yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年1月6日 礼拝メッセージ(主の顕現)@北見教会

主の顕現の祝日・新年礼拝 2018年1月6日

@北見聖ペテロ・ルーテル教会

 

「輝くみことば」

(マタイによる福音書2章1~12節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日は一年はじめの礼拝の日です。神さまに導かれて、この一年も私たちの教会の礼拝が導かれますように、また、一緒に礼拝する仲間が私たちの教会に加えられますように、心からお祈りいたします。特に、今、私たちは新しい教会堂の建築に向けて祈りつつ、様々な話し合いと準備を続けています。この新しい年にはそれが実現する予定ですが、私たちがともに信仰を分かち合い、神さまを礼拝し、地域の方々を招くためにふさわしい会堂が与えられるようお祈りしたいと思います。新しい礼拝堂は、今の私たちとともに、これからの新しい世代の人たちに多く集っていただくためのものであるということもまた心に納めながら、準備ができればと願います。

 

さて、私は今まで、深川または旭川の教会で責任を持っていたときには、毎年1月1日必ず新年礼拝を実施しておりました。今年は、大麻教会でも北見教会でも一日の礼拝が行われなかったため、旭川聖公会の教会の礼拝に参加しました。

 

毎年1月1日は、ルーテル教会でも、聖公会でも、教会の暦では「主イエスの命名日」となります。これは、聖書で、イエスさまが生まれてから「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」と告げられていることに基づき、イエスさまがお生まれになったことを祝うクリスマス12月25日から8日目の、1月1日がイエスさまが名付けられた日にあたるためです。

 

一年の初めの日に、イエスさまのお名前を私たちの心に刻んで歩み出すことには、とても意義深いことだと、私は思っています。礼拝に参加して、この一年も、イエスさまのお名前をいつも思い起こし、そのお名前によって慰められ、励まされ、強められ、生かされて歩むことの喜びを、新たにいたしました。

 

さて、今日1月6日は、教会の暦で、「主の顕現」の祝日です。今日の福音には、私たちが良く知っている出来事が伝えられています。それは、イエスさまの誕生を喜び祝い、幼な子イエスさまを礼拝し、イエスさまに贈り物をするために、東方の占星術の学者たち、東の国の博士たちが遠くから旅をして、ついにイエスさまと出会い、礼拝をすることができたという出来事です。

 

まず、この東方の占星術の学者たち、東の国の博士たちが、救い主イエスさまとお会いして、彼らがイエスさまを礼拝したということには、とても大きな意味があります。彼らは本来、神さまの救いにふさわしくない、そこから遠くにいる人たちであるとみなされていました。そんな彼らが救い主イエスさまと出会ったのが、今日の福音書が伝えている出来事なのです。なぜ彼らが神さまの救いにふさわしくなく、そこから遠いと考えられていたのかと申しますと、彼らは実は二重の意味でアウトでした。

 

まず、彼らは、東方の、東の国の人たちでした。現代のペルシアのあたりの人たちであったと言われます。あるいはインドのあたりの人たちであったという説もあるようです。ですから、聖書の舞台であるイスラエルユダヤの人たちからすれば、彼らは外国人、異邦人ということになります。当時、イスラエルの人たちの多く、特に宗教的に指導的な立場にあった人たちや敬虔な人たちは、自分たちこそ神さまに選ばれた聖なる民族であって、神さまはイスラエルの民を顧み、お救いくださり、他の国の人たち、異邦人は神さまの前に汚れていて神さまの救いに与ることができないと考えていました。今日の聖書の彼らもまた、その異邦人であったのです。

 

しかも、彼らは「占星術の学者」たちでありました。占星術、分かりやすく言うなら、星占いです。もっとも現代の星占いとは必ずしも同じではなく、星の動きを調べて天文学や気象学の専門家としての働きもしていたようですが、しかし、やはり怪しげな術を使って、その仕事をしていたようです。聖書の中で、占いは禁止されていて、神さまが最も忌み嫌うことの一つとされています。なぜなら、この世界や私たちの歩みを決めるのは、星の動きなどではなく、神さまのご計画でありお導きだからです。占いに頼るのではなく、神さまへの信頼こそ、私たちにとって大切なことなのです。しかし、彼らはその神さまが忌み嫌われるとされるところの占いに従事し、それを生業としていた人たちでした。これまた、当時の宗教的な感覚からすれば、神さまの前に汚れていて、神さまの救いに与ることができないとされる人たちでした。

