yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年6月17日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第4主日 2018年6月17日

 

「オートマティック」

エゼキエル書17章22~24、詩編92編13~16、マルコ福音書4章26~34)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちが自分自身を見つめる時、その罪深さと弱さを痛感いたします。しかしそうした私たちを神さまが赦し育ててくださる、これは私たちに大きな慰めであり希望です。今日の第一朗読と詩編、そして福音書のみことばは、みな、神さまが私たちを養い育ててくださり、豊かな実りを与えてくださる、このことを共通して語っています。

 

まず第一朗読のエゼキエル書では次のように語られていました。「主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。」

 

梢とは、木の幹や枝の先っぽの部分のことです。背の高いレバノン杉(レバノン杉とはどういう木か調べてみましたら、杉と呼ばれるけど実は松の一種で、高さが実に40メートル程にもなるとのことでした。)その大きく立派な木から生え出ている小さな小さなその梢を、神さま自ら切り取り植えてくださる。また、その木から生えたばかりの、今にも折れてしまいそうな柔らかい若枝を、神さま自ら切り取り、イスラエルの高い山、その神々しい場所に植え変えてくださる。まずそのことが語られています。これはその前の章を見るとわかるのですが、神さまに背き、その御前に何度も何度も罪を犯し、そのことで傷ついたイスラエルの人たちを表しています。彼らが自分たちの犯した罪のせいで、深く傷ついていた。それは彼らの自業自得です。にもかかわらず、神さまは、そんな彼らを憐れみ、赦してくださり、悔い改めて新しく歩み始めようとする彼らを受け止めてくださるというのです。彼らは、大きなレバノン杉の小さな梢のように取るに足らないほどの小さな者で、すぐに折れてしまいそうな柔らかい若枝のように弱々しい者だけれども、神さまがそんな彼らを本当に丁寧に大切に扱い、新しく植えてくださる。神さまのみもとに導いてくださる。そのことがここで約束されています。

 

そして、神さまはその梢と若枝を植えるだけでなく、育ててくださるお方であることが続けて語られます。その小さな梢、弱々しい若枝を神さまはみもとで育て、「うっそうとした」というのですから、本当に立派な木へと育て、さらにはそこにたくさんの鳥、多くの命が宿るようにしてくださると、語られています。罪を犯し、傷つき、自ら滅びの道を歩んでいた彼らを、神さまは憐れみ赦してくださるだけでなく、新しい歩みを与え、養い、彼らを通して多くの人たちが命満たされるように育ててくださるのです。「主であるわたしがこれを語り、実行する」と、本当に力強い神さまの約束です。

 

これはかつてのイスラエルの人たちに語られただけではありません。新しい神の民、新しいイスラエルである私たちにも語られている神さまの約束です。私たちも神さまに背き、その御前に多くの罪を犯し、神さまを悲しませ、周りの人も悲しませ、さらには自分自身もその罪のせいで、辛い思いをし、滅びの道を歩まねばなりませんでした。それはまさに私たちの自業自得で、身から出た錆にほかならないわけですが、神さまは、そんな私たちであっても、にもかかわらず、見捨てず、その悔い改めの歩みを受け止めてくださるのです。神さまの御前に梢、また、若枝のような、そんな小さな私、弱々しい私を、神さまは憐れみ赦し、愛をもって大切に受け取り、新しく生かしてくださる。そして、養い育て、私たちが生き生きと生きていけるようにしてくださり、さらには、こんな私たちを、他の人たちが生き生きと生きていけるため用いてくださる。そのことを神さまは今日のみことばで、私たちにも力強く約束してくださっています。

 

続いて詩編ですが、その結びで次のように語られていました。「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない」

 

