yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年3月11日 礼拝メッセージ

四旬節第4主日 歓喜主日 2018年3月11日

 

「神は、独り子を」

民数記21章4~9・エフェソの信徒への手紙2章1~10・ヨハネによる福音書3章14~21)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日は、教会の暦で四旬節第4主日で、この日は「歓喜主日」とも呼ばれます。四旬節の間は、礼拝の色として、悔い改めと慎みを表す紫が用いられますが、四旬節の日々の中でも、今日のこの歓喜主日には、バラ色を用いてよいとされています。また、四旬節の間、礼拝堂には原則としてお花は飾らないのですが、この歓喜主日にはバラを飾る習慣もあります。そのような工夫をして、約束されたご復活の喜びがもう間もなくすぐ近づいていることを喜び祝うのです。今日は、バラを飾り、私もバラ色のストールを着用して礼拝をしておりますが、みなさんと一緒に、ご復活の喜びがすぐ近いことを心に刻む礼拝をできればと願っております。

 

ところで、先週、私は、二人の方のご葬儀に参列しました。まずは、月曜日の夜に、深川教会で行われた教会員のお通夜に参列しました。その際、私は、翌日火曜日に行われる告別式と火葬後の祈りで奉仕をするために、宿泊と、礼拝の式服の用意をして出かけました。その方は、ある夜、トイレに行く最中に転倒をし、朝病院で脳出血と診断され、一週間眠ったまま過ごされ、そのまま帰らぬ人となったのでした。

 

その方のお通夜が終わって、携帯電話を見ますと、不在着信が何件か入っておりましたので、折り返し電話をしました。そうすると、それは、長い間、入院しておられた、大麻教会のAさんが召されて、今まだ病院なのだけど、これからどうしたらよいかという、ご家族からの問い合わせでした。95歳のご生涯でした。しかし、私は深川におりましたので、すぐに札幌のその方が入院しておられた病院へ駆けつけるとしても、かなりの時間がかかります。これまたどうしようかと考えました。そうしたら、頭の中に、大麻教会の前任者で、現在、札幌中央教会の牧師をしてらっしゃいます、Y先生の顔が浮かびました。すぐにY先生にお電話して、病院へ行って臨終の祈りをして、また葬儀社の手配や日程の打ち合わせなど初動的な働きをお願いし、たいへん助かりました。そして、深川教会でのお勤めははN先生とH先生に委ね、翌日火曜日に、葬儀社とご遺族と詳しい打ち合わせをし、水曜日・木曜日と、その方のご葬儀を、大麻教会で、Y先生にも手伝っていただきながら執り行いました。

 

このように、私たちの愛する家族や教会の仲間が、ご生涯を終えて、この地上から旅立つということは、たいへん寂しい悲しい出来事です。けれども、キリスト教の信仰に基づく葬儀は、ただしめっぽいだけではありません。もちろん悲しみの中にも、どこかに希望があり、明るさがあります。それは、その葬儀が、神さまへの礼拝として行われ、そこでさんびがなされ、みことばが語られること、そしてそのことを通して、慰めと励ましが与えられるからであろうと思います。神さまがその召された人の命を御手に受け取ってくださっていること、そして、今、私たちはちょうど四旬節を過ごしイエスさまの十字架への歩みを心に刻み、ご復活の岩に備える日々を過ごしておりますが、イエスさまの十字架と復活によって、神さまがその人をお救いになられたこと、私たちはその信仰を葬儀において神さまを礼拝することを通して新たにするのです。葬儀を通して、悲しみを超えた希望、闇に輝く光を受け止めることができるのです。

 

さて、今日のみことばですが、まず第一の朗読、民数記が伝えている出来事についてお話したいと思います。個所としては、とても短いのですが、しかし、そこには実に不思議な出来事が伝えられておりました。荒れ野を旅していたイスラエルの民が、彼らのために神さまが立てられたリーダーであるモーセに不平不満を言うのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」。彼らのこの不平不満は、一見、わからないでもないように思えるかもしれません。けれども、彼らはなぜ、そのように荒れ野で旅をしているのかということを考えるなら、彼らのこの訴えが実に身勝手なことであると言わざるを得ません。

 

彼らは、エジプトで王ファラオの支配のもとで奴隷として強制労働に従事させられていました。その苦しみの中で、彼らは、神さまに向かって叫び、嘆き、助けを求めました。神さまはその彼らの必死な苦しみの叫びを聞き入れて、それにお応えになって、彼らをエジプトから救い出されたのです。しかし彼らは、この今日のみことばと同じように、やがてすぐに神さまにやれ水がないとか、エジプトではおいしい肉鍋を食べて、パンもたくさん食べられたのに、ここでは飢え死にしそうだとか、エジプトに帰りたいと不平不満を言い始めるのです。

 

せっかく神さまが彼らをエジプトでの苦しみから救い出してくださったのに、目先のちょっとした苦しみによってそのことを忘れて、あの時の方がよかったなどと言うわけですから、神さまだってたまったものではありません。神さまは、彼らを鍛えるため、そして世代交代が必要とも考えられたのでしょう。荒れ野を40年の間、旅させることにしたのです。しかし、その旅の中でも何度も同じようなことが起こるわけです。食べ物がない、水がないと、事あるたびにぶつぶつぶつぶつ言い始める彼らでした。「心は燃えていても、肉体は弱い」とイエスさまはおっしゃいましたが、まさにそうした人の弱さを見ます。今日のみことばも同じでした。

 

そんな彼らに神さまは激怒なさって、炎の蛇を送って、彼らを裁かれるのでした。たくさんの人がその蛇に噛まれて死んでしまいました。そこで彼らはようやく自分たちの過ちに気づいて、悔い改めつつ、モーセに、蛇を取り除いてくださるように神さまに祈ってほしいと願い出ます。モーセは、民の願いを受け入れて、神さまに祈りました。すると、それに対する神さまの答えが実に不思議なものだったのです。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」モーセは神さまがおっしゃった通り、青銅で蛇を作って、旗竿の先に掲げます。その後、その掲げられた蛇を見上げた者は、たとえ蛇に噛まれても、死ぬことなく命を得たというのです。

 

私は、長い間、この出来事に大きな疑問を抱いていました。それは、先週の第一朗読は出エジプト記20章の十戒でしたが、そこには「あなたはいかなる像を造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない」と、人が何か物を形作り、それを宗教的な対象物とすることへの、つまり偶像崇拝の禁止がはっきりと定められています。それなのに、神さまはここで蛇を造ることをモーセに命じて、そして人々がその蛇を仰ぎ見ると、命が救われるというのは、この偶像崇拝に当たるのではないかと疑問に思ったのです。けれども、今回改めて、このみことばと向き合ってみて、違った角度から考えることができました。

 

それは、彼らが蛇を見上げるとは、一体、何を意味したかということです。それはその際に、彼らがなにも蛇を拝んだり、宗教的な対象物としたりしたということとは違ったのではないだろうかと思いました。それでは、彼らがそこで蛇を見上げたことは何を意味するのかというと、その蛇を見上げることにより、彼らは、彼ら自身の罪に向き合い、それを心に刻んだのではないだろうかと思ったのです。自分たちが神さまに不平不満を言い、何ともバカなことをしてしまった、そして、そのことで神さまが蛇を遣わして裁かれた、大勢の仲間がそれで死んでしまった、私たちはもう二度と同じようなことを繰り返してはならない、そのように彼らが痛みをもって、また、深い悔い改めをもって、向き合い、自分の心に刻むための蛇だったのではないかと思います。

 

