yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

黙想 マタイ22:15~22

マタイによる福音書22章15~22

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

 

黙 想

「イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけよう」として、イエスに質問をする彼ら。イエスの言葉をどのように聞くのか、その姿勢。自分自身にとって都合のよいような言葉を引き出そうとする彼ら。私たちの中に、そうした姿は、ないだろうか。聖書のみことばをどう読むか。どう受け止めるか。サタンでさえ、聖書のみことばを語りながら、イエスを誘惑したことを思う。自己正当化のために聖書のみことばを用いない。人を裁いたり、陥れたりする道具として聖書を用いない。「文字は殺すが、霊は生かす」

 

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」。なかなか狡猾な問いだ。当時のイスラエルは、ローマの支配下にあった。そのため、イスラエルの人々はローマへの税金を納めなければならなかった。しかし、彼らのもともとの信仰は、神こそが我々の支配者であるというものだ。だから、この世の支配者に対して税金を納めることは、その信仰を侵すことになる。よって、本来的には信仰的にローマへの納税は律法的には認められないものだ。けれども、実際には、納税から免れることはできない。そうした中で、皇帝への税金の律法的な是非についてイエスに尋ねた場合、もしイエスがそれを是認するなら、皇帝の支配権を認めることになり、神の支配という信仰を侵し、さらには、民衆の生活苦への無理解を表すことになる。彼らファリサイ派の人たちが、イエスを訴える口実ができるのだ。また、逆に、イエスがそれを否認したとしても、それはローマ皇帝に対する反逆罪となり、皇帝の支配を重んじることで利益を得ている人たち、その勢力の人たち、主にヘロデ派の人たちが黙っていないだろう。このように、イエスがいずれを答えても、イエスを陥れて罪に定めることができることができることが意図された質問であった。

 

「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」と彼らはイエスに向かって言っているが、実際、イエスはそうしたお方であるから、これは字面的には彼らの言うとおりだ。しかし、彼らのこの言葉は本心ではない。イエスを追い込もうとする魂胆の中で語られた言葉だ。「だれをもはばからない」からこそ、「私たちの質問も誤魔化さずに答えなさい」という意味合いが込められているし、「人々を分け隔たなさらない」からこそ、皇帝の支配に反対する人たちにも、それを重んじる人たちにも忖度せずに、「真理に基づいて神の道を教え」「真実」のみを語るように、彼らはイエスに迫っているのだ。

 

エスは、彼らにローマに納めるための硬貨を持ってこさせる。そして、イエスは彼らに「これは、だれの肖像と銘か」と尋ねた。彼らは、「皇帝の者です」と答える。その硬貨には、皇帝の顔の絵が刻まれていた。また、ティベリウス・カイサル、いと高き神なるアウグストゥトゥスの子」という言葉も刻まれていたという。それゆえ、イスラエルの人々が、このお金を持ち歩くのは、律法的には本来ふさわしくない。なぜなら、何も刻み込んではならないという十戒の教えに反するし、神以外のものを神としてはならないというこれまた十戒の教えにも反する。つまり、彼らにとって重い罪である、偶像崇拝に当たるからだ。だから実際、神殿における献金に、この硬貨は用いることができず、両替所で両替してもらう必要があった。

 

エスは、その硬貨を手に取りながら、彼らの意地悪な質問に答える。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

 

私たちは、この世の中で生かされている。この世の中で生かされている限り、この世のいろいろな柵の中で、様々なことに巻き込まれながら、この世の制度に従って生きていかなければならない。それが「皇帝のものは皇帝に」とイエスが語っていることの意味であると受け止めたい。けれど、同時に、もう一つ、私たちには忘れてはならないことがある。私たちが「神のもの」であるということを。私たちの人生は、究極的には神のものであるから、神にそれをお返しするためにこそ存在しているものなのだ。そうした中で、「神のもの」として、「皇帝のもの」=「この世のもの」にかかわりながら、私たちは生きていく。この世への怒りや悲しみ、葛藤や痛みを心に抱きながら、でも、そのこの世の中で、神のものとして生きていくのだ。

 

また、イエスのこの言葉から、この世の中に生きる者として、私たちが負っている罪や悪の現実をも受け止めたい。この世の支配は、神の支配を忘れ、それを蔑ろにして、人々を誤って支配してしまう。そこで、本来、神のものである人々に対して苦しみを強いてしまう。あるいは、そうしたこの世の支配に乗じて、そのことで自分の利益を得たり欲望を満たしたりしてしまう私たちの現実もある。(今日の福音で言うなら、皇帝の支配を認める立場の人たち、硬貨を両替していた両替人たち、税を取り立てていた収税人たち…。)さらには、やむを得ず、そうした立場で生きていかねばならない人たちを、差別したり、罵ったりする、そうした弱さもある。私たちは、そのような一つ一つの現実を見つめつつ、にもかかわらず神のものとされているのだということを忘れず、そこに立ち返って生きていく。

 

全聖徒主日。すべての聖徒の主日。「生きている者も死んだ者も」(信仰告白)聖徒=神のものとされた人たち。聖徒とは、この世の一般の人たちより偉い「聖人」たちのことではない。キリストにあって神のものとされたすべての人たちの意味。だから私たちも(ゆえに、こんなどうしようもない私だって!)聖徒の一人としてされている。そのことをまずこの「全聖徒」という言葉から受け止めたい。

 

私たちの人生は、神のものは神に返す。神のものとして、神の前を生き、神に返していく生涯。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られることを、わたしたちは待っています。天の民として、神のものとして、救い主キリストを待ち望みながら、この世を生きる。この世の様々な重荷を身に負いながら。でも神のものとして、天の民として。天を仰ぎながら、地を歩む私たち。

 

この世の現実(今日の聖書で言うなら、皇帝の支配)だけを見るならば、そこは悲惨で絶望的な神などいないような世界かもしれない。でも、「神の前で、神と共に、神なしにぼくらは生きる」のだ。

 

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」これを、この世のことと神のことと二元論的に考え、キリストの教会や信仰者はこの世のことに関わるべきではないという受け止め方がされる場合もある。あるいは、この世のことには教会や信仰者は服従すべきであるという考えもある。でも、それらは違うだろう。

 

私たちは、この世のことに密接に関わり合いながら、そこから逃れることができず、神を信じて、救い主を待ち望むながらこの世のただ中で生きているものだ。この世を旅する神の民としての聖徒の歩みだ。この世のことと、神のことと、そんな風に分けて考えることも、そのように生きることもできない。神への信仰に関係のない、この世の事柄など存在しないのだ。この世のただ中で聖書のみことばを受け止める。その試練の中で。Tentatio!

 

究極的なことと究極以前のこと。神によって救われて神のものとされた私たちの尊厳が、皇帝のもの(この世の支配)によって脅かされるときに、私たちはそこでそれを放置していてはならない。それは究極以前の事柄であるが、私たち聖徒たちの課題である。その人の尊厳を脅かす現実を取り除き、皇帝(この世の支配)に対してそれをつき返して、神のものとしての私たちの尊厳を回復していく務めもまた、私たちにあるだろう。究極的なことだけを見つめて、究極以前のことに無関心であったり諦めたりしてはならない。

 

神が「極めてよかった」とおっしゃった状態を保つ、神の支配がこの地上で行われるために仕えて働く使命が私たちにはあるのだ。神のものとして創られ、キリストによって聖徒とされた、私たちの宣教の使命である。天のみ国に召されるその日まで。