初めにお話ししましたように、ここでも神さまが私たちを育ててくださることが語られています。主の家、神の庭、つまり神さまのみもとで、私たちに豊かないのちが与えられ、私たちが白髪になっても、つまり、私たちが歳を重ね、肉体的に弱さを感じるようになっても、なおも神さまが私たちに豊かな実りを与え、生き生きと生かしてくださり、さらには神さまを力強く証しして宣べ伝えることをさせ続けてくださると語られています。歳を重ね、身体が弱くなってくると、自分はもう神さまのために何もできなくなったと、私たちはそんな思いになるかもしれません。でも決してそうではないと、ここで語られるのです。もちろんそれまでできていたのに、歳を重ねると、できなくなることもたくさんあって、段々と寂しさが増していきます。けれども、歳を重ねても、身体が弱くなっても、そのことでできなくなることが増えていっても、そのありのままの姿で、私たちが神さまに生き生きと生かされ、豊かな実りを与えられ、なおも神さまを証しして生きることができる、神さまがそのために人生の喜びや慰めを私たちに与えてくださいます。

 

今日の第二朗読の終わりでパウロは、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と語っています。私たちは、歳を重ねても、いろんなところに弱さを感じるようになっても、このキリストにある新しさに日々生かされるのです。そして、その中で、日々新しい喜びと実りと証が与えられます。アンチエイジングという言葉があります。年を重ねる中で、どのように若さを保って生きていくか、美容や健康の分野でよく言われる言葉ですが、どれだけその努力をしたとしても、いずれは私たちのお肌も衰えるし、健康も弱っていきます。でも、私たちは、たとえ髪の毛が白くなったり、照り輝くようになったりしても、なおも死に至るその日まで、世が追い求めるアンチエイジングとは異なる、キリストにある新しさ、神さまによる若さに生かされ、成長させていただける、みことばは私たちにそう告げています。

 

そして、今日のイエスさまの福音です。イエスさまは、今日、二つのたとえをお話されます。短いですので、もう一度、お読みいたします。『イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」』

 

ここでイエスさまが、神の国は次のようなものである」神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか」とお話しされているように、この二つのたとえは、いずれも神の国についてのたとえです。神の国と聞くと、私たちは私たちが死んだ後に召され赴く、死後の世界としての天国のことを思い浮かべるかもしれません。もちろんそれも間違いではありません。私たちがこの地上の生涯、この世の命を終えたとき、神さまが永遠の天の御国に私たちを迎え入れてくださる。これは私たちのとても大切な希望です。しかし、聖書が伝える神の国とは、ただそうした死後、私たちが召される場所のことだけを表すわけではありません。神さまが私たちを支配なさる、そのことを表しています。もっとわかりやすく言うなら、神さまの導きの中で私たちが生かされること、それが聖書が告げている神の国であると言ってもよいでしょう。その延長線上に、死んだ後に私たちが召される天国もあるわけです。ですから、イエスさまは今日の二つのたとえで、神さまの導きの中で私たちが生かされるとは、一体どういうことであるのかを告げておられるということになります。

 

まずは、種のたとえです。人が種を蒔き、私たちにはどういう仕組みかわからないけど、ちゃんと芽が出て、毎日ちゃんと成長し、収穫が与えられることが語られています。次に、からし種のたとえ、吹けばどこかに飛んで行ってしまうような小さな小さなからし種。でもそれが植えられると、どんどんどんどん育ち、どんな野菜よりも大きくなって、たくさんの鳥がそれに巣を作るほど、とてつもなく大きな枝になることが語られています。

 

ここで語られているのは、小さな小さなものが、その仕組みを私たちはわからなくとも、たしかに大きく育ち、そこに豊かないのちを宿すということです。神の国、神さまの導きの中を私たちが生かされるとはそういうことだと、イエスさまはお話しなさり、やはり、今日の共通する主題、神さまが私たちを育ててくださることがここでも語られています。私たちが神さまを信じて過ごす中で、「こんなに長く信仰生活を送っているのに、なぜ私はこれほどまで罪深く、私の信仰はこんなに弱いのだろう」と思い嘆くことが少なくありません。神さまの悲しむことを繰り返ししてしまうし、何かあったらすぐに不安になるし。私たちが、そうした自分の姿をしっかりと見つめ、省みることはとても大切なことです。「自分は清く信仰深いのに、あの人は罪深く信仰も弱くてダメだ」、もし万が一、私たちがそんな思いを持っているなら、それこそ大きな問題です。自分の不信仰さ、罪深さをしっかりと見つめ、認めたいと思います。

 