そして、そう考えると、イエスさまが今日、ご自分のことを語るのに、この民数記モーセの蛇の出来事を語っているのが、よく理解できると思うのです。モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。イエスさまはそのようにおっしゃっています。このイエスさまのみことばから、私たちは今日、イエスさまの十字架の出来事を受け止めたいのです。イエスさまは、「人の子も上げられねばならない」と、たいへん深い決意のうちに、ご自身十字架の上に上げられるのです。そして、「それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」でありました。教会には、十字架が掲げられています。また私たちも自分の胸に、十字架の飾りをつけることもあります。それは何も、私たちがその十字架を偶像として崇拝するためではありません。イスラエルの民が、モーセが作った蛇を見上げて自分の罪を心に刻み、深い悔い改めに導かれたように、私たちは十字架を見上げることにより、私たち自身の罪を心に刻み、その私たちの罪のためにイエスさまが十字架の上に上げられたことを思い起こし、深い悔い改めに導かれるのです。自分のどうしようもなさを思い、その自分のどうしようもなさがイエスさまを十字架に追いやり、死に至らせたことを忘れないために、私たちは十字架を見上げるのです。

 

「イエスさまの十字架は今から二千年前のことで、それは私のせいではない」と言われることもあります。でもそうじゃない。私の犯す罪が、イエスさまを十字架に追いやった。神の命を、この私の罪が奪ったのです。それほど、私たちの犯す罪は重いものであり、自分ではどうすることもできないものです。ただただイエスさまの十字架によって、神の命と引き換えとしてのみ、私たちは罪を赦され、救いをいただくことができるのです。

 

今日の福音では、続けて聖書の中で最も大切な一言が語られます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これは、「聖書の中の聖書」とも呼ばれるみことばです。聖書のすべてのみことばが、この一節に収斂され、聖書のすべての精神を言い表しているみことばです。あのマルティン・ルターが、自分が間もなく死ぬというその時、何度も何度もこのみことばを繰り返し唱えたと言います。聖書について多くの講義をし、力強く宗教改革的な福音を告げたルターが、人生の最後に、死の床で、このみことばを自分に言い聞かせ、慰めと励ましを得ていたというこのことは、たいへん印象的です。

 

このみことばの「世を愛された」「世」というところに、自分の名前を入れて読んでみると、このみことばをより意義深く大切なものとして受け止めることができると、よく言われます。つまり、こんな感じです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、白井真樹を愛された」と。神さまは、この私を愛するがゆえに、独り子イエスさまをお与えくださった。それほど深く私を、神さまは愛されて、何とかして私のことを救おうとされました。それは、神さまにとっても大きな痛みの出来事だったに違いありません。しかし、その痛みを伴ってまでも、私たちへの愛を貫かれるのです。「御子を信じる者は裁かれない」、神さまはこの約束を堅く守られます。

 

今日の第二朗読で、パウロは語ります。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」

 

ここで語られているように、私たちはただ神さまの恵みによってのみ救われます。私たちが何か良いことをしたとか、私たちの力によって救いを得ることができるとかではなく、「キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみ」、つまり、イエスさまの十字架によってのみ、「神の賜物」、神さまからのプレゼントとして、私たちは救いをいただいて、「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださ」るのです。今日、歓喜主日、私たちは、この神さまの愛を心から喜び、信じたい。そして、共にイエスさまの十字架を見上げて、深い悔い改めと感謝のうちに、ご復活の祝いに備えたいと思います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの限りのない深い愛を感謝します。その愛の中で悔い改め、あなたに立ち返って生きることができますように。私たちの救いのために御子をお送りくださりありがとうございます。御子の十字架を見上げ、ただこの十字架によってのみ、私の罪が赦されたことを信じることができますように。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-03-11.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年3月4日 礼拝メッセージ

四旬節第3主日 2018年3月4日

 

「 熱情の神の熱き愛 」

出エジプト20章1~17、ヨハネ2章13~22)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日の第一朗読は、出エジプト記の20章で、十戒が告げられている箇所です。長い間エジプトで奴隷の状態にあったイスラエルの民を、神さまがその苦しみから救い出されます。彼らをエジプトから脱出させ、神が与えたもう約束の地へと導かれるのです。そして、神さまは彼らに大切なきまり、教えを授けられます。それが十戒なのですが、そこには神さまがお与えくださる新しい約束の地で、彼らが、神さまの前で、また、みんなと一緒にどのように生きるのかが定められています。

 

聖書は、神さまが十戒を自らの指で二枚の石の板に刻まれたと、伝えています。その二枚の石の板にちなんで、十戒には大きく二つの主題によって語られていると言われてきました。つまり、それは、神さまを愛し、また、人を愛する生き方です。これは、約束の地で生きる神の民が、神さまと共に、また人と共に生きる生き方を、神さまが彼らに定められたものと言えるでしょう。そして、十戒は、ただ旧約聖書の神の民であるイスラエルの人々に対してだけでなく、新しい神の民として、救い主イエス・キリストによって導かれて生きる今日の私たちにも授けられた、神さまの教えです。私たちも、キリストによって神の民に加えられたものとして、十戒に定められている神さまの教えを大切にして、神さまを愛し、人を愛して、神さまと共に、人と共に生きていくのです。

 

これは、イエスさまが、「最も重要な掟」として私たちに告げられたことでもあります。ある日、イエスさまは、数多く定められている「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねられました。それに対して、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」と答えられ、さらに、「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と答えられました。このように、神さまを愛し、人を自分のように愛する、これこそ最も重要な掟、神さまの最も大事な教えだと、イエスさまはおっしゃるのです。今日の第一朗読で告げられております、神さまが、エジプトから救い出され、約束の地に導かれたイスラエルの民に、また、救い主イエス・キリストによって神の民に加えられた私たちに与えられた十戒の精神も、まさにこのイエスさまの答えの通りです。

 

ところで、この十戒を告げられる中で、神さまは、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と語られ、このように、ご自分のことを「熱情の神」と呼んでおられます。これは以前、用いていた日本語の訳では「ねたむ神」という風に訳されていました。英語ではどうかなと思って調べてみたら、「ジェラス ゴッド」、つまり「嫉妬の神」と訳されているものが多かったです。「ジェラス ゴッド」ですから、分かりやすく言うなら、「ジェラシーの神」です。神さまは嫉妬されるほど、ジェラシーを感じられるほど、私たちのことを愛しておられるというのです。英語の聖書には、さらにこんな訳のものもありました。「君のすべての愛が、わたしはほしいんだ」とか「どんなライバルだって、わたしは決して許さない」とか、このように、ここではとんでもないほどの神さまの強烈な愛が語られているのです。私は、このことについて、インターネット上で書いたら、「すごい激熱で、松岡修造ばり熱いですね」とコメントをくれた人がいましたが、本当に激熱な、嫉妬なさるほど、熱い熱い愛をもって、私たちのことを愛してくださる神なのです。

 

それほど熱く私たちのことを愛してくださるお方が、「わたしは主、あなたの神」とおっしゃいます。つまり、「わたしこそ、あなたの神だ。いつどんな時も必ずいるから、絶対いなくならないから。あなたのことめちゃくちゃ激熱に愛しているから。決してだれにもあなたを渡さないから」と、そう告げておられるのです。

 

この神さまの激熱の愛の中で、私たちが神さまを愛し、人を愛して、神さまとの関係、人との関係に生きることこそが、神さまが授けられた十戒の精神です。しかし、実際には、私たちは、そうした神さまが十戒を通して教えておられる生き方をすることができません。むしろ、神さまを悲しませ、人を傷つけることを多くしてしまう私たちです。神さまを愛するよりも、むしろ自分の楽しみを優先させて生きています。また、人を愛するよりも、むしろ自分の都合を優先させてしまっているのです。どうしてもそんな生き方をしてしまう私たちなのです。

 

ルターは、エラスムスという学者が書いた「自由意志論」という本に対する、宗教改革的な福音信仰によって「奴隷意志論」という本を書きました。エラスムスは、人間は自分の意思で神さまが喜ばれる生き方を選択して行うことができると語ったのに対して、ルターは、いや、私たち人間にはそれはできない、なぜなら人間はみな罪の奴隷であって、罪を犯さざるを得ない存在だからだとというのです。つまり、私たちはもちろん、神さまを愛し、人を愛して、神さまと共に、人と共に生きたいと願うわけですが、けれども、罪の奴隷である私たちは、そうすることができず、どうしても自分を優先し、自分勝手な生き方をしてしまう存在なのです。

