yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

一年記念 しかし…

ここのブログ 「開設一年です」ってお知らせがサイトから届いていました。

 

この一年間、たくさんのみなさまがお寄りくださって ありがとうございます。

 

今日は一年を盛大にお祝いしたい、そんな風にも思ったのですが…

 

実は私 今週月曜日より入院しております。15歳の時の盲腸以来の入院かと思います。扁桃腺炎をこじらして、喉は痛いし、熱は上がったり下がったり、なかなか素敵な状態です。

 

いつ退院できるかわからないのですが、ちゃんと治して元気になろうと思います。

 

入院している病院のお食事なかなか美味しいです。

 

ということで、ブログこれからもよろしくお願いいたします。

 

この前の日曜日のメッセージも、入院のためアップできてません。ごめんなさい。

2018年4月29日 礼拝メッセージ

復活節第5主日 2018年4月29日

 

「つながりあって」

ヨハネによる福音書15章1~8)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

マルティン・ルターは、十戒の第一の戒め「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」について、大教理問答の中で「ひとりの神とは人間がいっさいのよいものを期待すべき方、あらゆる困窮に際して避けどころとすべき方である。…今あなたがたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである。」と説明しています。私たちは、「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」という戒めから、私たちが他の宗教の神々や何か手で作った偶像を拝んだり信じたりしてはならない、そんな意味だと考える場合が多いかもしれません。しかし、ルターはそうしたことではなく、繰り返しになりますが、「ひとりの神とは人間がいっさいのよいものを期待すべき方、あらゆる困窮に際して避けどころとすべき方である。…今あなたがたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである。」と、この戒めについて説明するのです。

 

「困ったときの神頼み」という言葉があり、キリスト教ではその言葉をあまりよく捉えない人も多いのですが、ルターはここで「あなたが困ったとき、ちゃんと神さまを避け所としているか」「もう逃げる場所がないという時も、あなたは神さまの懐に助けを求めて飛び込んでいるか」「あなたがいろんなよいものを、ちゃんと神さまに期待しているか」「あなたの心をどこにつないで、誰に信頼しているか」そのことを私たちに問いかけています。私たちがもし神さま以外のものにいろんなものを期待しているなら、それは私たちが神さま以外のものを私たちの神としていることだ、私たちが作り上げた偽りの神である偶像を信頼していることだという意味です。どうでしょうか。

 

私たちは何に期待し、何を避け所、逃れ場とし、何に心をつなぎ、何に信頼しているでしょうか。もちろん神さまです、とそう答えたいと思うのですが、実際は怪しいものです。自分の能力だとか、お金だとか、持ち物だとか、地位だとか、他の人の目だとか、そうしたものに私たちが期待したり、それを避け所としたり、そうしたものに私たちの心をつないだり、信頼したりしていることを思います。それは、そうしたものを失ったとき、露になります。つまりお金が無くなったり、地位を失ったり、能力が足りなかったり、他の人の目が冷たくなった時、私たちは途端に「どうしよう、どうしよう」と不安になり、恐れ、「もうだめだ」と諦めモードになったり、パニックになったりしてしまう。神さまが私たちといつどんな時も共にいてくださり、私たちのためにすべてを整えてくださっているのだから、本当はそこで何の心配もいらないし、恐れる必要もないのだけれど、そうできない。それは、私たちが神さまよりもその他のいろんなこの世のものに期待し、避け所とし、心をつなぎ、信頼していること、つまりそれらのこの世のものを、私たちが、私たちの神としてしまっていることの現れなのです。

 

今日の福音で、イエスさまはそんな私たちにおっしゃいます。「わたしにつながっていなさい。」エスさまにつながって私たちは生きていく。先週のメッセージの初めに、復活なさったイエスさまが私たちにとってどういうお方なのか、今も生きておられるイエスさまが私たちにどのようにかかわってくださるのか、そのことを私たちはみことばから聞いていきたいとお話ししましたが、今日は、復活なさったイエスさまこそ、私たちにとって一切の良いものを期待し、あらゆる困窮に際して避け所とし、私たちの心をつなぎ、信頼すべきお方であり、そのように私たちにかかわってくださるお方であるということを、私たちは受け止めます。

 

でもイエスさまにつながって生きるというのは、私たちにとってなかなか困難なことのようにも思えます。もちろん、イエスさまにつながって生きていきたいと、私たちは願いますし、そのように努めます。でも、実際のところ、イエスさまの崇高な教えを私たちはなかなか行うことはできないですし、イエスさまの十字架の道に従うこともなかなかできません。今よく使われる言葉で言うなら、イエスさまの前にまったくもってヘタレな私たちです。ですから、イエスさまが「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」などとおっしゃっている言葉を聞いて、それを文字通りに受け止めようとするとき、正直、私は「なかなか難しい、いや、私にはできないな」という思いになりますし、そこから「私たちはイエスさまがおっしゃる通りすべてを捨てて、十字架のイエスさまに従わなければ救われません」などという説教を聞くと、「私は救われないんだな」と思わざるを得ません。もし今日のイエスさまの言葉が「あなたがたはわたしにしっかりとつながっていなければもうだめだ」という意味なら、もうダメなんだなと思うのです。今日イエスさまが、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」とおっしゃっているように、「私はイエスさまにつながっていられないから、投げ捨てられて枯れてしまって、火の中に投げ入れられて焼き滅ぼされてしまうしかない」、そうした者なのだと思います。そして事実、イエスさまが今日「わたしにつながっていなさい」と、ただそのようにだけおっしゃっているなら、私はまさしくそうした残念な運命を辿るしかありません。

 

でも、イエスさまは「わたしにつながっていなさい」とだけおっしゃったのではありませんでした。続けておっしゃるのです。「わたしもあなたがたにつながっている」と。イエスさまが私たちにつながっていてくださる。これは大きな恵みです。私は自分の力では、イエスさまにつながっていることはなかなかできない。でも、そんな私たちにイエスさまが「わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃってくださっている。私たちは、ただそこでのみ立っていくことができるのだと思います。

 

幼稚園に新しい子どもたちが入ってきました。子どもたちの中には新しい生活に慣れるまで不安で、泣いている子もいます。そうしたとき、先生方が子どもたちに手を差し伸べて、手をつないでくださる。しっかりと抱きしめてくださる。そうした中で、子どもたちの不安が少しずつ取り除かれ、笑顔で幼稚園で過ごすことができるようになってきます。先生との信頼関係もできていきます。時にはお友達が心配して、そうした子どもたちを自分の中に受け入れてくれる場合もあります。そのようにして子ども同士が一緒に過ごす喜びが湧いてきます。イエスさまが「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とおっしゃるとき、イエスさまと私たちの関係が、そのような先生と子どもの関係、子どもたち同士の関係のようなものだと感じました。イエスさまが手を差し伸べてくださっている。イエスさまが抱きしめてくださっている。そのイエスさまの手に、私たちの手を添えていくこと。イエスさまの抱きしめてくださった背中に私たちの手も回していくこと。それが私たちがイエスさまにつながるということだと思うのです。イエスさまが「ちゃんとわたしがあなたにつながっているから、だからそのつながりの中で、あなたも私につながり合って生きていけばいいんだ」そうイエスさまがおっしゃっている。それが今日の「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」というイエスさまのみことばに込められた心であると受け止めたいと思います。

 

エスさまは次のようにも今日おっしゃっています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と。先週、新約聖書の原文はギリシア語で書かれていて、ギリシア語では動詞の形を見れば、主語を省略することができる。それゆえに主語がわざわざ書かれていることは、その主語が強調されている。そんなお話をいたしました。今日のイエスさまの言葉「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」も、本当なら、「わたしは」という主語はわざわざなくても、動詞の形を見れば、「ぶどうの木」であるのは、これを語っておられるイエスさまご自身のことだということがわかるわけですが、今日のみことばでもわざわざ「わたしは」という主語が原文でも語られています。ですから、イエスさまはここで単に「わたしはぶどうの木」とおっしゃっているだけでなく、「ほかの誰でもなく、このわたしこそがぶどうの木で、あなたがたはその枝なのだ」と、「わたしは」ということを強調しておられるということになります。イエスさまは、他の誰でもなく、他の何物でもなく、このわたしこそが、あなたがたにしっかりとつながっている、ぶどうの木であり、あなたがたはそのわたしの枝だと、力強くここで語っておられるのです。

 

