yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

降誕祭メッセージ@大麻ルーテル教会

降誕祭メッセージ 2017年12月24日
 
「あなたがたのために」
(ルカ2章1~20、マタイ2章1~12)
 
わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン
 
私たちは、今日クリスマス、主イエス・キリストのご降誕、お誕生を祝うために、神さまの招きによって、ここに集められました。まず、ともにこの祝いの時を過ごすことができることを、神さまとみなさんに感謝します。そして、みなさんに神さまの祝福が豊かにあるように祈ります。
 
いま、一人ひとりのお手元の蝋燭に火がともされました。その灯火のように、私たち一人ひとりのもとに救い主イエスさまがお生まれくださいました、そのことを今日ともに喜び祝いましょう。「きょうダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった」と、あの2千年前のクリスマスの夜に、天使たちが羊飼いに告げたことばが、今日私たちにも告げられなす。今日、あなたがたのために、つまり、私たちのために、あなたのために、また、私のために、救い主がお生まれになった!今日、私たちはこのことを喜び祝うのです。
 
札幌に出かけると、街中はクリスマス一色ですが、クリスマスは本来ただのお祭り騒ぎではありません。クリスマス、この言葉は、キリストを意味する「クライスト」と、ミサ、すなわち礼拝を意味する「マス」と言う言葉から成り立っています。つまり、「キリスト礼拝」がクリスマスという言葉の語源であり、私たちのためにお生まれになられた、神の御子、救い主イエス・キリストを礼拝すること、それがクリスマスのもともとの意味なのです。ですから、今日、このように私たちがともに教会に集い、一緒にさんびを歌い、みことばを聞き、祈ること、それはふさわしいクリスマスの過ごし方です。今日、あなたがたのために、わたしたちのため、あなたのため、また私のために救い主がお生まれになった、このことを神さまに感謝するひとときを過ごしたいと思います。
 
先ほど2箇所、聖書のみことばを聞きました。ルカ福音書には、救い主イエスさまがお生まれになったその当日の夜のことが伝えられていて、マタイ福音書には、それからしばらく経った頃の出来事が伝えられていました。いずれも、クリスマスの物語として、とてもよく知られている聖書の箇所であり、幼稚園の子どもたちの聖誕劇などの場面にもなるところです。
 
まず、ルカ福音書では、羊飼いたちに救い主イエスさまの誕生が告げられます。毎日過酷な生活を余儀なくされ、人々からも顧みられず、むしろ蔑まれていた羊飼いたちが、「夜通し羊の群れの番をしていた」、つまり羊飼いの仕事をしていたときに、真っ先に救い主の誕生が告げられるのです。私たちは、今日、このことに深い意味を受け止めたいと思います。毎日、大変な思いをして、周りの人たちから理解もされず、あることないこといろんなことを言われながら必死に暮らしている私たちにも、救い主がお生まれになった事実が告げられます。
 
その救い主は、馬小屋の中の飼い葉おけの中に寝かされている小さな赤ちゃんです。その舞台は、立派なホテルではありません。ふかふかのベッドでもありません。とても貧しいところ、汚いところ、さびしいところ、不快なところ、そこにこそ救い主がお生まれになられたのです。このことは、次のことを私たちに語りかけます。たとえ、私たちがどれだけ貧しくても、どれだけさびしくても、あるいはどれだけ自分の汚さに苦しむとも、毎日不快な思いで過ごしていても、あなたはもう独りぼっちではない。あなたのために救い主がお生まれになった。毎日悩みながら、大変な思いをしながら生きるあなたと共に、救い主イエスさまはおられる。救い主イエスさまはそんなあなたを照らしてくださる光としてそこに輝かれると。
 
クリスマス、12月25日は、厳密に言うなら、イエスさまの誕生日当日ではありません。実は、イエスさまが何月何日にお生まれになったのかその正確な日付はわからないのです。それではなぜ12月25日にイエスさまの誕生を祝い、その日がなぜクリスマスなのでしょうか。かつてその日は、ローマの国で、太陽の神さまの誕生や勝利を祝うお祭りの日でした。今年の冬至は、12月22日でしたが、冬至は一年で一番、夜の長い日です。その日を過ぎると、段々と夜の時間が短くなり、昼の時間が少しずつ長くなってきます。ローマの人たちは、そのことを覚えて、太陽の神さまが夜の闇から誕生した、あるいは夜の闇に太陽の神さまが勝利したことを祝ったのです。ローマのキリスト者たちは、自分たちにとって、神の子、救い主イエス・キリストこそ真の光だ、キリストこそ闇に勝利したもう神だとの信仰に基づいて、他のみんなが太陽の神さまの誕生や勝利を祝っていたその祭りの日を、救い主イエスさまの誕生をお祝いする日としたのでした。
 
