yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年11月5日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第22主日・全聖徒主日 2017年11月5日

「天を仰ぎ、地を歩む」

(マタイによる福音書22章15~22)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

教会の暦で、毎年11月初めの主日は、「全聖徒主日」にあたります。これは、本来11月1日が「全聖徒の日」なのですが、平日に教会で特別な礼拝を守ることが、みなさんなかなか難しいので、11月の初めの主日に「全聖徒主日」として振り替えてもよいと定められていることによるものです。

 

ところで、もともとこの11月1日は、「諸聖人の日」、「万聖節」として記念されていました。つまり、教会の歴史上、聖人と呼ばれる、何か特別な働きをした人たちを記念する日だったのです。しかし、私たち日本のルーテル教会では、11月1日を「諸聖人の日」ではなく、「全聖徒の日」と呼びます。英語では、いずれもAll Saint’s Dayで同じですが、日本語でそのように呼び方を変えているのは、この日の意味を、よりはっきり私たちに伝えてくれると思います。私たちがこの日に記念するのは、諸聖人、何か特別な働きをした聖人たち、そうした一部の人たちだけでなく、主イエス・キリストの福音によって神さまに召されたすべての聖徒たちを覚えるのです。この「聖徒たち」とは、神さまのものとして、神さまが受け入れてくださった人たちという意味です。

 

ですから、キリストの福音によって神さまのものとして受け入れられたすべての聖徒たちを覚えるのが、11月1日の全聖徒の日であり、今日、全聖徒主日なのです。特別な働きをした聖人と呼ばれる信仰者たちも、また、世界の片隅でひっそりと信仰生活を送った無名の信仰者たちも、ともにキリストによって神のものとして受け入れられた、同じ聖徒であると、私たちはこの日に覚えます。「あの聖人がこんな素晴らしいことをした」とか、「あんな不思議な奇跡を行った」とか、そうしたことを記念する日ではなく、「私たちの教会のあの人も、キリストの福音によって救われ、神さまに受け入れられた一人だよね」、「いやぁ、この人はちょっと問題ある人だったけど、でもこの人もキリストの福音によって神さまに受け入れられた一人だよね」と、そんな風にキリストの福音によって一人ひとりが救われて、神さまが恵みをもって、その人のことをご自分のものとして受け入れられたことを覚え、感謝し、神さまを賛美する日が、全聖徒の日、また、全聖徒主日です。

 

さらには、聖徒たちという時、それは、地上の生涯を終えて神さまのみもとに召された、すでにお亡くなりになられた方々のことだけを表すのではありません。今、この地上を生かされ、キリストの福音に与っている私たちもまた、神さまのものとして受け入れられ、聖徒たちの交わりの一人に加えられている。このことも、今日私たちが覚えたいことです。全聖徒主日に記念する全聖徒、私たちも、その一人ひとりなのです。そして、私たちがそのように聖徒たちの群れに加えられているのは、私たちが何か特別な働きをしたとか、神さまの前に特別にふさわしい歩みをしているというからではなく、ただただキリストの福音によって神さまの恵みで、神さまが私たちをご自分のものとして受け入れてくださっている、このことによります。私たち自身を見るなら、神さまの前に弱さを抱えて、罪深い歩みをしていて、神さまの御前にふさわしくないと痛感せざるを得ません。でも、神さまは、そんな私たちを、キリストにあって、「お前は、わたしのものだ。さあ、わたしの御国に集いなさい」とおっしゃってくださっている、これが私たちが聖徒であるということの意味です。

 

さて、今日も、私たちは、与えられた福音からみことばを聞いてまいりますが、そこで話題となっているのは、直接的には、神さまを信じる者たちは、皇帝に税金を納めるべきか否かということです。イエスさまに敵対するファリサイ派の人たちが、イエスさまを陥れて罠にかけようと企み、普段は仲が悪いヘロデ派の人たちと一緒に、イエスさまに大変意地悪な質問をしました。私たちが税金を納めることは、聖書の中のきまりである律法に適っているかどうかと。これは、どちらに答えても、イエスさまを罪に定めることができる、実に狡猾な質問でした。

 