 

神さまは「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と語られた後に、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と語っておられます。つまり、神さまを愛し、人を愛して生きていこうと願っても、そうできずに、十戒で語られる神さまの教えに反して生きている私たちは、神さまの熱い愛を裏切ったものとして、子々孫々にわたって、神さまからその罪を問われ、見捨てられてしまっても仕方ない存在なのです。

 

けれども、いくら私たちがそのような神さまから見捨てられてしまっても仕方がない存在であっても、「あなたをめっちゃ愛してる、決していなくならない、必ずいるから。あなたのことを決してだれにも渡さないから」とおっしゃる激熱な神さまは、私たちを決して見捨てることはありません。何とかして、私たちをご自分のもとに取り戻し、御自分のもとで生かすために、最愛の御子を私たちのために、私たちのもとに送られます。そして、御子は、私たちのために、ご自身は罪を犯されなかったにもかかわらず、十字架を引き受け、苦しまれ、命がけで、私たちのことを救われるのです。

 

この神さまの愛、御子イエスさまの愛、ただこの激熱な愛の中でのみ、また、この激熱な愛を、私たちが受け入れ信じる中でこそ、私たちは神さまの救いを受け取ることができます。私たちが、神さまのものとして、神さまと共に永遠に生きることができる者とされるのです。

 

しかし、きょうの福音で伝えられている出来事は、そうした神さまの思い、神さまの激熱な愛に大きく反することでした。つまり、エルサレムの神殿で人々が行っていた現実は、その神さまの愛からほど遠いものだったのです。そこで一体何が繰り広げられていたかというと、神殿でささげるための犠牲の動物が売り買いされていました。何のためにそれがなされていたのかと申しますと、そこで売られていた動物は、人々が罪の赦しを願って、いけにえとしてささげられるためのものだったのです。

 

そこには、大きな社会的な問題も孕んでいました。つまり、お金のある経済的に豊かな人は、高いお金を払って、罪の赦しにとって、より「効果的」とされた動物を買うことができ、それに対して、お金のない人は「効果が少ない」とされた貧しい小さな動物しか買えないか、まったくそれらを買うことができず、その人たちは神さまの赦しをいただくことができないとされていたのです。

 

しかし、これは神さまの思いとは、大きくかけ離れたものでした。神さまはホセア書で、「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」とおっしゃっています。また、詩編で詩人も、「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」と告白しています。

 

このように、私たちが神さまに近づき、救いのために必要なのは、動物のいけにえではなく、私たちが自分の罪を悔い改める心であり、また、私たちが神さまを愛し、神さまのことを深く知ることです。さらには、私たちが「愛の実践を伴う信仰」をもって、生活することなのです。十戒で教えられている、神さまを愛し、人を愛し、神さまと共に、人と共に生きる、そのことができない私たちであることを受け止め、それを悔い改めつつ、今一度、その十戒の精神に立ち返って私たちが生きることこそ大切なことなのです。

 

私たちがその神さまの救いをいただいて、再びそのように生きていくことができるように、まさにいま、御子、救い主イエスさまが来られているのにもかかわらず、実際には、神殿では犠牲の動物の売買がなされ、金持ちと貧しい人との間に大きな格差があった。金持ちで高慢な人こそ神さまの前でより優遇されて、貧しくてへりくだって生きている人こそ、神さまに近づけない、救いを得られない、そうした本末転倒な現実がそこでは繰り広げられていたのです。

 

エスさまは、それをご覧になり、激怒なさいます。《縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金を蒔き辛し、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と伝えられている》神さまの前で、お金によって人に差別があってはならない。神さまに近づくために、もはや動物のいけにえはいらない。イエスさまは、この出来事を通して、そのことを告げられるのです。

 

「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」とあるように、イエスさまは、中途半端ではなく、とてつもなく激熱なお方です。神殿とは、私たちを救うための、救いを願う人ならだれもが近づくことが許される、神の家なのに、それが、妨げられている現実を、イエスさまは決して許せません。神の家が、もはや人の商売の家になってしまっている。そう激怒mなさったのです。

 

そのイエスさまの行為に対する当時の人たちの反応は、実にとんちんかんなものでした。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」、そんな風に言っています。このように、人が、人の思いで、追求する信仰とは、自分の目に見えるしるしを求め、自分にとって得する奇跡を求め、自分のほうが神さまを動かしてご利益を求める自分中心のものなのです。しかし、イエスさまは、それとはまったく違うことをお答えになりました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」

 

このイエスさまの言葉に、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直してみせるのか」と人々が答えているように、彼らにとって、見た目がたいへん立派なその神殿は、大きな誇りであり、自慢の建物でした。しかし、イエスさまの意図はそうした人の思いとはまったく違いました。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」。イエスさまはご自分の体、ご自分の命を犠牲にされ、そして復活なさって、私たちのために救いを完成なさいます。ただそのことによってのみ、私たちが神さまに近づく道を開いてくださるのです。私たちにとって、ただイエスさまの十字架と復活のみが、神さまに近づき、赦しを得られる唯一の真の神殿なのです。

 

「見ないで信じる者は幸いである」と、イエスさまがおっしゃったように、信仰は目に見えるものにはよりません。それがどんなに立派なものでも、どんなにありがたいものでも、どんなに高価なものでも、それによっては私たちは、神の救いを得ることはできないのです。私たちが犯している罪は、そんなに簡単な軽いものではない。この世のどんなものをもっても決して得ることができない救い。それがただイエスさまの命、つまり、神さまご自身の命によってのみ、私たちに与えられます。

 

そのイエスさまによる神さまの救いを、私たちが受け入れ、受け取るために必要なのは、外的ないけにえとか、ささげものとか、苦行とかではありません。私たちが自分の犯した罪を信実に悔い改めて、神さまを愛し、神さまを知ること、そして愛の実践を伴う信仰に生きることです。そこには、富んでる者も貧しい者も何ら差別がなく、それは、すべての人に等しく開かれ招かれている救いです。今や、その救いが、ただただ御子イエスさまの十字架と復活によってのみ、私たちに与えられる、そのことを覚える日々を、今、私たちは過ごしています。神さまの激熱の愛を心に刻み歩んでまいろうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

わたしたちを激熱の愛をもって愛してくださる神さま、あなたの愛に応えることができない私であるにもかかわらず、なおも見捨てず愛してくださり、御子によって赦しお救いくださいましたことを心より感謝いたします。御子の十字架と復活によるあなたの恵みを信じ、心から悔い改め、あなたを愛し、また、隣人を愛する歩みへと私たちを導いてください。目に見えるものを求めるのではなく、目に見えないあなたの真実の愛を求めることができますように。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-03-04.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年2月25日 礼拝メッセージ

四旬節第二主日 2018年2月25日

 

「十字架を負って」

(マルコによる福音書8章31~38)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

「親の心、子知らず」という言葉があります。親がわが子のことを気にかけ、本当に心配しているのに、当の子どもはちっともその親の思いを理解せず、親の思いを裏切る、あるまじき言動ばかりする、そんな様子を表す言葉です。福音書を読んでまいりますと、「親の心、子知らず」ならぬ、「主イエスの心、弟子たち知らず」、そんな姿が繰り返し伝えられています。イエスさまは、弟子たちのことを思い、彼らを愛されて、大切な言葉を彼らに語り聞かせたり、歩みを進められたりされているのに、当の弟子たちは、そんなイエスさまの思いを理解せず、ずいぶんと勝手なことを言ったりしたりしてしまっているのです。今日の福音のみことばもまた、そうした「主イエスの心、弟子たち知らず」の様子を伝えています。

 