この世のいろんなもの、お金も物も自分の地位も、名誉も、能力も、他の人の評判も、他の人の目も、それらはどれも生きていく上で、あるに越したことはないものなのは、そうでしょう。でも、それらはどれも不確かなものです。何かのきっかけで失われてしまうことがあります。一瞬でそれらすべてを失ってしまう、そうした不運な、あるいは不幸な出来事だって起こるかもしれません。あるいは、そもそも最初からそれらに恵まれないという場合もあるでしょう。またさらに、私たちは誰しもいつかはこの世を去らねばなりません。その時、この世のどんなものも私たちは手放さなければならなくなります。冥途の土産という言葉がありますが、私たちは冥途に土産を持っていくことなどできない。あの旧約聖書のヨブが、次々自分を襲う災難の中で「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。」と言っているように、私たちはいつしか必ず裸で空手でこの世を去って行かねばならないものなのです。

 

そうした私たちにイエスさまはおっしゃるのです。「そうしたこの世のほかの何物でもなく、このわたしこそがぶどうの木だ。あなたがたはその枝だ。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と。この世のあらゆるものを失っても、あるいは、いつかすべてを手放してこの世を去らねばならないその時も、イエスさまは私たちにしっかりとつながりつづけてくださるぶどうの木です。そして、私たちはそのイエスさまというぶどうの木に手を添えてつながり合って生きることがゆるされている枝なのです。そのぶどうの木であるイエスさまは、この世のすべてを失い、十字架の木にかかり、死なれた方、しかし、その死をもって死に打ち勝ち、復活なさって今も生きておられる方です。ですから、私たちがこの世のすべてを失っても、その命を終えて死んでも、イエスさまの手はなおも私たちに差し出され続けます。私たちが生きている時もすべてを失う時も死ぬ時も死んだ後も、イエスさまはそこで私たちになお手を差し伸べて「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。わたしはあなたの手を決して離さない」とそうおっしゃってくださるのです。

 

以前、私が働き、生活していた深川教会のベランダから見える近所の方の家の庭ではぶどうを育てていました。ぶどうの枝は、本当に細く弱々しいものです。嵐が来たり、雪が積もったりしたらもうだめになってしまうのでは…と思うようなものでした。でも、毎年、秋にはみごとなおいしそうなぶどうがたわわに実りました。枝は細く弱々しいけれど、ちゃんとぶどうの木から栄養が運ばれ、毎年実りが与えられていたのです。私たちも弱々しいものです。私は、体は人一倍太いですが、けれど、心はすぐに折れてしまいそうな弱い者です。神さまとの関係でも、すぐに離れてしまいそうなそんな者です。でも、イエスさまがそんな私にしっかりとつながっていてくださる。そして、みことばを通して、また、洗礼と聖餐を通して、栄養を与え、強めてくださって、実を実らせてくださいます。

 

それは、決して私自身の力ではありません。イエスさまが「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と今日おっしゃっているように、イエスさまにつながっていなければ私自身は何もできません。けれど、そんな私たちにイエスさまがしっかりつながっていてくださり、実を与えてくださるとの約束に励まされ、感謝したいと思います。そして、私の手を握ってくださるイエスさまに私も手を添えて、私を抱きしめてくださるイエスさまの背中に私も手をまわし、イエスさまとつながりあって生きていきたいと、そう心から願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

心細く弱い私にイエスさまがしっかりとつながっていてくださることを感謝いたします。どうか、私も差し延ばされたイエスさまの手に、私たちの手を添えてイエスさまとつながり合って生きていくことができますように。イエスさまというたしかなぶどうの木の枝として生かしてください。復活なさって今も生きておられる主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-04-29.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年4月22日 礼拝メッセージ

復活節第4主日 よい羊飼いの主日 2018年4月22日

 

「囲いの中も外も」

ヨハネによる福音書10章11~18)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先週までは私たちは、復活なさったイエスさまと弟子たちとの出会いの出来事を伝えるみことばを聞いてきましたが、今週からは復活なさったイエスさまが私たちにとってどういうお方であり、今も生きておられるイエスさまと私たちはどういう関係にあるのか、みことばより聞いてまいります。

 

今日、復活節第4主日は、「良い羊飼いの主日」と呼ばれます。復活なさったイエスさまが私たちにとって良い羊飼いである、イエスさまが復活なさったことによって、私たちにとって良い羊飼いになってくださったということを受け止めるのです。イエスさまが私たちにとってよい羊飼いであるということは、羊があってこその羊飼いですから、私たちがイエスさまの羊であるということをまた表しています。

 

このことを受け止めるために、私たちが羊であるとは一体どういうことであるのかということについてまず考えたいと思います。これは毎年のように繰り返しお話していることですが、羊とはたいへん弱い動物であるということを、私たちが受け止めることがとても大切になってきます。羊は目が離れているから周りはよく見えているようですが、あまり遠くが見えず、自分の前で起こっていることが見えない動物です。群れで生活する動物で、一匹だけはぐれてしまうならどうしてよいかわからずパニックになってしまう。道にも迷いやすい。暗いところが苦手です。ライオンや狼などの猛獣にすぐにやられてしまいます。

 

私が牧師になるための準備をする神学校に通っていた時、学校では毎日礼拝の時間、チャペルの時間があるのですが、ある学生が、自分が羊にたとえられるのはあまり好まなかったとお話していましたが、たしかに羊のような弱い動物にたとえられるのは気が進まないかもしれません。しかし、私たちは聖書のみことばを通して、イエスさまがよい羊飼いであり、私たちはその羊であるということを聞きます。このことは、私たちがそのように弱い羊のようなものだ、羊のようにそうした弱さがある存在であるということを、いつも忘れずに心に刻んで過ごすことが大切であるということを表しています。イエスさまの前に決して強い者ではない。弱い私たちなのだということを、私たちは忘れてはならないのです。

 

私たちも、自分にはちゃんといろんなことが見えていると思っていながらも、実のところはそんなに見えていない。特に自分の前で今何が起こっているのか見えていないものです。また、自分は一人が好きなんだということを言いながらも、しかし、どこかで孤独に耐えられない弱さがある。そもそも「人が独りで生きるのはよくない」と、神さまが天地創造の際におっしゃったように、私たちは一人きりで生きるのではなく、支え合って人と人との間で生きてこそ人間としてよりよく生きていくことができる存在なのです。一人突っ走って生きていくと、どこかで道に迷ってしまう。どうしてよいかわからなくなってしまう。再び歩むべき道に戻れなくなってしまう。特に神さまとの関係の中で、神さまに従って生きることが時にうざく感じて、煩わしく感じて、自分の好きな道を生きていこうとして、どんどん人生に迷ってしまう。よく言われることですが、聖書の中で用いられる罪という言葉は、もともと的外れという意味です。本来目指すべき的から外れて生きていること、これが聖書が語る罪です。私たちも本来は神さまの御心に従った生き方、人を大事にした生き方、つまり神を愛し人を愛する生き方をすべきところを、実際はそうできない。的外れな歩みをして、その的へともう戻れなくなってしまっている。私たちの前に立ちはだかるこの世の大きな力に、すぐ負けてしまう、飲み込まれてしまう。そうした弱い私たちであるということを、私たちはいつも忘れてはならないのです。そして毎年、必ず、この良い羊飼いの主日に、私たちは、そのことを思い起こし、改めて心に刻むのです。

 

私たちが弱い羊のような存在である、このことを私たちが謙虚に受け止める時、復活なさったイエスさまがそんな弱い羊である私たちにとっての良い羊飼いであるということの大きいな慰めが、初めて心に響いてくるのだろうと思います。自分は強いものだ、誰の助けも必要としない、自分独りで大丈夫だ、何ら間違えたこともしていない、そんな風に思っているならば、イエスさまがそんなあなたのよい羊飼いであると言われても、あまりピンとこないだろうし、その必要性を感じることができないのではないかと思います。ですから、まず私たちが自分の弱さをしっかりと見つめること、そしてその弱さを認めること、その弱さに打ち砕かれること、そのことがとても大切なことです。

 

そんな私たちに向かって、イエスさまは今日の福音でおっしゃいます。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。新約聖書ギリシア語で書かれています。ギリシア語は、動詞の形を見ればその主語が何であるかがわかる言語です。わざわざ「私は」という主語がなくても、動詞の形をみれば、この主語は私であるということがわかるのです。ですから、主語が省略されることが多いのですが、イエスさまがここで「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃるとき、わざわざ「わたしは」という主語が語られています。この場合、本来は省略できる主語がわざわざ語られているわけですから、その「わたしは」という主語が強調されているということになります。つまり、ただ単に「わたしは良い羊飼いである」ということを、イエスさまがここでおっしゃっているのではなく、もっと強いニュアンスで、そのことをお話なっておられるということになります。「ほかの誰でもなく、このわたしこそが、羊のために命を捨てる、その命を惜しまない、よい羊飼いなのだ。」そんな風にイエスさまはここでおっしゃっているのです。

