章20~33)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

金曜日、大麻教会に隣接するひかり幼稚園で卒園式が行われました。そこで園長である吉田先生がなさったお話に感銘を受けました。「神さまはみんなのことが大好きで、みんながいい子に育ってほしいと本当に心から願っている。けれども、もしいい子になれなくても、悪いことをしてしまっても、失敗してしまっても、でも神さまはそれでもみんなことが大好きで、最後までみんなの味方です。幼稚園の先生方も同じです。みんながよい子に育ってほしいとそう願っているけど、悪いことをしてしまっても、失敗しても、ずっとみんなことが大好きでみんなの味方だから、いつでも幼稚園に来てほしい。みんなのおうちのお母さんやお父さんも同じで、どんなことがあってもみんなの味方です。」

 

これを聞いて、まさにキリスト教保育の心はそこにあると思いました。一般の感覚によれば、「いい子に育つ」ことが教育の目標で、もし子どもが悪いことをしてしまうなら、それは教育の失敗ということになってしまうかもしれません。宗教的にも、いいことをしている人を神さまは顧み、悪いことをするなら神さまは裁かれて罰を与えるというのが一般的な感覚かもしれません。でも聖書に導かれ、神さまの愛を大切にするキリスト教保育は、それとは違います。もちろんいい子に育ってほしいそう願い、そのことを神さまに真剣に祈りながら、子どもに関わります。でも、もう一面、キリスト教保育では、どんな子だって、神さまの前に罪を犯してしまうことがあるし、失敗してしまうこともあるということを受け止めます。では、それでその子はもうダメな子なのかというと決してそんなことはない。罪を犯しても失敗しても、なおも神さまに愛され続けていて、神さまの救いはその子に向けられ続けられている。そのことを大切にします。次のような歌詞の子どものさんびかがあります。「よいこになれない わたしでもかみさまは あいしてくださるってイエスさまのおことば」。よい子だから神さまが愛してくださるのでなく、良い子になれなくたって神さまの愛はなおも子どもたちに注がれ続けているのです。だから保育者もまた、悪いことをしたら、もうその子はダメだと見捨てたり、諦めたりするのではなく、その神さまの愛を信じてなおも愛し続け関わり続ける。そしてそのことが大切だということを、子どもの保護者達にも伝える。それがキリスト教保育です。

 

卒園した31名の子どもたちの心に、吉田先生のメッセージが届き、人生の折々に思い出してくれればいいなと思いましたし、私たちもその心を大切にしてこれからも子どもたちに接していきたいと改めて思いました。

 

今日もみことばに聴いてまいりましょう。まず今日の第一の朗読、エレミヤ書から聴いていきたいのですが、そこで神さまは「新しい契約」について語っておられます。「新しい契約」とおっしゃるのですから、その前の「旧い契約」「もともとの契約」があったということになります。それはどんなものであったのかと言うと、それは神さまがおっしゃっているように、「かつてわたし(神さま)が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」その契約でした。つまり、あのモーセを通して民に与えられた十戒を始めとする、神さまの定められた掟、すなわち律法のことです。神さまがエジプトでの強制労働の苦しみからイスラエルの民を救い出してくださいました。その彼らに、「これからお前たちは、わたしのみ前で、また人々と共に、あなたがたの主である私が定めるように、このように生きていきなさい」と、神さまは彼らへのお約束として、契約を与えられたのです。

 

しかし、神さまは、今日のエレミヤ書「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った」とおっしゃいます。そうです。人々は、神さまのお約束を守らなかったのでした。神さまの教えを破り、神さま以外のものに走り、自分の都合の良いものを彼らの神として、自分の好き勝手な生き方をしてしまっていた。また人を愛すどころか人を傷つけたり陥れたりするようなことをしてきた。そんな彼らであったわけです。ですから、神さまは「もうお前たちのことなんて知らない」と、彼らのことを見捨ててしまっても仕方ありませんでした。でも神さまはそうなさらず、彼らに新しい契約を授けるのです。もう一度、彼らに、もう一度やり直そうよ。もう一度ちゃんと生きていこうよと、ワンモアチャンスを与え、語りかけられるのです。

 

神さまはおっしゃいます。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」

 

かつて、モーセを通して、イスラエルの民に、十戒をはじめとする様々な掟を、神さまからのお約束、契約として授けられたときには、それは二枚の石の板に刻んだと、聖書は伝えていました。その石の板は、人々が神さまの掟に反して金で子牛を造りそれを礼拝していたことを目撃したモーセがブチ切れて、彼らに向かって投げつけて粉々になってしまったのでした。それで、神さまはもう一度彼らのために新しい石の板に掟を刻んでくださったわけですが、それもやがてイスラエルの国が他の国に攻められたり占領されたりする混乱の中で失われてしまいます。でも、神さまは、今、彼らに授ける新しい契約はそのように石の板に刻まれて、壊れてしまったり、どこかに失われてしまったりするようなものではないと、おっしゃいます。「彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と。神さまがしっかりと、一人ひとりの心の中に刻みつけてくださると、神さまはおっしゃるのです。そして、そのことで、本当に神さまが身近な方になられる。もう「神を知れ」なんてお互い言わなくても、「あなたはわたしの神です」、「お前たちはわたしの民だ」という本当に密接な関係で結ばれる。「小さい者も大きい者も」、すなわちどんな人だって、「わたしを知る」神さまのことをちゃんとわかる。神さまと深い交わりの中で生きていくようになる。そして、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」神さまの赦しと憐れみの中で、どんな人も生かされると、神さまはおっしゃるのです。

 

