yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年10月8日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第18主日 2017年10月8日

 

「神の物語の中の私」

(創世記50章15~21)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先日、ある方より、「運命ってキリスト教とは関係のないものなのですか」と尋ねられました。それに対して私は、「ぼくは関係ないと思っています。神さまの導きによって我々は生かされているのであって、運命なんかに人生が定められているわけじゃないと。神様はその時々に必要な導きや助けや試練を与えてくださるのであって、私たちは最初に決められたレールをただ決められた通りに動いているとは違うので」と答えました。

 

私たちの人生は、運命によって定められているのではなく、神さまの導きの中にあります。そして、神さまは時として、私たちのために、ご自分が決められた計画を変更することも厭われません。たとえば、ソドムとゴモラを滅ぼそうとされた際、アブラハムが甥のロトたち一家を心配して熱心に神さまにとりなしを願ったら、神さまは彼の願いを聞き入れられました。また、ヨナ書では、悪さばかりをしていたニネベの人たちを滅ぼそうとされていた神さまでしたが、彼ら一同が悔い改めたら、彼らを赦されました。何週間か前の福音の、カナン人の女性にも、イエスさまは彼女の熱心な願いを聞き入れて、最初の計画とは違ったけれど、異邦人である彼女の娘の病を癒されました。そのように、神さまは私たちの時々の必要や願いに応じて働いてくださいます。私たちはそうした神さまの柔軟性のある、フレキシブルな導きの中に生かされています。

 

今日は、第一朗読、旧約聖書の創世記のみことばに聴いてまいりましょう。今日の創世記50章は、創世記のほぼ終わりで、37章から始まるヨセフ物語の完結部分です。今日は、このヨセフ物語を振り返りながら、神さまの計画と私たちの人生について考えてみたいと思います。ヨセフは、ヤコブが年老いてからの子でしたので、ヤコブはヨセフのことを溺愛、いえ、他の兄たちに比べて明らかに偏愛をしました。そんなヨセフを、兄たちは妬み、意地悪をすることも少なくありませんでした。ヨセフもまた、そんな兄たちのことを、すぐに父親に告げ口するのでした。父ヤコブは、二人の妻や側室たちとの多くの子どもがいたのです。このように、まず、父親の側の問題を、ヨセフは身に帯びており、ヨセフ自身もそうした中で、少し思いあがった心で育ったのかもしれません。

 

ある日、彼が夢を見ました。それはヨセフと兄たちが畑で束を結わえていた夢でした。すると、ヨセフの束が立ち上がり、兄たちの束が周りに来て、ヨセフの束にひれ伏したというものでした。それを聞いた兄たちは、自分たちがお前にひれ伏すなんてと、ヨセフに、より大きな憎しみを抱くようになりました。ある日、またヨセフは別の夢を家族に話しました。それは、太陽と月と11の星がヨセフにひれ伏したというものでした。これについては、父ヤコブも、父や母や兄たちがお前にひれ伏すとは何事かと、ヨセフを叱りました。ヨセフが夢について持っている特別な才能は後々発揮されるわけですが、しかし、だからと言って、このように何も考えず、兄たちや親に向かって話す彼は、たいへん無邪気であるとともに、思いあがっているとも言えるし、周りの人たちの気持ちを少しも考えず、何でもペラペラ話してしまう青年であったとも言えるでしょう。彼が素晴らしい完璧な人だったわけではなく、彼にも、こうした弱さや課題があったということを、私たちは受け止めたいと思います。

 

そんなヨセフですが、兄たちの憎しみを買い、兄たちは彼を殺そうと企てますが、それをいざ実行しようとした段階で、兄たちの内の一人が、さすがに殺すのはやめようと思い留まらせます。その結果、ヨセフは命だけは何とか救われましたが、エジプトに売られてしまうことになりました。兄たちは父親に、獣の血をつけたヨセフの着物を渡して、ヨセフが死んだと思わさせます。父親は、そのことを非常に悲しみました。

 

ヨセフは、エジプト王ファラオの宮廷の役人の家に引き取られました。ヨセフは、神さまに支えられ、祝福されて、神さまから与えられた能力があったため、その役人に認められ、家の財産の管理を任されました。「主がヨセフとともにおられたので、彼はうまく事を運んだ」と聖書は告げています(38:2)。ヨセフを通してエジプト人もみな祝福されるほど、恵まれた日々を過ごしていました。

 

しかし、ある事件が起こりました。ヨセフは、イケメンで、体つきも優れていたので、彼の主人、ヨセフを引き取ったその役人の妻が、ヨセフに言い寄るのです。けれども、彼は、神さまと主人への忠誠ゆえに、その誘いを断り、彼女と一緒にいることも避けるようになりました。すると、ある日、彼女は実力行使に出ます。ヨセフが彼女の誘いを断ると彼の服をひっぱり脱がし、ヨセフが彼女を乱暴したとみんなに言い触れたのです。ヨセフは、そのことゆえに、主人に捕らえられ、投獄されました。

 

けれども、その獄中でも、ヨセフは神さまに祝福をされて、看守長の信頼を得て、他の囚人たちの管理を委ねられました。彼も立派にその期待に応えました。ここでも、「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」と告げられています(38:23)。その獄中で、ある二人が夢を見ました。その夢をヨセフが解き明かしました。一人は王の給仕役の夢で、ヨセフは彼がやがて元の職務に復帰できると解き明かしました。もう一人は王の料理長の夢で、ヨセフは彼がやがて処刑されると解き明かしました。そして二人ともヨセフが解き明かした通りになりました。ヨセフは給仕長に職務に復帰したら、自分の冤罪を王に伝えてくれるように話していたのですが、給仕長はすっかり忘れてしまいました。ここにも自分の立場が救われれば、もう他の人のことなど、たとえそれが自分のためによくしてくれた人だって忘れてしまう、人間の身勝手さを思います。

