yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年4月1日 礼拝メッセージ(主の復活)

復活祭 2018年4月1日

 

「どんな国の人でも」

使徒言行録10章34~43、マルコ16章1~8)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

2千年前のあの日曜日の朝早く、日が出るとすぐ、ヨハネによる福音書では、外はまだ暗いうちにとありますので、本当に早朝に一目散にとある場所に急ぐ一行がありました。それはイエスさまに従ってきた女性たちで、彼女たちが急ぎ向かっていた場所は、お墓でした。

 

日の出から墓に向かって一目散に急ぐ人々。この彼女たちの姿は、また、それから二千年の時を経て、そして場所も福音書の舞台とは大きく異なる、この日本の北海道で生きる私たちの姿でもあります。私たちもまた、この世に産声を上げ、この世の光を受けるや否や、誰しもが確実に墓に向かって、つまり死の現実に向かって歩んでいるのです。そしてこの忙しい世の中にあって、私たちは生き急いでいる、あるいは死に急いでいる、そんな風に言えるかもしれません。お墓に向かって急ぐ彼女たちの姿に、私たちの姿が重なります。

 

彼女たちはその途上、一つの大きな懸念がありました。それは、墓の入り口を塞ぐ大きな重い石についてでした。彼女たちは口々に語り合います。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。この彼女たちの心配を理解するためには、当時のお墓について説明が必要でしょう。当時、福音書の舞台となっている地方では、人が亡くなったらその亡骸を洞穴、洞窟の中にそのまま寝かせて納めたのです。そして、墓を荒らす人やまた野生動物からその亡骸を守るために、その洞穴の入り口に大きな重い石で蓋、封印をしたのでした。

 

エスさまが十字架にかかり亡くなったのは、金曜日の午後3時頃のことでした。そして間もなく日没を迎え、ユダヤ教安息日を迎えました。安息日の間は、人の死に関わる作業をすることが許されておりませんでしたので、イエスさまのご遺体は急いで安息日を迎える前に墓の中に葬られたのです。でも、イエスさまを愛する人たちにとって、それは納得のできる葬り方ではありませんでした。私たちも同じです。私たちの愛する人が亡くなった時、それが亡骸だからと言って、ただそのまま粗末に土の中に埋められたり、火葬場の炉の中に投げ入れられたりしたらどんな思いになるでしょうか。決して納得できない悲しい腹立たしい思いになるはずです。少しでもそのおからだをきれいにしてあげたい、お花で飾ってあげたい、そんな風に思うでしょう。当時のパレスチナは土葬でしたから、イエスさまのおからだによい香りのする油を塗ってあげたい、そう彼女たちは願いつつ、イエスさまのお墓へと急いだのです。

 

けれども、大きな不安は、その墓を塞ぐ大きな重い石。自分たちの力では到底どうすることもできないその石をどうするか彼女たちは心配しながら、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と語り合いながら、墓へと向かっていました。墓へと向かう彼女たちの前に立ちはだかる、自分たちではどうすることもできない、その大きな重い石。これもまた、今日の私たちに他人事ではないメッセージが聞こえてくるような思いがいたします。先ほど、私たちは誰しもが、産声を上げ、この世の光を見るや否や、墓に向かって、死に向かって、生き急いでいる、死に急いでいる、そんな風に申しました。その私たちの行く先にも、大きな重い石が立ちはだかっています。私たち自分の力ではどうすることも、そこを乗り越えることも、その現実を覆すこともできない、墓の大きな重い石。まさにその重い大きな石こそ、私たちの力ではどうすることもできない墓の現実、死の現実を私たちに突きつけるのです。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」、これはまた私たちの不安の心の声なのです。

 

