yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年10月22日 礼拝メッセージ

霊霊降臨後第20主日 2017年10月22日

 

「捨てた石が要の石に」

イザヤ書5章1~7・マタイによる福音書21章33~44)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

神さまは、天地創造の際に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ、海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とおっしゃって、この世界とそこにある命を、神さまが「極めてよかった」とおっしゃった状態にふさわしく管理するように、私たちに託されました。今日の福音でも、ぶどう園の主人である神さまが、農夫たち、つまり私たちに、ぶどう園、この世界を託して出かけられます。今日、私たちの国では選挙の日です。神さまの信頼と委託に応え、祈りのうちにその務めを果たすべく、その責任を果たしたいと思います。

 

さて、幼稚園で大切なことは、子どもたちの自発的な遊びであり学びです。それでは子どもを勝手に放牧して遊ばせておけばよいのかというと、もちろんそれでも子どもはそれなりに育つわけですが、より質の高い遊びや学びを子どもたちに提供するためには、子どもの自発的な活動の背後で、先生方が、子どもたちが喜んで遊び、学び、それを通して成長する姿を期待しながら、いろんな環境設定をしたり、可能な限りの危険を取り除いたり、時には遊びや学びのヒントを与えたりと言った努力をすることが必要です。そうした先生方の熱心な愛情深い働きに包まれて、子どもたちは存分に良い遊びと学びをすることができて、豊かに育つのでしょう。

 

今日もみことばを聞いてまいりますが、まず、第一朗読のイザヤ書5章より聞きたいと思います。預言者イザヤが、美しい歌で、神さまのイスラエルの人々に対する深い愛の関わりを伝えています。

 

「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。」

 

「わたし(イザヤ)の愛する者」、つまり神さまが、ぶどう畑をしっかりと整え、ぶどうを植えられた様子が歌われます。神さまご自身が、ぶどう畑を耕し、ぶどうが育つのに妨げとなる石を取り除き、良いぶどうの木を植えられ、さらには、そのぶどう園を荒らしに来る者がないように、見張りの塔を建てて、収穫したぶどうからワインを作るための場所も用意して、実りを待ったと伝えられているのです。そのぶどう畑と、植えられたぶどうとは、もちろん比喩的な表現で、その内容は5節で語られています。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々」。神さまは、ユダの人々、つまりイスラエルの民が暮らす場所をきちんと整え、エジプトの国で奴隷とされていたご自分の民を解放なさり、導き、そこに住まわせられました。そして、彼らが豊かな実りを得ることを、神さまは期待しつつ楽しみに待っておられたというのです。

 

私たちは、旧約聖書のみことばを、ただの昔のイスラエルの民のことだけが語られているお話としてではなく、今日の私たちに向けても神さまから語られているメッセージとして受け止めます。ですから、今日のみことばも、神さまは、私たちのためにも、この世界をきちんと整えて、そこに私たちを生かしてくださり、そして、私たちに豊かな実りを期待して楽しみに待っておられるということを、ここから聞き取ります。

 

幼稚園で子どもたちが質の高い遊びや学びを経験し、それを思い切り楽しめるのは、背後で先生方が子どもたちの喜ぶ姿を期待して、しっかりと用意をしてくださっているからだというお話しをいたしましたが、私たちがこの世界でのびのびと喜びと感謝をもって生きていくことができるのも、神さまが私たちの実りを楽しみにして、この世界を整えてくださっているからであるということを、きょうのみことばから知らされます。私たちが育つために、神さまが妨げとなるものを取り除き、必要なものを与え、私たちの実りを活かすことができる場も備えていてくださっている、そして私たちを信頼して私たちに期待してくださっている。第一朗読のこの個所は、直接的には預言者イザヤが歌った歌ですが、同時に、神さまの私たちに対する愛の歌ラブソングであると言ってもよいでしょう。神さまのラブソングが、私たちの人生の背後で美しく響いているのです。

 

けれども、みことばは、その後、とても残念な展開をいたします。神さまが、悲しみつつ、悲しみのあまり憤りを込めて、イスラエルの民、そして今日の私たちに言うのです。「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」神さまが彼らのため、私たちのため、この世界をちゃんと整えて、よい実りを期待して待っておられたのに、実際には、実ったのは酸っぱいぶどう、つまり実に期待外れの実りであったと。親子の関係などを考えればわかりますが、手をかければかけるほど、期待を込めれば込めるほど、それとは異なる育ち方をしたときの失望感、その悲しみと憤りは大きいものです。神さまのイスラエルの人たちから受けた思いはまさにそうでした。こんなにも深い愛情を注ぎ、いっぱい心をかけて、あなたがたのために接したのに、あなたがたはわたしを喜ばすどころか、まさに酸っぱいぶどうのように私を悲しませたと。

 

イスラエルの人たちは、神さまの度重なる呼びかけにも応えることなく、自分たちの欲望を満たしてくれる他の神々のもとに赴き、彼らを愛してやまない主なる神のもとを遠く離れてしまっていたのです。神と人を愛して生きるどころか、自分勝手な生き方をして、神と人を傷つけることを数えきれないぐらい重ねてきました。そして、それはイスラエルの人たちだけでなく、私たちも同じです。私たちも、私たちを愛してくださる神さまよりも、自分の欲望を満たしてくれるものに心奪われ、神さまから遠く離れて、どこか違う方向へ突っ走ってしまっている。神と人を愛することをせず、神さまを悲しませ、怒らせ、人を悲しませ、傷つけている。そんな私たちは、神さまから見るなら、酸っぱいぶどう、期待外れな存在なのです。

 

最後の7節の後半に、「主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)」という言葉があります。今日の個所は、先ほどよりお話ししておりますように、歌ですから、ミシュパトミスパハツェダカツェアカと、韻を踏んで語呂合わせをしているわけですが、神さまはイスラエルの人々、また私たちに、「裁き」「正義」を待っておられました。裁きと言っても、「お前は裁かれるぞ」という意味ではなく、平等、公平、平和に人々が幸せに社会で生きられるという意味です。社会の中で正しい裁きがなされるなら、そうした幸せな世の中が成り立つと考えられたのです。

 

これは、遠山の金さんを考えると、わかるでしょうか。悪人たちが蔓延っていれば弱い立場に置かれている人は幸せに生きられないわけです。そこで奉行所で、遠山の金さんが、「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」と言って、正しく悪人が裁かれるなら、幸せな社会となる。みんな安心して平和に生きていける。そうした意味での裁きです。ですから、ここで神さまが待ち望んでおられる裁きと正義は、ほぼ似た言葉と言ってもよいでしょう。

 

神さまはそうした世界を望んでおられた。でも、イスラエルの人たちも私たちも、実際は「流血」、つまり多くの争いをして、傷つけたり傷ついたり、命を奪ったり奪われたり、その結果、「叫喚」、苦しみや悲しみや嘆きの叫びがあちこちであがっている。せっかく神さまが用意なさったぶどう畑であるイスラエルもこの世界もそんな風にしてしまったと。それがすっぱいぶどうである私たちの現実なのです。