しかし、私たちがそうした自分の姿を受け止める時、今日のイエスさまのみことばが、私たちの心に響いてきます。罪深いあなたの弱く小さなその信仰を、神さまが育ててくださると。私たちが自分で見るならば、もうどうしようもない、そんな自分でしかないかもしれないけれど、でも神さまがちゃんと芽を出させ、育て、こんな私たちでもそこで多くの命が育まれるように用いてくださる、イエスさまの約束が私の心に響くのです。

 

今日、イエスさまは「土はひとりでに実を結ばせる」とおっしゃっていますが、この「ひとりでに」という言葉は、新約聖書のもともとの言葉のギリシア語では「アウトマテー」という言葉です。この「アウトマテー」は、英語の「オートマティック」のもととなった言葉です。自動車のオートマティック車、オートマ車のオートマティックです。運転手がいちいち自分でギアチェンジをしなくても、走っている最中に車が自動的に、「ひとりでに」ギアを切り替えてくれる車のことです。私たちの信仰も、それは土の中にある種のような目に見えないものであるけれど、私たちがあれをしてこれをして、私たちが理解して、というのでなく、私たちがわからなくても、私たちには「えっ?いつの間に?どうして?」と、そのように思う驚くべきことだけど、神さまが私たちのその信仰を、ちゃんと育てて実りを与えてくださる。そうして神さまの導きの中に私たちを生かし、私たちを通して多くの人をも神さまの導きの中に生かしてくださり、神の国が広がる、イエスさまはそう今日お話しなさるのです。私たちの目には見えなくても、神さまは確かに働き、この私を育ててくださいます。

 

このように、今日のみことばは、繰り返し、神さまが私たちを育て実らせてくださると約束しており、「成長させてくださったのは、神です」パウロが語っているこの言葉を思い起こします。植物が育つ際、水や栄養分が必要なように、神さまも、私たちを養い育てるため、日々命の糧を与え、豊かに働きかけてくださいます。みことばにより、洗礼と聖餐により、また祈りやさんびにより、さらには他の人の暖かな愛のかかわりにより、私たちは、自分たちでは気づかないうちに、神さまの働きで「ひとりでに」育てられているのです。何よりも神さまは、御子、救い主イエスさまをお遣わしになり、その十字架と復活という驚くべき仕方で、罪深く弱い私たちの救いと命を「ひとりでに」成し遂げられました。私たちはこのことを深く神さまに感謝し、神さまの聖霊の導きより日々新たに生かされ、育てていただきたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

罪深く弱い私たちを、あなたの憐れみによって赦し、またあなたの働きによって育ててくださっていることを心より感謝いたします。御子の十字架と復活により罪赦され永遠のいのちを与えられたその救いの新しい命を感謝して、これからもあなたによって日々新たにされながら歩んでいくことができますように。あなたの働きのために、この私を用いてください。救い主イエス・キリストによって。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-06-17.MP4 - Google ドライブ

 

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洗礼と聖餐

きょう礼拝の後、はじめて礼拝にいらしてくださった方から、洗礼聖餐について質問がありました。

 

なかなかわかりやすく説明するのは難しいのですが…頑張ってみます(^_^;)

 

洗礼とは、私たちが、神さまの独り子であるイエスさまのことを神さまが私たちのために遣わしてくださった救い主として信じて、クリスチャンとして生きるために、神さまへの信仰を告白して、頭に水を注いだり、全身を水に浸したりする儀式のことです。その洗礼によって、神さまが私たちの罪の汚れを洗ってくださって、神さまを信じ、神さまに従う新しい人として生かしてくださることを信じます。

 

聖餐とは、イエスさまが十字架にかかる前の夜の食事(最後の晩餐)で、パンとぶどう酒を「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」と言いながら、弟子たちに与えられたことを起源とするもので、私たちもイエスさまの体と血(すなわち、十字架)によって神さまの救いが与えられることを信じて、パンとぶどう酒をいただく儀式です。現代では、教会によっては、パンとしてウェハースのようなもの(ホスチアと言います)をいただき、ぶどう酒の代わりにアルコール依存症の人や車の運転手、また子どもたちに配慮してぶどうジュースをいただくところも多いです。(もちろん実際に普通のパンやぶどう酒をいただく教会もたくさんあります。)