 

とても力強い言葉です。次の言葉を見る時、よりその力強さを思います。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」これもギリシア語から直接訳すならこんなニュアンスになります。「しかし、羊飼いではない、雇い人は、それが自分の羊じゃないので、オオカミが来るのを見ると、羊を放って、逃げて行ってしまう」。つまり、この雇い人と良い羊飼いの違いは、良い羊飼いは羊たちのことを自分の羊だと思っているけれど、雇い人たちは別に自分の羊だとは思っていないというところにあります。良い羊飼いはこれは自分の羊たちなのだから、他の誰かではなく、この私こそが、羊たちを守るんだ、そのために命を惜しまないんだと。でも他の人たちは、別の自分の羊だと思っていないから、自分の身の危険を感じたら、羊をそこに放っておいて、わが身を守るために逃げてしまうと、そうしたことがここで語られているのです。

 

私は、来月で47歳になります。47年間生きてきて、人生の中でいろんな失敗をしてきました。今もしてしまいます。そうした中で、私はよい人に出会い、助けられてきたなと感謝のうちに思います。周りのみんなから見捨てられても仕方がないようなそんなとき、ある恩師が「俺がどうにかして責任を取るから、お前はお前でできることをしっかりしろ」と、そんな風に言ってくれました。そして、あまり私自身はそのようにしっかりすることはできなかったのですが、でもその恩師はその言葉の通り、どうにかしてくれましたし、最後まで見捨てず私にかかわってくれました。他のみんなから見捨てられてもどうしようもないようなそんなとき、そんな中でも「たとえ他のみんながどうでも俺がどうにかする、俺が責任を取る」、その言葉はどれほど私にとって心強かったことでしょう。そして、その恩師は、私を守るために、周りのみんなからいろんなことを言われました。その恩師自身が傷ついたり、腹を立てたり、悲しく思ったりする、そうしたこともたくさん言われました。でも、恩師は自分の言った言葉に責任を取り、それをちゃんと守ってくれて、そのことで私を守ってくれたのです。そうした中で、私は人生のピンチから立ち上がることができました。今日の福音のみことばからそうしたことを思います。

 

エスさまが「ほかのだれでもなく、私こそが、羊のために、あなたがたのために命を捨てるよい羊飼いだ」そうおっしゃるとき、たとえ周りのみんなが「わたしたちはもう知らない」「別にあいつら自分の羊じゃないし」と見捨ててしまっても、また、置き去りにして逃げてしまっても、「他のみんながどうであっても、わたしだけは絶対にあなたがたを見捨てない。あなたがたのために命を張って、必ずあなたがたのことを守る」と、そう堅く誓ってくださるのです。私たちは、そのイエスさまの堅い誓いの中で守られて生きていくことができます。

 

エスさまはまた、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、そのようにもおっしゃっています。私たちのことを、良い羊飼いであるイエスさまは、ちゃんとわかっていてくださるというのです。私たちが羊のように弱い者であること。神さまの前に的外れな生き方をして迷ってしまっていること。本当は一人じゃ生きていけないということ。イエスさまは、そのことをちゃんと全部わかっていてくださる。他の誰でもなくわたしこそが良い羊飼いなのだから、わたしの自分の羊であるあなたがたのことをちゃんとわかっている、イエスさまはそうおっしゃるのです。その良い羊飼いであるイエスさまは、ご自分の言葉を守り、実際に私たちのためにご自身の命を投げ出されます。あの十字架の出来事です。罪と悪と死の力に囚われ、自分ではどうすることもできない私たちであるということを、イエスさまは知っておられたがゆえに、その私たちを救い生かすため、ご自身の命をイエスさまは投げ出されるのです。

 

今日のみことばの結びにイエスさまは「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」とおっしゃっていますが、イエスさまはご自分の決断でそれを実行なさいます。イエスさまが十字架にかかった時に、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と周りにいた人がイエスさまに言いました。それまで嵐を静め、人の重い病気を癒し、死んだ人を生き返らせた、そんなイエスさまにとって、ご自分が十字架から降りて来ることは、実はたやすい朝飯前のことだったでしょう。でもイエスさまは十字架から降りてこられませんでした。できないからしなかったのではなく、できるけれどそれをしなかったのです。なぜなら私たちのことをよく知っておられたからです。もしイエスさまがここで十字架から降りてくるならば、イエスさまの大切な、命を懸けて守ると約束したご自身の羊である私たちが決して救われることはない、イエスさまがご自分の命を捨てることで初めて私たちの救いが可能になる、そのことをよくご存じだったがゆえに、イエスさまは「自分でそれを捨てる」とおっしゃった言葉を守られたのです。

 

東方正教会の復活祭で用いられる聖画、イコンで、イエスさまが、死者の国で棺の中のアダムとエバの手を引き上げているそんな様子を描いたものがあります。まさに、良い羊飼いであるイエスさまご自身が死の国に赴き、イエスさまにとって大切な羊である私たちのことをその死の世界から引き上げ救い出してくださった、それがイエスさまの十字架と復活の出来事です。

 

このようにご自身の命を懸けて私たちを救い出してくださったよい羊飼いであるイエスさまですが、今日もう一つとても大切なことをおっしゃっています。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。私たちは、イエスさまに導かれ救われ生かされている一人ひとりです。そして、この教会がそのイエスさまの羊の群れであると表現することができるでしょう。でも、そのように自分たちが導かれ救われて生かされている、ああよかったねと、私たちがただそこに満足し留まっているのではなく、未だ教会に足を踏み入れていない人、私たちの群れに加わっていない人もまた、よい羊飼いであるイエスさまのお導きをともに喜ぶことができるようになるために働く務めが、私たちに、私たちの教会には委ねられています。教会を、「囲い」と表現するのは何か閉鎖的な感じがして、おこがましいようにも思いますが、しかし、もはや囲いなどなく、その中も外も、ただ独りの良い羊飼いイエスさまの導きのもとにある、そのことを心に刻み、喜ばしい知らせ、福音を分かち合いながら歩んでまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

良い羊飼いであるイエスさま、弱く、さ迷う私たちを導き救い出してくださったことをありがとうございます。この喜びを分かち合いながら歩むことができるように私たちを導いてください。アーメン

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 

動画 2018-04-22.MP4 - Google ドライブ

 

https://www.lds.org/scriptures/bc/scriptures/nt/john/10/images/064-064-JesusCarryingALostLamb-full.jpg?download=true

2018年4月15日 礼拝メッセージ

復活節第3主日 2018年4月15日

 

「復活のリアル」

ルカによる福音書24章36節b~48節)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

昨日は、北見教会の今まで用いてきた礼拝堂での最終の感謝礼拝でした。今の会堂は間もなく取り壊されて、そして今年の秋までには新しい会堂が与えられます。昨日の礼拝で小樽教会の木村先生が説教をしてくださったのですが、新しい礼拝堂は器であり、そこに集う人たちが何をするかが大切だ、それを忘れてしまうならその器は空しいものとなると話されて、本当にそうだと思わされました。みんなで礼拝をし、主の福音を宣教し、聖なる交わりを築くこと、それこそ教会にとって大切な務めであると改めて感じました。

 

さて、私たちが悲しんだり落ち込んだり恐れたりして心が塞ぎ込んでしまう時、人は自分の殻の中に閉じこもってしまいます。先週の福音で、イエスさまの弟子たちが恐れのゆえに、家の中に閉じこもり、戸に鍵をかけて引きこもっていたことも、そうした人の姿をよく表しています。そうしたとき、自分の抱えているその問題しか見えなくなってきて、それで心がいっぱいになってしまい、ますますふさぎ込んでしまい、なかなか殻から出てこられなくなってしまいます。

 