と、申しますのは、当時イスラエルの国は、ローマに支配されており、その皇帝の支配下にありましたが、主なる神こそがこの世の真の支配者であり、異国の支配者であるローマ皇帝の支配を認めるわけにはいかない、それは神の支配を否定することだというのが、もともとファリサイ派の信仰でした。ですから、もしイエスさまが、彼らの質問に、税金を納めることは律法に適っていると答えるなら、その信仰に反して、イエスさまは神さまの支配を否定して、宗教的な罪を犯したと定めることができるわけです。また、逆に、税金を納めるのは律法に反していると、もしイエスさまが答えるなら、それは、ローマ皇帝の支配を大事にするヘロデ派の人たちからするなら、イエスさまがローマ皇帝の支配に反逆する言動をしたということになり、社会的な罪を犯したと定めることができることになります。ですから、この質問をした彼らは、実にしてやったりで、「お前もこれでもう終わりだな」というそんな思いで、イエスさまにこの問いを尋ねたのだろうと考えられます。

 

しかし、その彼らの問いに対して、イエスさまは、驚くべき答えをなさるのです。イエスさまは、まず彼らに税金として納める硬貨を持ってこさせます。そして、その硬貨に刻まれているものは何であるかを、彼らに逆に尋ねました。それに対して、彼らは「皇帝のものです」と答えました。その答えの通り、そこには、ローマ皇帝の顔と、「皇帝ティベリウス、いと高き神アウグストゥトゥスの子」という言葉が刻まれていたと言います。実は、これは、神さまの信仰に生きようとするイスラエルの人にとっては、たいへん耐え難いものでした。なぜなら、彼らは、主なる神さま以外のものを神としてはならない、また、いかなる像も刻んではならないという、あの十戒の教えをとても大事にしていたからです。けれども、実際には、そのように、皇帝の顔が刻まれた、しかも神以外のものを神であるとして刻んである、その硬貨を持ち歩き、それを用いて生活しなければならなかったのです。ちなみに、この硬貨は、そのまま彼らの神殿への献金として納めることはできませんでした。なぜなら、今述べた理由からです。神以外のものを神として、またその顔の絵が刻まれているそんなものを、真の神さまへのささげものとすることなど、彼らの信仰にとって決して認めることができないことだったのです。ですから、神殿に献金する際には、伝統的なユダヤのお金に交換しなければなりませんでした。すると、当然、その際に両替手数料もかかり、毎日、やっとの思いで暮らしていた人々にとっては、それもまた大変な重荷でした。

 

エスさまは、その硬貨を手に取りながら、答えました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。このイエスさまの答えに対して、「イエスさまのお言葉の通り、私たちクリスチャンもちゃんと税金を納めるべきです」などという説明がなされる場合がありますが、ここでイエスさまがそんなことをおっしゃりたいわけではないでしょう。イエスさまは、きっと、本当なら、そんなローマ皇帝の顔や名前が刻まれている硬貨なんか持ち歩きたくないし、ローマの支配のもとで大変な生活を強いられるのはもううんざりだという、人々のそうした痛みや苦しみを受け止めながら、振り絞るような思いで、この答えをなされたのだと思います。

 

つまり、この地上の世界において、この社会のただ中で生かされている私たちですけれども、そのように私たちがこの地上に生きている限り、この世のいろいろな柵の中で、様々なことに巻き込まれながら、否が応でも、この世の様々な制度に従って生きていかなければなりません。イエスさまは、そうした人々の痛みや苦しみを受け止めながら、「皇帝のものは皇帝に」とおっしゃったのでしょう。つまり、あなたがたは、今は、そのように皇帝のこと、この世のことに縛られながら生きていかざるを得ない。それは本当に大変で、辛く悲しく、そして腹立たしいことであろう。でもそのように生きていかねばならない現実がある。そんな思いで、イエスさまは「皇帝のものは皇帝に」とおっしゃったのではないかと思うのです。でも、イエスさまの答えはただそれだけでは終わりません。「皇帝の者は皇帝に」その生活を強いられる私たちですが、もう一つ、私たちに忘れてはならないことがある。それは、私たちが他でもなく「神のもの」であるということです。私たちは神さまのものとして、神さまに私たちの人生の歩みをお返しすべく、そのためにこそ生かされている私たちの人生であるのです。つまり、私たちはこの世で、「神のもの」として、「皇帝のもの」つまり、「この地上の、この世のもの」にかかわりながら生きています。この世に対するいろんな怒りや悲しみ、葛藤や痛みを心に抱きながら、でも、そうしたこの世のただ中で、神さまのものとされ聖徒たちの群れに加えられて、私たちは生かされているのです。