けれども、福音は私たちに告げて言います。「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」そうです。彼女たちの心配をよそに、その非常に大きかった彼女たちの不安の石は、既にわきへと転がされてあったのです。彼女たちは不安の中で、心配の中で、墓に着いても、自分の目の前の墓を直視することはできなかったのでしょう。でも、いつまでもそこから目をそらしているわけにはいきません。彼女たちは目をあげてみました。すると、もはや既にその石は取りよけられていた。私たちも確実に墓に向かって死に向かって一歩一歩歩みを進めているはずなのだけど、普段の生活では、あまりその現実を考えずに毎日を過ごそうとしているかもしれません。いつか必ず死んで葬られなければならないのに、そこから目をそらして生きているのです。でもいつまでもそうしていることはできません。日一日とその日は近づいています。年を老いたり、病になったり、災害に遭ったり、事故に遭ったり、親しい愛する人を失ったりする中で、私たちはその現実を知らされるのです。

 

でもそこで目をあげたい。いつまでも下を見たり、どこか違うところを見たりして、墓の現実、死の現実から目をそらすのではなく、目をあげて、それを直視したいのです。すると、私たちには自分の力でどうすることもできない、決して乗り越えることも、状況を覆すこともできないと思われていた墓の現実、死の現実の前に立ちはだかる大きな重い石は既にわきへ転がされています。

 

彼女たちが目をあげると、大きな重い石がわきへ転がされていたので、彼女たちは墓の中に入っていきます。「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」と福音は告げています。そうです。墓の現実、死の現実から目をそらすのではなく、目をあげてそれをしっかりと直視しようとするとき、そこへ向けて一歩を踏み出すとき、彼女たちは、白い長い衣を着た若者、つまり神の天使に出会うのです。天使、それは、神から遣わされ、神からのメッセージを告げる者です。死から目をそらすのではなく、目をあげて、死を直視して、そこへ向かう時にこそ、私たちはそこで天使に出会う、つまり神が告げる言葉を聞くことができるのです。

 

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」

 

今までは死こそ、墓こそが、人の人生の最終目的地でした。ターミナルケアという言葉があります。人が人生のターミナル終着駅である死を目前として、受けるケアのことです。私たちの人生のターミナル終着駅は死であり墓である、それが私たちにとって常識であり、時には残酷な悲しい決して逃れることはできない、万人に共通な現実でありました。どんな国の人でもという今日メッセージのタイトルを付けましたが、どんな国の人でも死をもって人生は終わり、それが常識であったのです。

 

でも若者、天使は告げるのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と。死で終わり、そして墓に葬られて終わりだと思ったら、そこには何もなかった。この2千年間イースターのたびごとに言われてきた言葉で表現するなら、墓は空っぽだったのです。そこはもはや空しい墓であったのです。死を超えた、墓を超えた、墓を空しく、死を空しくする驚くべき出来事が、今や起こったのでした。それがイエス・キリストの復活でした。

 

エスさまが十字架にかかられ、墓に葬られた。これは完全にイエスさまが亡くなられたという事実を、私たちに告げています。でも、その完全に死なれた方が、今や死の現実、墓の現実を破り、復活なさったのです。そして、「ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」死と墓の現実を打ち破る新しい命の現実を私たちにもたらすのです。

 

それではその復活なさったイエスさまと私たちはどこで出会うことができるのか。どうやったら私たちもその復活なさったイエスさまと共にその新しい命に生きることができるのか。若者、天使は告げて言います。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」

 

そうです。イエスさまの周りにいた人たちが、復活なさったイエスさまと出会い、そのイエスさまから死と墓の現実を打ち破り、死と墓を超えた新しいいのちをいただいて、その命に生きる場所は、何も特別な行くのに難しい場所ではありませんでした。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。そうです。ガリラヤです。それはイエスさまと一緒に過ごした者たちにとって、何ら特別な場所ではありませんでした。なぜなら彼らが、時には笑いながら、時には涙を流しながら、あるいは時には憤りながら、毎日毎日ごくごく普通に生活していたその場所、それがガリラヤでした。イエスさまは、そのガリラヤに彼女たち、弟子たちより先に行かれる、そこでお目にかかれると、今、告げられるのです。

 