エスさまは、弟子たちに向かって、ご自身の受難と復活についての予告をされました。イエスさまが人々から徹底的に捨てられて殺されることを彼らに告げられたのです。そしてその後、死から復活なさることもまた告げられました。よく、この出来事をイエスさまの「受難予告」という言葉で言われますが、実際には、受難だけでなく、受難から復活への予告がされていることを、私たちは今日改めて受け止めたいと思います。イエスさまの福音は、受難、すなわち十字架の死をもっては終わりません。その後、死から復活なさって完成するのです。また、イエスさまが死に勝利された復活の出来事もまた、ただそれだけ単独で起こった出来事なのではなく、それに先立つ十字架と、その苦しみと死の出来事があったからこそ起こったものであるということもまた、私たちは今日受け止めておきたいと思います。つまり、このように受難と復活がセットであってこそ、そこに神さまの救いが成し遂げられるのです。

 

さて、イエスさまがそのように受難と復活を弟子たちに告げられた際に、「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」とあるように、たいへん大きな決意を込めて、また、みんなに理解してもらいたいと心から願って語られました。しかし、それに対して、弟子たちは、このイエスさまの予告を正しく受け止めることはできず、弟子たちの代表格のペトロは、イエスさまをわきに連れて、その発言を諫めるのです。今日のマルコによる福音書には、ペトロがイエスさまに何と言ったかは伝えられておりませんが、マタイによる福音書では「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言ったと伝えられています。この彼の姿に、自分の思いでイエスさまを動かそうとする人間の姿が現れています。また、自分の思いが通らないなら、イエスさまに聴き従うことをせず、「主よ、とんでもないことです」とイエスさまの上に立って、すなわち自分自身がイエスさま以上に偉い神になり、不平不満を言う私たちの姿を、ここに見るのです。

 

それに対して、イエスさまはどうされたか。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた」と伝えられています。ここでイエスさまは、ペトロだけでなく、そこにいた弟子たちみんなのことを見つめられたのでした。イエスさまに従おうとするすべての人へと注がれるイエスさまのまなざしを、私たちはここから受け止めます。なぜ、このとき、イエスさまは、イエスさまをわきへ連れ出して諫めたペトロだけでなく、イエスさまに従ってきた弟子たちみんなを見つめられたのでしょうか。それは、きっと彼らもみなペトロと同じ思いだったからでしょう。つまり、みんなイエスさまの告げられた受難と復活の予告を理解せず、ペトロと同じように、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」という思いでいたのです。そして、この出来事から、時代を超えて、場所を超えて、今日の私たちもまた、ペトロや他の弟子たちと同じ思いの中で過ごしている。だから、イエスさまは私たちをも見つめられます。

 

そして、イエスさまは大変激しい言葉で、ペトロのことを、また弟子たちのことを、さらには私たちのことを叱られます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。イエスさまを諫めたペトロに対して「お前はサタンだから、わたしの前から引き下がれ」と、叱責なさるのです。ここでのイエスさまの言葉から、私たちは、神の思いと、人間の思いの違いということについて考えさせられます。私たちは神のことを思って毎日を過ごし、また信仰の歩みをしているでしょうか。それとも人間のことを思って過ごしているのでしょうか。私たちの「よかれ」と思うことが、実は神さまの思いには反する場合があります。いや、実際にはそうしたことがとても多い。そして、そうした人間の思いによってイエスさまを諫めたペトロに、イエスさまは「サタン、引き下がれ」と告げられた通り、それは結局、サタンの思いなのです。

 

実は、今日の福音のすぐ前の箇所で、イエスさまから「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられた答えとして、ペトロが「あなたは、メシアです」と告白をしました。他の福音書では、その時、イエスさまは、その彼の告白を褒めています。けれども、今日の福音では、イエスさまの受難と復活の予告を受け止めることができなかった彼の姿が伝えられ、しかも、「サタン、引き下がれ」とまで、たいへん厳しく叱られてしまう。この出来事からわかることは、彼は、イエスさまのことをメシアと言いつつ、でも、どんなメシア、つまり救い主として信じて、従っているのか、実はまったく理解できていなかったということです。口では、「あなたは、メシアです」と、イエスさまに褒められるほどの告白をしておきながら、それがいったいどんな意味を持つのかは、彼はわかっていませんでした。

 

ここでペトロがそうであったように、人間の思いでは、イエスさまが一体どんなメシアであるのか、私たちには正しく受け止めることはできないのです。私たちが、イエスさまのことを自分で「わかった気になる」ことの危うさをここから受け止めたいと思います。ペトロは、きっと自分にはわかっているような気持ちで、「あなたは、メシアです」と、イエスさまに告白し、また、さらには、受難と復活を彼らに告げられるイエスさまのことを諫めたのでしょう。けれども、実際には、彼は、イエスさまのことを全然わかっていませんでした。私たちもです。私たちも聖書の学びを重ね、信仰生活を続ける中で、イエスさまがどんなお方であるのかわかったような気になります。でも実際には、何もわかっていない私なのです。

 

エスさまは、そうした人々の限界を知っておられました。だからこそ、「あなたは、メシアです」とイエスさまに向かって、ある意味、模範解答の正しい告白をしたペトロでしたが、にもかかわらず、イエスさまは「御自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められた」のです。「あなたは、メシアです」、この答えは正しい。でも、それでは、イエスさまは一体どんなメシアなのでしょうか?それは、ほかでもなく、イエスさまご自身、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と予告されたように、人として、周りのみんなから徹底的に捨てられて、殺される受難と復活のメシアなのです。受難と復活のメシア、すなわち、ご自分の命を懸けて、人を愛されて、人を救うためにご自身、苦しみも死も厭わないメシア。そして、その命がけの愛の歩みがよしとされて、神さまによって復活させられるメシア。それが、神の子、メシア、救い主イエスさまなのです。

 

ですから、受難と復活なしのメシアは、私たちの側で誤ったメシア像を勝手に作り上げていることになります。私たちの自分の思いで、自分の都合の良い働きをしてくれる、そんな救い主の偶像を作り上げているのです。それは、イエスさまがペトロを厳しく叱られたように、「神のことを思わず、人間のことを思っている」姿です。もっと言うなら、それは、「サタン、引き下がれ」、イエスさまの前から引き下がらなければならない、サタンの思いなのです。だから、受難と復活の出来事を受け止めることなく、イエスさまをメシア、救い主であると人々が勘違いして誤った受け止めをしないように、イエスさまは「誰にも話さないように」と、弟子たちに命じられたのでしょう。

 

ペトロを叱った後に、イエスさまは弟子たちに「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とおっしゃいました。私たちはこの世の生を、自分の身を削りながら、多くの重荷を負って生きていかねばなりません。イエスさまは、そうした私たちの生き方をわかってくださっています。そして、その私たちの歩みを、イエスさまの十字架の歩みと共なる、イエスさまに従う歩みとして受け止め、招いてくださるのです。「あなたがそのように、自分の身をすり減らしながら、重荷を負って生きていくのは本当に大変だよね。でも、わたしと一緒にその歩みを歩んでいこう」と、イエスさまはおっしゃいます。

 

このように、私たちがイエスさまに従うということは、この世の重荷がなくなって、自分の願い通りに楽に生きられて、幸せになるということではありません。私たちがイエスさまに従おうと願って歩んでいても、私たちにはなおも身を削るほどの重荷があるのです。むしろ、私たちがイエスさまを信じるからこそ、従うからこそ、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」生きていかねばならないということもあります。つまり、私たちがもしイエスさまを信じるとか、従うとか、そうでなければ、見て見ぬふりしてスルー出来るようなことも、イエスさまを信じ、イエスさまに従うがゆえに、そのように見過ごすことはできず、そのために私たち自身自分を捨て、自分の十字架として背負って歩まなければならないことも少なくないのです。でも、イエスさまはちゃんとその歩みをわかっていてくださっている。そして、それを受難と復活のイエスさまに従う大事な歩みとして受け止め、受け入れてくださっている。今日このことを覚えたいと思います。

 