そのように塞ぎこみ引きこもっていた弟子たち。だれもその中に入れないように戸にはしっかりと鍵をかけて。しかし、そんな弟子たちのもとを、復活なさったイエスさまが訪れてくださった出来事を、先週私たちは聞きました。堅く閉ざし、がっしりと鍵をかけていた弟子たちの心の扉を、イエスさまが破って、その真ん中に立たれたのです。何度でも何度でも、イエスさまはそのように弟子たちのもとを訪れてくださいました。そのことによって、堅く閉ざされた弟子たちの心が、少しずつ少しずつ開かれていきました。私たちはちょうど今、春の季節を迎えていますが、大きなそして頑丈な雪の塊が暖かい日の光に照らされて、少しずつ少しずつ溶けていくように、弟子たちの心の塊も、復活なさったイエスさまが繰り返し繰り返し彼らを訪れる中で溶かされていったのです。

 

エスさまは今も生きておられ、私たちのもとをも何度でも何度でも訪れてくださると先週お話しいたしました。私たちの心の中の塊をも、イエスさまの愛の暖かさによって溶かしてくださるのです。そうした中で、私たちも心開かれ、癒されることを、信頼したいと思います。だれもこじ開けることができない、塞ぎこんでいる私たちの心の真ん中に、復活なさったイエスさまがおいでくださり、開いてくださる。そのことを信頼したいのです。

 

けれども、なおも人は弱く不信仰なものです。イエスさまが訪れてくださっているのに、なかなか信じることができません。それもそのはずです。弟子たちにとっても、私たちにとっても、イエスさまは十字架で死なれたお方であって、普通の常識なら、そこですべてが終わりだからです。ですから、イエスさまが復活なさって、今も生きておられ。自分たちのもとを訪れてくださった、このことをなかなか信じられないのです。弟子たちの前にイエスさまが現れても、彼らはそれを信じることはできませんでした。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と、今日の福音でルカは告げています。復活なさったイエスさまと出会って、彼らは亡霊、幽霊、お化けだと思ったというのです。

 

私たちも実際にイエスさまが目の前に現れたら、きっと彼らと同じように恐れおののくでしょうし、亡霊だ、お化けだと思うかもしれません。私たちはなかなか、自分の理解を超えたことを受け止めきれないのです。私が学生の時、ある教会で、ある方が聖書の学びをしていました。その人はイエスさまのことが大好きで惚れ込んだようなそんな思いで、その学びに参加していました。でも、その人がある日からパタッとその学びに来なくなりました。その方が、久しぶりに教会に来た時、なぜ学びに来なくなったかを話してくださいました。それは、キリストが復活なさったという出来事を学んだからだということでした。死んだ人間が生き返るなんてそんな馬鹿なことあるわけないじゃないかと、その方はおっしゃって、だからその時から学びには来なくなったのだとお話しておられました。でも、その方がそのように、また教会に来て礼拝に参加しておられる姿を見ながら、神さまはなおもその方の心に働きかけて、その方のことを招いておられるのだなと私は思ったのですが、このようにイエスさまの復活の出来事を受け止めるということは、普通の常識をもってはなかなか難しいことなのです。

 

でもパウロは、コリントの信徒へ向けた手紙の中で、そんな私たちに向かって言っています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

 

このように、「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられ」た、これが初代のキリスト者より今まで大切にされてきた大事な信仰です。先週、東方正教会の復活祭についてお話しました。その礼拝の中では「ハリストス復活、実に復活」と何度も言い交すと。実は、この「ハリストス復活、実に復活」は、このコリント書15章の言葉から採られたものです。キリストは復活なさったんだ、実際に復活なさったんだと、キリストの教会と信仰者たちは2000年の間言い続けてきたのです。

 

けれども、なかなかイエスさまの復活という出来事を受け止められない弟子たち、そして私たちに、イエスさまはおっしゃいます。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」この光景をぜひ想像してみてください。どんな思いになられるでしょうか。私は何か拍子抜けした感じを受けました。ふさぎ込んでいた弟子たちのもとを訪れたイエスさま。そのイエスさまを恐れおののき、お化けだと思っていた弟子たち。何とも言えない緊張感を覚えるのですが、しかし、そこで、イエスさまは、「ほら、手や足に触ってごらん、お化けには肉とか骨とかないけど、わたしにはあるでしょ。だから恐れないで疑わないでいいから」そんな風におっしゃるのです。なんか緊張の糸がぷつんと切れてプッと噴き出すような思いになります。

 

エスさまの復活を信じるというと、何か大それたことのような思いになります。でも、そうじゃないのではないだろうかとここから思うのです。「いや、大丈夫よ、わたしはたしかに生きているよ」と語りかけてこられるイエスさまを「あ、そうか」と受け入れること。死人が復活するなんてありえないじゃないか、科学的にそんなことは無理だとか難しく突き詰めて考えるのではなく、「あ、そうか、イエスさま生きておられるんだ」と素朴に思うこと、これが復活信仰なのではないかと、そんなことを思うのです。

 

よく人がよりよく生きるために、「根拠なき自信」が大切だということが言われます。「ぼくは大丈夫」「わたしならできる」そんな思いです。じゃその根拠は何なのかと問われても、それを論理的に明確に答えられるわけではなく、「どうしてかと言われても、わからないけど、でも大丈夫、できるさ」そんな「根拠なき自信」が大事なのです。私たちが「なんだかわからないけど、イエスさま生きておられるんだ」この思いは、そうした根拠なき自信に通じると思います。難しく考え、イエスさまは復活しておられると科学的に証明する、このことはあまり私たちの力にはなりません。でもふさぎ込んでいる心に風穴を開けるように、イエスさまが「いや大丈夫だから。わたしは生きているんだから。さあ手を伸ばしてごらん」と語りかけてくださることを受け止める時、私たちも立ち上がって、新しい一歩を踏み出すことができるのだろうと思います。

 

とは申しましても、弟子たちはなおもイエスさまのご復活の事実をなかなか信じることができませんでした。「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので」と福音は告げています。きっと「え?嘘?まじかよ?」そんな感じだったのではないかと思います。そこでイエスさまはおっしゃるのです。「ここに何か食べ物があるか」。弟子たちはきっと恐る恐るだったことでしょう。魚を一匹イエスさまに差し出すと、イエスさまはそれを採ってむしゃむしゃ食べ始められたのです。想像すると、おかしくてたまらないそんな光景です。なんかふさぎ込んでいたり、信じられないでいたりすることが馬鹿らしくなってくるようなそんな印象を受けます。

 

復活信仰って、そうやって与えられるものだろうと思うのです。難しく考えるんじゃなくて、イエスさまが私たちの心に与えてくださる。イエスさまが魚をむしゃむしゃ食べられたというのも印象深いですよね。あ、復活なさったイエスさま、物食べられるんだと。ヨハネ福音書でも、復活なさったイエスさまが朝の食事の準備をしておられた姿が伝えられていますし、今日の福音書の前のところでも、旅する弟子たちと一緒にパンを分かち合われたイエスさまの姿が伝えられています。これは、きっと私たちがご飯を食べたりするそんな日常の一コマで復活なさったイエスさまが私たち任出会い、復活の信仰を与えてくださる、ふさぎ込んだ私たちに笑いを笑顔を与えてくださる、そのことが伝えられているのではないだろうかと思うのです。

 

ルカは今日の福音で続けて、イエスさまの言葉を伝えています。《イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」》

 

モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」これは旧約聖書全体を表します。イエスさまのおられたころはまだ新約聖書はありませんでしたから、旧約聖書全体というより聖書全体と言ってもよいでしょう。聖書のみことばを私たちが受け止めるとか、信じるとか、それは何も何か仰々しいことではなくて、日々の歩みの中で悩んだりふさぎ込んだり恐れたりするとき、そうした中で今も生きておられるイエスさまと出会って、笑顔になる、そうした素朴なことなんだということを、このイエスさまの言葉から受け止めたいと思います。

 

さらに、福音は、《そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」》と告げています。

 

エスさまが、私たちの心の目を開いてくださる。ふさぎ込んでいる私たちの心の真ん中を訪れて、心の風穴を開けて、ホッとした思いと笑顔をくださって、そのようにして心の目を開いてくださるのです。そうした中で、イエスさまの十字架のこと、復活のことが、私たちも少しずつ受け止められるようにされていく。そして、自分の罪深さも知らされ、悔い改めへと導かれ、赦しの中で復活の証人として私たちも遣わされ用いられていくのです。信じるということも、イエスさまのことを伝えるために遣わされ用いられるということも、何か難しいように思うかもしれないし、事実、難しい面もたくさんあるけれど、でも、本質的には、もっと素朴で単純なことだということを、今日のみことばから知らされます。

 