 

このように、彼らは外国人、すなわち異邦人であり、占いに従事していたという二重の意味で、神さまの救いにふさわしくない、そこから遠いと思われた人たちでした。でも、そんな彼らが、人としてお生まれになられた救い主イエスさまと出会い、イエスさまを礼拝したという出来事を、今日の福音は伝えているのです。つまり、これは、イエスさまがお生まれになられたということは、そのイエスさまによって、神さまの救いが全世界のどんな人にも行き渡ることとなったということを表すのです。普通に考えるなら、神さまの救いに与ることはできない、そこからほど遠くにいると思った人にも、神さまの救いが与えられる、それが今日の福音、イエスさまの顕現の出来事が私たちに示していることなのです。

 

このように言うなら、たいへんダイナミックでグローバルな出来事ですが、同時に、もしかしたら、あまりにもスケールが大きすぎて、私からは遠い出来事のように思えるかもしれません。ですから、私たちは自分自身を見つめてみたいのです。私自身を見つめる時、決して自分が神さまの救いにふさわしい人物であるなどとは思えません。神さまを悲しませることを一杯しちゃうし、他の人を愛することもできないし、結構いい加減な自分だし、そんな自分は罪深く、神さまの救いからほど遠いものだと思います。でも、そうした神さまの救いにふさわしくない、そこからほど遠い私のために、神の御子、救い主イエスさまは、人となりお生まれくださった、神さまはイエスさまを私のためにお送りくださった。これが、今日の福音が私たちに語りかけていることです。

 

東方の占星術の学者たちは、そのことを単純に心から喜び感謝して、遠い旅をして、イエスさまに会いに行きました。そして、イエスさまと出会い、イエスさまを礼拝しました。決してその旅路は簡単なものではなかったことでしょう。私はバスやJR、たまに飛行機でこの北見にいつも来ますが、昔はそんなものはありません。きっと歩いたり、ラクダに乗ったりして、馬とかロバとかも使ったかもしれません、いずれにしても、大変な思いをしながらも、イエスさまに会い、イエスさまを礼拝する旅をしました。彼らがそんな大変な旅をしたのは、その大変さに勝る大きな喜びがあるからです。今日の福音に、「学者たちは、その星(イエスさまのお生まれになった場所を示す手がかりとなる星ですが、その星)を見て喜びにあふれた」とのみことばがありますが、「めちゃくちゃ喜びを喜びまくった」という感じの文法的にはちょっとおかしい表現がされています。普通の言葉では言い表せないほどの喜びでした。それほどの喜びをもって、彼らはイエスさまと出会い、イエスさまを礼拝する旅をしたのです。

 

そんな彼らの旅を、夜空に輝く星が導きました。星の専門家ですから、きっと夜空に輝く、不思議な星を見て、これは大ごとだと思って旅立ったのでしょう。でも、不思議な星なんか、空に五万とあるのではないでしょうか。その中には不吉な星だってあるはずです。彼らは常日頃そんないろんな星を眺めていたはずです。そうした中で、なぜ彼らは、その星を見て、王の誕生、メシア、救い主の誕生の徴と思って、立ち上がって出かける気になったのでしょうか。それは、きっと彼らはいろんな文献を調べて、その中の一つに、不思議な星が輝くとき、それは新しい王、メシアの誕生の徴であると説明されたものを見つけたのではなかろうかと思います。それは何か?きっと旧約聖書の預言のことば、あるいはそれについて説明されているものではなかったかと思うのです。「東の国の博士たちは、夜空に輝く星に導かれてイエスさまと出会うことができました」と、よくそんな風に言われますけれども、本当の意味で彼らのことを導いたのは、聖書のみことば、神さまのみことばであったと思います。

 