エスさまは続けておっしゃいました。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。私たちがただ自分のためにだけ生きるのか。それとも福音のために、イエスに従って生きるのか。そのことが問われます。「福音のために命を失う」ということは、私たちが福音に自分の命を懸けて生きる、福音のために最後まで生き抜くということです。「福音のために」、それは、イエスさまの受難と復活を信じて、その中で与えられる命に私たちが生かされることです。そしてまた、その歩みの中で、地上の生涯を終えて世を去っていくことです。樹奈と復活のイエスさまに招かれ、受け入れられている、自分を捨て、自分の十字架を背負って生きる私たちの歩みを、私たちがただ自分の力で、自分のために生きようとするのでなく、イエスさまの受難と復活による福音に慰められ、励まされ、力づけられながら、その人生の終わりまで歩む、それが「福音のために」生き、命を全うすることです。それは、私たちが全世界を手に入れることよりも、よほど価値ある歩みであると、イエスさまはおっしゃいます。「人はパンだけで生きるのではない」とイエスさまはおっしゃいましたが、私たちが「福音のために命を失う」、つまりイエスさまの受難と復活の福音の中で生かされ、死ぬことこそ、私たちがまことの命に生かされる歩みなのです。

 

今の時代は、イエスさまが今日の福音の結びでおっしゃっているように、本当に「神に背いたこの時代」です。そして、私たちもまた、その時代に生きる一人として、イエスさまとイエスさまの言葉を大事にしないで歩んできたことを思います。にもかかわらず、なおも、私たちはイエスさまの受難と復活によって、この価値ある真の命の歩みへといま招かれています。私たちは、神さまの思いに生きるのか。それとも人間の思い、しいてはサタンの思いに生きるのか。今、究極の神の思いであるところの、イエスさまの受難と復活による福音を受け入れて、その信頼と信仰の中で、歩んでまいりたいと願います。イエスさまは十字架の傷を示しながら、その命へと私たちを招いておられます。

 

ボンヘッファーは、「信じる者だけが従い、従う者だけが信じる」と言いました。私たちも、イエスさまの受難と復活の福音を信じつつ、イエスさまに従う者でありたいですし、また、イエスさまに従う歩みの中で、イエスさまがまさがまさに受難と復活の救い主であるという信仰を、新たにしたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

神さま 私たちが御子のことを自分の都合のよいように信じるのではなく、受難と復活の救い主であることを信じつつ、御子に従うことができますように。また、御子に従う中で、御子の受難と復活をより深く信じる心を、私たちに与えてください。私たちが自分の身を削りながら重荷を負いながら生きる歩む歩みを、御子が助け導いてくださることを感謝します。救い主イエスさまのお名前によって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-02-25.MP4 - Google ドライブ

 

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アブラハム契約?

今度の主日、改訂共通聖書日課(Revised Common Lectionary=RCL)日課の第一朗読は、「創世記17章1~7節および15~16節」だ。この朗読配分を読み、なるほど!と新鮮に思った。
 
17章1~7節は、アブラハムに子どもが与えられ、多くの国民の父となるという、神の約束が語られている。これは、ユダヤ教にとっても、イスラム教にとっても、キリスト教にとっても、非常に重要とされる神の契約である。
 
しかし、RCL日課は、1~7節では終わらず、15~16節も含まれている。そこでは、アブラハムの妻サラに子が与えられ、諸国民の母となるという、神の約束が語られている。
 
そう、私たちが、今までアブラハム契約」と呼んできた、この神の契約だが、これはアブラハムだけで決して実現できるものではなく、アブラハムとサラがいて初めて可能になるものだ。それゆえ、神もまた、アブラハムだけにではなく、サラに対してもまた約束をしているのである。
 
このように、この神の契約は、アブラハム契約」というよりも、ただしくはアブラハムならびにサラとの契約」なのであり、ユダヤ教イスラム教、キリスト教は、この神とアブラハムならびにサラとの契約の流れの中に存在する宗教なのだ。
 
注意!ブログの内容と以下の動画は関係ありませんw
 

2018年2月18日 礼拝メッセージ(四旬節第1主日)

四旬節第一主日 2018年2月18日

「獣も天使も」

(マルコによる福音書1章9~15)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにありますように。アーメン

 

先日の水曜日は、教会の暦で「灰の水曜日」でした。この日から、四旬節が始まっております。四旬節は、かつて「受難節」と呼ばれていましたが、イエスさまの十字架への歩み、そしてその苦しみと死を覚える季節であり、そのことを通してご復活の祝いに備える季節です。この四旬節は、「レント」とも呼ばれます。このレントは、もともと「春」を意味する言葉です。春、つまり、新しい季節、新しい一年の始まりです。ですから、私たちは、この四旬節、レントを、新しい自分、新しい命を迎えるために過ごします。

 

昨年まで責任を持っておりました、深川教会・旭川教会では、毎年、灰の水曜日の礼拝がありました。その礼拝では、悔い改めの祈りをして、そのしるしとして、灰で額に十字の徴を受けます。これは、旧約聖書の神の民が、神さまに悔い改めて灰を頭にかぶったことを基にしたものですが、今年、大麻教会では平日の礼拝が行われませんので、私はその日、札幌市内の他教派の教会の灰の水曜日の礼拝に参加しました。そこでもやはり罪の悔い改めの祈りがなされ、額に灰で十字の徴を受けました。

 

四旬節の初めの日、灰の水曜日の礼拝で大切なことは、灰で額に十字を受けるというその行為よりも、その礼拝で悔い改めの祈りがなされるということです。四旬節は、私たちが犯した罪を悔い改めるときだからです。自分自身を省みて、罪を深く悔い改める。そして、そうした私たちの罪のために十字架にかかられた救い主イエスさまのもとへ立ち返る、そのことを通して、罪の赦しと永遠の命をいただいていることを信じ、自分が新しくされて歩み出す。それが四旬節の過ごし方です。ですから、四旬節をそのように悔い改めの日々として過ごし、復活祭に洗礼を授けるのが教会の伝統でした。また、私たちが新しくされるためには、古いものを捨てることが必要だと言った人がいます。私たちは古い罪の自分を捨てて、キリストが与えてくださる命に生かされる新しい自分として歩んでいく。これが四旬節、新しい季節、新しい一年としての春を迎えるレントの過ごし方です。

 

ですから、私たちの教会では灰の水曜日の礼拝は行いませんでしたが、今日の礼拝を悔い改めの祈りの礼拝としています。四旬節を意味深く、また本来の意味を大切にして過ごしたいと願ってです。自分自身をよく省み、深い悔い改めに導かれ、救いに招いてくださる、十字架と復活の主イエス・キリストの懐へと立ち返り、自分の罪を捨てて、キリストにある新しい命に生かされたいと願います。

 

さて、今日、四旬節第一主日には、毎年、イエスさまが荒れ野でサタンから誘惑を受けられた出来事を伝えるみことばを聞いてまいります。私たちは、昨年の12月、アドベントから新しい聖書日課で礼拝をしているのですが、以前、用いていた聖書日課では、今日のみことばは、マルコによる福音書1章12節と13節のみでたいへんコンパクトのものでした。しかし、この新しい聖書日課では、先ほどご一緒に聴きましたように、1章9節から15節までと、前後多少の幅を持たせて定められています。そして、その朗読配分を通して、私たちはわかりやすくメッセージを受け止めることができるようになっています。

 

まず、イエスさまが洗礼を受けられた出来事が伝えられており、その際に、天が開け、イエスさまを神の御子として祝福する声が天から聞こえ、聖霊が鳩のように豊かに力強くイエスさまに注がれた様子が報告されています。そして、それに続く出来事として、イエスさまの荒れ野での誘惑の出来事が伝えられているのです。さらに、その後にはイエスさまが、ガリラヤへ赴き、人々に神の国の福音を宣教する働きを開始したことが伝えられています。

 

今日は、イエスさまの荒れ野でのサタンから誘惑を受けられた出来事から、二つの言葉に注目したいと思います。まず一つは、《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した》という言葉です。そしてもう一つは、《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》という言葉です。

 