日々の歩みの中で、日常の生活の中で、イエスさまによって生かされる命、そしてその中で与えられる素朴な信仰を喜び、大事にしたいと思いますし、その信仰を分かち合って歩んでいきたい。そのために私たちもまた遣わされ用いられていることを、心に留めたいと、今日のみことばから願わされます。 

 

主よ、私たちを導いてください。

 

私たちが日々の歩みの中に復活なさった御子イエスさまと出会い、復活の信仰が与えられていくことができますように導いてください。そして復活の証人として、この私もまた遣わされますように。いのちの主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-04-15.MP4 - Google ドライブ

 

 

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(取り壊される北見教会の会堂より。

復活のキリスト)

2018年4月8日 礼拝メッセージ

復活節第2主日 2018年4月8日

 

「恐れと疑いの真ん中に」

ヨハネによる福音書20章19~31)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

先週、私たちは、イエスさまのご復活を祝うイースターの礼拝とお祝い会をいたしました。「主キリストは復活なさいました。主はほんとうに復活なさいました」と喜びのうちに共に言い交しました。実はこれは、もともと東方教会ギリシア正教ロシア正教の伝統に基づくものです。日本の正教会は、ロシア正教の伝統にありますので、キリストのことを「ハリストス」という言葉を用いて、次のように司祭と信徒の間で言い交すのです。「ハリストス復活」「実に復活」と。正教会の復活祭の礼拝で、何度も何度もこの言葉が交わされます。実は正教会の復活祭は、夜を徹して行われます。「ハリストス復活、実に復活」、この言葉が幾度も幾度も繰り返して交わされる中、復活の朝を迎えます。キリストが復活なさったことにより、新しいいのちの光が私たちにもたらされる。本当に主は復活なさったのだと、心に刻みながら朝の光を迎えるのです。

 

闇から光へ、これは復活祭に、とても大切なメッセージです。天地創造の初め、「光あれ」との神さまの御声によりこの世界は創られ、私たちも、その光の中で生きる者として創られたものであるけれども、その後、アダムとエバが神に背いて以来、人は皆、罪と悪と死の闇の中に生きる者となってしまいました。私たちには、どうすることができない、その罪と悪と死の闇。しかし、その深い深い闇が、主キリストのご復活によって、あのご復活の朝の到来と共に打ち破られたことを、覚え心に刻むのです。「死は勝利に飲み込まれた、死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」そうパウロが声高らかに告げているように、今や圧倒的なキリストの光、命と赦しと勝利の光が、罪と悪と死の闇を飲み込んでしまったのです。私たちは、この大きな光の中に生かされています。

 

先週土曜日、私は北見での復活祭の礼拝の後、その日の夜、札幌のカトリック教会で行われた復活徹夜祭の礼拝に出席いたしました。徹夜祭といっても実際は二時間半ぐらいの礼拝なのですが、その礼拝は暗闇の中で大きな蝋燭に火を灯し、「キリストの光」「神に感謝」と司祭と会衆が言い交すことから始まります。ここでもまた、この世の闇の中で、神がキリストの復活によって、真の光を与えてくださった、そのことを喜び合う、そのことからご復活の祝いがはじまるのだと改めて思うことができました。

 

さて、このように闇から光へと新しい命に生かされた私たちは、今日も引き続き、イエスさまのご復活をお祝いいたします。しかし、そのように、キリストのご復活によって、闇を包む圧倒的な光の中に生かされることになった私たちですが、今日のみことばは、依然として世の闇という現実が、私たちに忍び寄ってくることを伝えています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方」、そんな言葉から今日の福音は始まっています。「その日、すなわち週の初めの日」というのは、イエスさまがご復活なさった、イースターの日曜日のことです。その朝に、イエスさまがご復活なさって、弟子たちはその知らせを聞くのです。本当なら、彼らはこの知らせに大いに喜んでその日を過ごしているはずです。イエスさまがかねてから言われていたことがほんとうに実現したのであり、また、一度は十字架の死によって失ってしまった愛するイエスさまが今も生きているという知らせを、彼らは受けたのですから。でも、その朝の喜びの出来事を、彼らの心の中から消してしまうような闇が、今まさに訪れようとしている、そんな「夕方」が彼らに訪れるのです。

 

みことばは私たちに告げています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。彼ら弟子たちは、イエスさまの復活の知らせに喜んでそのイースターの日を過ごしていたのかというと、実は、そうではありませんでした。恐れの中で、家の中に閉じこもって、鍵をかけていた。まったくもって閉ざした心の中で、彼らはその日を過ごしていたのです。ユダヤ人を恐れて」とあります。イエスさまが捕えられ、十字架で殺されてしまったように、自分たちもそうされてしまうのではないかと、彼らは恐れたのでしょう。イエスさまのご復活という、たいへん大きな喜びの知らせを聞いていながらも、それを超えたそうした大きな恐れの中に、彼らはいたのです。イエスさまは、かつて「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とおっしゃったけれど、しかし、彼らはやはり自分のこの世の命のことで悩み、堅く心を閉ざし、イエスさまのご復活の知らせを喜ぶことができずに、部屋の中に閉じこもり引きこもってしまっていたのです。

 

この彼らの姿、それは私たちの姿でもあります。私たちもキリストは復活なさった、本当に主は復活なさったと、主のご復活を祝ったはずです。でもどうでしょうか。いつもその喜びの中で過ごしていられるだろうと考える時、決してそうではない自分の姿に出会うのです。私たちもいろんな恐れの中にいるのです。自分の健康のこと、生活のこと、周りの人とのかかわりのこと、様々なことで恐れ心配になり、主のご復活を喜ぶことができない、どこかで心閉ざし閉じこもって引きこもってしまう、そんな姿が私たちにもあります。ヨハネによる福音書の中でユダヤ人」という言葉は、決して一つの民族としてのイスラエル人のことだけを表すのではありません。イエスさまや、その信仰に敵対する、そうした世の力を象徴的に表す言葉でもあります。私たちも世の力に恐れながら過ごしている。ご復活の喜び、その光を覆ってしまう闇の中に閉じこもってしまっています。

 

しかし、そんな堅く鍵をかけて部屋の中に閉じこもり引きこもっていた弟子たち、心に鍵をかけて闇の中に閉じこもり引きこもっている私たちに、みことばは告げます。《そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。》恐れの中で引きこもった弟子たち、そして私たちの「真ん中に」、イエスさまはおいでになって立たれます。鍵をかけて誰も入ってこられないその部屋に、その心の中に、それを打ち破ってイエスさまが、「真ん中に」立たれるのです。そして、おっしゃいます。「あなたがたに平和があるように」。イエスさまが十字架にかかる前の夜に弟子たちにおっしゃいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」ここで復活なさったイエスさまが弟子たちに、私たちに与えてくださる平和は、「この世が与えるように与えるのではない」つまりこの世の誰も何も与えることができない、ただイエスさまだけが与えてくださる真の平和です。

 

エスさまはそうおっしゃりながら何をなさったか。福音書は告げています。「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」エスさまは手とわき腹をお見せなります。その手とわき腹には、十字架にかけられた際の釘跡、そして死なれた際にわき腹にやりがさされた傷跡がくっきりと残っていたことでしょう。「この世が与えるように与えるのではない」エスさまの真の平和は、イエスさまの十字架の苦しみと死を通して、弟子たちに、そして私たちに与えられるものなのです。イエスさまのご復活の知らせを聞きながらも恐れて堅く扉を閉ざし閉じこもり引きこもってしまっている弟子たち、そして、堅く心を閉ざし閉じこもり引きこもっている私たちに、イエスさまは十字架の御傷を示しながら、「そんなあなたを、わたしは見捨てず、命がけで愛している」イエスさまはそう語りかけられる。そのイエスさまの命がけの愛によってのみ与えられる平和です。

 

エスさまはおっしゃいます。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」弟子たちは何も彼らが信仰深かったからとか、彼らが強かったからとか、そんな理由でイエスさまによって遣わされたのではありません。イエスさまのご復活の知らせを聞いたけど、なおも恐れて、戸に鍵をかけて閉じこもっていた、そんな彼らがその弱さの中で遣わされるのです。私たちもまた、「キリストは復活なさいました、主はほんとうに復活なさいました」と、イエスさまのご復活の知らせを聞いていながら、でもこの世の力に恐れ、心を閉ざし、引きこもってしまいがちなものです。でもそんな私たちであっても、その恐れの「真ん中に」エスさまが訪れてくださって、十字架の御傷を示しながら、その愛の中で私たちをお遣わしくださいます。

