yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年7月9日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第5主日 2017年7月9日

 

「痛みある世界へ」

(マタイによる福音書9章35節~10章15節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

聖書で、神さまは、私たちの父として位置付けられています。イエスさまも「天の父」と神さまを呼ばれ、私たちにも神さまにそう呼びかけて祈ることを薦めておられます。ですから、私たちも、「父なる神」とか「天のお父様」とお祈りいたします。これは、神さまが私たちに命を与え、私たちを保護し、養ってくださるお方、私たちに教え鍛えてくださるお方、私たちのすぐ近くで私たちを愛してくださるお方であるということを表しているのであって、なにも神さまが男性であるということを表しているわけではありません。神さまは、男性でも女性でもない、あるいは、男性でも女性でもある、私たちが考える性別を超えたお方です。このことは、神さまが人をお創りになられた際に、人を御自分に似せて「男と女に創造された」と、創世記が伝えていることからも言えることです。男だけでなく、あるいは、女だけでもなく、男も女もともに、神さまに似せて創られた存在であり、それゆえ神さまが男だとか女だとか、いずれか片方の性であるということはありえません。

 

そうは言っても、聖書で、神さまを「母」と呼んでいるところはないではないかと思われるかもしれません。たしかに、直接的には、そのように「母なる神」という呼ばれ方はされてはいませんが、しかし、聖書をよく読むと、神さまを私たちの母として伝えている表現に出会うことができます。旧約聖書は、もともとイスラエルの人たちの言葉であるヘブライ語で書かれているものなのですが、そのヘブライ語の聖書には、神さまを表す言葉の一つとしてエルシャダイという言葉があります。このエルシャダイは、「全能の神」と私たちが用いている日本語の聖書では翻訳されているのですが、もともとは「乳房の神」つまり「おっぱいの神」という意味を持つ言葉であったと考えられます。母親から生まれた赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲んで育つように、神さまによって命を与えられた神の子である私たちが、神さまから霊的なおっぱいをいただいて養われる。そのように神さまは母として、私たちを養い育ててくださるお方であるという意味でしょう。また詩編などでは、神さまの翼の陰に私たちが守られ養われるという表現がなされます。たとえば詩編91編では、「神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる」と語られています。これは、雛鳥が母鳥の翼の陰に包まれて、敵から守られ育てられるように、神さまも私たちの母として、私たちを守り養ってくださるというイメージを、私たちに伝えているわけです。

 

そして、聖書が、神さまを私たちの母として伝えている表現のもう一つは、今日の福音のみことばにもある、「憐れむ」という言葉です。今日の福音は、次の言葉から始まっています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」福音書新約聖書であり、もともとはギリシア語で書かれているわけですが、この「憐れむ」という言葉は、旧約聖書ヘブライ語も、新約聖書ギリシア語も、もともと同じ意味を持つ言葉に由来しています。それは、女性の子宮です。母親のおなか、胎を表す言葉がもとになっているのです。なぜそのように女性の子宮、母親のおなかを表す言葉から、「憐れむ」という意味を表す言葉が生まれたのかと言いますと、母親が自分の子宮に宿し、自分のおなかを痛めて産んだわが子のこと、特にその子が困難な状態、辛く悲しい状態にあることを思って、母親自身が自分のこととして、あるいは自分のことよりももっと深い、悲しみや苦しみや痛みを覚える、その姿から、「子宮」という言葉から「憐れむ」という意味を持つ言葉が生まれてきたのです。このように、聖書には、神さまは私たちの父であるとともに、私たちの母であると伝えられています。

 