まず、《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した》という言葉ですが、ここでイエスさまを荒れ野に送り出した「霊」は、何か怪しげな霊ではなく、神さまの霊であり、その直前で伝えられておりますイエスさまが洗礼を受けられた際に、祝福のうちにイエスさまの上に豊かに鳩のように注がれたのと同じ霊です。しかし、洗礼の際はそのようにイエスさまを祝福して降った霊が、その出来事が終わるや否やすぐに、イエスさまを荒れ野へと送り出されます。そしてこの「送り出した」という言葉も、本当はもっと強い意味を持つ言葉で、「強いて行かせた」とか「追いやった」とかそうした意味を持っています。ですから、洗礼を受けられたイエスさまを祝福して降った霊が、その直後にイエスさまを荒れ野へと強いて行かせ、追いやったことが、ここで伝えられているのです。そしてそれは、その荒れ野でサタンの誘惑にイエスさまを合わせるためでした。

 

ヨハネによる福音書でイエスさまが神さまの霊について、「風は思いのままに吹く。…それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と説明なさっていますが、いくら「思いのままに吹く」としても、神の御子として祝福したかと思えば、サタンが待ち構える荒れ野へ追いやるというのは、あまりの変わりようで驚きます。しかし、それにはきっと意味があったはず。意味もなしに、単なる気まぐれで神さまの霊がそんなことをするわけないでしょう。それでは、それは何のためであったか。

                                                                                         

その答えは、それに続く出来事から考えることができます。つまり、イエスさまがガリラヤで福音の宣教を始められた出来事です。ガリラヤは、人々の生活の場所でした。みんなが毎日大変な思いをしながら生活しており、生活のため律法を守れず罪を犯さざるを得なかった人たちも多く暮らしていました。そこでイエスさまは、荒れ野でサタンの誘惑を受けられた直後に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教を始められるのです。ですから、イエスさまがそのようにガリラヤの人々に神の国を届ける宣教の働きを担うためには、イエスさまがその前に荒れ野へと赴き、サタンから誘惑を受けられることがぜひとも必要であると、神さまが考えられ、神さまの霊が、イエスさまを強いて荒れ野へと追いやったのではないでしょうか。

 

つまり、イエスさまは神さまから「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と祝福され、神の御子として遣わされたお方であるけれども、しかし、ただそのように神の御子として、いわば「この世離れした」お方として人々にかかわられるのではなく、厳しい荒れ野の現実を体験し、また人々が生きる中で苦しまねばならない悪の誘いをイエスさまご自身知っておられ、それと闘ったお方として、人々にかかわられるのです。イエスさまのことを、キリストの教会は「真の神であり、真の人である」お方として信じてきました。まさに、真の神であられるイエスさまが、私たちの、その苦しみも悩みも大変さもすべてを知っておられる、真の人として、ガリラヤへ赴き、そこで傷つきながら過ごす人々に、神の福音を分かち合い、神の国を届けられる。そのためには、どうしてもイエスさま自ら荒れ野へ行かねばならなかった、そしてサタンの誘惑を受けねばならなかった、それゆえ神さまの霊はイエスさまを荒れ野へと強いて追いやられたのです。

 

私たちが人生の荒れ野で苦しむとき、ご自身荒れ野の厳しさを体験されたイエスさまが、私たちと共におられる。また、私たちがいろんな試練や誘惑に合ってそこに負けそうになる時、ご自身サタンの誘惑と闘われてそれに打ち克たれたイエスさまが、私たちのためその試練や誘惑に「とどまって」闘っていてくださる。私たちはそのことを受け止めることができます。私たちは荒れ野を行くときも、試練や誘惑に合う時も、決して一人ぼっちではありません。イエスさまが共にいてくださる。そして私たちと共に苦しみ、私たちのため戦ってくださる。さらには、イエスさまは十字架にかかる前の夜に弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。苦しまれ、闘われ、既に勝利されたお方として、イエスさまががあなたと共にいてくださることを心に刻み、四旬節の歩みをしたいと思います。

 

今日もう一つ注目したいのは、《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》との言葉です。厳しい荒れ野でのサタンの誘惑との戦いでした。そこには野獣がいたと言います。今にも襲いかかってきそうで、まさに危機一髪です。しかし、そこには野獣がいただけでなく、天使たちがイエスさまに仕えていたというのです。危機一髪だけど、大丈夫!ちゃんと神さまが天使たちを遣わして、イエスさまを守ってくださっていたということが、ここで伝えられています。

 

私たちが荒れ野の厳しさの中で生きる、サタンの誘惑の苦しみの中を生きるときも、まさにこの《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》状態であることを、私たちは今日受け止めたいと思います。一見するなら、恐ろしい野獣が牙をむいて今にも襲い掛かってきそうなそうした危機の中で、私たちは生きていかねばなりません。その中で恐れ、不安になります。でも、大丈夫なのです。なぜなら、神さまが天使を遣わして、私たちを守ってくださっているからです。野獣もいるけど、天使もいてくれて私たちをガードしてくれていると、そうした思いの中で過ごせたらいいなと思います。まして私たちには、天使どころでなく、自ら最も苦しい試練である十字架を引き受け、そしてその死にも打ち勝たれた御子、主イエス・キリストが共にいてくださる。だから心を高く上げて生きていきたい、そう願います。

 

明日2月18日はマルティン・ルターの召天記念日、日本的に言うなら命日ですが、この後マルティン・ルターが作ったさんびかで、ある意味、私たちルーテル教会のテーマソングのようなさんびか450番、力なる神はを歌います。これは、10月の宗教改革の礼拝でよく歌われるさんびかですが、実は、この四旬節第一主日、イエスさまが荒れ野でサタンの誘惑と闘われた出来事を思う、この日のさんびかとしてふさわしいものです。このさんびかの歌詞ですが、新学校長をされていた徳善先生が「ルターと賛美歌」(2017年・教団出版局)という本の中で、もともとのニュアンスを大切にして次のように訳しています。

 

われわれの神は堅い砦、良い守り、よい武器(のようだ)。神はわれわれを無代価で、今われわれを襲うすべての窮乏から助けてくださる。

古くからの、悪い敵は今や真剣に思いを凝らす。大きな力と多くの策略が、その恐るべき武器。地の上にそのようなものは(ほかに)ない。

われわれの力では何もなされない。われわれは負けたも同然。

正しい方がわれわれのために戦う。神自ら選ばれた方が。それは誰かとあなたが問えば、それはイエス・キリスト、万軍の主。他に神はなく、彼こそが戦場を押さえる。

たとえこの世に悪魔が満ち、われわれを飲み込もうとしても、われわれはそれほど恐れない。われわれに勝ちがある。

この世の君は、いかほど悪意に満ちていても、われわれに対して何もできない。しかも裁かれているのだ。ひとつのみことばでも、彼を倒しうる。

彼らはみことばを放り出し、これについて何らの思いも持たない。

主こそが我々のもとで確かに戦いに臨む。そのみ霊と賜物により。

彼らがわれわれから体と財貨と名誉と子と妻とを取るのであれば、取るがよい。彼らには得ることがない。み国はわれわれに留まる。

 

たいへん力強い歌詞ですが、徳善先生の解説によると、このさんびかは、ルター自身が悩み苦しみふさぎ込む鬱的な状況の中で作られたものだそうです。私たちはこの世の圧倒的な力を前に、何もできず、自分では負けるしかない、でも、キリストであられる神が、私たちに代わって闘い、その戦いに勝利してくださる。それゆえ、この世の悪の力がどれほど強く、どれほど大それたことを企み、私たちが大切にする何を奪おうとも、私たちにはこのキリストの勝利が既に与えられているのだからもはや恐れる必要はないと、ルターはこのさんびかを通して自らの心に刻んだのです。

 

私たちの悪との戦いも、私たち自身弱く負けてしまいそうだけど、キリストが私たちのために闘い、既に勝利してくださっている、そのことを信じて、私たちの罪を深く悔い改めながら、四旬節の歩みを進めてまいりたい、そしてご復活の祝いに備えたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

神さま、荒れ野の厳しさと、サタンの誘惑の苦しみを御子イエスさまが引き受けられ、私たちと共に苦しみ、私たちのために闘い、そして勝利を私たちに与えてくださることを今日聞きました。野獣が牙をむいて今にも攻めて来るような世の恐ろしさの中にあって、神さまが天使を送り私たちを支え、また御子が私たちと共にいてくださることに強められて、その信頼のうちに歩むことができますようにお導きください。四旬節の日々を迎えています。私たちの罪を悔い改め、悪と戦う日々を過ごすことができますように。そのことによって、ご復活の祝いに備えさせてください。私たちのために苦しみを引き受けられ、その苦しみに勝利したもう御子、救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-02-18.MP4 - Google ドライブ

 

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2月14日は、何の日?