 

それから二年が経ち、今度はエジプト王ファラオが、自分がみた夢に悩まされました。王は、国中の賢者や魔術師を呼び集めて、夢の意味を尋ねたけれど、誰一人解き明かすことはできませんでした。その時、給仕長がヨセフのことを思い出し、王に伝えました。そこで王はヨセフを呼んで自分の夢を伝えました。すると、ヨセフは、それが今後7年間エジプトに豊作が訪れて、その後、7年間、それをしのぐ大飢饉が訪れることの予知であると解き明かしました。だから、王の命令により、この7年のうちにできるだけ穀物を蓄えて、その後の7年の大飢饉に備えるように、そしてそれを管理する責任者を選ぶように、進言しました。王は、ヨセフの忠告と進言を受け止めて、ヨセフ自身をその責任者に委ねました。ヨセフが夢を解き明かす際の、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」(41:16)との言葉は、とても印象深いものです。また彼は、王に与えられた働きを担う中で、授かった自分の長男に、忘れさせるという意味のマナセという名前を付け、「神は、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と言い、次男には増やすという意味のエフライムという名前を付けて、「神は悩みの地で、わたしの子孫を増やしてくださった」と言っています(41:51-52)。彼の苦しみと、その苦しみの中で働かれる神さまへの感謝を受け止めることができます。

 

ヨセフが告げたとおり、7年の豊作の後、大飢饉が始まりました。しかし、エジプトには彼の管理により蓄えてあった穀物があるので、国民は飢えずに済んだばかりか、周辺の国々からもエジプトに穀物を買いに来るようになりました。経済的な効果もあり、エジプトはより安定することができたのです。さて、イスラエルヤコブの子どもたち、すなわち、ヨセフの兄たちも、穀物を買いに、エジプトを訪れました。対応したのは責任者であるヨセフです。でも兄たちは、まさか自分の弟がそんな要職に就いているなんて思いませんので、それがヨセフだとは気づきません。もちろんヨセフは気づきました。また、かつて自分がみた、兄たちの束が自分の束にひれ伏した夢も思い出しました。彼は自分の身を明かさず、兄たちが言っている、末の弟であり、母が同じのベニアミンを連れてくるように命じました。そして人質として兄のうちの一人を残していくように命じて、穀物を一杯袋に入れて兄たちを帰国させました。

 

兄たちは帰国して、エジプトの責任者に、ベニアミンを連れてくるようにと命じられ、一人の兄が人質に取られたことを父親に話すと、父親は息子を二人も失ってしまったと悲しみました。そして、末の息子を連れて行くことだけは絶対に許さないと言いました。しかし、しばらくして穀物が再びなくなってしまいます。ですので、やむを得ず、父親は、末の息子べニアミンも連れて、兄たちをエジプトへ行かせました。ヨセフは、ベニアミンを見て、感極まり、席を外して泣きました。そして、兄弟を招き宴会をします。兄たちはまだそれがヨセフだとは気づきませんが、ヨセフは兄弟順に宴席を設けたので、兄たちは驚きました。ちなみにベニアミンだけ大盛でした。その後もいろんなやりとりがあり、兄たちが父親のことを話していた際、ヨセフはもう普通にしていることができなくなり、エジプトの役人たちをみな人払いして、大泣きし、自分のことを兄弟たちに告げました。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」と。そして続けて言うのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」(45:3-)。彼は、父ヤコブを連れてくるように、兄たちに言い、みんなと抱き合い、泣き合いながら語り合いました。

 

ヤコブと兄弟たちがエジプトで暮らすようになってしばらくして、父はこの世を去りました。兄たちは、また心配になりました。父亡き後、弟ヨセフは、かつて自分たちが彼にしたことの恨みを晴らすのではないかと。しかし、そんな兄たちの不安を知り、ヨセフは、涙を流しながら言うのです。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」(50:19‐)

 

これがヨセフ物語です。ここでは、ヨセフ自身の弱さや課題と、彼を取り巻く様々な人の弱さや罪が蠢き、その中で波乱万丈の人生を送ったヨセフの姿が伝えられます。しかし、彼はそれらを「わたしではなく、神が働いてくださった」と受け止め、受け入れていくのです。神の導きの中にいる私であるとの信頼と信仰で生きた彼の姿を思います。あの王の給仕長がヨセフのことを伝え忘れた二年間も、彼がそうした信仰に立ち、また彼が謙虚になるために必要な時間だったかもしれません。

 

私たちが生きる上で、様々なことがある人生です。その中には必ずしも受け入れがたい事柄もあるでしょう。でも、そうした中で、神さまが私たちに働きかけ、私たちを導いてくださる。私たちはこのことを信じて歩みたいと思います。聖書にこんな言葉があります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」、神さまは私たちへの愛の中で、様々なことがありながらもすべてを益としてくださるように働いてくださいます。また、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 神は真実な方です。 あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とも聖書は告げています。私たちには、いろんな試練がある。でも、神さまはそれに耐える力を私たちに与え、逃れる道をも備えていてくださるという、この約束を信じたいものです。

 

今日のメッセージのタイトルを「神の物語の中の私」としました。私の人生の物語は、神さまの計画、神の物語の中にあるのです。そのことを信じ、神の導きの中で一日一日を生かされてまいりましょう。

 

主よ、わたしを導いてください。

 

神さま、いろんなことがある私たちの人生の歩みですが、あなたが、私のために働いて、すべてを益としてくださること、耐えられない試練に合わせず逃れる道も備えてくださることを信じて、一日一日を歩んでいくことができるように導いてください。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 

 
(時間がなく、今週は、始めと終わりはトリミングしていません。)

 

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