2018年6月10日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第3主日 2018年6月10日

 

「これだけは ゆるされない」

(マルコによる福音書3章20~35)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

主なる神さまが、独り子イエスさまの十字架の苦しみと死により私たちのすべての罪を赦し、イエスさまのご復活により死に打ち勝つ新しい命、永遠のいのちを与えてくださった、これこそ神さまから私たちに恵みとして与えられた最も大切な信仰です。この信仰は、私たちに本当に大きな慰めですし、私たちキリスト教会がその初めより実におよそ2000年間ずっと大切に信じ伝えてきたものです。

 

ところが今日のみことばで、イエスさまは「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」とおっしゃり、永遠に赦されない罪について言及されます。「すべて赦される」とおっしゃりながら、「永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とおっしゃるわけですから、私たちはこれを聞いて、たいへん戸惑ってしまいます。イエスさまはすべての罪を赦してくださるお方ではなかったのか、それなのに永遠に赦されない罪があるとは一体どういうことなのだろうか、罪の赦しに例外があるのだろうかと、そんな疑問が沸いてきます。また、もしそうであるなら、果たして私自身はこの永遠に赦されない罪を犯していないだろうかと心配になりますし、日々罪深い歩みをしている自分を省みる時、今日イエスさまがおっしゃっておられるこの永遠に赦されない罪を、この私もきっと犯しているに違いないと絶望的な思いになるのです。今日、イエスさまがおっしゃっているこの「永遠に赦されない」ところの聖霊を冒涜する」とは一体何を表すのか、みことばから聞いてまいりましょう。

 

まず、今日のみことばの背景を受け止めてまいりたいのですが、イエスさまが戻られた家に沢山の人たちが集まってきて、「一同は食事をする暇もないほどであった」といいます。きっとみんなイエスさまのお話を聞いたり、病気を癒していただいたりして、しかも次から次へと人々が集まり、大変な騒ぎになっていたのでしょう。そこにまずイエスさまの身内の人たちがやってきます。そして、イエスさまを取り押さえようとしたというのです。なぜなら、「あの男は気が変になっている」と、イエスさまについて身内の人たちが非難されていたからでした。「あのイエスという男、お前の身内だろう。あいつおかしいんじゃないか」とか「あのイエスというおかしくなっている男、君の身内なんだからどうにかしてくれ」とか、そんな風に言われていたのでしょう。これ以上その非難の声が広がらないために、イエスさまを取り押さえて、これ以上もうバカなことはやめさせようとしたのだろうと考えられます。

 

先週聴いたみことばの出来事、当時の宗教の指導者から見るなら、イスラエルの人たちに何よりもと言ってよいほど大切にしていた安息日を、否定するかのようにも思える言動をしたり、不思議な力を使って驚くべきことをなさったりするイエスさまのわざ、それらが、イエスさまを大事に思わない人たちには「気が変になっている」としか思えないものであったわけです。そして、イエスさまの身内の人たちも、あまりにも近過ぎて、イエスさまがどういうお方なのか、その本質を受け止めることができず、むしろイエスさまのせいで自分たちまで、他の人たちからいろいろ言われるのが嫌で、イエスさまのなさっていることを無理やりにもやめさせようと、彼らはするのでした。ここから、私は、「自分はイエスさまのことよくをわかっている」という思いは、本当に大切なものを見失ってしまい、また、イエスさまの働きを妨げてしまうということを思いました。

 

さて、そのように身内の人たちが、イエスさまを取り押さえて、その働きをやめさせようとしていたその時、今度はエルサレムから来た律法学者たちがイエスさまを非難し揶揄し始めました。エルサレムから下って来た律法学者たち」、これは彼らが当時の宗教におけるエリート中のエリートだったことを表しています。エルサレムイスラエルの人たちにとって誇り高い立派な神殿がそこにはありました。宗教の中心地、日本的な言葉で言うならば「ご本山」です。そこから来た「律法学者たち」です。彼らは、聖書や宗教のきまりを厳格に守るファリサイ派のメンバーであり、さらにその中でも律法、つまり聖書の言葉を熱心に研究し、人にも教えていた、いわば聖書の言葉の専門家でした。そんな彼らがイエスさまを非難し、揶揄するのです。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」とか、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」とかそんな風にです。

