yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年9月24日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第16主日 2017年9月24日

 

「小ささの重さ」

(マタイによる福音書18章1~14)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

聖書が文字として記されたのは、新約聖書なら、今からおよそ2000年前のことです。にもかかわらず、そこに書かれていることは、全く古臭くなく、まさに今を生きる私たちに語りかけられている言葉として聞こえてきます。

 

今日の第二朗読、ローマの信徒への手紙では、次のように語られていました。

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

 

ここで語られている言葉一つ一つに、「うん、うん、そうだね」「本当そうそう」という思いにさせられます。ここで語られていることは、信仰をもって、愛のうちに、謙虚に、隣人と共に心を通わせて平和に生きるように、ということです。本当にそうした生き方をしたいと願います。そのために、自分が接する相手を尊び、うぬぼれず、高ぶらないことを大切にしたい。それは、私たちがイエスさまの姿を見つめ、その十字架に従う歩みをする中で可能となることです。イエスさまを見つめ、十字架に従うとき、私たち自身がどれほど罪深い者で、不十分で欠けのある弱い者であるかを知らされます。その時、他の人を尊敬する心が与えられ、他の人の前にうぬぼれることも高ぶることもできない自分であることを知るのです。しかし、私たちがイエスさまを見失い、十字架を忘れてしまうなら、自分の罪深さや、小ささ、弱さを忘れて、他の人を見下し、うぬぼれ、高ぶる心が起こってきます。今一度、このことを心に刻みたいと思います。

 

また、今のこの世界にとっても、このローマ書のみことばは、とても大切だと思います。軍事的な力で他国を脅かそうとしている指導者、それに対して、その国を完全に破壊せざるを得ないなどということを表明する指導者や、対話ではなく圧力こそが大切だと発言する指導者、そこで忘れられているのは、今日のみことばが語っている、相手を尊敬して、うぬぼれず、高ぶらない姿勢です。どこかで相手を見下し、うぬぼれ、高ぶっている、そうした姿勢が、今の非常に残念な状況を生み出しているのではないでしょうか。ですから、今こそ、十字架の福音が、一人ひとりの個人のレベルでも、この社会やこの国やこの世界というレベルでも、とても必要となってきています。私たちの身近で、また世界中のあらゆるところで、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くことができるように、切に祈ります。

 

今日の福音でも、イエスさまは、私たちに、相手を尊び、うぬぼれず高ぶらない姿勢の大切さを告げておられます。イエスさまの弟子たちが、イエスさまに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。自分たちのうちで誰がいちばん偉いか、イエスさまに岩と呼ばれたペトロなのか、いつもイエスさまに寄り添っていたヨハネなのか、あるいは、イエスさまの身内であったヤコブなのか、そうしたことが弟子たちの間で話題になっていたのかもしれませんし、もしかしたら、「俺こそがいちばんだ」、「イエスさまの王国で自分こそきっとよい地位に就くことができるに違いない」という思いが、それぞれの弟子たちの心の中にあったのかもしれません。他の福音書では、そうしたことで口論していた弟子たちの姿にも出会います。

 

エスさまはそんな彼らの問いに答えるために、「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせ」られました。そして、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」、そうおっしゃいました。

 

当時は、子どもは、数える人数にも含めてもらえない扱いでした。今、レストランなどに行くと、「何名様ですね」と店員に確認をされます。家族連れで来店した人をよく見ていますと、昔は、子どもはその人数に入らず、大人だけの人数が言われるお店が多かったですが、最近は子どもの人数もきちんとカウントして「何名様ですね」と確認するお店のほうが多くなってきました。子どもも立派な一人のお客様であるということが社会的にも認知されてきたのでしょう。しかし、聖書の時代は、まったくそうではありませんでした。子どもは取るに足らない存在だと思われていたのです。でも、イエスさまは違いました。子どもをまず彼ら弟子たちの真ん中に立たせられます。社会の端っこに追いやられ、数にも含まれないそうした子ども、またそのうちのたった一人を、イエスさまは真ん中に招かれるのです。イエスさまがもたらし、イエスさまが治められる天の国、神さまのみ国は、このように一人の子どものような小さく弱い立場に置かれている者こそが、主人公で真ん中に立たされるべきだというメッセージが聞こえてきます。

 

そして、私たちが「子供のようになる」ことと「一人の子供を受け入れる」ことこそ、天の国で一番偉く、また、イエスさまを受け入れることだと、イエスさまはおっしゃいます。「子供のようになる」ということは、どういうことでしょうか。ただ子どものように素直にとか、心を真っ白にして生きるという意味で子どものようになるというのではないでしょう。子どもだってなかなか意地悪だし、腹黒い面を持っています。ここでは、そうではなく、きっと私たちが低く小さな一人になるということ。私たちの周り、またこの社会で低く小さな立場に追いやられている人と、私たちが自分を同じ一人にしていくということだと思います。天の国、イエスさまが中心のお神さまのみ国での「偉さ」とは、私たちが普通に考えるそれとは、全く違うものでだということを、イエスさまはここで伝えようとなさっているのです。人の上に立って、他の人たちとどこか別の場所で、人にあれこれ指図するのが、イエスさまにとっての「偉さ」ではないということ。そうではなく、この世の中で小さく弱い立場に置かれている人と、一緒に生きる、そのために自分も小さな一人、弱い一人になって生きることを、イエスさまはここで語っておられるのです。