 

そうした私たちを神さまはどうなさるのか。みことばは続きます。「さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。」

 

イスラエルも、私たちの世界も、もう神さまは見捨てられ、荒れ果て、混乱したままとされるという、たいへん厳しい宣告です。もう実ることも育つこともできない、そんな風になってしまうと。私たちは、それほど神さまに悲しみをもたらし、怒りを与えているということを、しっかり受け止めたいと思います。神さまは私たちを本当に喜んでおられ、その実りを楽しみに待っておられた。でもその期待を、私たちは裏切りに裏切ってしまったのです。神さまがどれだけ呼びかけても、私たちは神さまに背を向けて歩み続けた。神さまの顔に泥を塗り続けて、神さまの深い愛を台無しにしてしまった、私たちはそんな歩みをしてきたのです。

 

きょうの福音で、イエスさまもぶどう園のたとえを話しておられますが、そこで、ぶどう園の主人が、ぶどう園に遣わしたしもべを、農夫たちが次から次へと、何度も何度も傷つけて、追い出し、また殺してしまった様子が語られています。これこそ、まさに私たちの姿です。神さまがどれだけみことばを語ってくださっても、それを受け入れることなく、知らんぷりをしたり、心の中から追い出したり、なかったことにしたり、神の言葉を抹殺して、好き勝手に生きてきた私たちです。そんな風に神さまを裏切り続けた私たち。そうした私たちのことなんか、もう知らんと、神さまから言われてしまっても当然なのです。

 

これが今日の第一朗読のお話です。とても残念な結末です。しかし、きょうイエスさまが語られる福音は、この物語の更なる続きを伝えます。ぶどう園の主人が送ったしもべを、農夫たちが次々と乱暴し傷つけ追い出し殺したことは、お話ししました。そこで、ぶどう園の主人は、自分の愛する一人息子を彼らのもとに送ります。息子なら敬ってくれるだろうと。でも、そんな主人の願いは彼らに伝わらず、農夫たちは、その息子をも殺してしまいます。神さまが、愛する御子イエスさまを私たちのもとへ送られたこと、しかし、私たちがそのイエスさまをも受け入れず、十字架に追いやり殺してしまったことが、ここで語られます。この物語の結末はいかに?主人は怒って、ぶどう園を彼らから取り上げ、彼らを追い出し、殺してしまう。また、神さまは、私たちを裁かれ、決して赦されない。普通なら、今度こそ、それで物語は終わりとなります。

 

でも、終わりません。ここで思ってもみなかった驚くべきことが起こるのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。イエスさまは聖書のみことばを引用してそう告げられます。私たちが十字架へ追いやり、殺してしまった御子イエスさまが、私たちの気づかないうちに、私たちを生かし、私たちの親石、私たちを支える土台の要の石となったというのです。イエスさまの十字架こそが、私たちの命の要の石となった。こんなことは、だれにも予想すらできないことでした。「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と言われている通りです。神が御子を犠牲にし、御子がご自分の命を犠牲にして、捨てられても裁かれても滅ばされても仕方がない私たちをなおも生かし、神のぶどう畑、天の国の民としてくださった。決して当たり前ではない、前代未聞の特別な神の不思議な物語が展開していきます。

 

エスさまは続けて語られます。「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」私たちは、この今のままでは、この驚くべき不思議な、神の一方的な恵みの救いを受け入れることができません。だから、十字架という要の石により、徹底的に打ち砕かれ、押しつぶされなければならないのです。御子の十字架により、罪ある自分が打ち砕かれ、高慢な私が押しつぶされて、粉々にされて、ペシャンコにされる中で、私は本当にどうしようもない罪人であり、その最たる者であると、そのことを思い知らされる。でも、そんな私でも、神さまはなおも愛し続け、御子の十字架によって救ってくださる恵みを信じ受け入れる。ただそのことによってのみ、神の国にふさわしくないこの私が、再び神の国の民として回復されるのです。

 

このように、神さまのラブソングは、私たちの不誠実、私たちの罪を超え、なおも美しく高らかに、救いの要の石、イエスさまの十字架のもとから、神のぶどう畑であるこの世界と天の国に響き渡ります。私たちもその歌に導かれ、十字架のもとへと一歩を踏み出しましょう。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの前に期待外れなこの私を、あなたは尚も愛し、私たちが十字架に追いやった御子によって救い、あなたのぶどう畑、天の国の民として回復してくださいました。ただただあなたのその恵みに心より感謝いたします。十字架のもとで自分が砕かれ押しつぶされ、私自身のどうしようもなさを受け止め、それを超えてなおも私を救ってくださるあなたの愛の大きさを信じて歩ませてください。御子、救いの岩であるイエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画:2017-10-22unedited.mp4 - Google ドライブ

 

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黙想 マタイ21:33~44

マタイによる福音書21章33~44

「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

黙想

 

前週に引き続き、再びぶどう園のたとえが語られる。前週も言及したように、ぶどうやぶどう園のお話は聖書の舞台の人々にとって、身近な話題であった。ぶどう園は、イスラエル、また神の国を表し、ぶどう園で働く農夫たちやぶどうの実りは、イスラエルや神の民を表す。

 

第一朗読のイザヤ書5:1~7。神は、喜びのうちに愛の歌を歌いながら、私たちの実りを楽しみに待っておられる。私たちを喜び、期待してくださる神。しかし、実際に実ったのは酸っぱいぶどう、期待はずれの実りだった。神の前に期待外れな私たちなのだ。神が私たちに臨んでおられる正しい裁き(みんなが平等に平和に生きられること)や正義を行うことができずに、流血や叫喚(苦しみの叫び)を人々の間にもたらす生き方をしている私たちであることを、まず受け止め、悔い改めたい。

 

福音書。ぶどう園の主人は、神を表す。主人は、ぶどう園を創り、垣を設置したり、絞り場を作ったり、やぐらを建てたりして、ちゃんとすべてを整えて、農夫たちに託して、収穫の時まで旅に出かける。それは、無料サービス。地代は取らない。この世における神の国をきちんと整えられて、主の再び来られるその日まで、私たちに託される恵み深い神の姿を、ここから受け止めたい。

 

神は、私たちのことを信頼しつつ、この世界を私たちに託されるのだ。創世記1章。「地に満ちて、地を従わせよ」。神の祝福の中で、神に代わって、この地上を管理する責任が、私たち人類には与えられている。私たちは、いわば神の摂政として、その働きを担っていく。

 

10月22日、選挙の日を迎える私たち。この神の信頼に応えて、神に託された世界を守り、管理する責任を果たしたい。また、それにふさわしい候補者が選ばれるように切に願うものだ。人々の間で、流血や叫喚ではなく、みんなが喜びと愛の歌の中で、正しい裁き(平等で平和)がなされ、正義が行われる、そんな国と世界を望みながら。