そして、天使は今日私たちにも告げて言います。「復活なさったイエスさまは、あなたがたのガリラヤへ、あなたがたより先に行かれる。そこでお目にかかれる」と。ガリラヤなんて私たちにとって遠いじゃないか、そう思われるかもしれません。いえ、そんなことを天使が告げているわけではないのです。私たちのガリラヤです。そうです。私たちが毎日毎日生活しているその場所です。私たちが笑ったり、泣いたり、怒ったり、苦しんだり、そうしながら毎日を過ごし、生きているその場所、その私たちのガリラヤで、私たちは復活なさったイエスさまと出会うことができるのです。イエスさまが私たちより先に、私たちに先立って、その私たちが生きるその場所、その生活のど真ん中へいらしてくださっている。それゆえ、私たちが何か特別な場所へ行ったり、特別なことをしたりすることによってではなく、淡々と毎日の生活を送るそのただ中で、私たちは復活なさったイエスさまと出会い、そして、毎日の生活の中で死と墓を打ち破り、死と墓を超えた新しい命をいただき、その命に生かされることができるのです。

 

ところで天使は、イエスさまの復活を告げる際に、わざわざ一人の名前を付けくわえて告げています。「さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい」。このように、わざわざ「ペトロに」と言うのです。ペトロだって弟子たちの一人ですから、この言葉はいらないはずです。でもわざわざ「ペトロに」と言っている。私はそこに大きな慰めを覚えます。ペトロ、彼は、自分は絶対イエスさまを見捨てない、逃げない、裏切らないと言いながら、いとも簡単に三度もイエスさまのことを知らないと言ってしまいます。呪いの言葉さえ口にしながら本当にひどい言葉でイエスさまの弟子であることを否定したのです。そして、そんな自分に大泣きしました。きっと彼は絶望のどん底にいたでしょう。もはや立ち上がれないそんな思いだったと思います。自分のせいで主は死んでしまったのだ。そんな思いでいたかもしれません。もう生きているのが嫌になったかもしれません。でも、天使は、告げるのです。「ペトロに告げなさい」と。

 

そうです。どんだけイエスさまを裏切ってしまったとしても、どんなに取り返すことができない大きな罪を犯してしまったとしても、そのことでもう生きているのが嫌になったとしても、もう信仰なんて自分にはふさわしくない、もう続けられないとそう思ったとしても、でもその者にこそ、復活の福音は、名指しで告げられるのです。失敗して罪を犯してもそれで終わりじゃない。新しい命があなたのために備えられている。だから逃げずに、あなたのガリラヤ、あなたの生活のど真ん中で生きろ、そこに復活なさったイエスさまがあなたより先に、あなたに先立って行かれる。そこでお目にかかれると。

 

わざわざ名指しで復活の福音を告げ知らされた、イエスさまを裏切ってしまった弱いペトロは、その後、復活なさった主と出会い力づけられ、福音を宣べ伝える働きに召されていきます。そして今日のみことばで、彼は、神は分け隔てなさらず、どんな国の人だって、どんな人だって、この復活の福音に与ることができると告げています。そうです。私たちにも、私にも、あなたにも、今日復活の福音が伝えられるのです。死と墓の現実を超えて、そして、失敗と罪の中から立ち上がって、あなたは新しい命に生きよと、あなたが生きている今その場所で、復活なさった主は命を差し出しながら、告げておっしゃるのです。だから私たちも、現実を誤魔化して恐れながら目をそらすのではなく、目をあげたい。そこから新しいいのちの世界が始まります。

 

ハレルヤ、主キリストは復活なさいました。本当に復活なさいました。ハレルヤ。主イエス・キリストのご復活、イースターおめでとうございます。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

この世に産声を上げたときから、死と墓に向かって歩み、しかし、その死と墓をどうすることもできなかった私たちを、御子の復活によって新しい命に生きる者としてくださったことを感謝いたします。私たちの生活のただ中で目をあげて、主の復活に出会い、復活の信仰を抱いて歩んでいくことができますように。たくさん失敗をし、罪を重ねてしまう弱い私ですが、にもかかわらず、命に招いてくださることを感謝いたします。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-04-01.MP4 - Google ドライブ

 

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