 

そのために必要なことは、私たちが「心を入れ替えて」生きることです。この「心を入れ替えて」という言葉は、「ぐるっと回って」という感じの意味の言葉です。今までそうだと思ってきたこと、みんなが当たり前だと言っていること、それに対して「本当にそれでよいのか」「いや、もしかしたらそうではないのではないか」と、一旦立ち止まって問い直し、「やっぱりこれは違う」、「これからはこうしよう」と、ぐるっと回って、新たな方向へと歩み直していくこと、それが今日イエスさまがおっしゃっている「心を入れ替えて」ということです。私たちが、天の国、神さまのみ国での本当の「偉さ」に生きるためには、そのように「ちょっと待てよ。うん、これは違うから、これからはこうしよう」という姿勢が大切だということなのです。

 

それは最初に申しました、イエスさまを見つめて、その十字架に従う歩みの中で可能となることです。普通に自分の思う通りに生きている限り、なかなかそうした気づきや新たな歩みは得られません。イエスさまを見つめて生きる、十字架に従って歩む中でこそ、私たちが自分の歩みをいったんストップさせて、考え直して、今までの生き方をやめて、新たな歩みを始めることができるのです。その意味で、このマタイ福音書の18章が、イエスさまの最期のエルサレムへの旅の始まりだということは、とても意味深いと言えましょう。イエスさまが語られるこのみことばを、私たちが受け止め、そこに生きるためには、このイエスさまの旅の終着地であるエルサレム、その十字架を心に刻むことがどうしても必要であるということを、私たちはここから受け止めるのです。

 

私たちがそのようにイエスさまの十字架への歩みから、新たな視点を与えられて新たな歩みをしていくときに、今まではそれほど大したことないと思っていたことの重さに気づかされます。世の中でつまはじきにされていた人や私たちの周りで「あの人はちょっとね」と、そんな風に言われて軽く扱われていた一人が、イエスさまにとって、どれほど大切な重みのある一人であるかということに気づかされるのです。また、私たちが今までそのように人を小さくみなして軽く扱っていたことがどれほど罪深いことであるのかについてもまた知らされます。

 

エスさまはおっしゃいます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」、何とも恐ろしい言葉に聞こえるかもしれませんが、イエスさまは、ここで、私たちが見下していたり、軽く扱ったり、小さな立場に追いやったりしている一人は、私たち自身の命と同じだけ大切な一人であるとおっしゃっているのです。もし、私たちがその一人を傷つけるなら、あなたの命を持って償わなければならないほど、その人は大切な尊い存在であり、私たちが今までしてきたことは、それほど重い罪なのだと、イエスさまはおっしゃるのです。

 

ここで「つまづき」ということについて語られています。これは、一人の人が生きていく際に、そのことの邪魔となる者と言えましょう。私たちが他の人が生きる邪魔になっていないかということです。イエスさまはその問いに対してきっぱりと答えておられます。「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」と。自分が、他の人をつまづかせることなどしていない、そう言える人は誰一人としていないということです。私たちにとって、「つまづきは避けられない」、つまり私が生きる際に他の人の邪魔となってしまうということは決して避けることはできないのです。生きていく上で、誰かをつまづかせてしまっている私であるということ、そして、それは本当に不幸なことであるということを、今日、しっかりと受け止め、認め、省みたいと思います。そこからすべてが始まると思います。自分は無縁だ、無罪だ、潔白だと言っている限り、私たちは「心を入れ替え」て新しい歩みをすることは不可能です。

 

「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい」と、恐ろしいことが重ねて告げられますが、私たちはこのイエスさまのことばから、今までどれほど、他の人の歩みを邪魔したり、真実を見つめることを邪魔したりしてきたかを省みたい。それが自分自身の手足や目を傷つけられるのと同じほどの重さであり、痛みであるということを受け止めてこなかったことを深く悔い改めたいのです。

 

しかし、なお、その痛みの中で、私たちに命を与えてくださるイエスさまの憐れみを同時に受け止めます。他の人をつまづかせてしまう不幸を抱える私たちだけれども、なおも「永遠の火」、また、「火の地獄」と呼ばれる滅びではなく、「命にあずかる」道を、イエスさまは私たちのために開いてくださっているのです。ですから、私たちは「心を入れ替えて」、他の人を尊び、遜って、うぬぼれず、高ぶらない生き方を志したいと願います。

 

エスさまはおっしゃいます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」どんな人にも神さまが遣わした尊い天使がついている。私たちがもし一人を軽んじることはその天使を軽んじることで、しいてはその天使を遣わした神さまを軽んじることだということを、これは意味します。だからどんな一人であっても決して軽んじられても失われてもならないのです。それほどの重さをもって一人を尊び、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く歩みを目指したいものです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

小さく弱い罪深いわたしが、御子イエスさまの尊い十字架により、天の国へと招かれたこの恵みを心から感謝いたします。わたしもまた、この社会の中で小さく弱い立場に置かれている人たちを尊んで、共に歩み、喜ぶ人とともに喜び、泣く人共に泣く、そうした歩みができるようにお導きください。あなたの御前に遜り、うぬぼれず、高ぶらずに歩むことができますように。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-09-24.mp4 - Google ドライブ

 

 

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