 

ベルゼブルとは、これは旧約聖書で主なる神を信じるイスラエルの人たちにとって、周辺の国々の人々が信じていた神、バアルの一つの呼び名だったようです。そのバアルの宗教では、たくさんの農作物の収穫を得るためということで、神殿でみだらな行いがなされていました。人間のその行為を見て神さまたちも嫉妬して性的な行為をして、それにより雨が降り、たくさんの収穫が得られるという教えだったためです。イスラエルの人たちは快楽をよしとするその教えに惹かれ、主なる神さまを捨てバアルの神に走ってしまうということがよくあり、主なる神さまがそれに嘆き、怒り、悔い改めを呼びかけている箇所が、旧約聖書にたくさん出てきます。そうした歴史的な背景からでしょうか、新約聖書ではそのベルゼブルは、人を神さまから離れさせる悪霊や悪魔のトップ、その頭的な存在を表す名前となっていました。つまり、彼らはイエスさまをそのベルゼブル、悪霊や悪魔の頭とみなし、だからこそ「あのイエスという男は特別な力を持っていて、人々を扇動したり、また、悪霊にとり憑かれているとしか思えない、他の誰にもどうすることもできない重い病気や障がいの人をも、その悪霊の頭としての力で癒すことができる」と思っていたのです。「そんな恐ろしい怪しげな奴を、世にのさばらせておくわけにはいかない。すぐにでもやめさせなければならない」と、彼らは考えたのでしょう。

 

しかし、そうした彼らに、イエスさまはおっしゃいました。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」つまりこういうことです。サタン、悪霊、悪魔が、同じサタンを追い出すことができるわけないじゃないか。一つの国が内輪で争っているなら、そんなことをしているうちに他の国に攻め入れられて、その国は滅びてしまう。家庭や家族、一族も、お互いその中で争い合っているなら、めちゃくちゃになってしまう。サタン、悪霊、悪魔もそれと同じだ。もしサタンとサタンが争っているなら、そのどっちも駄目になって滅びてしまう。わたしがもしあなたがたが言うようにサタンの頭なら、その私がサタンと闘い、サタンを人から追い出すなんてそんなことできない。また、人が強盗に入る時に、まずその家の中にいる強い人を縛ってから、その家のものを盗み出すように、私自身が、まずサタンの中で一番強いその頭を征服し、彼に勝利した者でないなら、人から悪霊を追い出すことなんてできない。私はそのようにサタンと闘い勝利した者だと。イエスさまはそのことをここでおっしゃっているのです。

 

強盗のたとえまで出して、たいへん強い激しい言葉でおっしゃっています。イエスさまが主なる神の言葉を伝えたり、人の重い病気や障がいを癒されたりするその働きは、決して生易しいものでなく、それは、イエスさまにとっても大きな闘いであったことを、私たちはここから受け止めます。神の子として、サタン、悪霊、悪魔との真剣勝負を、イエスさまはなさり、勝利されたがゆえに、イエスさまは神の言葉を人々に語り、また多くの人を癒すことができたのでした。さらにイエスさまがこの先に向かわれる最終目的地である十字架もまた、大きなサタンとの戦いでした。サタンはイエスさまに言うのです。「この十字架から降りて来い、そしてみんなに自分が神の子であることを証明せよ」と。でもイエスさまはそんなサタンの誘惑に負けない。自分の命を懸けて、そのわざを成し遂げます。自分が死ぬこと、ただそのことによってのみ、勝ちとることができる、私たちの罪の赦しのためにです。そして、その死に打ち勝つことによってのみ、私たちに与えられる永遠のいのちのためにです。イエスさまは、そのためにこの地上に来られたのでした。サタン、悪霊、悪魔と闘って勝利するため、そして、その勝利を私たちにも分かち合ってくださるために。このことは決して、イエスさまがサタンの一味であったり、頭であったり、そんなことではできっこないことでした。そのことを、イエスさまはここで実に激しい言葉でおっしゃるのです。

 