実際、彼らは星を見ただけでは、イエスさまのもとにはたどり着くことはできませんでした。彼らは、星を見ながら、初めエルサレムの宮殿に行くのです。ユダヤの新しい王様の誕生だから、ユダヤの都エルサレムの宮殿、お城を目指す、ある意味、それは当然の賢い判断であったと言えましょう。でもそこには、イエスさまはおられませんでした。そして彼らが行先変更をするきっかけとなったのは何か。それもまた、聖書の預言のみことばでした。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」これは旧約聖書ミカ書の預言がもとになったみことばです。

 

学者たちは、その聖書の預言のみことばを聞いて、エルサレムのお城から立ち上がり、たいへん辺鄙など田舎、それまでは最も小さな町と人々から呼ばれていたベツレヘムへ向けて行先変更をして出かけるのです。みことばなしには、ベツレヘムで新しい王、メシア、救い主が生まれるなどということは思いもつきません。みことばを聞いてこそ、初めて受け止めることができる事実です。このように、彼らがイエスさまと出会うために、もちろん夜空の星の輝きも役には立ちましたが、でも彼らを決定的に導いたものは、その星の輝きではなく、神さまのみことばの輝きでした。神のみことば、聖書のみことばが、彼らを照らし、イエスさまのもとへと導いたのでした。

 

また、イエスさまと出会った彼らは、《「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った》と、今日の福音は告げています。彼らは、エルサレムの宮殿からベツレヘムに出かける際に、ヘロデ王から、彼らがイエスさまと出会ったら、自分もその子を拝みたいので、どこでその子が生まれたか、伝えるようにと命じられていました。しかしヘロデには、その子を拝もうなどと言う気は実際にはさらさらなく、自分の王座を脅かすかもしれないその子のことを抹殺しようと企んだのです。ですから、そのヘロデの企みを阻止するために、神さまが、あるいは神さまの命令で天使が、学者たちに「ヘロデのところに帰るな」と夢の中で告げたのでした。その結果、彼らは、ヘロデ王の命令に従うのではなく、あるいは、自分たちが旅をしてきた経験に従うのでもなく、神さまのお告げ、神さまのみことばに従って別の道を通り、自分たちの国へと帰って行きます。そのことで、幼子イエスさまの命は守られ、みんなの救いが失われることはなかったのです。

 

ところで、この学者たちが三人だったとよく言われます。教会讃美歌32番にも「みたりの博士ら」という歌詞があります。でも、彼らが三人であったなどとは、実は聖書に一つも書かれていません。彼らがイエスさまにささげた贈り物が「黄金、乳香、没薬」と三種類書かれているので三人と言われるようになっただけです。遠い国から大変な思いをして旅をしてきたことを考えるなら、きっと三人だけでなく、もっと大人数だったのではないかと思います。たくさんの人たちでワクワクドキドキしながら、またいろんな大変さ困難を一緒に乗り越えながら、イエスさまと出会い、イエスさまを礼拝して、イエスさまに贈り物をささげ、別の道を通って帰って行ったのではないかと、私は考えています。

 

そして、場所を超え、時代を超えて、東の国の、この北見教会の私たちもまた、その一群に加えられているのです。私たちも罪深く、神さまの救いからほど遠い者です。でも、その私たちのために、神さまがお贈りくださり、人としてお生まれになった御子、救い主イエスさまを大喜びして、ワクワクドキドキして、その救い主イエスさまと出会い、イエスさまを礼拝して、イエスさまに自分自身をささげる旅をみなさんで一緒にしたい。また、イエスさまと出会ったものとして、別の道を通って、新しい歩みを週ごとに歩み出したいと願います。今年は、そんな一年にしたいと思うのです。

 

そして、そのイエスさまと出会い、礼拝する歩みを導いてくれるものは、神さまのみことばです。聖書のみことば、礼拝で語られるみことば、祈りの際に示されるみことば、それらのみことばが輝いて私たちを照らし導きます。ですから、いろんな困難や大変なことがありながらも、みことばに照らされ導かれながら、この一年を過ごそうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

ふさわしくない私たちに、御子、救い主イエスさまをお贈りくださりありがとうございます。みことばの導きにより、御子と出会い、御子とを礼拝し、この私自身をおささげして歩み一年でありますように。どんなことがあっても、御子の名前を呼びかけつつ、みことばに照らされて歩ませてください。世界中のすべての人に、あなたの恵みと平安がある一年でありますように。救い主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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