 

さて、収穫の時、主人はぶどう園にしもべたちを送ったところ、農夫たちは、そのしもべたちに乱暴して殺してしまう。神が送った神のしもべ、預言者たちの言葉を聞かず、自分たちの中から追い出したり、迫害したり、殺したりしてしまったイスラエルの人たちの姿。同時に、これはイスラエルの人たちのみならず、神の言葉と、神が送ってくださる使いを、受け入れずに、心の中から追い出して、抹殺して、なかったことにしてしまう、そんな私の姿でもある。

 

でも、神は何度でも使いを送り続けた。たとえどれほど人々が受け入れなくても、愚かなほどに、神は私たちを天の国に招くことを諦めない。しかし、私たちはその神の心をわからず、何度でも繰り返し、それを反故にしてしまう。

 

ついに、ぶどう園の主人は自分の愛する息子を送る。息子を送るなら、さすがに彼らもわかってくれるはずだと。しかし、農夫たちはその息子を殺す。彼を殺して、財産を自分のものにしようと企てたのだ。最愛の御子イエスを私たちのもとに送る神。しかし、人々、そして私たちは、御子のことも受け入れず、十字架に追いやって殺してしまった。

 

神の領域を犯す私たち。自分がこの世界を手に入れ、支配しようとする私たち。昔も今も、この世の中で起こっていること。バベルの塔ヘロデ王。ネロ皇帝。そして今の為政者たち。でも、それらは、私たち一人ひとりの罪と残酷さの表れであって、私たちから遠い話ではない。

 

その先、考えられる物語の展開は、主人は、農夫たちからぶどう園を取り返し、農夫たちを裁いて殺して滅ぼすということ。私たちも天の国から追い出され、裁かれ、滅ぼされても仕方がない、そんな存在なのだ。神の国はあなたがたから取り上げられ、それにふさわしい民族に与えられる」、これはただイスラエルの人に対して言われている言葉というのではなく、この私に向けて言われている言葉でもある。神の国は私から取り上げられる。

 

でも、ここで思ってもみなかったような、人知をはるかに超えたことが起こるのだ。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。私たちが十字架へ追いやり、殺してしまった御子イエスが、私たちの気づかぬうちに、私たちを支える土台の要の石となった。十字架こそ、私たちの要の石。こんなことは、私たちに予想だにできなかったことだ。そう、「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」ことだから。

 

「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」私たちは、このキリストの十字架という要の石によって、徹底的に打ち砕かれ、押しつぶされる必要がある。御子の十字架によって、罪ある自分が打ち砕かれ、高慢な私が押しつぶされる。そのことによってこそ、神の国にふさわしくないこの私が、再び神の国の民として回復されるのだ。

 

21章は、エルサレム入城の出来事から始まっている。十字架に向けてひたすら歩みを進めるキリスト。このキリストが今日のみことばを語っておられる。直前の二人の息子のうちの一人のように、ふさわしくない者だけど、でも悔い改めて、十字架の憐れみに立ち返り、神の国に招かれる歩みをしたい。恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ。

選挙を控えて ~「究極的なもの」と「究極以前のもの」~

来週は、衆議院議員選挙の投票日です。私たちに与えられている大切な権利を行使し、大切な責任を果たしたいですね。

 

ドイツのルーテル教会の牧師であり神学者であり、ナチスへの抵抗運動のゆえに捕らえられ、処刑された、ディートリヒ・ボンヘッファーは、神の恵みを私たちが信じて義とされることについて、それは「究極的なもの」であると定義づけました。そのように、神の恵みによって私たちに与えられる義が「究極的なもの」であるとするならば、この世の様々な事柄は「究極以前のもの」であると、彼は位置付けています。

 

私たちにとって、その「究極以前のもの」の受け止めについて、ボンヘッファーは二つの誤った立ち方を指摘しています。

 

一つの誤りは、急進改革的な「断絶」です。すなわち、私たちは「究極的なもの」(天上の事柄)に生かされているのだから、もはや「究極以前のもの」(この世の地上の事柄)は無価値であり、責任を負っていない、だから、私たちはそれに関わるべきではないという立ち方です。

 

もう一つの誤りは、「妥協」です。すなわち、この世において「究極的なもの」は(未だ)力を発揮しえないから、「究極以前のもの」についてはこの世の手段でのみ(この世のやり方に合わせて、流れに任せて)解決していこう、あるいはもはや諦めようという立ち方です。

 

でも、私たちは、受肉し、十字架で死に、復活なさった神キリストを信じているものです。すなわち、私たちは、神の受肉において被造物に対する神の愛を知り、十字架において神の裁きと赦しを知り、復活において一つの新しい世界への神の招きを知るのです。真剣にこの世に、また、人に関わる神と、この世で人となられて生き、死なれ、復活なさった神を、私たちは信じているのです。

 

これら受肉・十字架・復活の三つは、バラバラに理解されるべきではなく、一つの事柄として私たちは受け止めつつ、キリスト者としての生を営みます。そして、そのように神であるキリストが人間となられたがゆえに、私たちも真実の人間として、キリストへの服従の中で生きていきます。

 

そうであるのだから、「究極以前のもの」すなわち、この世の事柄は、私たちにとって、決してないがしろにされてはならない事柄であり、私たちは真剣さをもってそれに関わる姿勢が大切です。同時に、それはあくまで「究極以前のもの」であるから、絶対視しない姿勢もまた大切です。

 

「究極的なもの」を信じて、そこに生かされる私たちだからこそ、「究極以前のもの」にも信実に生きていくのです。私たちは、「究極的なもの」を何よりも大事にするがゆえに、「究極以前のもの」によって、それが妨げられることのないように努めなければなりません。「究極的なもの」のための「道備え」として「究極以前のもの」にかかわるのです。

 

たとえば、ある人の人権が奪われ奴隷化されることによって、その人が神の言葉を聞けなくなっているような状況があるならば、その人は、そのことゆえに、神の恵みを信じて義とされることができなくなってしまいます。すなわちそこでは、「究極的なもの」が「究極以前のもの」によって妨げられているのですから、私たちはその状況を改善する努力をしなければなりません。

 

このように、人間が道具や機械のようにされてしまっているところでは、「究極的なもの」は到来しないのです。ですから、飢えている人にはパンを、家がないには住むところを、囚われている人には自由を、争いには平和を分かち合うことが、それらはいずれも「究極以前のもの」ですが、しかし、そのどれもが必要なことなのです。「究極以前のもの」によって、「究極的なもの」が妨げられているままにしておくことは、キリストに従う者としてふさわしいことではないからです。

 

私たちは、この世においては、「究極以前のもの」を通じてのみ、「究極的なもの」に出会うのですから、その「究極以前のもの」における、私たちの「道備え」の務めは、この世でキリストに従う私たちにとって、とても大切なものです。同時に、最終的な道備えは、私たち人間ではなく、神がなさることであることをも、私たちは忘れてはなりません。