 

そのことを忘れず、神さまの前に、神さまを見つめながら、神さまのものとして生き、神さまに私たちの人生をお返しする、そんな生き方を、イエスさまは私たちに望んでおられる。それが「神のものは神に返しなさい」ということの意味であると思います。この世の現実を見る時、実に多くの残酷なことや不安なことがあり、もはや神などいないのではないだろうか、そんな思いになることも少なくありません。ドイツのルーテル教会の牧師であり神学者ディートリヒ・ボンヘッファーは、ヒトラーが率いるナチスの横暴がなされているその時代に、自分自身もナチスによって捕えられて牢に閉じ込められながら、友人に「神の前に、神と共に、ぼくらは神なしに生きる」と書き送りました。「神なしに生きる」と言っても、これはボンヘッファーが「もう神などいない」と思ったというわけではありません。自分の周りを見るなら、神さまなどもうどこかへ行って、いなくなってしまった、そんな風に思わざるを得ないような状態だけれども、でも、そんな神がいないようなそのただ中にあっても、自分は神さまの前に誠実に、神さまがともにいてくださるという希望をもって生きていくのだという、彼の信仰の告白です。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」との今日のイエスさまのみことばも、まさにそのことを私たちに告げているのだと思います。皇帝が支配している、つまり、この世の厳しい支配のもとで、私たちはそれに苦しみながら生きていかねばならない。しかし、そのただ中で、私たちは、神さまのものとされたことを信じて、神さまの前に誠実に、神さまと共に希望を持って歩んでいく、そして、神さまに私たちの人生をお返ししていく、そうした歩みをイエスさまは私たちに望んでおられるのではないでしょうか。

 

パウロは、フィリピ書の3章で「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と語っています。パウロも、この手紙を牢屋の中で書いたと考えられています。いつどんな風に自分が処されるかわからない大変厳しい状況です。そうした本当に大変な中で、パウロはただそのことだけを見ていたのではなく、天を見上げ、天に生かされる、神のものとされた者として、キリストを待ち望みながら、この地上での日々を過ごしていたのです。いろんな心配があり、不安があり、危険があり、苦しみがある。そうした世の中を、私たちも生きていかねばなりません。「しかし、わたしたちの本国は天にあります」。神さまのものとされた、天の民として、その天を仰ぎながら、この地上を歩むのです。やがて必ずキリストがおいでになり、私たちを救い出してくださる。私たちの苦しみにピリオドを打ってくださる。そのことを信じて、天を仰ぎながら、この地に足をつけて歩むのが、私たちが「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とのイエスさまのみことばに従って生きる歩みです。

 

今日、全聖徒主日。キリストにあって、神さまの恵みによって、神さまのものとされたすべての人たちを覚え、その人たちを導かれた神さまを賛美する日であり、私たちもその聖徒の群れに加わえられていることを覚える日です。すでに地上での生涯を終えた信仰の兄弟姉妹が、その生涯を「神のものを神に返し」て、今や天のみ国に生かされていることを信じて、私たちも今はまだしばらく「皇帝のものは皇帝に」という地上の歩みを続けていかねばなりませんが、神さまのものとされた者として、「神のものは神に」と天を仰ぎながら、なお残された生涯を神さまの導きの中で全うしようではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま この世の厳しさの中で、その重荷に苦しみ押しつぶされそうになりながら歩んでいる私たちを、御子キリストによって、あなたのものとして引き受けてくださり、御国の民として、天を仰ぎながら、この地上の生涯を歩むことができますことを心より感謝いたします。なおこの地上の重荷を抱えつつ生きていかねばなりませんが、あなたに私の人生をお返しするその日まで、あなたが私たちとともにいてください。救い主、イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2017-11-05unedited.MP4 - Google ドライブ

 

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