yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年3月4日 礼拝メッセージ

四旬節第3主日 2018年3月4日

 

「 熱情の神の熱き愛 」

出エジプト20章1~17、ヨハネ2章13~22)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日の第一朗読は、出エジプト記の20章で、十戒が告げられている箇所です。長い間エジプトで奴隷の状態にあったイスラエルの民を、神さまがその苦しみから救い出されます。彼らをエジプトから脱出させ、神が与えたもう約束の地へと導かれるのです。そして、神さまは彼らに大切なきまり、教えを授けられます。それが十戒なのですが、そこには神さまがお与えくださる新しい約束の地で、彼らが、神さまの前で、また、みんなと一緒にどのように生きるのかが定められています。

 

聖書は、神さまが十戒を自らの指で二枚の石の板に刻まれたと、伝えています。その二枚の石の板にちなんで、十戒には大きく二つの主題によって語られていると言われてきました。つまり、それは、神さまを愛し、また、人を愛する生き方です。これは、約束の地で生きる神の民が、神さまと共に、また人と共に生きる生き方を、神さまが彼らに定められたものと言えるでしょう。そして、十戒は、ただ旧約聖書の神の民であるイスラエルの人々に対してだけでなく、新しい神の民として、救い主イエス・キリストによって導かれて生きる今日の私たちにも授けられた、神さまの教えです。私たちも、キリストによって神の民に加えられたものとして、十戒に定められている神さまの教えを大切にして、神さまを愛し、人を愛して、神さまと共に、人と共に生きていくのです。

 

これは、イエスさまが、「最も重要な掟」として私たちに告げられたことでもあります。ある日、イエスさまは、数多く定められている「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられました。それに対して、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」と答えられ、さらに、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と答えられました。このように、神さまを愛し、人を自分のように愛する、これこそ最も重要な掟、神さまの最も大事な教えだと、イエスさまはおっしゃるのです。今日の第一朗読で告げられております、神さまが、エジプトから救い出され、約束の地に導かれたイスラエルの民に、また、救い主イエス・キリストによって神の民に加えられた私たちに与えられた十戒の精神も、まさにこのイエスさまの答えの通りです。

 

ところで、この十戒を告げられる中で、神さまは、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と語られ、このように、ご自分のことを「熱情の神」と呼んでおられます。これは以前、用いていた日本語の訳では「ねたむ神」という風に訳されていました。英語ではどうかなと思って調べてみたら、「ジェラス ゴッド」、つまり「嫉妬の神」と訳されているものが多かったです。「ジェラス ゴッド」ですから、分かりやすく言うなら、「ジェラシーの神」です。神さまは嫉妬されるほど、ジェラシーを感じられるほど、私たちのことを愛しておられるというのです。英語の聖書には、さらにこんな訳のものもありました。「君のすべての愛が、わたしはほしいんだ」とか「どんなライバルだって、わたしは決して許さない」とか、このように、ここではとんでもないほどの神さまの強烈な愛が語られているのです。私は、このことについて、インターネット上で書いたら、「すごい激熱で、松岡修造ばり熱いですね」とコメントをくれた人がいましたが、本当に激熱な、嫉妬なさるほど、熱い熱い愛をもって、私たちのことを愛してくださる神なのです。

 

それほど熱く私たちのことを愛してくださるお方が、「わたしは主、あなたの神」とおっしゃいます。つまり、「わたしこそ、あなたの神だ。いつどんな時も必ずいるから、絶対いなくならないから。あなたのことめちゃくちゃ激熱に愛しているから。決してだれにもあなたを渡さないから」と、そう告げておられるのです。

 

この神さまの激熱の愛の中で、私たちが神さまを愛し、人を愛して、神さまとの関係、人との関係に生きることこそが、神さまが授けられた十戒の精神です。しかし、実際には、私たちは、そうした神さまが十戒を通して教えておられる生き方をすることができません。むしろ、神さまを悲しませ、人を傷つけることを多くしてしまう私たちです。神さまを愛するよりも、むしろ自分の楽しみを優先させて生きています。また、人を愛するよりも、むしろ自分の都合を優先させてしまっているのです。どうしてもそんな生き方をしてしまう私たちなのです。