 

エスさまはおっしゃいます。聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」弟子たちも私たちも自分の力で働くのではありません。聖霊の力によって、神さまに押し出されて、その力によって働くのです。弟子たち、私たちは依然として恐れてしまう弱い者です。すぐに心を閉ざして引きこもってしまう、そんな者です。だから私たちの力では働くことはできません。でもそうした彼らを、私たちを遣わしてくださるイエスさまが聖霊によって、神さまの力によって働くように送り出してくださるのです。

 

今日の福音はこの後に、それからおよそ一週間後の、イエスさまの弟子のトマスと復活なさったイエスさまとの出会いの出来事について告げています。その中でも《戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた》と告げられています。彼ら弟子たちはまだ鍵をかけて引きこもっていたのです。どれだけイエスさまが復活なさったという知らせを聞いても、実際に復活なさったイエスさまと出会ったとしても、さらには聖霊をいただいて遣わされたとしても、なお心を開いて、世へと自信を持って力強く出かけることができない、依然として恐れの中にある弟子たち。でもイエスさまは何度でも何度でも繰り返し繰り返し彼らの真ん中に訪れてくださいます。そして十字架の命がけの愛による平和を与えてくださるのです。イエスさまは私たちのもとにも何度でも何度でも訪れ、平和をお与えくださいます。その中で、弟子たちも私たちも強められ励まされて信じる者とされえていく、主のために働くものとされていきます。

 

トマスは、あのイエスさまのご復活の夕べ、他の弟子たちとは一緒にいませんでした。イエスさまを失った悲しみの中でその交わりを離れていたのでしょうか。仲間たちが復活なさったイエスさまに出会ったと語り合っているのを聞いて、彼は言うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」彼の悲しみと憤りの声が聞こえてくるような思いがします。「主を見た?そんなことあるわけないじゃないか。先生はもう死んでしまったんだ。もうお会いできないんだ」と。でもそんな彼のもとにもイエスさまは訪れてくだいます。彼の疑いの心の真ん中にイエスさまはいらしてくださるのです。そしておっしゃいます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスが目をあげてみると、そこには十字架の傷跡がはっきりありました。彼のために苦しまれ死なれたイエスさまの傷がくっきりと彼の目の前に示されるのです。彼は思わず言います。「わたしの主、わたしの神よ」

 

私たちが信じられない時、疑うときも、その真ん中にイエスさまが訪れてくださいます。そして、「この傷に触れよ、あなたのためのこの傷に」とおっしゃって、御傷を示されるのです。私たちもその中で信じる者とされていきます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」とイエスさまがおっしゃっているように、「見ないのに信じる信仰」が与えられるのです。

 

エスさまのご復活により、闇から光へ入れられた私たち。でも、私たちはすぐに恐れの闇、疑いの闇の中に、心を閉ざし、引きこもってしまいます。でもその真ん中にイエスさまが何度でも何度でも訪れてくださり、十字架の傷を示しながら、「大丈夫、そんなあなたがたのためにわたしは十字架を引き受け、命がけで愛している、だから信じる者になりなさい」と告げられるのです。そのキリストの十字架と復活により与えられた光と愛と平和を分かち合うために、私たちは遣わされます。新しい一歩を踏み出そうではありませんか。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

恐れと疑いの闇に襲われ、心を閉ざし引きこもってしまう私たちのもとを、ご復活なさった主が訪れてくださることを感謝します。どうか真の光を分かち合うために私たちを遣わしてください。イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-04-08.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年4月1日 礼拝メッセージ(主の復活)

復活祭 2018年4月1日

 

「どんな国の人でも」

使徒言行録10章34~43、マルコ16章1~8)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

2千年前のあの日曜日の朝早く、日が出るとすぐ、ヨハネによる福音書では、外はまだ暗いうちにとありますので、本当に早朝に一目散にとある場所に急ぐ一行がありました。それはイエスさまに従ってきた女性たちで、彼女たちが急ぎ向かっていた場所は、お墓でした。

 

日の出から墓に向かって一目散に急ぐ人々。この彼女たちの姿は、また、それから二千年の時を経て、そして場所も福音書の舞台とは大きく異なる、この日本の北海道で生きる私たちの姿でもあります。私たちもまた、この世に産声を上げ、この世の光を受けるや否や、誰しもが確実に墓に向かって、つまり死の現実に向かって歩んでいるのです。そしてこの忙しい世の中にあって、私たちは生き急いでいる、あるいは死に急いでいる、そんな風に言えるかもしれません。お墓に向かって急ぐ彼女たちの姿に、私たちの姿が重なります。

 

彼女たちはその途上、一つの大きな懸念がありました。それは、墓の入り口を塞ぐ大きな重い石についてでした。彼女たちは口々に語り合います。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。この彼女たちの心配を理解するためには、当時のお墓について説明が必要でしょう。当時、福音書の舞台となっている地方では、人が亡くなったらその亡骸を洞穴、洞窟の中にそのまま寝かせて納めたのです。そして、墓を荒らす人やまた野生動物からその亡骸を守るために、その洞穴の入り口に大きな重い石で蓋、封印をしたのでした。

 

エスさまが十字架にかかり亡くなったのは、金曜日の午後3時頃のことでした。そして間もなく日没を迎え、ユダヤ教安息日を迎えました。安息日の間は、人の死に関わる作業をすることが許されておりませんでしたので、イエスさまのご遺体は急いで安息日を迎える前に墓の中に葬られたのです。でも、イエスさまを愛する人たちにとって、それは納得のできる葬り方ではありませんでした。私たちも同じです。私たちの愛する人が亡くなった時、それが亡骸だからと言って、ただそのまま粗末に土の中に埋められたり、火葬場の炉の中に投げ入れられたりしたらどんな思いになるでしょうか。決して納得できない悲しい腹立たしい思いになるはずです。少しでもそのおからだをきれいにしてあげたい、お花で飾ってあげたい、そんな風に思うでしょう。当時のパレスチナは土葬でしたから、イエスさまのおからだによい香りのする油を塗ってあげたい、そう彼女たちは願いつつ、イエスさまのお墓へと急いだのです。

 

けれども、大きな不安は、その墓を塞ぐ大きな重い石。自分たちの力では到底どうすることもできないその石をどうするか彼女たちは心配しながら、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と語り合いながら、墓へと向かっていました。墓へと向かう彼女たちの前に立ちはだかる、自分たちではどうすることもできない、その大きな重い石。これもまた、今日の私たちに他人事ではないメッセージが聞こえてくるような思いがいたします。先ほど、私たちは誰しもが、産声を上げ、この世の光を見るや否や、墓に向かって、死に向かって、生き急いでいる、死に急いでいる、そんな風に申しました。その私たちの行く先にも、大きな重い石が立ちはだかっています。私たち自分の力ではどうすることも、そこを乗り越えることも、その現実を覆すこともできない、墓の大きな重い石。まさにその重い大きな石こそ、私たちの力ではどうすることもできない墓の現実、死の現実を私たちに突きつけるのです。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」、これはまた私たちの不安の心の声なのです。

 

けれども、福音は私たちに告げて言います。「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」そうです。彼女たちの心配をよそに、その非常に大きかった彼女たちの不安の石は、既にわきへと転がされてあったのです。彼女たちは不安の中で、心配の中で、墓に着いても、自分の目の前の墓を直視することはできなかったのでしょう。でも、いつまでもそこから目をそらしているわけにはいきません。彼女たちは目をあげてみました。すると、もはや既にその石は取りよけられていた。私たちも確実に墓に向かって死に向かって一歩一歩歩みを進めているはずなのだけど、普段の生活では、あまりその現実を考えずに毎日を過ごそうとしているかもしれません。いつか必ず死んで葬られなければならないのに、そこから目をそらして生きているのです。でもいつまでもそうしていることはできません。日一日とその日は近づいています。年を老いたり、病になったり、災害に遭ったり、事故に遭ったり、親しい愛する人を失ったりする中で、私たちはその現実を知らされるのです。

 

でもそこで目をあげたい。いつまでも下を見たり、どこか違うところを見たりして、墓の現実、死の現実から目をそらすのではなく、目をあげて、それを直視したいのです。すると、私たちには自分の力でどうすることもできない、決して乗り越えることも、状況を覆すこともできないと思われていた墓の現実、死の現実の前に立ちはだかる大きな重い石は既にわきへ転がされています。

 