今週の水曜日2月14日は、St. Valentine's Dayですね。

これは、聖ヴァレンタインという聖人の記念日だったわけですが、実際のところ、それがどんな人であったかは、実ははっきりしません。

いくつかあるうちの一つの説によれば、ローマの兵士を内緒で結婚させて、皇帝から処刑された「ヴァレンティン」司教のことを表すというものです。

でもこれも伝説にすぎないため、現代ではカトリック教会の聖人カレンダーからは、2月14日=聖ヴァレンタインの日は、削除されています。

しかし、聖ヴァレンタインは、婚約カップルや恋人カップル、祝福された結婚などの守護聖人でもあるそうです。

ところで、今年の2月14日は、キリスト教会にとって、このヴァレンタインデーよりも、もっと大事な日です。

今年のこの日は、「灰の水曜日」にあたります。この日から、イエスさまの十字架と苦しみと死を覚えつつ、ご復活の祝いに備える四旬節」(レント、受難節)がはじまるのです。

教会では古くから慣習として、この日に灰を用いた礼拝をいたします。

旧約聖書の中で、人が神さまの前に罪を悔い改める際に、灰をかぶったという習慣が、その起源です。ですから、灰の水曜日の礼拝でも、罪の悔い改めの祈りをして、実際に灰をかぶったり、額に灰を十字の徴で塗ったりします。

その際に、司式者(牧師や司祭)が、「悔い改めのしるしとして十字を受けなさい」とか「あなたは塵だから塵に帰る」とか「悔い改めて福音を信じなさい」とか声をかけながら、一人ひとりに灰を授けます。

その灰は、前年のイエスさまが十字架にかかるためにエルサレムに入られたことを覚える「枝の主日」の礼拝で用いた枝を燃やしてつくります。青々とした枝が枯れて燃やされて灰になるように、私たちの信仰も新鮮が失われ枯れてしまうことを受け止めつつ、それが燃やされて灰になったものを、灰の水曜日の礼拝で用いるのです。

その日の礼拝の色は四旬節の紫か、あるいは、黒を用いてもよいとなっています。

残念ながら、大麻教会でも北見教会でも灰の水曜日の礼拝が行われませんが、他の教派の礼拝に参加したいなと思っています。

こんな感じの礼拝だということを紹介するため、昨年前任地で用いた、灰の水曜日の礼拝の式文を紹介させていただきますね。

灰の水曜日礼拝(こちらのリンクから飛んでみてください)

今年は、燕バレンティンの活躍を切に祈る牧師です笑

 

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/US_Navy_080206-N-7869M-057_Electronics_Technician_3rd_Class_Leila_Tardieu_receives_the_sacramental_ashes_during_an_Ash_Wednesday_celebration.jpg/220px-US_Navy_080206-N-7869M-057_Electronics_Technician_3rd_Class_Leila_Tardieu_receives_the_sacramental_ashes_during_an_Ash_Wednesday_celebration.jpg

2018年2月11日 礼拝メッセージ

主の変容(顕現後最終主日) 2018年2月11日

 

「ただイエスだけが」

(マルコによる福音書9章2~9節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

聖書に書かれていることを題材にした、絵や版画や彫刻などの美術作品を、ご覧になったことがあるかと思います。その中でも、イエス・キリストを表現したものが古今東西多くの作品が残されていますが、その作品の中のイエスさまが、立派な王としての冠をかぶり、力強く、栄光に満ちた神々しい姿で表されているものも少なくありません。神、また神の御子であり、天地万物をご支配なさる永遠の王、また、罪と死と悪を滅ぼされる勝利者、そのイエスさまが王冠をかぶる姿は、ふさわしい姿でありましょう。

 

でも、福音書で私たちが普段出会い、親近感を覚えるイエスさまは、それとは違った姿が多いのではないでしょうか。もちろん力強い奇跡を行ったり、嵐を静められたり、権威をもって人々に教えられたり、復活なさりまた昇天なさったり、そうした栄光の神々しく力強いキリストの姿も福音書の中で伝えられております。しかし、私はそうした栄光のキリストの姿よりも、むしろ、もっと弱々しく貧しいイエスさまの姿を身近に感じ、祈りの中で、そうしたイエスさまに呼びかけている自分がいます。

 

つまり、馬小屋で一人の無力な小さな赤ちゃんとして生まれ飼い葉おけに寝かされたイエスさま、病気の人を訪れその人の痛みを感じ取りながらその人に語りかけ手を触れて癒されたイエスさま、罪人としてみんなから見捨てられる人を招かれ共に歩まれたイエスさま、そして、跪き弟子たちの足を洗われ「これはあなたがたに与えるわたしの体である、これはあなたがたのために流すわたしの血である」と、ご自分の命を差し出されるイエスさま、あのゲツセマネの園で苦しみもだえながら祈られるイエスさま、弟子たちに裏切られ、ご自分を敵視する人たちに捕らえられるイエスさま、人々に多くの愛の関わりをされたにもかかわらず、人々から「十字架につけろ」との声をぶつけられるイエスさま、兵士たちに鞭打たれ嘲笑われながらも口を開かずされるがままに耐えられるイエスさま、神にも人にも見捨てられる苦しみの中で大声で叫びながら息絶えるイエスさま、亡くなられて痛々しい姿で十字架から降ろされ墓に葬られるイエスさま、そうしたイエスさまこそ、私が思い浮かべ、呼びかけるイエスさまの姿です。

 

韓国で平昌オリンピックが始まりましたが、その韓国ではかつて独裁者による民衆への支配と抑圧が長く続く中で、民衆の苦しみが爆発して民主化闘争がなされました。その中で、韓国のカトリックの詩人、金芝河が発表した「金冠のキリスト」という作品があります。ある小さな町の会社の社長が、多くの献金をしたことで、コンクリート製の大きなキリスト像が作られました。それは黄金の冠をかぶったキリスト像でした。その周りでは、ハンセン氏病を患っている人や自分の体を売りながら生活していた女性、そして物乞いをしながら暮らしていた人が肩を寄せ合い励まし合いながら暮らしていました。ところで、その像を立てるために献金をした社長は、そのキリスト像の前で祈るのです。「この金の冠は、この世の王、王の王として、まことにあなたにふさわしい。どうか、昨年のクリスマスに私が沢山献金をしたことでこの立派なあなたを作ることができたことを忘れず、私が守られ、ますます富むことができますように。その暁には、次のクリスマスには、あなたの体中を金箔で飾ります」と。

 

しかし、夜になると、そのキリスト像が、周りで貧しさと困難の中で励まし合いながら暮らしていた人たちに願い出るのです。「どうかわたしを囚われから自由にして解放してほしい」と。「わたしは社会で苦しむ者らを救うために、まず自分自身を解放しなければならない。大教会の神父や司教たち、実業家、政府の高級官僚たちは、わたしをこうして虜のままにして、自分たちの利益の為にわたしを利用している」と嘆くキリスト像に、彼らは「どうしたらあなたを自由にすることができますか」と尋ねます。

 

するとキリスト像は答えるのでした。「それを可能にするのは、あなたがたの貧しさ、あなたがたの知恵、あなたがたの柔和な心、いや不正義に反抗する、あなたがたの勇気。あなたがたの手によりわたしが解放され、あなたがたと共に歩み、共に苦しみ、共に立ち上がっていきたい。わたしには荊の冠がふさわしい。金の冠など、無知で欲深く腐った者らが、外見を飾るために私にした押し着せなのだ。」この声を聴いた三人と、それに共鳴したシスターたちがコンクリートを叩き壊そうとしますが、結局は警察当局に捕まってしまうというお話です。

