yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

黙想 マタイ21:33~44

マタイによる福音書21章33~44

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

黙想

 

前週に引き続き、再びぶどう園のたとえが語られる。前週も言及したように、ぶどうやぶどう園のお話は聖書の舞台の人々にとって、身近な話題であった。ぶどう園は、イスラエル、また神の国を表し、ぶどう園で働く農夫たちやぶどうの実りは、イスラエルや神の民を表す。

 

第一朗読のイザヤ書5:1~7。神は、喜びのうちに愛の歌を歌いながら、私たちの実りを楽しみに待っておられる。私たちを喜び、期待してくださる神。しかし、実際に実ったのは酸っぱいぶどう、期待はずれの実りだった。神の前に期待外れな私たちなのだ。神が私たちに臨んでおられる正しい裁き(みんなが平等に平和に生きられること)や正義を行うことができずに、流血や叫喚(苦しみの叫び)を人々の間にもたらす生き方をしている私たちであることを、まず受け止め、悔い改めたい。

 

福音書。ぶどう園の主人は、神を表す。主人は、ぶどう園を創り、垣を設置したり、絞り場を作ったり、やぐらを建てたりして、ちゃんとすべてを整えて、農夫たちに託して、収穫の時まで旅に出かける。それは、無料サービス。地代は取らない。この世における神の国をきちんと整えられて、主の再び来られるその日まで、私たちに託される恵み深い神の姿を、ここから受け止めたい。

 

神は、私たちのことを信頼しつつ、この世界を私たちに託されるのだ。創世記1章。「地に満ちて、地を従わせよ」。神の祝福の中で、神に代わって、この地上を管理する責任が、私たち人類には与えられている。私たちは、いわば神の摂政として、その働きを担っていく。

 

10月22日、選挙の日を迎える私たち。この神の信頼に応えて、神に託された世界を守り、管理する責任を果たしたい。また、それにふさわしい候補者が選ばれるように切に願うものだ。人々の間で、流血や叫喚ではなく、みんなが喜びと愛の歌の中で、正しい裁き(平等で平和)がなされ、正義が行われる、そんな国と世界を望みながら。

 

さて、収穫の時、主人はぶどう園にしもべたちを送ったところ、農夫たちは、そのしもべたちに乱暴して殺してしまう。神が送った神のしもべ、預言者たちの言葉を聞かず、自分たちの中から追い出したり、迫害したり、殺したりしてしまったイスラエルの人たちの姿。同時に、これはイスラエルの人たちのみならず、神の言葉と、神が送ってくださる使いを、受け入れずに、心の中から追い出して、抹殺して、なかったことにしてしまう、そんな私の姿でもある。

 

でも、神は何度でも使いを送り続けた。たとえどれほど人々が受け入れなくても、愚かなほどに、神は私たちを天の国に招くことを諦めない。しかし、私たちはその神の心をわからず、何度でも繰り返し、それを反故にしてしまう。

 

ついに、ぶどう園の主人は自分の愛する息子を送る。息子を送るなら、さすがに彼らもわかってくれるはずだと。しかし、農夫たちはその息子を殺す。彼を殺して、財産を自分のものにしようと企てたのだ。最愛の御子イエスを私たちのもとに送る神。しかし、人々、そして私たちは、御子のことも受け入れず、十字架に追いやって殺してしまった。

 

神の領域を犯す私たち。自分がこの世界を手に入れ、支配しようとする私たち。昔も今も、この世の中で起こっていること。バベルの塔ヘロデ王。ネロ皇帝。そして今の為政者たち。でも、それらは、私たち一人ひとりの罪と残酷さの表れであって、私たちから遠い話ではない。

 

その先、考えられる物語の展開は、主人は、農夫たちからぶどう園を取り返し、農夫たちを裁いて殺して滅ぼすということ。私たちも天の国から追い出され、裁かれ、滅ぼされても仕方がない、そんな存在なのだ。神の国はあなたがたから取り上げられ、それにふさわしい民族に与えられる」、これはただイスラエルの人に対して言われている言葉というのではなく、この私に向けて言われている言葉でもある。神の国は私から取り上げられる。

 

でも、ここで思ってもみなかったような、人知をはるかに超えたことが起こるのだ。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。私たちが十字架へ追いやり、殺してしまった御子イエスが、私たちの気づかぬうちに、私たちを支える土台の要の石となった。十字架こそ、私たちの要の石。こんなことは、私たちに予想だにできなかったことだ。そう、「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」ことだから。

 

「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」私たちは、このキリストの十字架という要の石によって、徹底的に打ち砕かれ、押しつぶされる必要がある。御子の十字架によって、罪ある自分が打ち砕かれ、高慢な私が押しつぶされる。そのことによってこそ、神の国にふさわしくないこの私が、再び神の国の民として回復されるのだ。

 

21章は、エルサレム入城の出来事から始まっている。十字架に向けてひたすら歩みを進めるキリスト。このキリストが今日のみことばを語っておられる。直前の二人の息子のうちの一人のように、ふさわしくない者だけど、でも悔い改めて、十字架の憐れみに立ち返り、神の国に招かれる歩みをしたい。恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ。