yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年3月25日 礼拝メッセージ

主の受難 2018年3月25日

 

「神にも人にも」

(マルコによる福音書14章1~15章47)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。

アーメン

 

今日は、灰の水曜日の日より過ごしてきた四旬節の最後の一週間のはじめ、主の受難の礼拝を迎えています。イエスさまの十字架を思い起こし、ご復活の祝いへの最後の備えをする聖週間、受難週を今年も迎えました。

 

今日の礼拝の初めに、イエスさまのエルサレム入城の出来事を記念いたしました。人々が木の枝を振りながら、あるいは道に敷いて、歓迎する中を、イエスさまがエルサレムに入られました。そのイエスさまのお姿を思い起こし、私たちもまた、私たちのただ中においでくださる救い主イエスさまを、今日改めてお迎えします。

 

その際に人々は「ホサナ、ホサナ」「お救いください、お救いださい」と大喜びのうちにイエスさまを迎えました。ある意味、たいへん熱狂的にイエスさまを迎えた人々の姿に出会います。そのように人々から迎えられたイエスさまが、その後、どういう歩みをされたのかを、私たちは今、福音書記者マルコが伝えているイエスさまの受難物語を通して、今、聞いてまいりました。

 

14章の初めから15章の終わりまでという、たいへん長い箇所でしたが、私は、このようにその年のために与えられている福音書を通して告げられているイエスさまの受難物語を通して聞くことに、とても大きな意義を受け止めています。

 

普段、福音書をそれぞれの個所だけ読む場合には、それぞれの箇所で点として、そこでそれぞれ伝えられているイエスさまのなさったことや語られたことを受け止めることができるわけですが、このように私たちが、イエスさまの受難物語を福音をずっと通して一度に聞くことを通して、それぞれの点がばらばらに点在しているというのではなく、その点が並んで一本の線へとつながり、前後の脈絡の中で、イエスさまの十字架への歩みが見えてきますし、さらにはその線が、面となって広がって、その広がりの中で、一連の出来事としてより豊かに受け止めることができるようになってくるのではないかと思います。

 

たとえば、イエスさまの足に香油を塗った女性の出来事、最後の晩餐、そしてゲツセマネの園での出来事と、それぞれの出来事からも私たちはいろんなメッセージを受け止めることができるわけですが、それを続けて読み進める時に、イエスさまの葬り、つまりイエスさまの死を受け止められない弟子の姿、そしてそれが結局、イエスさまがイエスさまを敵対視する人々に売られる原因になってしまう、そうした中でもご自分の体と血、苦しみながら神の御心に従ってその命を差し出されるイエスさまの命がけの愛、そのイエスさまの愛に応えられず裏切ってしまう弟子たちの姿と、そうした一本の線となり見えて来ます。

 

さらには、今日、私たちはイエスさまの十字架をめぐって登場する人たちの言葉を、みんなで声に出して読みましたが、自分の無理解や不信仰、弱さや罪の中で、イエスさまを捨ててしまったり、イエスさまの前から逃げてしまったり、信実を見失ってしまったりするその人々は、他でもなく私たち自身であるということに気づかされる。そしてそうした私たちをなおも包み込み、赦し、救おうとされるイエスさまの十字架の大きな愛が見えて来る。一つの面となって、広がりを持った出来事として、イエスさまの受難の出来事が見えてくるのです。

 

今日のメッセージのタイトルを「神にも人にも」としました。イエスさまは十字架の上で神にも人にも見捨てられたのでした。

 

自分の側近である弟子に売り飛ばされたり、見捨てられてしまったり。よくイエスさまを裏切った弟子としてイスカエリオテのユダについて言われます。彼はたしかにイエスさまの十字架を受け入れることができず、イエスさまをイエスさまに敵対する、当時の宗教的な指導者に売り飛ばしました。そしてそれがきっかけでイエスさまは裁判を受け、十字架刑に処せられてしまいます。その意味ではたしかに彼の果たした役割というかその罪はとてつもなく大きなものです。

 

でも、ではこのユダだけが問題なのかというと、決してそんなことはないということに、私たちはイエスさまの受難物語を通して読む中で気づかされます。イエスさまから「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」と言われたら、みんな代わる代わる「まさかわたしのことでは」と心配になる弟子たちでしたが、そうした中でもペトロは「あなたがたは皆わたしにつまずく」とのイエスさまの言葉に対して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と豪語するわけです。しかし、イエスさまは、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とペトロに告げるわけですが、ペトロはそれでもまだ「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」なんて格好の良いことを力強く言うのです。そしてマルコは、さらに一言加えるのです。「皆の者も同じように言った。」弟子たちみんな勇ましく「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」とイエスさまに向かって言ったというのです。

 

でも実際はどうだったか。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」そう伝えられています。ペトロは、イエスさまが告げられた通り、鶏が二度なく前にイエスさまのことを三度も知らないと言ってしまう。最期なんか《ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた》と伝えられています。その時鶏が二度目に泣くわけですが、《ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした》のでした。なんとも惨めな情けない姿です。

 

さらに、こんな弟子もいました。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」自分もイエスさまと同じように捕まるのが怖かったのでしょうか。素っ裸で逃げてしまうのです。これまた情けない姿です。一説によれば、これはマルコ自身のことではないかとも考えられています。そうであるなら、自分もイエスさまを見捨てた一人なんだということを、マルコは忘れないためにこれを記録したのかもしれません。

 

このように、イエスさまに従った弟子たちみんながイエスさまを見捨てて裏切ったのです。そして、それは私たちにとって他人事の話ではありません。彼らの中に、イエスさまに従っていこうと願いつつ、従えないことの多い私たちもいるのです。

 

弟子たちだけでありません。イエスさまに無実の罪を着せた宗教的な指導者たち、イエスさまをバカにしたり暴行を加えた兵士たち、イエスさまを罪に定め自らの保身を図ったピラトやバラバ、そして世の流れに扇動されてイエスさまに向かって「十字架に付けろ」「十字架に付けろ」と叫んだ民衆たち、みんながみんなイエスさまを見捨ててしまったのでした。私たちもその場の雰囲気で、信実を曲げたり、その場の流れに流されちゃったり、人を助けるより自分の身の安全を考えたり、このようにイエスさまの受難の物語に登場する彼らと同じ姿があるのです。

 

このようにイエスさまは人々から捨てられて、十字架の上で苦しみ死んでいかれました。

 

さらには、イエスさまは十字架の上で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これがマルコ福音書の中で伝えられているイエスさまの最後の言葉であり、たいへん凄まじい叫びです。イエスさまが洗礼を受けられたとき、また山の上でそのお姿が変わられた時、「これはわたしの愛する子」と、イエスさまに向かって天からの声がかけられたことを思い起こします。しかし、その神の愛する御子であられるイエスさまが、なんと十字架の上で神に見捨てられる苦しみの中で、壮絶な叫びをあげながら死んでいかれたのです。

 

このように神にも人にも見捨てられて死んでいかれたイエスさまでした。それもすべて私たちの救いのため、私たちへの愛のゆえでした。本来ならば、罪を抱え、イエスさまを見捨てて裏切って生活している私たちこそが、神にも人にも見捨てられながら、孤独のうちに壮絶な叫びをあげながら世を去らなければなりませんでした。イエスさまの十字架上の姿は、本当は私たちの行く末なのです。でも、イエスさまが、それをご自分の身に引き受けてくださいました。神の愛する御子であられるイエスさまが、そして人々をその極みまで愛されたイエスさまが、神にも人にも捨てられて、その苦しみの極みの中で死なれた。ただそのことによってのみ、私たちへの救いの道が開かれたのです。

 

私たちの罪のためにわざわざ神の御子が死ななくてもよいではないか?と思われるかもしれません。いえ、そうじゃない。神の御子が死なない限り、私たちの罪はどうにもできません。それはなにも私たちの被害妄想なんかじゃないし、自分の罪を過大に受け止めていることの表れでもありません。私たちの罪がそれほどまでとてつもなく重いものであること、すなわち私たちがこれほどまでとてつもなく罪深いものであること、そしてそれを超えて、神の救い、イエスさまの愛がこれほどまでとてつもなく大きなものであることを、私たちは今日改めて心に刻みたいと思います。

 

そのイエスさまが、今、私たちを救うために、私たちのもとにおいでになります。ご自身苦しみ死なねばならない十字架のことを知っていながら。ですから、私たちも「ホサナ、ホサナ」「お救いください、お救いください」と信頼と喜びと感謝をもって、救い主イエスさまを私たちの教会に、そして私たちの心の中に迎えたいと願います。

 

そして、イエスさまのご生涯は、十字架の苦しみと死をもって終わりませんでした。徹底的に神にも人にも捨てられて、そのことにより、私たちをお救いくださったイエスさまを、神さまはそのまま捨て置かれることはなさいません。そうしたイエスさまの愛のご生涯、その最後を受け止め、それを尊いものとされ、イエスさまを復活させられたのです。

 

今日の礼拝ではイエスさまのエルサレム入城の枝とそしてまだ咲いていないつぼみのユリを飾っておきました。ゆりは復活のシンボルとされる花です。主の十字架の先には復活がある。そのイエスさまのご復活の祝いをより豊かな喜びとして祝うためにも、この聖なる一週間をみことばと祈りと、悔い改めの時として、主の苦しみを心に刻んで過ごそうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

エスさまを裏切り、あなたを悲しませて生きている罪深い私です。でもその私たちを救うために御子イエスさまが私たちのもとへおいでくださり、十字架を引き受け、神にも人にも見捨てられる苦しみの中で死なれた出来事に私たちは今日思いを馳せました。イエスさまの命がけの愛を感謝いたします。イエスさまの十字架を心に刻み、あなたの救いをいただいた感謝をもって、来週のご復活の祝いを喜び祝うことができるように、私たちを導いてください。私たちのためにすべてをささげられた救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 今回は、主の受難の礼拝をFacebookで配信したものです。

https://www.facebook.com/masaki.shirai/videos/1646445248767943/

 

http://wp.production.patheos.com/blogs/friendlyatheist/files/im/gXK8cTC.jpg

 

復活祭(イースター)

復活祭(イースター)のごあんない

 

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTNUEc1H5FIG3EHsAyCS4LNLibQ46l6O5Pfukr-1_mcn_cZZr0lfQ

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(聖書)

 

北見ルーテル教会

 3月31日午前10時30分 主の受難と復活の礼拝

 礼拝後(お昼前頃)から イースター祝会

  北見市公園町5-1 運動公園近く

 

大麻ルーテル教会

 4月1日午前11時00分 主の復活の礼拝

 礼拝後(お昼過ぎ頃)から イースター祝会

  江別市大麻園町32-1(ひかり幼稚園となり)

 

 どうぞどなたでもご自由にいらしてください。

 こどもも おとなも 大歓迎!(子ども向きのメッセージあります)

礼拝後の祝会は楽しくおいしい集いです。(食べ物の持ち寄りを歓迎いたします)

 

お問い合わせ 白井真樹牧師   shirai_masaki0527@ybb.ne.jp

北見ルーテル教会現会堂最終礼拝

北見ルーテル教会 現礼拝堂 最終礼拝のごあんない

 

日本ルーテル教団

北見ルーテル教会

 

♰ 主の平和!

私たちの救い主イエス・キリストのご受難を偲びつつ。

私ども北見ルーテル教会は、教団のご支援ならびに北海道地区のバックアップをいただきながら、今春の雪解けより現会堂の解体工事を行い、新会堂を建築する計画を現在進めております。

つきましては、下記の通り、現会堂の礼拝堂における最終礼拝と感謝の集いを行います。みなさまのお祈りに覚えてくだされば感謝でございます。また、ご一緒に最終礼拝に参加なさることが可能なみなさまにおかれましては、ぜひおいでくださいますよう、ご案内申し上げます。

みなさまの四旬節の歩みが支えられ、ご復活の祝いに向けたよき備えの日々を過ごされますように心よりお祈り申し上げます。

主にありて

 

    記

日 時 2018年4月14日(土曜日)午前10時30分より 復活節第3聖日礼拝において

場 所 北見ルーテル教会 礼拝堂

         〒090-0015 北海道北見市公園町5−1

          電話/fax 0157-61-3391 牧師携帯090-6210-7485  メールkitamichurch@gmail.com

内 容 一 部 復活節第3聖日 北見ルーテル教会現礼拝堂最終感謝礼拝式

       司式 白井真樹牧師(北見教会)

       説教 木村繁雄牧師(小樽教会、元 北見教会牧師)

    二 部 感 謝 の つ ど い (会食・現会堂の思い出など)

 

以上

 

北見ルーテル教会新会堂建築募金

北見ルーテル教会新会堂建築募金ご協力のお願い

 

日本ルーテル教団

北見ルーテル教会

 

 

♰ 主の平和!

私ども北見ルーテル教会では、現在、新会堂を建築すべく再建計画を進めております。

当教会の会堂は、かつて青少年宿泊研修所を運営するために建築された建物を、運営終了後、教会堂として用いてきたものです。しかし、教会員の人数に比べ、敷地と建物の規模が大きすぎ、夏の除草や冬の除雪、暖房費など維持が困難な状態が続いておりました。また、雹害や雪害等で修繕を余儀なくされてきました。

このため、現在の敷地の大部分を売却し、残りの土地に身の丈に合った小さな会堂を建てることを、会員の総意として希望し決断するに至りました。しかし、現在のところ建築資金が不足しておりますため、全国のみなさまにお祈りと募金のご協力を賜りたくお願い申し上げます。

日本そして東アジア最北の地にあるルーテル教会において、これからも宣教と礼拝を続け、主の福音が前進するための拠点としての、北見教会の再建のため、ご協力賜りますならば、誠に感謝でございます。何卒よろしくお願いいたします。

末筆ながら、みなさまと共に、神さまの祝福が尚一層豊かにありますことを心よりお祈り申し上げます。

                                                                       主にありて

 

                       記

建築期間

  2018年雪解けより 現会堂取り壊し

  2018年遅くて10月末 竣工・献堂予定

予定総工費 2270万円(礼拝堂椅子など備品を含む)

  資金内訳  教団援助  1788万円(土地売却益より)

        自己資金   352万円(貯蓄全額及び会堂建築指定献金

        地区拡援助   80万円(8年返済)

        全国募金   100万円(目標額)

 

募金送金先 以下の口座までご送金くださいますようお願いいたします。

 

郵便局(ゆうちょATM)から

【記号】19790 【番号】15846221 

【名義】北見ルーテル教会 

 

他行から 

【金融機関名】ゆうちょ銀行

【店名】九七八(キュウナナハチ) 【店番】978 

【預金種目】普通預金 【口座番号】1584622

【名義】北見ルーテル教会

 

*勝手ながら、お申し出のない場合、金融機関への振込依頼書・払込受領書・ご利用明細票をもって領収書に代えさせていただきます。

教会からの領収証が必要な方は、お手数をおかけいたしますが、ご送金日とご送金の際に記入(入力)されたお名前および領収証を発送させていただくご住所とご氏名を、以下までメールにてご連絡ください。

          白井真樹牧師 メール kitamichurch@gmail.com

 

以上

2018年3月18日 礼拝メッセージ

四旬節第5主日 2018年3月18日

 

「一粒の麦」

エレミヤ書31章31~34、ヨハネによる福音書12章20~33)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

金曜日、大麻教会に隣接するひかり幼稚園で卒園式が行われました。そこで園長である吉田先生がなさったお話に感銘を受けました。「神さまはみんなのことが大好きで、みんながいい子に育ってほしいと本当に心から願っている。けれども、もしいい子になれなくても、悪いことをしてしまっても、失敗してしまっても、でも神さまはそれでもみんなことが大好きで、最後までみんなの味方です。幼稚園の先生方も同じです。みんながよい子に育ってほしいとそう願っているけど、悪いことをしてしまっても、失敗しても、ずっとみんなことが大好きでみんなの味方だから、いつでも幼稚園に来てほしい。みんなのおうちのお母さんやお父さんも同じで、どんなことがあってもみんなの味方です。」

 

これを聞いて、まさにキリスト教保育の心はそこにあると思いました。一般の感覚によれば、「いい子に育つ」ことが教育の目標で、もし子どもが悪いことをしてしまうなら、それは教育の失敗ということになってしまうかもしれません。宗教的にも、いいことをしている人を神さまは顧み、悪いことをするなら神さまは裁かれて罰を与えるというのが一般的な感覚かもしれません。でも聖書に導かれ、神さまの愛を大切にするキリスト教保育は、それとは違います。もちろんいい子に育ってほしいそう願い、そのことを神さまに真剣に祈りながら、子どもに関わります。でも、もう一面、キリスト教保育では、どんな子だって、神さまの前に罪を犯してしまうことがあるし、失敗してしまうこともあるということを受け止めます。では、それでその子はもうダメな子なのかというと決してそんなことはない。罪を犯しても失敗しても、なおも神さまに愛され続けていて、神さまの救いはその子に向けられ続けられている。そのことを大切にします。次のような歌詞の子どものさんびかがあります。「よいこになれない わたしでもかみさまは あいしてくださるってイエスさまのおことば」。よい子だから神さまが愛してくださるのでなく、良い子になれなくたって神さまの愛はなおも子どもたちに注がれ続けているのです。だから保育者もまた、悪いことをしたら、もうその子はダメだと見捨てたり、諦めたりするのではなく、その神さまの愛を信じてなおも愛し続け関わり続ける。そしてそのことが大切だということを、子どもの保護者達にも伝える。それがキリスト教保育です。

 

卒園した31名の子どもたちの心に、吉田先生のメッセージが届き、人生の折々に思い出してくれればいいなと思いましたし、私たちもその心を大切にしてこれからも子どもたちに接していきたいと改めて思いました。

 

今日もみことばに聴いてまいりましょう。まず今日の第一の朗読、エレミヤ書から聴いていきたいのですが、そこで神さまは「新しい契約」について語っておられます。「新しい契約」とおっしゃるのですから、その前の「旧い契約」「もともとの契約」があったということになります。それはどんなものであったのかと言うと、それは神さまがおっしゃっているように、「かつてわたし(神さま)が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」その契約でした。つまり、あのモーセを通して民に与えられた十戒を始めとする、神さまの定められた掟、すなわち律法のことです。神さまがエジプトでの強制労働の苦しみからイスラエルの民を救い出してくださいました。その彼らに、「これからお前たちは、わたしのみ前で、また人々と共に、あなたがたの主である私が定めるように、このように生きていきなさい」と、神さまは彼らへのお約束として、契約を与えられたのです。

 

しかし、神さまは、今日のエレミヤ書「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った」とおっしゃいます。そうです。人々は、神さまのお約束を守らなかったのでした。神さまの教えを破り、神さま以外のものに走り、自分の都合の良いものを彼らの神として、自分の好き勝手な生き方をしてしまっていた。また人を愛すどころか人を傷つけたり陥れたりするようなことをしてきた。そんな彼らであったわけです。ですから、神さまは「もうお前たちのことなんて知らない」と、彼らのことを見捨ててしまっても仕方ありませんでした。でも神さまはそうなさらず、彼らに新しい契約を授けるのです。もう一度、彼らに、もう一度やり直そうよ。もう一度ちゃんと生きていこうよと、ワンモアチャンスを与え、語りかけられるのです。

 

神さまはおっしゃいます。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」

 

かつて、モーセを通して、イスラエルの民に、十戒をはじめとする様々な掟を、神さまからのお約束、契約として授けられたときには、それは二枚の石の板に刻んだと、聖書は伝えていました。その石の板は、人々が神さまの掟に反して金で子牛を造りそれを礼拝していたことを目撃したモーセがブチ切れて、彼らに向かって投げつけて粉々になってしまったのでした。それで、神さまはもう一度彼らのために新しい石の板に掟を刻んでくださったわけですが、それもやがてイスラエルの国が他の国に攻められたり占領されたりする混乱の中で失われてしまいます。でも、神さまは、今、彼らに授ける新しい契約はそのように石の板に刻まれて、壊れてしまったり、どこかに失われてしまったりするようなものではないと、おっしゃいます。「彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と。神さまがしっかりと、一人ひとりの心の中に刻みつけてくださると、神さまはおっしゃるのです。そして、そのことで、本当に神さまが身近な方になられる。もう「神を知れ」なんてお互い言わなくても、「あなたはわたしの神です」、「お前たちはわたしの民だ」という本当に密接な関係で結ばれる。「小さい者も大きい者も」、すなわちどんな人だって、「わたしを知る」神さまのことをちゃんとわかる。神さまと深い交わりの中で生きていくようになる。そして、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」神さまの赦しと憐れみの中で、どんな人も生かされると、神さまはおっしゃるのです。

 

これは、時を超え、場所を超え、私たちにも語られている、神さまの約束です。私たちも神さまの御心を、聖書のみことばを通して知らされます。でも、それに従えないことも多いのです。神さまをの教えに反して、罪を犯し、それを幾度も幾度も繰り返してしまう私です。神さまの教えの石の板を、私もまた、粉々にしてしまい、あるいはどこかに無くしてしまっているのです。でも、神さまはそれでもなおも、私を見捨てず、なおも愛し続けてくださいます。本当なら「もうあいつはだめだ」と見捨てられて、裁かれてしまっても仕方がない存在なのですが、神さまはそうなさいません。子どものさんびかにあったように、「よいこになれない わたしでもかみさまは あいしてくださる」これは私にも与えられている神さまの約束なのです。神さまは私の心の中に、新しい契約をしっかりと刻み込んでくださり、神さまがどんなお方なのか私たちに教えてくださいます。そのことによって、私もまた、ただただ神さまの赦しと憐れみの中で生かされるのです。

 

それでは、私たちにとって、私の心の中に刻まれる神さまの新しい契約とは何でしょうか。今日の福音のみことばがそのことを私たちに告げています。このみことばは、イエスさまがエルサレムに迎えられた出来事の直後の出来事として伝えられています。イエスさまがろばに乗ってエルサレムに入り、人々が熱狂的にそのイエスさまを迎えた。その後の出来事が、今日の福音で伝えられていることなのです。

 

その時、ギリシア人たちが、イエスさまにお目にかかりたいと、イエスさまの弟子のひとりのフィリポに告げました。すると、フィリポはアンデレにそれを告げて、アンデレとフィリポはイエスさまにそのことを伝えました。なぜここでフィリポが直接イエスさまにそれを伝えず、アンデレにわざわざ話してワンクッション置いたのか、疑問ですが、もしかしたら、「おい、アンデレ、すごいぜ。ギリシア人まで、先生に会いたいってよ」「そかそか、じゃ先生に伝えよう」とそんなやりとりがここでなされたのかもしれません。あるいは、「おい、アンデレ、ギリシア人が先生に会いたいって言うんだけど、どうかな?大丈夫かな?」「うーんどうかわからないけど、とりあえず先生に伝えてみるか」そんなやりとりだったかもしれません。つまり、みんなエルサレムでの出来事で高ぶった気持ちの中で、イスラエルの人たちだけでなくギリシア人までもイエスさまのもとに!と、彼らが得意げに感じしたか、あるいは、イスラエルの人たちではない、宗教的に穢れているとされていた外国人、つまり異邦人であるギリシア人をイエスさまに会わせてよいのかと、そんな風に感じたか、いずれかではなかったか。このため、フィリポはわざわざアンデレにそれを告げたのではないでしょうか。

 

けれども、そのいずれも、イエスさまのお心を、彼らが理解していないことの現れでした。イエスさまはおっしゃいます。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」エスさまはここで「栄光」ということをおっしゃいます。これは、もともと「輝き」ということを表す言葉です。「わたしが輝きを受けるときが今こそ来た」と、イエスさまはここでおっしゃっているわけですが、その輝きとは何か。人々がみんなしてイエスさまを熱狂的に迎えたことや、それを見てギリシア人までもがすごいと思ってイエスさまに会いたいと思ったことかというと、そうではありませんでした。そのイエスさまの栄光、イエスさまの輝きとは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とイエスさまがおっしゃっているように、イエスさまが死なれること、つまりその十字架にこそ現れる。イエスさまはそのことをここで告げられるのです。イエスさまが十字架で死なれることにより、その実、その収穫として、多くの人たちが救われ、生かされる。

 

そうです。これこそ、エレミヤ書で告げられていた、神さまが私たちの胸に刻み込んでくださる新しい契約です。つまり、神さまが約束なさった新しい契約とは、イエスさまの十字架、その命に他なりません。命がけで私たちを愛し、私たちを生かしてくださる、その愛、それこそが、神さまの前に罪を犯してしまう私たちを見捨てず、なおも私たちを赦し、御許に招いてくださる神さまの愛の契約です。

 

そこにはイスラエル人であるとか、ギリシア人であるとかいうことも、そのどっちが神の民で、どっちが汚れているなんて、もはやそんな差別はありません。イエスさまが今日のみことばの結びで、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃっているように、すべての人が、十字架に挙げられたイエスさまのもとに引き寄せられ、十字架の愛のもとに、その命のもとに集められるのです。エレミヤ書で、「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである」と告げられているように、どんな人だって、十字架に挙げられたイエスさまのもとへと引き寄せられ、そのことを通して神さまの深い愛を知り、その愛が私たちの心にしっかりと刻み付けられるのです。

 

エスさまはおっしゃいます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」エスさまにとっても、十字架は心騒ぐほどの大きな痛みであり、苦しみでした。でも、イエスさまは「わたしはまさにこの時にために来たのだ」とおっしゃって、十字架をご自分の身に引き受けられます。私たちへの愛の故に。私たちを何とかして救いたいと願って。そのイエスさまに対して、神さまが「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」と力強く告げられたように、そのイエスさまの十字架にこそ、イエスさまの栄光、その輝きがあるのです。私たちも、イエスさまの十字架のもとに引き寄せられて、その愛を私たちの心にしっかりと刻まれて歩みたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの御前に罪を犯し幾度も繰り返して歩んでいる私を、あなたはなおも見捨てず、御子の十字架によって私たちを赦し、新たに歩ませてくださいます。どうかこの御子の十字架のもとへ私たちすべての者を引き寄せ、またその愛をあなたの新しい契約として私たちの心に刻んでください。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-03-18.MP4 - Google ドライブ

 

http://www.stmarys-tallaght.ie/site/wp-content/uploads/2015/03/cross-wheat-420x280_c.jpg

東日本大震災を覚えての祈り

司式)「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

 

先唱)天地の創り主である神さま。今日、私たちはあの日から7年を迎え、心新たにあなたに祈ります。2011年3月11日、東北地方を中心に大地震津波が襲い、一瞬にして多くの人たちの命が失われました。また、その後もこの地震に関連して、命を失った人たちが大勢いらっしゃいます。その中には、失望と悲しみのうちに自ら命を絶った人たちも少なくありません。神さま、その一人一人の尊い命を、あなたの深い憐れみにより、御手のうちに受け取ってください。
  会衆) 主よ、憐れんでください。

先唱)被災された方々と共に、いま、私たちは祈ります。家族や友人を失った人たち、家や仕事を失った人たち、たくさんの思い出と希望にみちた将来を失った人たちを顧み、あなたからの慰めと癒しをお与えください。そして、様々なつながりから断たれた人々や、避難を余儀なくされている多くの人々、さらには様々な柵のゆえに避難を望んでも それがかなわない人たちを、あなたの愛で満たしてください。
  会衆) 主よ、満たしてください。

先唱)地震の被害によって悲しみに心引き裂かれた人々と共に、いま、私たちは祈ります。一人ひとりの嘆きや悲しみの叫びを聞き届け、憐れんでください。その試練の中にあって、恵みの神と出会い、希望を見出すことができますよう、あなたへの信頼をお与えください。私たちの苦しみに先立って、十字架で苦しみ命をお与えくださった御子が、いつどんな時も、一人ひとりと共にいてくださることを知ることができるように、心を開いてください。
  会衆) 主よ、信じます。

先唱)福島第一原子力発電所の事故を覚えて、いま、私たちは祈ります。あなたの創られたこの世界、そしてあらゆる命に対して、取り返しのつかない大きな事故となってしまいました。私自身と、また、この国に暮らす一人ひとりの無関心や傲慢さを深く悔い改めます。私たちの罪を赦し、同じような事故を再び繰り返すことがないように、原発に頼らない社会を目指し、そのために取り組むことができるように導いてください。国の指導者たちがあなたの御心に従い、謙虚に、また大胆に決断をすることができるように支えてください。一人ひとりの健康をあなたが支え、すでに健康が害されてしまった人たちをあなたが癒してください。
  会衆) 主よ、ざんげします。

先唱)復旧・復興を願って、いま、私たちは祈ります。大きな苦難の中で、残された家族や仲間とともに手を取り合って、世界中から寄せられた祈りと支えに力を得て立ち上がろうとしている人たちに、あなたの祝福をお与えください。私たちが、その歩みに連帯することができるように、お遣わしください。国と地方自治体が、その責任を果たすことができるように導いてください。復旧、復興の厳しいあゆみに希望の道のりを示し、あなたがそのために必要なものを備えてくださり、また、その道を共に歩んでください。
  会衆) 主よ、共に歩んでください。

先唱)国内外の様々な災害の被害に遭われた方々とともに、いま、私たちは祈ります。東日本大震災と共に、国内外の各地で多くの災害が起こっています。あなたがそれらの災害の被害に遭われた一人ひとりをも助け、慰め、平安を与えてください。私たちが、あなたの導きの中で、被害に遭われた方々と共に歩むことができるように導いてください。
  会衆) 主よ、導いてください。

先唱)み子の苦しみによって示された変わることのないあなたの限りのない愛によって、すべての人が絶望の中に希望を、悲しみの中に慰めを見いだせること、そして、私たちをそのために用いてくださることを感謝して、この祈りを私たちの主イエス・キリストによって祈ります。 
  会衆)アーメン

 

祝 福
司式)憐れみ深い神が、あなたがたと、災害の被害に遭われた方々及びその家族や友人に、豊かな祝福と慰めを与えてくださるように。父と子と聖霊の御名によって。
  会衆)アーメン

2018年3月11日 礼拝メッセージ

四旬節第4主日 歓喜主日 2018年3月11日

 

「神は、独り子を」

民数記21章4~9・エフェソの信徒への手紙2章1~10・ヨハネによる福音書3章14~21)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日は、教会の暦で四旬節第4主日で、この日は「歓喜主日」とも呼ばれます。四旬節の間は、礼拝の色として、悔い改めと慎みを表す紫が用いられますが、四旬節の日々の中でも、今日のこの歓喜主日には、バラ色を用いてよいとされています。また、四旬節の間、礼拝堂には原則としてお花は飾らないのですが、この歓喜主日にはバラを飾る習慣もあります。そのような工夫をして、約束されたご復活の喜びがもう間もなくすぐ近づいていることを喜び祝うのです。今日は、バラを飾り、私もバラ色のストールを着用して礼拝をしておりますが、みなさんと一緒に、ご復活の喜びがすぐ近いことを心に刻む礼拝をできればと願っております。

 

ところで、先週、私は、二人の方のご葬儀に参列しました。まずは、月曜日の夜に、深川教会で行われた教会員のお通夜に参列しました。その際、私は、翌日火曜日に行われる告別式と火葬後の祈りで奉仕をするために、宿泊と、礼拝の式服の用意をして出かけました。その方は、ある夜、トイレに行く最中に転倒をし、朝病院で脳出血と診断され、一週間眠ったまま過ごされ、そのまま帰らぬ人となったのでした。

 

その方のお通夜が終わって、携帯電話を見ますと、不在着信が何件か入っておりましたので、折り返し電話をしました。そうすると、それは、長い間、入院しておられた、大麻教会のAさんが召されて、今まだ病院なのだけど、これからどうしたらよいかという、ご家族からの問い合わせでした。95歳のご生涯でした。しかし、私は深川におりましたので、すぐに札幌のその方が入院しておられた病院へ駆けつけるとしても、かなりの時間がかかります。これまたどうしようかと考えました。そうしたら、頭の中に、大麻教会の前任者で、現在、札幌中央教会の牧師をしてらっしゃいます、Y先生の顔が浮かびました。すぐにY先生にお電話して、病院へ行って臨終の祈りをして、また葬儀社の手配や日程の打ち合わせなど初動的な働きをお願いし、たいへん助かりました。そして、深川教会でのお勤めははN先生とH先生に委ね、翌日火曜日に、葬儀社とご遺族と詳しい打ち合わせをし、水曜日・木曜日と、その方のご葬儀を、大麻教会で、Y先生にも手伝っていただきながら執り行いました。

 

このように、私たちの愛する家族や教会の仲間が、ご生涯を終えて、この地上から旅立つということは、たいへん寂しい悲しい出来事です。けれども、キリスト教の信仰に基づく葬儀は、ただしめっぽいだけではありません。もちろん悲しみの中にも、どこかに希望があり、明るさがあります。それは、その葬儀が、神さまへの礼拝として行われ、そこでさんびがなされ、みことばが語られること、そしてそのことを通して、慰めと励ましが与えられるからであろうと思います。神さまがその召された人の命を御手に受け取ってくださっていること、そして、今、私たちはちょうど四旬節を過ごしイエスさまの十字架への歩みを心に刻み、ご復活の岩に備える日々を過ごしておりますが、イエスさまの十字架と復活によって、神さまがその人をお救いになられたこと、私たちはその信仰を葬儀において神さまを礼拝することを通して新たにするのです。葬儀を通して、悲しみを超えた希望、闇に輝く光を受け止めることができるのです。

 

さて、今日のみことばですが、まず第一の朗読、民数記が伝えている出来事についてお話したいと思います。個所としては、とても短いのですが、しかし、そこには実に不思議な出来事が伝えられておりました。荒れ野を旅していたイスラエルの民が、彼らのために神さまが立てられたリーダーであるモーセに不平不満を言うのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」。彼らのこの不平不満は、一見、わからないでもないように思えるかもしれません。けれども、彼らはなぜ、そのように荒れ野で旅をしているのかということを考えるなら、彼らのこの訴えが実に身勝手なことであると言わざるを得ません。

 

彼らは、エジプトで王ファラオの支配のもとで奴隷として強制労働に従事させられていました。その苦しみの中で、彼らは、神さまに向かって叫び、嘆き、助けを求めました。神さまはその彼らの必死な苦しみの叫びを聞き入れて、それにお応えになって、彼らをエジプトから救い出されたのです。しかし彼らは、この今日のみことばと同じように、やがてすぐに神さまにやれ水がないとか、エジプトではおいしい肉鍋を食べて、パンもたくさん食べられたのに、ここでは飢え死にしそうだとか、エジプトに帰りたいと不平不満を言い始めるのです。

 

せっかく神さまが彼らをエジプトでの苦しみから救い出してくださったのに、目先のちょっとした苦しみによってそのことを忘れて、あの時の方がよかったなどと言うわけですから、神さまだってたまったものではありません。神さまは、彼らを鍛えるため、そして世代交代が必要とも考えられたのでしょう。荒れ野を40年の間、旅させることにしたのです。しかし、その旅の中でも何度も同じようなことが起こるわけです。食べ物がない、水がないと、事あるたびにぶつぶつぶつぶつ言い始める彼らでした。「心は燃えていても、肉体は弱い」とイエスさまはおっしゃいましたが、まさにそうした人の弱さを見ます。今日のみことばも同じでした。

 

そんな彼らに神さまは激怒なさって、炎の蛇を送って、彼らを裁かれるのでした。たくさんの人がその蛇に噛まれて死んでしまいました。そこで彼らはようやく自分たちの過ちに気づいて、悔い改めつつ、モーセに、蛇を取り除いてくださるように神さまに祈ってほしいと願い出ます。モーセは、民の願いを受け入れて、神さまに祈りました。すると、それに対する神さまの答えが実に不思議なものだったのです。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る」モーセは神さまがおっしゃった通り、青銅で蛇を作って、旗竿の先に掲げます。その後、その掲げられた蛇を見上げた者は、たとえ蛇に噛まれても、死ぬことなく命を得たというのです。