そして、その結びとおっしゃったのが、今日初めにお話した「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」という言葉でした。「はっきり言っておく」、これは、聖書の原文では「アーメン」という言葉が用いられています。アーメン、はっきり言っておく、これから言うことは間違えのない、たしかな本当の真実の言葉だということです。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。」エスさまの命がけのサタンとの戦いとその勝利により、人の子ら、つまり私たち人間が犯すどんな罪も、また、イエスさまを悲しませるようなどんな言葉も、それはすべて赦される。これは、私たちにとって本当に力強い、そして慰めに満ちた言葉です。いつもたくさん罪を犯して生きている私であり、いっぱいふさわしくない汚い言葉を語ってしまう私です。でも、イエスさまはそのすべてを赦してくださる。「そのためにこそ、わたしが十字架にかかり、戦い、命を捨てて、また再びいのちを受けて勝利した」と、イエスさまはおっしゃるのです。「アーメン」と、この言葉を語り始められるイエスさまに、私たちも「アーメン、その通りです」と心から応えたいと思います。

 

しかし問題は次の言葉です。「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」最初にお話ししましたように、この言葉に私たちはたいへん戸惑い、また「自分は大丈夫だろうか、赦されるのか」と心配になり、「いやきっとダメだ、赦されないはずだ」と悲しく絶望的になるのです。しかし、私たちは今日そこで留まらず考えてみたい。まず、聖霊を冒涜する」、これは一体何を意味するのでしょうか。聖霊、それは神さまの霊です。あのペンテコステに弟子たちに降り、弟子たちを通して、御子イエスさまの十字架と復活による神さまの救いを、人々に宣べ伝える働きを始められた聖霊です。またそれから二千年の間、教会を通して、人々に救いを宣べ伝え続けている聖霊です。人々にイエスさまの十字架と復活による救いを宣べ伝え、その救いに人々を招き入れる働きをなさるのが、聖霊の働きです。ですから、その聖霊を冒涜する」とは、聖霊が伝える、イエスさまの十字架と復活による神の救いを否定することではないでしょうか。イエスさまが悪魔と闘い、十字架で命を捨て復活なさり、人々に命がけで勝ちとってくださったその救いを否定すること、これこそ聖霊を冒涜する」ことであり、永遠に赦されない唯一の罪なのです。

 

もっとわかりやすく言うなら、イエスさまが聖霊により「わたしが、あなたのすべてを罪を赦し、あなたを救う。そのためにわたしは十字架にかかり、命を捨て、また復活したのだ」と私たちに語りかけてくださることに対して、私たちはそのイエスさまにどう答えるのかということがここで問われているのだと思います。自分自身の罪を省みる時、こんなどうしようもなく罪深い汚れた私なんか、決して赦されるはずがない、救われるはずがないと、そう思わざるを得ません。でも、イエスさまは命がけの戦いに勝利なさり、そのどうしようもない私たちの救いを勝ちとってくださったのですから、もうそんな風に思わなくてもよい。「私なんか赦されない」、そう思い、私たちがそこにずっと留まり続けること、ただそれだけが唯一の赦されない罪であり、「わたしがあなたを必ず赦し、救う」とおっしゃるイエスさまの懐に「アーメン、感謝します」と、罪深い汚れたそのありのままの姿で、謙虚に大胆に私たちが飛び込み、神の家族として歩むことこそ、私たちに求められ、招かれていることなのです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

主なる神さま。御子イエスさまが、私たちのためにご自分の命を懸けて闘われ、あなたの救いを勝ちとってくださったことを、心から感謝いたします。私たち自身を見つめるなら、決してあなたの御前にふさわしくないどうしようもなく罪深く汚れたものですが、しかし、御子の勝利のゆえに、あなたの赦しを信じ受け入れることができますように。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-06-10.MP4 - Google ドライブ

(当日のメッセージの録画は、うまくいきませんでした。このため後日、北見のプレハブで、誰もいない中で取り直したものをアップしました。)

 

http://lutheran-church-regina.com/blogs/image/sermon-pr-ted-giese-june-7th-mark-320-35-jesus-terror-or-comfort.jpg

いのち溢れる若草のように【ストラ】

いつも礼拝用のストラ(ストール)を作ってくださる方が、新しいストラをプレゼントしてくださいました。若草色のストラです。

 