 

ですから、神さまへの祈りをもって、「究極以前のもの」にかかわっていきたい。祈りの中で、来週の選挙に臨み、市民として、人として、キリスト者として責任を果たしたいと願っています。

 

キリストへの信仰を持って生きるということは、「究極のこと」が私のうちで始まるということであり、イエス・キリストが私のうちで生きるということである。しかしそれは、常に、「究極のこと」を待ち望みつつ、「究極以前の事柄」と関わりを持ちながら生きるということでもある。 》ボンヘッファー

2017年10月15日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第19主日 2017年10月15日

 

「今や、恵みの時」

(マタイによる福音書20章1~16)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

小説を読んだり、映画を見たりする際に、いつの間にか、その登場人物に感情移入しているときがあります。そして、そのようにするとき、より興味深く、没頭して、その作品を楽しむことができます。聖書も、これと同じです。聖書の物語やイエスさまのたとえ話を私たちが聞く際に、それを自分とは遠い世界のただの昔の話として受け止めるのではなく、その物語やたとえ話の中に出てくる登場人物の立場に立って、ある意味、感情移入するような思いで、それを受け止め、味わうときに、聖書のみことばが断然興味深く、私たちの心に入ってきます。今日の福音も、そのように味わいたいお話の一つです。

 

今日、イエスさまがお話しなさったのは、ぶどう園のたとえ話です。聖書の中には、ぶどう園を舞台にしたお話がたくさん出てきますし、イエスさまもぶどう園やぶどうを少なからずたとえに用いています。これは、聖書の舞台となったパレスチナの地は、ぶどうの産地であり、人々にとって身近であったからです。また、きっとぶどう園で働くということがどういうことか、その苦労も、当時の人たちがよく知るところであったのでしょう。ですから、ぶどう園やぶどうについて話を、みんなわかりやすく聞くことができたのだろうと考えられます。

 

私が三月まで暮らしていた深川は、米どころでした。りんごの産地でもありました。また、最近では、かつて水田だったところで、そばの栽培もなされています。全国2位の収穫量だそうです。ちなみに一位は幌加内です。ですから、お米やリンゴやそばの話がニュースなどでされるなら、なんとなく身近な感じがして、そうだよねとか、そうなんだ?とか、そんな思いで耳を傾けます。パレスチナの人々にとって、ぶどう園やぶどうのお話も、そうした感じであったことでしょう。

 

今日のたとえ話で、ぶどう園の主人は、ぶどう園で働く労働者を、朝早くに探しに出かけます。きっと広場に、そうした日雇いの仕事を求める人たちが集まっていたのでしょう。日本にも寄せ場と呼ばれる、そのような場所があります。私は一昨日、大阪で式文委員会が行われたのですが、私が宿泊したすぐ近くに、釜ヶ崎と呼ばれる寄せ場がありました。そこには、日雇いの仕事を求めて朝早く人々が集まるのです。そして、声をかけたもらえた人は、その日の仕事を得られる、そうでないとその人は仕事を得られないというシステムです。

 

とお話しするなら、軽く聞き流してしまいそうなお話ですが、現実はそう軽いものではありません。だんだん歳を取ったり、体が弱ってきたりすると、何日も仕事にありつけないことが起こってきます。そうすると、食べる物にも事欠いて健康状態が悪くなります。でもお金がないので病院にも行けません。あるいは、お酒や薬におぼれていくということも多いのです。野外での生活を余儀なくされている人も少なくありません。しかし、行政側は、公園を夜、閉鎖して、そうした人たちが寝泊りできないようにしています。そうすると、硬い路上で夜を過ごさなければならなくなるのです。そうした現実が、日本の各地であります。

 

マザーテレサが、東京の寄せ場である山谷を訪れた時に、そうした現実を見て、日本は経済的には豊かだけれど、そのような人たちに無関心なのは、人々の心は貧しいと言い、また、愛の反対は憎しみではなく無関心だと言ったといいます。たいへん胸の痛む言葉です。

 

聖書の時代のパレスチナで、日雇いの仕事を求めて人々が集まる広場が、そうした日本の寄せ場と同じ状況だったかはわかりませんが、そこに集っていた人たちの切実な思いは同じであったことでしょう。

 

ぶどう園の主人は、朝早く、その広場に、ぶどう園で働く人たちを探しに行きました。そして何人かを雇います。一日一デナリオンの報酬での契約です。一デナリオンは、当時の一日働いて得られる賃金に相当する額ですから、相応な金額です。ぶどう園での作業が意外に多かったのでしょうか。主人は、朝9時にまた広場に出かけました。そして、何人かの労働者を雇います。昼の12時や午後の3時にも同じように出かけて雇いました。

 

さて、主人は午後5時にも出かけて広場に寄ってみました。だいたい午後6時ぐらいで一日の作業は終了するので、午後5時の段階では、もう労働者を求めてというわけではなく、きっと別の用事のために出かけて、たまたま広場に立ち寄ったのではないでしょうか。しかし、まだそこには人がいました。主人は言います。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」。するとその人たちは答えるのです。「だれも雇ってくれないのです」。

 

そうです、その時間まで雇ってくれる人がいなくて、その日は仕事がないまま一日を終えようとしていたのです。「今日は仕事がなかった。誰も私のことを雇ってくれなかった」と、諦めつつ一日を終えようとしていました。本当に、空しい今日という日を過ごし、希望のない明日を迎えようとしていたのです。また、ただ仕事がなかった、雇われなかったというだけでなく、だれも自分を必要としてくれないという辛さをも感じていたことでしょう。あるいは、もしかしたら、もっと早い時間に、この主人が、労働者を探しに来ていたその時には、彼らはそれに気づかなかったかもしれません。最初から「どうせ自分なんて雇ってもらえないさ」と諦めていたのかもしれませんし、何か違うことをしていたのかもしれません。しかし、一日の終わり、最後の最後の段階になって、彼らも職にありつくことができました。

 

一日の作業が終わり、報酬が支払われる時間が来ました。後に雇われた者たちから順番に支払われました。まず、午後5時にぶどう園に連れてこられた人に、主人は一デナリオンを支払いました。先ほど申しましたように、一デナリオンとは、一日働いたのに相当する報酬額です。そうすると、先から雇われた人たち、特に、朝一番から働いている人たちは、自分たちはそれよりもっと多くもらえるに違いないと期待に胸を膨らませました。しかし、彼らに支払われた報酬も、午後5時にぶどう園に連れてこられた人たちと、まったく同じ一デナリオンでした。彼らは、納得できません。「自分はこんなに頑張ったのに。あいつはあれしか働いていないのに、同じ額なんて!」そんな思いでしょう。

 