これは、時を超え、場所を超え、私たちにも語られている、神さまの約束です。私たちも神さまの御心を、聖書のみことばを通して知らされます。でも、それに従えないことも多いのです。神さまをの教えに反して、罪を犯し、それを幾度も幾度も繰り返してしまう私です。神さまの教えの石の板を、私もまた、粉々にしてしまい、あるいはどこかに無くしてしまっているのです。でも、神さまはそれでもなおも、私を見捨てず、なおも愛し続けてくださいます。本当なら「もうあいつはだめだ」と見捨てられて、裁かれてしまっても仕方がない存在なのですが、神さまはそうなさいません。子どものさんびかにあったように、「よいこになれない わたしでもかみさまは あいしてくださる」これは私にも与えられている神さまの約束なのです。神さまは私の心の中に、新しい契約をしっかりと刻み込んでくださり、神さまがどんなお方なのか私たちに教えてくださいます。そのことによって、私もまた、ただただ神さまの赦しと憐れみの中で生かされるのです。

 

それでは、私たちにとって、私の心の中に刻まれる神さまの新しい契約とは何でしょうか。今日の福音のみことばがそのことを私たちに告げています。このみことばは、イエスさまがエルサレムに迎えられた出来事の直後の出来事として伝えられています。イエスさまがろばに乗ってエルサレムに入り、人々が熱狂的にそのイエスさまを迎えた。その後の出来事が、今日の福音で伝えられていることなのです。

 

その時、ギリシア人たちが、イエスさまにお目にかかりたいと、イエスさまの弟子のひとりのフィリポに告げました。すると、フィリポはアンデレにそれを告げて、アンデレとフィリポはイエスさまにそのことを伝えました。なぜここでフィリポが直接イエスさまにそれを伝えず、アンデレにわざわざ話してワンクッション置いたのか、疑問ですが、もしかしたら、「おい、アンデレ、すごいぜ。ギリシア人まで、先生に会いたいってよ」「そかそか、じゃ先生に伝えよう」とそんなやりとりがここでなされたのかもしれません。あるいは、「おい、アンデレ、ギリシア人が先生に会いたいって言うんだけど、どうかな?大丈夫かな?」「うーんどうかわからないけど、とりあえず先生に伝えてみるか」そんなやりとりだったかもしれません。つまり、みんなエルサレムでの出来事で高ぶった気持ちの中で、イスラエルの人たちだけでなくギリシア人までもイエスさまのもとに!と、彼らが得意げに感じしたか、あるいは、イスラエルの人たちではない、宗教的に穢れているとされていた外国人、つまり異邦人であるギリシア人をイエスさまに会わせてよいのかと、そんな風に感じたか、いずれかではなかったか。このため、フィリポはわざわざアンデレにそれを告げたのではないでしょうか。

 

けれども、そのいずれも、イエスさまのお心を、彼らが理解していないことの現れでした。イエスさまはおっしゃいます。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」エスさまはここで「栄光」ということをおっしゃいます。これは、もともと「輝き」ということを表す言葉です。「わたしが輝きを受けるときが今こそ来た」と、イエスさまはここでおっしゃっているわけですが、その輝きとは何か。人々がみんなしてイエスさまを熱狂的に迎えたことや、それを見てギリシア人までもがすごいと思ってイエスさまに会いたいと思ったことかというと、そうではありませんでした。そのイエスさまの栄光、イエスさまの輝きとは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とイエスさまがおっしゃっているように、イエスさまが死なれること、つまりその十字架にこそ現れる。イエスさまはそのことをここで告げられるのです。イエスさまが十字架で死なれることにより、その実、その収穫として、多くの人たちが救われ、生かされる。

 

そうです。これこそ、エレミヤ書で告げられていた、神さまが私たちの胸に刻み込んでくださる新しい契約です。つまり、神さまが約束なさった新しい契約とは、イエスさまの十字架、その命に他なりません。命がけで私たちを愛し、私たちを生かしてくださる、その愛、それこそが、神さまの前に罪を犯してしまう私たちを見捨てず、なおも私たちを赦し、御許に招いてくださる神さまの愛の契約です。

 

そこにはイスラエル人であるとか、ギリシア人であるとかいうことも、そのどっちが神の民で、どっちが汚れているなんて、もはやそんな差別はありません。イエスさまが今日のみことばの結びで、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃっているように、すべての人が、十字架に挙げられたイエスさまのもとに引き寄せられ、十字架の愛のもとに、その命のもとに集められるのです。エレミヤ書で、「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである」と告げられているように、どんな人だって、十字架に挙げられたイエスさまのもとへと引き寄せられ、そのことを通して神さまの深い愛を知り、その愛が私たちの心にしっかりと刻み付けられるのです。

 

エスさまはおっしゃいます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」エスさまにとっても、十字架は心騒ぐほどの大きな痛みであり、苦しみでした。でも、イエスさまは「わたしはまさにこの時にために来たのだ」とおっしゃって、十字架をご自分の身に引き受けられます。私たちへの愛の故に。私たちを何とかして救いたいと願って。そのイエスさまに対して、神さまが「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」と力強く告げられたように、そのイエスさまの十字架にこそ、イエスさまの栄光、その輝きがあるのです。私たちも、イエスさまの十字架のもとに引き寄せられて、その愛を私たちの心にしっかりと刻まれて歩みたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの御前に罪を犯し幾度も繰り返して歩んでいる私を、あなたはなおも見捨てず、御子の十字架によって私たちを赦し、新たに歩ませてくださいます。どうかこの御子の十字架のもとへ私たちすべての者を引き寄せ、またその愛をあなたの新しい契約として私たちの心に刻んでください。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-03-18.MP4 - Google ドライブ

 

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