さて、今日の福音で、イエスさまが当時の人々の姿をご覧になり、「深く憐れまれた」という、この言葉は、今、申しましたように、母親がわが子の苦しみを思い、自分自身の痛みとして感じる様子を表しています。つまり、イエスさまは、ご自分のこととして、いえ、それ以上に、人々の痛みを感じ取られた、わが子のことのように人々の苦しみを受け止め、痛みのうちに心配なさったということが伝えられているのです。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」とありますから、イエスさまが回ったどんな町や村でも、会堂で教えていた際も、また福音を伝えていた時も、さらには、人々のいろんな病気や患いを癒された時でも、本当に深く傷ついた人たちがいた。それはあたかも「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」そんな姿として、イエスさまの目に映ったのでした。いえ、イエスさまの目でご覧になったからこそ、他の人には気づくことができない、人々の奥底にある痛みや苦しみが、ご自分の痛みとして、イエスさまに感じ取られたのでしょう。

 

以前の復活節、よい羊飼いの主日の際にお話ししましたが、羊が安心して元気に過ごすためにはよい飼い主、羊飼いが必要です。羊たちを野原に連れて行き、草を食めるようにして、いろんな危険から羊たちを守ってくれる、そうした羊飼いがいなければ、羊たちは迷ってしまい、また草を食むこともできず弱ってしまい、飢えてしまい、臆病なので震えて過ごさなければなりません。野獣や羊泥棒にやられてしまうかもしれない。当時のイエスさまが出会った人たちがそうした羊たちの様に、イエスさまの目に映ったのでした。

 

経済的に生活が苦しかったり、あるいはローマの支配下にあって自由が奪われて脅えていたり、宗教的にも指導者たちの厳しい勧めに応えられず委縮してしまったり、何とも言えない虚しさや孤独を感じていたり、生きる意味を見失っていたり、真理から遠ざかっていたり、病や患いに押し潰されそうになっていたり、いろんなことでもうボロボロになっていた人たちの姿を、イエスさまは見て取ったのでした。顔では笑っていても、心では泣いている人たち、強がっていても、実は恐れを持っている人たち、人々のそうした真実の姿が、イエスさまの心の目にははっきりと見えたのです。イエスさまは人々の痛みを、そのまま放置しておくことはできませんでした。ご自身の激しい痛みとして感じ受け取られます。「本当に大変だよね、苦しいよね、辛いよね」、イエスさまは深く共感なさったのです。

 

いま私は、聖書日課の執筆の担当をしています。前回は5月の末が締め切りで、ちょうどクリスマスの時季の日課の執筆の担当でした。これから夏となり、だんだん暑くなっていくこの時期に、クリスマスや大晦日のメッセージを執筆するのは、何とも不思議な感じがしましたが、その際に、12月24日のクリスマスイブを迎える日曜日の朝の日課として、フィリピの信徒への手紙の4章にある「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」というみことばからのメッセージを書きました。その日の夜からクリスマス、イエスさまのお誕生のお祝いに入るということで、ぜひクリスマスと関連したメッセージを書きたいと思ったのですが、なかなか思いつかず、何を書いたらよいか結構悩みました。悩みながら、このみことばをもとに、ある著名な神学者が、クリスマスのメッセージを書いていたのを思い出して、もう一度それを手に取って読み直してみました。かつて最初に読んだ時にはあまりたいした感じるものはなかったのですが、今回改めて読んで、たいへん深く感動しました。

 

そこで言われていることは、クリスマスにこそ、この「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」というみことばがふさわしいということです。なぜかと言うと、イエスさまが人となり、私たちの経験するすべてをご自分のものとして引き受けてくださったのだ!だから、私たちが苦しみの時、イエスさまを思い起こせば、そこで私たちのその苦しみがすべて既に解決し勝利していることを知る、だから私たちがもう思い煩う必要はなくなったというメッセージでした。イエスさまは、ご自分の身に私たちのすべてを引き受けられたお方です。私たちのどんな苦しみや悲しみや困難も、イエスさまご自身の痛みとして受け取り、乗り越えてくださったのです。

 