彼女たちが目をあげると、大きな重い石がわきへ転がされていたので、彼女たちは墓の中に入っていきます。「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」と福音は告げています。そうです。墓の現実、死の現実から目をそらすのではなく、目をあげてそれをしっかりと直視しようとするとき、そこへ向けて一歩を踏み出すとき、彼女たちは、白い長い衣を着た若者、つまり神の天使に出会うのです。天使、それは、神から遣わされ、神からのメッセージを告げる者です。死から目をそらすのではなく、目をあげて、死を直視して、そこへ向かう時にこそ、私たちはそこで天使に出会う、つまり神が告げる言葉を聞くことができるのです。

 

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」

 

今までは死こそ、墓こそが、人の人生の最終目的地でした。ターミナルケアという言葉があります。人が人生のターミナル終着駅である死を目前として、受けるケアのことです。私たちの人生のターミナル終着駅は死であり墓である、それが私たちにとって常識であり、時には残酷な悲しい決して逃れることはできない、万人に共通な現実でありました。どんな国の人でもという今日メッセージのタイトルを付けましたが、どんな国の人でも死をもって人生は終わり、それが常識であったのです。

 

でも若者、天使は告げるのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と。死で終わり、そして墓に葬られて終わりだと思ったら、そこには何もなかった。この2千年間イースターのたびごとに言われてきた言葉で表現するなら、墓は空っぽだったのです。そこはもはや空しい墓であったのです。死を超えた、墓を超えた、墓を空しく、死を空しくする驚くべき出来事が、今や起こったのでした。それがイエス・キリストの復活でした。

 

エスさまが十字架にかかられ、墓に葬られた。これは完全にイエスさまが亡くなられたという事実を、私たちに告げています。でも、その完全に死なれた方が、今や死の現実、墓の現実を破り、復活なさったのです。そして、「ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」死と墓の現実を打ち破る新しい命の現実を私たちにもたらすのです。

 

それではその復活なさったイエスさまと私たちはどこで出会うことができるのか。どうやったら私たちもその復活なさったイエスさまと共にその新しい命に生きることができるのか。若者、天使は告げて言います。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」

 

そうです。イエスさまの周りにいた人たちが、復活なさったイエスさまと出会い、そのイエスさまから死と墓の現実を打ち破り、死と墓を超えた新しいいのちをいただいて、その命に生きる場所は、何も特別な行くのに難しい場所ではありませんでした。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。そうです。ガリラヤです。それはイエスさまと一緒に過ごした者たちにとって、何ら特別な場所ではありませんでした。なぜなら彼らが、時には笑いながら、時には涙を流しながら、あるいは時には憤りながら、毎日毎日ごくごく普通に生活していたその場所、それがガリラヤでした。イエスさまは、そのガリラヤに彼女たち、弟子たちより先に行かれる、そこでお目にかかれると、今、告げられるのです。

 

そして、天使は今日私たちにも告げて言います。「復活なさったイエスさまは、あなたがたのガリラヤへ、あなたがたより先に行かれる。そこでお目にかかれる」と。ガリラヤなんて私たちにとって遠いじゃないか、そう思われるかもしれません。いえ、そんなことを天使が告げているわけではないのです。私たちのガリラヤです。そうです。私たちが毎日毎日生活しているその場所です。私たちが笑ったり、泣いたり、怒ったり、苦しんだり、そうしながら毎日を過ごし、生きているその場所、その私たちのガリラヤで、私たちは復活なさったイエスさまと出会うことができるのです。イエスさまが私たちより先に、私たちに先立って、その私たちが生きるその場所、その生活のど真ん中へいらしてくださっている。それゆえ、私たちが何か特別な場所へ行ったり、特別なことをしたりすることによってではなく、淡々と毎日の生活を送るそのただ中で、私たちは復活なさったイエスさまと出会い、そして、毎日の生活の中で死と墓を打ち破り、死と墓を超えた新しい命をいただき、その命に生かされることができるのです。

 

ところで天使は、イエスさまの復活を告げる際に、わざわざ一人の名前を付けくわえて告げています。「さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい」。このように、わざわざ「ペトロに」と言うのです。ペトロだって弟子たちの一人ですから、この言葉はいらないはずです。でもわざわざ「ペトロに」と言っている。私はそこに大きな慰めを覚えます。ペトロ、彼は、自分は絶対イエスさまを見捨てない、逃げない、裏切らないと言いながら、いとも簡単に三度もイエスさまのことを知らないと言ってしまいます。呪いの言葉さえ口にしながら本当にひどい言葉でイエスさまの弟子であることを否定したのです。そして、そんな自分に大泣きしました。きっと彼は絶望のどん底にいたでしょう。もはや立ち上がれないそんな思いだったと思います。自分のせいで主は死んでしまったのだ。そんな思いでいたかもしれません。もう生きているのが嫌になったかもしれません。でも、天使は、告げるのです。「ペトロに告げなさい」と。

 

そうです。どんだけイエスさまを裏切ってしまったとしても、どんなに取り返すことができない大きな罪を犯してしまったとしても、そのことでもう生きているのが嫌になったとしても、もう信仰なんて自分にはふさわしくない、もう続けられないとそう思ったとしても、でもその者にこそ、復活の福音は、名指しで告げられるのです。失敗して罪を犯してもそれで終わりじゃない。新しい命があなたのために備えられている。だから逃げずに、あなたのガリラヤ、あなたの生活のど真ん中で生きろ、そこに復活なさったイエスさまがあなたより先に、あなたに先立って行かれる。そこでお目にかかれると。

 

わざわざ名指しで復活の福音を告げ知らされた、イエスさまを裏切ってしまった弱いペトロは、その後、復活なさった主と出会い力づけられ、福音を宣べ伝える働きに召されていきます。そして今日のみことばで、彼は、神は分け隔てなさらず、どんな国の人だって、どんな人だって、この復活の福音に与ることができると告げています。そうです。私たちにも、私にも、あなたにも、今日復活の福音が伝えられるのです。死と墓の現実を超えて、そして、失敗と罪の中から立ち上がって、あなたは新しい命に生きよと、あなたが生きている今その場所で、復活なさった主は命を差し出しながら、告げておっしゃるのです。だから私たちも、現実を誤魔化して恐れながら目をそらすのではなく、目をあげたい。そこから新しいいのちの世界が始まります。

 

ハレルヤ、主キリストは復活なさいました。本当に復活なさいました。ハレルヤ。主イエス・キリストのご復活、イースターおめでとうございます。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

この世に産声を上げたときから、死と墓に向かって歩み、しかし、その死と墓をどうすることもできなかった私たちを、御子の復活によって新しい命に生きる者としてくださったことを感謝いたします。私たちの生活のただ中で目をあげて、主の復活に出会い、復活の信仰を抱いて歩んでいくことができますように。たくさん失敗をし、罪を重ねてしまう弱い私ですが、にもかかわらず、命に招いてくださることを感謝いたします。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-04-01.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年3月25日 礼拝メッセージ

主の受難 2018年3月25日

 

「神にも人にも」

(マルコによる福音書14章1~15章47)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。

アーメン

 

今日は、灰の水曜日の日より過ごしてきた四旬節の最後の一週間のはじめ、主の受難の礼拝を迎えています。イエスさまの十字架を思い起こし、ご復活の祝いへの最後の備えをする聖週間、受難週を今年も迎えました。

 

今日の礼拝の初めに、イエスさまのエルサレム入城の出来事を記念いたしました。人々が木の枝を振りながら、あるいは道に敷いて、歓迎する中を、イエスさまがエルサレムに入られました。そのイエスさまのお姿を思い起こし、私たちもまた、私たちのただ中においでくださる救い主イエスさまを、今日改めてお迎えします。

 

その際に人々は「ホサナ、ホサナ」「お救いください、お救いださい」と大喜びのうちにイエスさまを迎えました。ある意味、たいへん熱狂的にイエスさまを迎えた人々の姿に出会います。そのように人々から迎えられたイエスさまが、その後、どういう歩みをされたのかを、私たちは今、福音書記者マルコが伝えているイエスさまの受難物語を通して、今、聞いてまいりました。

 

14章の初めから15章の終わりまでという、たいへん長い箇所でしたが、私は、このようにその年のために与えられている福音書を通して告げられているイエスさまの受難物語を通して聞くことに、とても大きな意義を受け止めています。

 