主人は、そんな彼らに言います。「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」。たしかに、朝早くから働いている者は、苦労して大変な思いをして、そのぶどう園で働きました。ですから、彼らの納得できない思いが、私たちにもよくわかります。しかし、彼らには朝早くから働く場所が保障されていたのです。今日は、このぶどう園で、明日は今日の報酬で、生きていくことができるという安心が与えられていました。自分はここにいていいんだという自分の居場所も与えられていました。しかし、朝から働けず、午後5時まで広場に立っているしかなかった者は、今日は働くことができるのか、明日は生きていくことができるのか、一日中、不安な思いで過ごしたのです。暑苦しい中で仕事をするのも大変ですが、その不安の中で過ごすのも大変なことです。自分は必要とされていないという思いや、居場所がないのも、本当に辛いことです。主人は、きっとそんな彼らの不安や辛さを受け止めていたのでしょう。だから、「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」と言い、実際そうされるのです。

 

これは天の国のたとえです。ですから、神さまの支配、イエスさまの支配なさる世界はこういうものだというお話です。それは、この世の私たちの日常とは大きく異なる視点で語られています。

 

まず、主人が自ら労働者を捜しに行きます。神さま自ら、天の国を飛び出して、私たちを探し求め、天の国へ招いてくださるのです。何度でも何度でも、ぶどう園から広場に出かけて労働者を雇う主人の姿は、何度でも何度でも、ひっきりなしに、私たちを天の国へ招くために、私たちのもとを訪れてくださる神さまの愛を表しています。そして、最後の最後まで、一人を招き、救い、生かされることを決して諦めないのです。

 

神さまは、100匹の羊のうち、1匹が失われても、「あと99匹いるからいいや」ということではなく、その一匹を探すために羊飼いは命を懸け、命を捨てられるのです。それほどまで真剣に私を探してくださいます。何度でも何度でも繰り返し。今日のたとえ話で、午後5時に雇われた人は、病気など何か弱さを抱えていたのかもしれません。あるいは、「あんな奴は」とみんなからレッテルを張られて、社会の隅っこに追いやられていた人かもしれません。もしかしたら、主人が労働者を求めて広場に来た時に、その場にいなくて、何か別のことをしていたのかもしれません。そのように、弱さを抱えていたり、みんなから排除されていたり、あるいは、自分自身好き勝手な生き方をしてきた、そうした私であっても、神さまはその私を諦めることなく、何度でも何度でも探し求めてくださるのです。

 

「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」という主人の言葉はとても印象深いものです。神さまのまなざしはそのようなものです。ただ表面だけを見るのではなく、一人ひとりの心の奥底まで受け止められます。「あの人は働かなくて楽をできていいわよね」ではなく、その人の心の中にある悲しみや苦しみや闇を、神さまはご覧になられ、そこに寄り添おうとなされるのです。パッと見ではわからない私たちの苦悩を、神さまはしっかりと受け止めてくださいます。

 

と言いつつも、私たちの普通の感覚からしたら、この話は納得できないかもしれません。長く働いた人に、やはりたくさんの給料が支払われるべきだという思いになります。あんなに長く働いたのに。一所懸命やったのにと。私たちもそういう時があるでしょう。「自分はこんなに頑張っているのに。自分はこれほど大変な思いをしているのに」と。

 

しかし、これは、天の国のたとえです。このたとえで、私は一体、どこに立つのかということが問われています。

 

私たちが天の国に招かれるのは、当たり前のことではありません。本当は、私は天の国にふさわしくないものです。なぜなら、神さまがどれだけ私のことを招かれても、私は、その声に気づくことができず、また、違うことで心がいっぱいで、どこか別のところに立っていました。あるいは、この世の中では居場所がなく、誰にも必要とされず、「もうだめだ」「誰も私のことなんてわかってくれない」と悲しみの辛い日々を過ごすことだってあるでしょう。

 

そうした中で、もう諦めるしかない人生だったのです。あるいは、神さまの前の私の今までの生き方を省みる時に、天の国なんて、もはや諦めざるを得ない、そんな私でした。

 

 しかし、神さまは、そんな私のことを探し出して、なおも天の国へ招いてくださいます。それは、他の人から見れば、「なんであいつが私と同じ扱いを?」とそんな風に思われてしまうかもしれません。でも神さまはおっしゃるのです。「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」。ここに、神の一方的な恵みが示されています。神さまの深い愛の中に招かれ、生かされる私なのです。そのことに遅すぎるなどと言うことはない。「今や、恵みの時、今日こそ、救いの日」と、みことばが告げている通りです。

 

これが天の国です。これこそ神さまの支配、イエスさまの支配する世界です。この天の国に招かれ、その恵みに生かされる私もまた、これまでとは違う、新たな物の見方が必要となってきます。ただ目に見える業績だけによって物事を評価しない。頑張った人もいれば、頑張りたくても頑張れなかった人もいる、どれだけ頑張っても報われない人もいます。私たちはそうしたそれぞれの苦しみを受け止めていくのです。できるための苦労と、できない苦労、どっちも苦しいのです。あるいは、みんなから見るならば、「あいつは本当にどうしようもないやつだ」、そんな人もいるでしょう。しかし、そうであっても、私たちは、その人を諦めてしまわない。だって、神さまは、この私を諦めなかったのですから。そうした見方を大切にしたいのです。

 

この世的には、そんなの不公平だとか、納得できないとか思われるでしょう。でも、キリストに生かされた私たちが顧みなければ、その人はいつまでも、今日も明日も、居場所がなく、誰にも必要とされずに、広場に立ち続けているだけになってしまいます。この私だってふさわしくないのに、神さまによって招かれた、失われたひとりです。その人だって、神さまの前に同じひとりなのです。こうした物の見方は、私たちにとってなかなか難しいことかもしれないけれども、主の導きに依り頼み、養われてまいりたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

天の国にふさわしくない私をあなたが御子によって招いてくださった、この大きな恵みを心より感謝いたします。私たちも、そのあなたの憐れみ深さに導かれながら、隣人に接し、共に生きることができますように導いてください。主イエス・キリストによって。アーメン。

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2017-10-15Unedited.mp4 - Google ドライブ

 

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黙想 マタイ20:1~16

マタイによる福音書20章1~16

1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11それで、受け取ると、主人に不平を言った。12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

黙想

天の国のたとえ=神の支配、イエスの支配する世界はこういうものだというたとえ。この世の支配との違い。

主人は、ぶどう園で働く労働者を、自ら捜しに行く。神自らが天の国から飛び出して私たちを探し求め、天の国へ招いてくださる。

 

主人は、一日一デナリオン(一日分の労働賃金に相当)の約束で、労働者を雇う。9時にも12時にも午後3時にも、そして午後5時にも。何度でも何度でも、ぶどう園から広場に出かけて労働者を雇う主人。何度でも何度でもひっきりなしに、私たちを天の国へ招くために、私たちのもとを訪れてくださる神の愛。

 

午後5時にも、どこでも働かず広場にいた人たちもいる。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」「だれも雇ってくれないのです」今日は誰も雇ってくれないのかと、諦めつつ一日を終えようとしていた。空しい今日。明日がない。だれも自分を必要としてくれない。あるいは、もっと早い時間に、この主人が、労働者を探しに来ていたのかもしれないが、その時には彼らは気づかなかった?最初から「どうせ自分なんて・・・」と諦めていたのか?あるいは、何か違うことをしていたのか?