この世に輝く真の光、世の闇に勝利したもう世を照らす光なるキリスト、その誕生を祝うクリスマス。私たちの抱える闇も、この救い主イエス・キリストによって照らされる。どんなにこの世の中が真っ暗でも、心の中が真っ暗でも、救い主イエスさまがそうしたこの世界のため、また、私たちのためにお生まれになり、この世界とあなたを照らしてくださいます。その光が、あのユダヤベツレヘムの馬小屋から、そして、その中にある飼い葉桶から輝いています。その喜びの知らせが、毎日を必死に生きている、あなたに、あなたに真っ先に届けられるのが、クリスマスなのです。
 
今日のもう一つのみことば、マタイ福音書の聖書のみことばには、占星術の学者たち、なじみ深い言葉で言うなら博士たちが、遠い東の国から旅をして、お生まれになられた幼な子イエスさまを礼拝して、贈り物をささげたという出来事が伝えられています。東の国の占星術の学者たち、本来なら、この人たちは神の救いに与ることはできないと考えられていた人たちでした。
 
なぜなら、彼らは、まず東の国の人であって、異邦人、つまり聖書の舞台であるユダヤの人たちから見て外国人だからです。当時のユダヤの人たちは、自分たちこそ神に選ばれた聖なる民であって、それゆえ自分たちこそが神の救いに与ることができ、外国の人たち、異邦人は神の前に穢れているがゆえに、神の救いに与ることはできないと考えていたのです。
 
また彼らは、占星術の学者たちでした。占いを職業としていた人たちです。聖書の中で、占いは神さまが忌み嫌うことだと位置付けられています。私たちの人生の歩みを決めるのは神さまであって、占いのようなものに私たちの人生が左右されることなどないからです。しかし彼らはその占いに携わっており、そんな彼らは神さまの救いに与ることはできないというのが、当時の理解でした。このように外国人・異邦人で占星術の学者、彼らは、二重の意味で、神の救いに与ることは決しいてできないと考えられていた人たちでした。
 
でも、その彼らが救い主と出会うことができる。これは、救い主イエスさまがお生まれになられた今、神の救いは、そこからどれだけ遠くにいる人にも与えられるということを告げています。自分なんて、神さまの救いにふさわしくない。私なんてだめな人間だ。私はどれほど罪深いのだろう。自分はなんて汚れているのだろう。そんな風に自分のことを思っていても、またほかの人からそんな風に思われていても、そのあなたのために救い主がお生まれになった。あなたが神の救いから遠ければ遠いと思うほど、その救い主の誕生を知らせる星の光が明るくあなたの上で輝くのです。さあ、救い主の誕生をあなたもともに祝おうと。
 
私たちは、自分で自分がもうだめだ、救いようのないバカだと思い、自分のことを諦めてしまうこともあるかもしれません。生きていくことが辛くなり、そこから逃げ出したくなる時もあるでしょう。でも、神さまはあなたを決して諦めません。たとえどんなあなたであっても、自分で自分が嫌になるようでも、なおも神さまは「わたしはあなたを愛している、わたしにはあなたが必要だ、わたしはあなたを救いたい、あなたと一緒にわたしは生きていきたいのだ」とそうおっしゃって、ご自分の愛するひとり子を私たちのもとにお送りくださいました。その光が、今宵あなたの上に輝くのです。
 
さあ、私たちも、博士たちとともに、その光に導かれて救い主のもとに跪きましょう。自分のだめさ、どうしようもなさを見つめて、そんなダメダメでボロボロな私のためにこそ救い主がお生まれくださった、そのことを今日喜び感謝して受け止めたいのです。
 
救い主、赤ちゃんイエスさまと出会った羊飼いたちは、心から喜び神さまを賛美しながら帰って行きました。博士たちは、神さまのお告げに従い、別の道を通って帰って行きました。私たちも、私たちのためにお生まれになった救い主イエスさまを今宵、礼拝しました。羊飼いたちと共に私たちも喜び神さまを賛美して、ここを去りたい。博士たちと共に、今までとは違う新しい道を歩み出したい。クリスマス、救い主イエスさまがお生まれになった、神さまへの感謝のうちに、新しい一歩を踏み出し、また、新しい年を迎えようではありませんか。
 
みなさん、救い主イエス・キリストのご降誕、お誕生、クリスマスおめでとうございます。
 
いと高きところには、神に栄光があるように。地の上には、御心に適う人々に平和があるように。アーメン
 

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