普段、福音書をそれぞれの個所だけ読む場合には、それぞれの箇所で点として、そこでそれぞれ伝えられているイエスさまのなさったことや語られたことを受け止めることができるわけですが、このように私たちが、イエスさまの受難物語を福音をずっと通して一度に聞くことを通して、それぞれの点がばらばらに点在しているというのではなく、その点が並んで一本の線へとつながり、前後の脈絡の中で、イエスさまの十字架への歩みが見えてきますし、さらにはその線が、面となって広がって、その広がりの中で、一連の出来事としてより豊かに受け止めることができるようになってくるのではないかと思います。

 

たとえば、イエスさまの足に香油を塗った女性の出来事、最後の晩餐、そしてゲツセマネの園での出来事と、それぞれの出来事からも私たちはいろんなメッセージを受け止めることができるわけですが、それを続けて読み進める時に、イエスさまの葬り、つまりイエスさまの死を受け止められない弟子の姿、そしてそれが結局、イエスさまがイエスさまを敵対視する人々に売られる原因になってしまう、そうした中でもご自分の体と血、苦しみながら神の御心に従ってその命を差し出されるイエスさまの命がけの愛、そのイエスさまの愛に応えられず裏切ってしまう弟子たちの姿と、そうした一本の線となり見えて来ます。

 

さらには、今日、私たちはイエスさまの十字架をめぐって登場する人たちの言葉を、みんなで声に出して読みましたが、自分の無理解や不信仰、弱さや罪の中で、イエスさまを捨ててしまったり、イエスさまの前から逃げてしまったり、信実を見失ってしまったりするその人々は、他でもなく私たち自身であるということに気づかされる。そしてそうした私たちをなおも包み込み、赦し、救おうとされるイエスさまの十字架の大きな愛が見えて来る。一つの面となって、広がりを持った出来事として、イエスさまの受難の出来事が見えてくるのです。

 

今日のメッセージのタイトルを「神にも人にも」としました。イエスさまは十字架の上で神にも人にも見捨てられたのでした。

 

自分の側近である弟子に売り飛ばされたり、見捨てられてしまったり。よくイエスさまを裏切った弟子としてイスカエリオテのユダについて言われます。彼はたしかにイエスさまの十字架を受け入れることができず、イエスさまをイエスさまに敵対する、当時の宗教的な指導者に売り飛ばしました。そしてそれがきっかけでイエスさまは裁判を受け、十字架刑に処せられてしまいます。その意味ではたしかに彼の果たした役割というかその罪はとてつもなく大きなものです。

 

でも、ではこのユダだけが問題なのかというと、決してそんなことはないということに、私たちはイエスさまの受難物語を通して読む中で気づかされます。イエスさまから「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」と言われたら、みんな代わる代わる「まさかわたしのことでは」と心配になる弟子たちでしたが、そうした中でもペトロは「あなたがたは皆わたしにつまずく」とのイエスさまの言葉に対して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と豪語するわけです。しかし、イエスさまは、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とペトロに告げるわけですが、ペトロはそれでもまだ「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」なんて格好の良いことを力強く言うのです。そしてマルコは、さらに一言加えるのです。「皆の者も同じように言った。」弟子たちみんな勇ましく「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」とイエスさまに向かって言ったというのです。

 

でも実際はどうだったか。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」そう伝えられています。ペトロは、イエスさまが告げられた通り、鶏が二度なく前にイエスさまのことを三度も知らないと言ってしまう。最期なんか《ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた》と伝えられています。その時鶏が二度目に泣くわけですが、《ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした》のでした。なんとも惨めな情けない姿です。

 

さらに、こんな弟子もいました。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」自分もイエスさまと同じように捕まるのが怖かったのでしょうか。素っ裸で逃げてしまうのです。これまた情けない姿です。一説によれば、これはマルコ自身のことではないかとも考えられています。そうであるなら、自分もイエスさまを見捨てた一人なんだということを、マルコは忘れないためにこれを記録したのかもしれません。

 

このように、イエスさまに従った弟子たちみんながイエスさまを見捨てて裏切ったのです。そして、それは私たちにとって他人事の話ではありません。彼らの中に、イエスさまに従っていこうと願いつつ、従えないことの多い私たちもいるのです。

 

弟子たちだけでありません。イエスさまに無実の罪を着せた宗教的な指導者たち、イエスさまをバカにしたり暴行を加えた兵士たち、イエスさまを罪に定め自らの保身を図ったピラトやバラバ、そして世の流れに扇動されてイエスさまに向かって「十字架に付けろ」「十字架に付けろ」と叫んだ民衆たち、みんながみんなイエスさまを見捨ててしまったのでした。私たちもその場の雰囲気で、信実を曲げたり、その場の流れに流されちゃったり、人を助けるより自分の身の安全を考えたり、このようにイエスさまの受難の物語に登場する彼らと同じ姿があるのです。

 

このようにイエスさまは人々から捨てられて、十字架の上で苦しみ死んでいかれました。

 

さらには、イエスさまは十字架の上で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これがマルコ福音書の中で伝えられているイエスさまの最後の言葉であり、たいへん凄まじい叫びです。イエスさまが洗礼を受けられたとき、また山の上でそのお姿が変わられた時、「これはわたしの愛する子」と、イエスさまに向かって天からの声がかけられたことを思い起こします。しかし、その神の愛する御子であられるイエスさまが、なんと十字架の上で神に見捨てられる苦しみの中で、壮絶な叫びをあげながら死んでいかれたのです。

 

このように神にも人にも見捨てられて死んでいかれたイエスさまでした。それもすべて私たちの救いのため、私たちへの愛のゆえでした。本来ならば、罪を抱え、イエスさまを見捨てて裏切って生活している私たちこそが、神にも人にも見捨てられながら、孤独のうちに壮絶な叫びをあげながら世を去らなければなりませんでした。イエスさまの十字架上の姿は、本当は私たちの行く末なのです。でも、イエスさまが、それをご自分の身に引き受けてくださいました。神の愛する御子であられるイエスさまが、そして人々をその極みまで愛されたイエスさまが、神にも人にも捨てられて、その苦しみの極みの中で死なれた。ただそのことによってのみ、私たちへの救いの道が開かれたのです。

 

私たちの罪のためにわざわざ神の御子が死ななくてもよいではないか?と思われるかもしれません。いえ、そうじゃない。神の御子が死なない限り、私たちの罪はどうにもできません。それはなにも私たちの被害妄想なんかじゃないし、自分の罪を過大に受け止めていることの表れでもありません。私たちの罪がそれほどまでとてつもなく重いものであること、すなわち私たちがこれほどまでとてつもなく罪深いものであること、そしてそれを超えて、神の救い、イエスさまの愛がこれほどまでとてつもなく大きなものであることを、私たちは今日改めて心に刻みたいと思います。

 

そのイエスさまが、今、私たちを救うために、私たちのもとにおいでになります。ご自身苦しみ死なねばならない十字架のことを知っていながら。ですから、私たちも「ホサナ、ホサナ」「お救いください、お救いください」と信頼と喜びと感謝をもって、救い主イエスさまを私たちの教会に、そして私たちの心の中に迎えたいと願います。

 

そして、イエスさまのご生涯は、十字架の苦しみと死をもって終わりませんでした。徹底的に神にも人にも捨てられて、そのことにより、私たちをお救いくださったイエスさまを、神さまはそのまま捨て置かれることはなさいません。そうしたイエスさまの愛のご生涯、その最後を受け止め、それを尊いものとされ、イエスさまを復活させられたのです。

 

今日の礼拝ではイエスさまのエルサレム入城の枝とそしてまだ咲いていないつぼみのユリを飾っておきました。ゆりは復活のシンボルとされる花です。主の十字架の先には復活がある。そのイエスさまのご復活の祝いをより豊かな喜びとして祝うためにも、この聖なる一週間をみことばと祈りと、悔い改めの時として、主の苦しみを心に刻んで過ごそうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

エスさまを裏切り、あなたを悲しませて生きている罪深い私です。でもその私たちを救うために御子イエスさまが私たちのもとへおいでくださり、十字架を引き受け、神にも人にも見捨てられる苦しみの中で死なれた出来事に私たちは今日思いを馳せました。イエスさまの命がけの愛を感謝いたします。イエスさまの十字架を心に刻み、あなたの救いをいただいた感謝をもって、来週のご復活の祝いを喜び祝うことができるように、私たちを導いてください。私たちのためにすべてをささげられた救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 今回は、主の受難の礼拝をFacebookで配信したものです。

https://www.facebook.com/masaki.shirai/videos/1646445248767943/

 

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