 

一日の労働が終わり、報酬が支払われる。後に雇われた者たちから順番に。後から雇われた人一デナリオン。一日働いたのに相当する報酬。そうすると、先から雇われた人たちは、もっと多くもらえるに違いないと思ったが、同じ一デナリオンだった。納得できない彼ら。自分はこんなに頑張ったのに。あいつはあれしかしていないのに。

 

たしかに、早くから働いているものは、ぶどう園で働く大変さを味わっている。しかし、彼らには働く場所がある、生きていくことができるという安心がある。自分の居場所も与えられた。しかし、朝から働けなかったものは、時間が経てばたつほど、今日は働くことができるのか、明日は生きていくことができるのか、不安になる。暑苦しい中で。居場所がない辛さ。

「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」。神のまなざしはそのようなもの。ただ表面だけを見るのではない。一人ひとりの心の奥底まで受け止められる。「あの人はああできていいわよね」ではなく、そのあの人の心の中にもある悲しみや苦しみや闇を、神はご覧になられ、そこに寄り添おうとなさる。

 

と言いつつも、私たちの普通の感覚からしたら、この話は納得できないかもしれない。長く働いた方に、やはりたくさんの給料が支払われるべきだという思いになる。しかし、これは、天の国のたとえ。このたとえで、私はどこに立つのかが問われている。

私たちが天の国に招かれるのは、当たり前のことではない。本当は天の国にふさわしくない私。神がどれだけ招かれても、私は、その声に気づくことができず、また、違うことで心がいっぱいで、どこか別のところに立っていた。あるいは、この世の中で居場所がなく、誰にも必要とされず、もうだめだと悲しみの日々を過ごしているかもしれない。

もう諦めるしかない人生。あるいは、神の前の私の今までの生き方を省みる時、天の国なんて、もはや諦めざるを得ない。

 

でも、神は、決して私を諦めない。何度でも何度でも、私を探しに来てくださる。100匹の羊のうち、1匹が失われても、99匹いるからいいやということではなく、その一匹を探すために羊飼いは命を懸ける。命を捨てる。それほど真剣に私を探してくださる。この世から排除され、あるいは、自分自身好き勝手な生き方をしてきた、この私であってもかかわらず。

 

そんな私を探し出して、なおも天の国へ招いてくださる。それは、他の人から見れば、なんであいつが私と同じ扱いを?そんな風に思われてしまうかもしれない。でも神は言うのだ。「わたしはこの最後の者にも、同じようにしてやりたいのだ」。一方的な神の恵み。恩寵義認。神の深い愛の中に招かれ、生かされる私。それに遅すぎるなどと言うことはない。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」

 

これが天の国、神の支配、イエスの支配する世界。この天の国に招かれ、その恵みに生かされる私たちも、これまでとは違う、新たな物の見方が大切ではないか。ただ目に見える業績だけで物事を評価しない。頑張った人と、頑張りたくても頑張れない人と、その両者の苦しみを受け止める。できるための苦労と、できない苦労、どっちも苦しい。また、「あいつは本当にどうしようもないやつ」だけど、しかしそこで、その人を諦めてしまわない。そうした見方を大切にしたい。

 

この世的には、そんなの不公平だとか、納得できないと思われる。でも、キリストに生かされた私たちが顧みなければ、その人はいつまでもただ広場に立ち続けているだけになってしまう。わたしだって招かれた失われたひとり、その人だって同じひとり。なかなか難しいかもしれないけれど、心の片隅に受け止め得ているておきたい。

 

神の恵みはみなに与えられている。なぜ他をうらやましがるのか。むさぼってはならない。むさぼる必要がないから。神は、十分な、十分すぎる恵みをわたしに与えてくださっている。

 

「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。ブーブー文句を言いながらも、「後になる」ならば、そんな彼ら先にいる者たちも恵みに与る。主人の話を聞いて、後々、少しずつ少しずつ、その心がわかってきたのかもしれない。私たちも、イエスの語ることを、そのまま受け止めるのは、なかなか難しいし、正直、納得できないことも多いかもしれない。でも、イエスの言葉を聞き続ける中で、少しずつ少しずつ、私の物事のとらえ方や生き方を変えられていきたい。

 

それは遅々たる歩みかもしれないが、それでも遅くない。イエスはあきらめずに何度でも何度でも乳飲み子に語るように、私に語り続けてくださるであろう。その中で、み心を受け止め、それに従って生かされる者とされていきたい。

ルーテル教会とは?

 みなさんは、中学校・高校の社会科や歴史の時間に、宗教改革という出来事を勉強したことがあると思います。その際に、マルティン・ルターという人が出てきたことを覚えていますか?

 

(私自身も、中学校でルターと宗教改革のことを学んだのが、キリスト教に興味や関心を抱くようになったきっかけでした。その後、たまたま始めて行った教会が、ルーテル教会だったというのも、不思議なお導きです。)

 

 このマルティン・ルターは、アルファベットで書くなら、”Martin Luther”となります。この”Luther”は、ドイツ語で「ルター」とも「ルーテル」とも読むことができる名前です。ですから「ルーテル教会」は、このマルティン・ルターさんの名前に由来しているんですね。

 

 ルターさんは、当時(16世紀)のキリスト教会の色々な問題に対して、教会が定めた多くのきまりや制度やいろんなグッズやアイテムではなく、「聖書のみ」キリスト教信仰の核であるべきであって、また、私たちが神さまの救いをいただくために、私たちが何か人より優れたことをしなければならないというのではなく、私たちを救うのは、ただただ神さまがイエス・キリストを送ってくださり、キリストが十字架にかかり、命がけで私たちを愛し、復活なさって永遠の命を与えてくださった、一方的な神さまのプレゼント=「恵みのみ」によるであり、その恵みを感謝して受け取る「信仰のみ」が大事なのだと主張しました。

 

(1517年10月31日に、そのきっかけとなる文章を、ルターは発表しました。今年2017年は、それから500年です。)

 

 たとえ、私たちの側でどれだけ一所懸命頑張っても、どっぷりと罪の中に浸かっている私たちの努力では、神さまの救いを獲得することなんて到底できっこなく、どうやっても無理であるということを、ルターはよく知っていたのです。神さまが一方的に私たちのことを救ってくださるのでなければ、私たちは永久に救われない、ルターはそのことを強調したのでした。神さまの100パーセントの恵みによってのみすくわれる、私たちはそのことを聖書のみことばを通して知らされ、そしてそのことを信じることあるのみだと。