 

ルターは、エラスムスという学者が書いた「自由意志論」という本に対する、宗教改革的な福音信仰によって「奴隷意志論」という本を書きました。エラスムスは、人間は自分の意思で神さまが喜ばれる生き方を選択して行うことができると語ったのに対して、ルターは、いや、私たち人間にはそれはできない、なぜなら人間はみな罪の奴隷であって、罪を犯さざるを得ない存在だからだとというのです。つまり、私たちはもちろん、神さまを愛し、人を愛して、神さまと共に、人と共に生きたいと願うわけですが、けれども、罪の奴隷である私たちは、そうすることができず、どうしても自分を優先し、自分勝手な生き方をしてしまう存在なのです。

 

神さまは「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と語られた後に、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と語っておられます。つまり、神さまを愛し、人を愛して生きていこうと願っても、そうできずに、十戒で語られる神さまの教えに反して生きている私たちは、神さまの熱い愛を裏切ったものとして、子々孫々にわたって、神さまからその罪を問われ、見捨てられてしまっても仕方ない存在なのです。

 

けれども、いくら私たちがそのような神さまから見捨てられてしまっても仕方がない存在であっても、「あなたをめっちゃ愛してる、決していなくならない、必ずいるから。あなたのことを決してだれにも渡さないから」とおっしゃる激熱な神さまは、私たちを決して見捨てることはありません。何とかして、私たちをご自分のもとに取り戻し、御自分のもとで生かすために、最愛の御子を私たちのために、私たちのもとに送られます。そして、御子は、私たちのために、ご自身は罪を犯されなかったにもかかわらず、十字架を引き受け、苦しまれ、命がけで、私たちのことを救われるのです。

 

この神さまの愛、御子イエスさまの愛、ただこの激熱な愛の中でのみ、また、この激熱な愛を、私たちが受け入れ信じる中でこそ、私たちは神さまの救いを受け取ることができます。私たちが、神さまのものとして、神さまと共に永遠に生きることができる者とされるのです。

 

しかし、きょうの福音で伝えられている出来事は、そうした神さまの思い、神さまの激熱な愛に大きく反することでした。つまり、エルサレムの神殿で人々が行っていた現実は、その神さまの愛からほど遠いものだったのです。そこで一体何が繰り広げられていたかというと、神殿でささげるための犠牲の動物が売り買いされていました。何のためにそれがなされていたのかと申しますと、そこで売られていた動物は、人々が罪の赦しを願って、いけにえとしてささげられるためのものだったのです。

 

そこには、大きな社会的な問題も孕んでいました。つまり、お金のある経済的に豊かな人は、高いお金を払って、罪の赦しにとって、より「効果的」とされた動物を買うことができ、それに対して、お金のない人は「効果が少ない」とされた貧しい小さな動物しか買えないか、まったくそれらを買うことができず、その人たちは神さまの赦しをいただくことができないとされていたのです。

 

しかし、これは神さまの思いとは、大きくかけ離れたものでした。神さまはホセア書で、「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」とおっしゃっています。また、詩編で詩人も、「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」と告白しています。

 

このように、私たちが神さまに近づき、救いのために必要なのは、動物のいけにえではなく、私たちが自分の罪を悔い改める心であり、また、私たちが神さまを愛し、神さまのことを深く知ることです。さらには、私たちが「愛の実践を伴う信仰」をもって、生活することなのです。十戒で教えられている、神さまを愛し、人を愛し、神さまと共に、人と共に生きる、そのことができない私たちであることを受け止め、それを悔い改めつつ、今一度、その十戒の精神に立ち返って私たちが生きることこそ大切なことなのです。

 