 

私は、長い間、この出来事に大きな疑問を抱いていました。それは、先週の第一朗読は出エジプト記20章の十戒でしたが、そこには「あなたはいかなる像を造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない」と、人が何か物を形作り、それを宗教的な対象物とすることへの、つまり偶像崇拝の禁止がはっきりと定められています。それなのに、神さまはここで蛇を造ることをモーセに命じて、そして人々がその蛇を仰ぎ見ると、命が救われるというのは、この偶像崇拝に当たるのではないかと疑問に思ったのです。けれども、今回改めて、このみことばと向き合ってみて、違った角度から考えることができました。

 

それは、彼らが蛇を見上げるとは、一体、何を意味したかということです。それはその際に、彼らがなにも蛇を拝んだり、宗教的な対象物としたりしたということとは違ったのではないだろうかと思いました。それでは、彼らがそこで蛇を見上げたことは何を意味するのかというと、その蛇を見上げることにより、彼らは、彼ら自身の罪に向き合い、それを心に刻んだのではないだろうかと思ったのです。自分たちが神さまに不平不満を言い、何ともバカなことをしてしまった、そして、そのことで神さまが蛇を遣わして裁かれた、大勢の仲間がそれで死んでしまった、私たちはもう二度と同じようなことを繰り返してはならない、そのように彼らが痛みをもって、また、深い悔い改めをもって、向き合い、自分の心に刻むための蛇だったのではないかと思います。

 

そして、そう考えると、イエスさまが今日、ご自分のことを語るのに、この民数記モーセの蛇の出来事を語っているのが、よく理解できると思うのです。モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。イエスさまはそのようにおっしゃっています。このイエスさまのみことばから、私たちは今日、イエスさまの十字架の出来事を受け止めたいのです。イエスさまは、「人の子も上げられねばならない」と、たいへん深い決意のうちに、ご自身十字架の上に上げられるのです。そして、「それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」でありました。教会には、十字架が掲げられています。また私たちも自分の胸に、十字架の飾りをつけることもあります。それは何も、私たちがその十字架を偶像として崇拝するためではありません。イスラエルの民が、モーセが作った蛇を見上げて自分の罪を心に刻み、深い悔い改めに導かれたように、私たちは十字架を見上げることにより、私たち自身の罪を心に刻み、その私たちの罪のためにイエスさまが十字架の上に上げられたことを思い起こし、深い悔い改めに導かれるのです。自分のどうしようもなさを思い、その自分のどうしようもなさがイエスさまを十字架に追いやり、死に至らせたことを忘れないために、私たちは十字架を見上げるのです。

 

「イエスさまの十字架は今から二千年前のことで、それは私のせいではない」と言われることもあります。でもそうじゃない。私の犯す罪が、イエスさまを十字架に追いやった。神の命を、この私の罪が奪ったのです。それほど、私たちの犯す罪は重いものであり、自分ではどうすることもできないものです。ただただイエスさまの十字架によって、神の命と引き換えとしてのみ、私たちは罪を赦され、救いをいただくことができるのです。

 

今日の福音では、続けて聖書の中で最も大切な一言が語られます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これは、「聖書の中の聖書」とも呼ばれるみことばです。聖書のすべてのみことばが、この一節に収斂され、聖書のすべての精神を言い表しているみことばです。あのマルティン・ルターが、自分が間もなく死ぬというその時、何度も何度もこのみことばを繰り返し唱えたと言います。聖書について多くの講義をし、力強く宗教改革的な福音を告げたルターが、人生の最後に、死の床で、このみことばを自分に言い聞かせ、慰めと励ましを得ていたというこのことは、たいへん印象的です。

 

このみことばの「世を愛された」「世」というところに、自分の名前を入れて読んでみると、このみことばをより意義深く大切なものとして受け止めることができると、よく言われます。つまり、こんな感じです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、白井真樹を愛された」と。神さまは、この私を愛するがゆえに、独り子イエスさまをお与えくださった。それほど深く私を、神さまは愛されて、何とかして私のことを救おうとされました。それは、神さまにとっても大きな痛みの出来事だったに違いありません。しかし、その痛みを伴ってまでも、私たちへの愛を貫かれるのです。「御子を信じる者は裁かれない」、神さまはこの約束を堅く守られます。

 

今日の第二朗読で、パウロは語ります。「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」

 

ここで語られているように、私たちはただ神さまの恵みによってのみ救われます。私たちが何か良いことをしたとか、私たちの力によって救いを得ることができるとかではなく、「キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみ」、つまり、イエスさまの十字架によってのみ、「神の賜物」、神さまからのプレゼントとして、私たちは救いをいただいて、「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださ」るのです。今日、歓喜主日、私たちは、この神さまの愛を心から喜び、信じたい。そして、共にイエスさまの十字架を見上げて、深い悔い改めと感謝のうちに、ご復活の祝いに備えたいと思います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの限りのない深い愛を感謝します。その愛の中で悔い改め、あなたに立ち返って生きることができますように。私たちの救いのために御子をお送りくださりありがとうございます。御子の十字架を見上げ、ただこの十字架によってのみ、私の罪が赦されたことを信じることができますように。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-03-11.MP4 - Google ドライブ

 

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