 

 また、当時の教会がそうであった様に、聖職者・教職者(今で言うなら、神父さんや牧師さんですね)たちだけが教会の中心なのではなく、すべての信仰者がキリストによって神さまのお手伝いをして働く役割へと招かれて、そのために用いられているということも、ルターは主張し(「全信徒祭司性」「万人祭司性」)、これらの立場に立って、キリスト教会のあらゆる面の抜本的な改革をすすめていったのです。

 

 このルターの信仰の流れを汲むのがルーテル教会です。ルーテル教会はドイツからはじまり、その後、ヨーロッパのみならず、アジアにも、アフリカにも世界中に広がっています。

 

 私たちの日本にも、今から1893年にルーテル教会の宣教師が来日して、それ以来、日本各地で教会としての活動が行われています。私たちの教会が所属しております日本ルーテル教団は、1948年に日本で宣教をはじめました。大麻ルーテル教会は、1966年に宣教を開始し、1967年に「大麻ルーテル教会」として、北海道地区によって認められました。また、北見聖ペテロ・ルーテル教会は、1958年に宣教を開始し、1959年に教会としての歩みを始めました。

 

 以上、ルーテル教会の紹介をしてきましたが、大切なことは、「ルーテル教会が正しくて、他の教派(宗派)の教会は間違えている」などという姿勢で立つことではありません。私たちがルーテル教会としてのよいところはこれからも大切にして、でも、他の伝統にある諸教会と一緒に手を携え合い、お互いのよいところを学び合いながら、キリストが与えてくださる愛といのちを、協力して、この国の人たち、そして世界の人たちに伝えていくことが大事です。

 

 「すべての人を一つにしてください」イエス・キリストはそう祈っておられます。私たちもこのイエスさまの祈りを大切にして、この祈りがかなえられるために努めたいと願います。

 

 イエスさまは、「すべての人を」と言っているのですから、キリスト教の枠をも超えて、他の宗教やいろんな考えの人と一つとなっていく努力も私たちにとって大事なことですよね。平和のため、環境のため、人権のため、福祉のため・・・、いろんな分野で協力することを心がけたいものです。

 

(かつて前任地の教会のウェブサイトに掲載していたものを一部変更しました)

2017年10月8日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第18主日 2017年10月8日

 

「神の物語の中の私」

(創世記50章15~21)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先日、ある方より、「運命ってキリスト教とは関係のないものなのですか」と尋ねられました。それに対して私は、「ぼくは関係ないと思っています。神さまの導きによって我々は生かされているのであって、運命なんかに人生が定められているわけじゃないと。神様はその時々に必要な導きや助けや試練を与えてくださるのであって、私たちは最初に決められたレールをただ決められた通りに動いているとは違うので」と答えました。

 

私たちの人生は、運命によって定められているのではなく、神さまの導きの中にあります。そして、神さまは時として、私たちのために、ご自分が決められた計画を変更することも厭われません。たとえば、ソドムとゴモラを滅ぼそうとされた際、アブラハムが甥のロトたち一家を心配して熱心に神さまにとりなしを願ったら、神さまは彼の願いを聞き入れられました。また、ヨナ書では、悪さばかりをしていたニネベの人たちを滅ぼそうとされていた神さまでしたが、彼ら一同が悔い改めたら、彼らを赦されました。何週間か前の福音の、カナン人の女性にも、イエスさまは彼女の熱心な願いを聞き入れて、最初の計画とは違ったけれど、異邦人である彼女の娘の病を癒されました。そのように、神さまは私たちの時々の必要や願いに応じて働いてくださいます。私たちはそうした神さまの柔軟性のある、フレキシブルな導きの中に生かされています。

 

今日は、第一朗読、旧約聖書の創世記のみことばに聴いてまいりましょう。今日の創世記50章は、創世記のほぼ終わりで、37章から始まるヨセフ物語の完結部分です。今日は、このヨセフ物語を振り返りながら、神さまの計画と私たちの人生について考えてみたいと思います。ヨセフは、ヤコブが年老いてからの子でしたので、ヤコブはヨセフのことを溺愛、いえ、他の兄たちに比べて明らかに偏愛をしました。そんなヨセフを、兄たちは妬み、意地悪をすることも少なくありませんでした。ヨセフもまた、そんな兄たちのことを、すぐに父親に告げ口するのでした。父ヤコブは、二人の妻や側室たちとの多くの子どもがいたのです。このように、まず、父親の側の問題を、ヨセフは身に帯びており、ヨセフ自身もそうした中で、少し思いあがった心で育ったのかもしれません。

 

ある日、彼が夢を見ました。それはヨセフと兄たちが畑で束を結わえていた夢でした。すると、ヨセフの束が立ち上がり、兄たちの束が周りに来て、ヨセフの束にひれ伏したというものでした。それを聞いた兄たちは、自分たちがお前にひれ伏すなんてと、ヨセフに、より大きな憎しみを抱くようになりました。ある日、またヨセフは別の夢を家族に話しました。それは、太陽と月と11の星がヨセフにひれ伏したというものでした。これについては、父ヤコブも、父や母や兄たちがお前にひれ伏すとは何事かと、ヨセフを叱りました。ヨセフが夢について持っている特別な才能は後々発揮されるわけですが、しかし、だからと言って、このように何も考えず、兄たちや親に向かって話す彼は、たいへん無邪気であるとともに、思いあがっているとも言えるし、周りの人たちの気持ちを少しも考えず、何でもペラペラ話してしまう青年であったとも言えるでしょう。彼が素晴らしい完璧な人だったわけではなく、彼にも、こうした弱さや課題があったということを、私たちは受け止めたいと思います。

 

そんなヨセフですが、兄たちの憎しみを買い、兄たちは彼を殺そうと企てますが、それをいざ実行しようとした段階で、兄たちの内の一人が、さすがに殺すのはやめようと思い留まらせます。その結果、ヨセフは命だけは何とか救われましたが、エジプトに売られてしまうことになりました。兄たちは父親に、獣の血をつけたヨセフの着物を渡して、ヨセフが死んだと思わさせます。父親は、そのことを非常に悲しみました。

 

ヨセフは、エジプト王ファラオの宮廷の役人の家に引き取られました。ヨセフは、神さまに支えられ、祝福されて、神さまから与えられた能力があったため、その役人に認められ、家の財産の管理を任されました。「主がヨセフとともにおられたので、彼はうまく事を運んだ」と聖書は告げています(38:2)。ヨセフを通してエジプト人もみな祝福されるほど、恵まれた日々を過ごしていました。

 

しかし、ある事件が起こりました。ヨセフは、イケメンで、体つきも優れていたので、彼の主人、ヨセフを引き取ったその役人の妻が、ヨセフに言い寄るのです。けれども、彼は、神さまと主人への忠誠ゆえに、その誘いを断り、彼女と一緒にいることも避けるようになりました。すると、ある日、彼女は実力行使に出ます。ヨセフが彼女の誘いを断ると彼の服をひっぱり脱がし、ヨセフが彼女を乱暴したとみんなに言い触れたのです。ヨセフは、そのことゆえに、主人に捕らえられ、投獄されました。