私たちがその神さまの救いをいただいて、再びそのように生きていくことができるように、まさにいま、御子、救い主イエスさまが来られているのにもかかわらず、実際には、神殿では犠牲の動物の売買がなされ、金持ちと貧しい人との間に大きな格差があった。金持ちで高慢な人こそ神さまの前でより優遇されて、貧しくてへりくだって生きている人こそ、神さまに近づけない、救いを得られない、そうした本末転倒な現実がそこでは繰り広げられていたのです。

 

エスさまは、それをご覧になり、激怒なさいます。《縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金を蒔き辛し、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と伝えられている》神さまの前で、お金によって人に差別があってはならない。神さまに近づくために、もはや動物のいけにえはいらない。イエスさまは、この出来事を通して、そのことを告げられるのです。

 

「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」とあるように、イエスさまは、中途半端ではなく、とてつもなく激熱なお方です。神殿とは、私たちを救うための、救いを願う人ならだれもが近づくことが許される、神の家なのに、それが、妨げられている現実を、イエスさまは決して許せません。神の家が、もはや人の商売の家になってしまっている。そう激怒mなさったのです。

 

そのイエスさまの行為に対する当時の人たちの反応は、実にとんちんかんなものでした。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」、そんな風に言っています。このように、人が、人の思いで、追求する信仰とは、自分の目に見えるしるしを求め、自分にとって得する奇跡を求め、自分のほうが神さまを動かしてご利益を求める自分中心のものなのです。しかし、イエスさまは、それとはまったく違うことをお答えになりました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」

 

このイエスさまの言葉に、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直してみせるのか」と人々が答えているように、彼らにとって、見た目がたいへん立派なその神殿は、大きな誇りであり、自慢の建物でした。しかし、イエスさまの意図はそうした人の思いとはまったく違いました。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」。イエスさまはご自分の体、ご自分の命を犠牲にされ、そして復活なさって、私たちのために救いを完成なさいます。ただそのことによってのみ、私たちが神さまに近づく道を開いてくださるのです。私たちにとって、ただイエスさまの十字架と復活のみが、神さまに近づき、赦しを得られる唯一の真の神殿なのです。

 

「見ないで信じる者は幸いである」と、イエスさまがおっしゃったように、信仰は目に見えるものにはよりません。それがどんなに立派なものでも、どんなにありがたいものでも、どんなに高価なものでも、それによっては私たちは、神の救いを得ることはできないのです。私たちが犯している罪は、そんなに簡単な軽いものではない。この世のどんなものをもっても決して得ることができない救い。それがただイエスさまの命、つまり、神さまご自身の命によってのみ、私たちに与えられます。

 

そのイエスさまによる神さまの救いを、私たちが受け入れ、受け取るために必要なのは、外的ないけにえとか、ささげものとか、苦行とかではありません。私たちが自分の犯した罪を信実に悔い改めて、神さまを愛し、神さまを知ること、そして愛の実践を伴う信仰に生きることです。そこには、富んでる者も貧しい者も何ら差別がなく、それは、すべての人に等しく開かれ招かれている救いです。今や、その救いが、ただただ御子イエスさまの十字架と復活によってのみ、私たちに与えられる、そのことを覚える日々を、今、私たちは過ごしています。神さまの激熱の愛を心に刻み歩んでまいろうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

わたしたちを激熱の愛をもって愛してくださる神さま、あなたの愛に応えることができない私であるにもかかわらず、なおも見捨てず愛してくださり、御子によって赦しお救いくださいましたことを心より感謝いたします。御子の十字架と復活によるあなたの恵みを信じ、心から悔い改め、あなたを愛し、また、隣人を愛する歩みへと私たちを導いてください。目に見えるものを求めるのではなく、目に見えないあなたの真実の愛を求めることができますように。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-03-04.MP4 - Google ドライブ

 

http://www.sundayeducation.com/wp-content/uploads/2012/01/Jesus-and-money-changers-300x227.jpg