私たちがたとえ顔では笑っていても、表面上は強がっていても、イエスさまは心の奥底にある私たちの真実の姿を見て取り、「本当苦しいよね、たいへんだよね、辛いよね」と、「あなたの気持ち、あなたの大変さ、ほんとわかるよ」と、私たちの母である神としての愛をもって共感してくださいます。イエスさまがそうおっしゃるのは、決して口先だけでありません。イエスさまが、そのように私たちの痛みをご自分のこととして引き受けてくださる、その証しが、あの十字架です。初代教会より、十字架にかかり苦しみ死なれたイエスさまの姿を語っていると受け取られてきたイザヤ書53章のことばを思い起こします。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」。まさにイエスさまは私たちの苦しみ、痛み、病、それらすべてをご自分の身に引き受けて、苦しみ死なれるのです。わが子が病気や災害に遭った時に、「なぜ私でなくこの子が…」と悲しみに暮れて、「私がこの子に代わってあげたい、だからこの子を元気にして、あるいはこの子の命を返してほしい」と訴えるお母さんがいます。まさに、イエスさまは、私たちの痛みをそのように受け止めてくださり、事実、イエスさまは愛する私たちのために、苦しみを一身に引き受けてくださったのが、あの十字架なのです。

 

今日のみことばのはじめ、9章の35節と36節のところをお話ししただけで、こんなに長くなりましたが、それに続くところでは、イエスさまがそのように人々の痛みをご自身の痛みとして受け取られたその思いの中で、弟子たちを宣教の働きに遣わされたことが伝えられています。その際に、イエスさまがおっしゃったのは、イエスさまの心を自分の心として、一人ひとりに接していくようにということでした。イエスさまが人々の痛みをご自分の痛みとして受け取られたように、私たちも、人々の痛みを自分の痛みとして引き受けていく。ただ言葉だけで「福音を信じなさい」と、そう呼び掛けるだけでなく、実際に、目の前の人の痛みに触れ、癒されるように祈り、その人が本当に「天の国は近づいた」と実感できるようにかかわっていく。

 

私たちがかかわるべき人が「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と、具体的にリストアップされています。病気で苦しむ人、生きる希望を失った人、生きる価値がないとみんなから言われている人、みんなから差別され排除されている人、もうどうにもならないと周りのみんなから見捨てられた人、そうした一人ひとりを見捨てず、しっかりと寄り添い関わり、命と希望を分かち合うのです。その働きのために、神さまがすべて必要なものをあなたに備えてくださるから、その力もちゃんとわたしがあなたに授けるから大丈夫、あなたは何も心配しないで、与えられた働きに仕えていけばそれでよいのだと、イエスさまは弟子たちに、そして私たちに告げられます。

 

ただし、そのようにイエスさまの言葉に従って私たちが働いたからと言って、いつもそう簡単にみんなに受け入れられてもらえるわけではありません。なかなか受け入れられないかもしれない。でも、そうであっても、私たちは「シャローム「平和があるように」と伝えるように、イエスさまはおっしゃいます。これは、私たちの側で、「あの人は無理だ」と最初から決めつけてしまわないようにしなさいということでしょう。宣教は、神さまの働き、イエスさまのみわざです。私たちは、それに仕えるのです。私たちが、その人をキリスト教に改宗させようとか回心させようとかするのではなく、神さまが働かれるその働きに、私たちは仕えて、イエスさまが成し遂げてくださるそのみわざを信じ、委ねつつ、私たちは祈りをもって、目の前の人に仕え、寄り添っていくのです。

 

今日の福音には、イエスさまの12使徒の名前が記されています。そこに私たち一人ひとりの名前もあることを、今日、受け止めたいと思います。私たちもまたイエスさまから、痛みあるこの世界へと遣わされています。痛みを抱えて生きる人の痛みを自分に引き受けて、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、そうした歩みをしてまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

御子イエスさまが私たちの痛みを引き受けるために人となり、また十字架を引き受けられ、私たちとともに苦しまれる深い憐れみを、私たちは今日知りました。ありがとうございます。私たちもイエスさまが私にそうしてくださったように、隣人の痛みを自分の身に引き受け、喜ぶ者とともに喜び、泣く者と共に泣く中で、御国の福音、そしてあなたにある平安を分かち合って歩むことができますように用いてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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