 

けれども、その獄中でも、ヨセフは神さまに祝福をされて、看守長の信頼を得て、他の囚人たちの管理を委ねられました。彼も立派にその期待に応えました。ここでも、「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」と告げられています(38:23)。その獄中で、ある二人が夢を見ました。その夢をヨセフが解き明かしました。一人は王の給仕役の夢で、ヨセフは彼がやがて元の職務に復帰できると解き明かしました。もう一人は王の料理長の夢で、ヨセフは彼がやがて処刑されると解き明かしました。そして二人ともヨセフが解き明かした通りになりました。ヨセフは給仕長に職務に復帰したら、自分の冤罪を王に伝えてくれるように話していたのですが、給仕長はすっかり忘れてしまいました。ここにも自分の立場が救われれば、もう他の人のことなど、たとえそれが自分のためによくしてくれた人だって忘れてしまう、人間の身勝手さを思います。

 

それから二年が経ち、今度はエジプト王ファラオが、自分がみた夢に悩まされました。王は、国中の賢者や魔術師を呼び集めて、夢の意味を尋ねたけれど、誰一人解き明かすことはできませんでした。その時、給仕長がヨセフのことを思い出し、王に伝えました。そこで王はヨセフを呼んで自分の夢を伝えました。すると、ヨセフは、それが今後7年間エジプトに豊作が訪れて、その後、7年間、それをしのぐ大飢饉が訪れることの予知であると解き明かしました。だから、王の命令により、この7年のうちにできるだけ穀物を蓄えて、その後の7年の大飢饉に備えるように、そしてそれを管理する責任者を選ぶように、進言しました。王は、ヨセフの忠告と進言を受け止めて、ヨセフ自身をその責任者に委ねました。ヨセフが夢を解き明かす際の、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」(41:16)との言葉は、とても印象深いものです。また彼は、王に与えられた働きを担う中で、授かった自分の長男に、忘れさせるという意味のマナセという名前を付け、「神は、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と言い、次男には増やすという意味のエフライムという名前を付けて、「神は悩みの地で、わたしの子孫を増やしてくださった」と言っています(41:51-52)。彼の苦しみと、その苦しみの中で働かれる神さまへの感謝を受け止めることができます。

 

ヨセフが告げたとおり、7年の豊作の後、大飢饉が始まりました。しかし、エジプトには彼の管理により蓄えてあった穀物があるので、国民は飢えずに済んだばかりか、周辺の国々からもエジプトに穀物を買いに来るようになりました。経済的な効果もあり、エジプトはより安定することができたのです。さて、イスラエルヤコブの子どもたち、すなわち、ヨセフの兄たちも、穀物を買いに、エジプトを訪れました。対応したのは責任者であるヨセフです。でも兄たちは、まさか自分の弟がそんな要職に就いているなんて思いませんので、それがヨセフだとは気づきません。もちろんヨセフは気づきました。また、かつて自分がみた、兄たちの束が自分の束にひれ伏した夢も思い出しました。彼は自分の身を明かさず、兄たちが言っている、末の弟であり、母が同じのベニアミンを連れてくるように命じました。そして人質として兄のうちの一人を残していくように命じて、穀物を一杯袋に入れて兄たちを帰国させました。

 

兄たちは帰国して、エジプトの責任者に、ベニアミンを連れてくるようにと命じられ、一人の兄が人質に取られたことを父親に話すと、父親は息子を二人も失ってしまったと悲しみました。そして、末の息子を連れて行くことだけは絶対に許さないと言いました。しかし、しばらくして穀物が再びなくなってしまいます。ですので、やむを得ず、父親は、末の息子べニアミンも連れて、兄たちをエジプトへ行かせました。ヨセフは、ベニアミンを見て、感極まり、席を外して泣きました。そして、兄弟を招き宴会をします。兄たちはまだそれがヨセフだとは気づきませんが、ヨセフは兄弟順に宴席を設けたので、兄たちは驚きました。ちなみにベニアミンだけ大盛でした。その後もいろんなやりとりがあり、兄たちが父親のことを話していた際、ヨセフはもう普通にしていることができなくなり、エジプトの役人たちをみな人払いして、大泣きし、自分のことを兄弟たちに告げました。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか」と。そして続けて言うのです。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」(45:3-)。彼は、父ヤコブを連れてくるように、兄たちに言い、みんなと抱き合い、泣き合いながら語り合いました。

 

ヤコブと兄弟たちがエジプトで暮らすようになってしばらくして、父はこの世を去りました。兄たちは、また心配になりました。父亡き後、弟ヨセフは、かつて自分たちが彼にしたことの恨みを晴らすのではないかと。しかし、そんな兄たちの不安を知り、ヨセフは、涙を流しながら言うのです。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」(50:19‐)

 

これがヨセフ物語です。ここでは、ヨセフ自身の弱さや課題と、彼を取り巻く様々な人の弱さや罪が蠢き、その中で波乱万丈の人生を送ったヨセフの姿が伝えられます。しかし、彼はそれらを「わたしではなく、神が働いてくださった」と受け止め、受け入れていくのです。神の導きの中にいる私であるとの信頼と信仰で生きた彼の姿を思います。あの王の給仕長がヨセフのことを伝え忘れた二年間も、彼がそうした信仰に立ち、また彼が謙虚になるために必要な時間だったかもしれません。

 

私たちが生きる上で、様々なことがある人生です。その中には必ずしも受け入れがたい事柄もあるでしょう。でも、そうした中で、神さまが私たちに働きかけ、私たちを導いてくださる。私たちはこのことを信じて歩みたいと思います。聖書にこんな言葉があります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」、神さまは私たちへの愛の中で、様々なことがありながらもすべてを益としてくださるように働いてくださいます。また、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 神は真実な方です。 あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とも聖書は告げています。私たちには、いろんな試練がある。でも、神さまはそれに耐える力を私たちに与え、逃れる道をも備えていてくださるという、この約束を信じたいものです。

 

今日のメッセージのタイトルを「神の物語の中の私」としました。私の人生の物語は、神さまの計画、神の物語の中にあるのです。そのことを信じ、神の導きの中で一日一日を生かされてまいりましょう。

 

主よ、わたしを導いてください。

 

神さま、いろんなことがある私たちの人生の歩みですが、あなたが、私のために働いて、すべてを益としてくださること、耐えられない試練に合わせず逃れる道も備えてくださることを信じて、一日一日を歩んでいくことができるように導いてください。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 

 
(時間がなく、今週は、始めと終わりはトリミングしていません。)

 

http://bibledaily.files.wordpress.com/2011/01/josephs_dreams.jpg