 

たいへん印象深く、かつインパクトの強いお話ですが、私たちが信じ従うイエス・キリストはどんなお方であるのか問われる作品です。キリストに金の冠を被せコンクリートに閉じ込めて私たちの思い通りに動かそうとしてしまうのか、それとも、茨の冠を被り、苦しみや貧しさの中で私たちと共に歩み、共に苦しみ、共に立ち上がるイエスさまに信じ従うのか、考えさせられます。私は、今日の福音を黙想する中でこの「金冠のイエス」のお話を思い出しました。

 

エスさまは、弟子たちのうち、ペトロとヤコブヨハネの三人だけを連れて高い山に登られました。先日、幼稚園の先生方の聖書の勉強会をしたのですが、その際にイエスさまの十字架の前の夜、イエスさまが捕えられる直前のゲツセマネの祈りについて学びました。その際にもイエスさまはこのペトロとヤコブヨハネの三人の弟子たちを伴うわけですが、福音書でイエスさまが弟子たちのうちのこの三人だけを連れて行くときには、これから起こる出来事はとても重要な出来事であるということを、私たちに伝えているということになります。ですから、今日のイエスさまのお姿が変わる変容の出来事もまた、イエスさまのご生涯の中でたいへん需要な位置づけがなされる出来事であることを、私たちはここから知るのです。また、高い山に登られたことは、これから起こる出来事は、神さまのなさるわざであるということを、私たちに示しています。

 

その高い山で、イエスさまのお姿が、弟子たちの目の前で変わりました。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と、福音書は伝えています。この福音書をまとめたマルコは、他の箇所については、なるべく余計な表現は省き、たいへんコンパクトにイエスさまのなさった、あるいはご生涯の中で起こった出来事を事実として伝えようとしている傾向が強いのですが、しかし、ここではわざわざ「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど」との描写を加えて、イエスさまの服の輝きの強さを強調していることを、私はとても印象深く、また興味深く思います。マルコにとっても、これは非常に印象深く興味深い出来事だったのでしょう。そしてそのように光り輝くイエスさまと共に、「エリヤがモーセと共に現れて…語り合っていた」という、さらに非常に驚くべき出来事が起こるのでした。

 

エリヤもモーセも、この世の終わりの神の救いの完成を前に神さまが再びこの世に送ると約束された人物です。ですから、モーセとエリヤの再来が実現した今、イエスさまこそ、世の終わりの神さまの救いをもたらしてくださるお方だということが、この変容の出来事に示されていると考えられます。また、モーセ旧約聖書の前半部分の律法の代表者、エリヤは後半部分の預言者の代表者です。つまりモーセとエリヤ彼ら二人で、旧約聖書全体を表します。その二人が光り輝くイエスさまと語り合っていたのですから、イエスさまによってこそ、旧約聖書の律法も預言も完成し、今や、イエスさまによる、神さまの新しい約束、新約の時代が始まったことを表しているのです。

 

その光景を見た弟子たちはたいへん驚きながらも、ペトロは口を開いてこんなことを言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。彼のこの発言は、もちろんマルコが説明しているように、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」ためですが、同時に、彼なりの願いが込められた言葉でもあると思います。それは、この素晴らしい光景がいつまでもずっと続いてほしい、この光景を保存しておきたい、とっておきたい、そうした願いです。ですから小屋を建て、そこに光り輝くイエスさまと、旧約聖書の英雄たちで偉人たちであるモーセとエリヤに住んでいただこうと考えたのではないでしょうか。

 

けれども、彼のその願いはかなえられません。呆気なくその光景は雲に覆われて見えなくなってしまいます。そして、雲の中から「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえたかと思うと、辺りを見回しても、もはや光り輝くイエスさまも、モーセもエリヤも見えませんでした。「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」福音書が伝えていますが、そこにいたのは、いつも彼らが見ているのと同じ姿のイエスさまでした。彼らはそのイエスさまと共に山を降りていきます。

 

これがイエスさまのお姿が変わった変容の出来事ですが、その不思議な出来事はただ一瞬の出来事にすぎませんでした。そこには、神であられ、神の御子であられる、栄光の永遠の王、神の約束を実現し、救いを完成なさるイエスさまの本来のお姿が現れたと受け止めることができるでしょう。でも、私はこのイエスさまの変容の出来事で、もっと大切なことは、その光り輝くイエスさまの姿よりもむしろ、その出来事の後、「これはわたしの愛する子、これに聞け」という天からの声を聴いた弟子たちが辺りを見回して見つけたのは何であったのかということです。つまり、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」のです。そこには、光り輝くイエスさまもモーセもエリヤもいなく、いつものイエスさまでした。彼らと一緒に山を登ってこられたわけですから、汗にまみれ、埃にまみれたイエスさまでした。また、今日の出来事は、イエスさまが捕えられ、殺される予告のすぐ後に記されており、この出来事の直後でも、イエスさまが苦しみと辱めを受けられることを弟子たちに告げておられます。つまり、イエスさまの十字架への歩みの中で、イエスさまがご自分の十字架と苦しみと死を強く意識なさり、弟子たちに告げられるその最中に、この変容の出来事は起こったのです。つまり、イエスさまは、汗にまみれ、埃にまみれていただけでなく、さらには血にもまみれる覚悟の中でこの出来事は起こりました。

 

眩いほどの素晴らしい光景がもはや消えてしまった今、そのイエスさまだけが彼らと一緒におられます。そしてそのイエスさまこそが、天から「これは、わたしの愛する子、これに聞け」と告げられるお方です。さらには、彼らはそのイエスさまと共に、山の下へと、つまり現実の社会の中へ帰っていきます。

 

神であり、神の御子であられ、栄光の永遠の王キリスト、旧約聖書の神の約束を実現し、神の救いを完成なるキリスト、その光り輝くお方が、私たちまったく同じ貧しい一人の人となられ、汗にまみれ、埃にまみれ、血にまみれられる覚悟で、私たちと共に山を降りて、現実の社会の中へ歩み出してくださる、そのお方こそ、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と、神さまは私たちに告げられます。また、だからこそ、イエスさまは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはならない」と弟子たちに命じられました。イエスさまの十字架と苦しみと死を経ることなく、私たちは本当のイエスさまの姿に出会い、従うことはできないからです。

 

私たちは、金の王冠を被ったイエスさまを小屋の中に閉じ込めておくのではなく、茨の冠を被られたイエスさまと共に山を降り、この社会に出かけ、聴き従って歩むことを、今日のみことばから受け止めたいと願います。私たちも、礼拝でのお話を聞いて気分が高ぶったり、お祈りしたことが実現して有頂天になったりすることもあるでしょう。それはそれで素晴らしい体験です。でも、それはすぐに雲に覆われて見えなくなってしまい、私たちは、厳しい現実のただ中で生きていかねばなりません。でも「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。そうです。私たちのために天から降り、貧しくなられ、私たちのために苦しみ死なれ、その苦しみと死を乗り越えれたイエスさまが、いつどんな時も私たちと一緒におられます。新しい週もそのイエスさまと共にここから現実の毎日の生活のただ中へ出かけていきたい。また、教会の暦では、この水曜日から、イエスさまの十字架への歩みを覚え、ご復活の祝いに備える四旬節に入ります。ともに、人としての貧しさと十字架を引き受けられたイエスさまの姿を心に刻みたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

御子が、わたしたちのために貧しい一人の人となられ、十字架を引き受け、わたしたちの重荷を負い、わたしたちのために苦しみ死なれたことを覚えます。どんな時も、御子イエスさまがわたしたちと共にいてくださることを信じ、御子とともに、高き山を降りて、毎日の生活へ出かけることができますように。また、貧しさや困難に苦しむ人に、共におられるイエスさまを伝えることができますように。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-02-11.MP4 - Google ドライブ

 

 

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