教会の暦では、聖霊降臨後の季節を迎えており、典礼色(礼拝で用いる布や牧師のストラの色)として、緑が用いられます。

 

さらに、この聖霊降臨後を迎えて早い季節は、私たちが神さまの救いによって新しく生まれたものであり、少しずつ成長させていただく者であることを受け止めるため、若草色を用いてもよいとされています。

 

その色を見ながら、この季節のいのち溢れる木々や草花とともに、私たちの信仰も神さまのみことばによって、少しずつ成長させていただくことを願い、信じ、またそのことを感謝するのです。

 

そして、月日が経つ中で、若草色から深い緑色を典礼色とするという工夫がなされます。

 

新しいストラは、とても美しい色で、私のような むさ苦しいおっちゃんにはもったいないですが、でも、早速、喜んで用いさせていただいています!

 

ありがとうございます。本当に嬉しいです。

 

参考

 

yukaina-gorilla.hateblo.jp

 

yukaina-gorilla.hateblo.jp

f:id:yukaina_gorilla:20180605094409j:image

2018年6月3日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第2主日 2018年6月3日

 

「いのち溢れる日」

(マルコによる福音書2章23節~3章6節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

私はこの季節の北海道の山々を眺めるのが好きです。とても美しい、新しい命溢れる若い緑の色をしていて、見ていて、心が豊かになる思いがいたします。先週、いつも私の礼拝用のストールを作ってくださる方が、新しいストールを私に送ってくださいました。これは明るい若草色のストールです。今の季節の山々の緑と同じ色です。教会の暦では、聖霊降臨後の季節を迎え、礼拝の色(典礼色)は緑の季節を迎えているのですが、実はこの緑の季節で、聖霊降臨後の早い季節には若草色のストールを着用し、その月日が経過していくと、今度は深い色の緑のストールをする、そうした工夫をしてもよいという習慣があるそうです。先週のみことばは、イエスさまとニコデモの会話のみことばで、私たちが神さまによって新しく生まれさせていただく、また神さまとのかかわりの中で新しく生きていくということの大切さを受け止めましたが、私たちも若草のように、そのように神さまからいただいた新しいいのちを、神さまのみことばを聞くことを通して段々と深められ成長させていただくことを、ストールの緑色の変化を通して受け止める、そうした意味があるようです。私たちも、この若草色のストールから、そのように、神さまから新しく生まれさせていただいた幼な子であり、少しずつ神さまによって成長させていただきたいと、そうした思いを新たにしたいと思います。

 

さて、ある教会にいらしていたお年を召した方が「自分は毎週、一週間に一度、教会の礼拝に来ることが、何よりもの楽しみです。教会に来て、礼拝をして、教会のみなさんと一緒にお話をして、一週間を生きていく力と喜びをいただくのです。そのために一週間の毎日の体調を整えています。」そうお話してくださるのを聞いて、それを聞かせていただいた私までもとても嬉しい気持ちになりました。そして、私もそんな風に年を取ることができればと思いましたし、もし教会にいらしている私たちみんながそうした思いでいられるならば、それこそ何よりもの伝道・宣教になるのではないかと思います。喜びをもって礼拝に集い、それを一週間の生きる力にする、一人ひとりがそうした思いで、毎週の礼拝に与っている教会、何と素敵な教会だろうと思いますし、もしそうした教会に新しい方がみえられたとき、きっとみんなのその喜びは自然とその人にも伝わっていくのではないかと思ったのです。

 

今日の第一朗読は、申命記のみことばですが、それは神さまがイスラエルの人にお与えになられた十の戒め、十戒のうちの一つです。「十の戒め」というと、何か守らなければならない戒律、きまりのように聞こえますが、もともとは「君たちはそのように生きていくなら、神さまの前に、また人々とともに、喜び豊かな、よりよい人生を送ることができるよ」と神さまがお与えくださった、神さまからのお約束を表します。家庭で親が、あるいは幼稚園や学校で先生方が、子どもたちに「これお約束だよ」と教えてくれることがあります。「トイレの後は手を洗うんだよ」とか、「お友達が悲しむことを言ってはならないよ」とか、そうしたお約束は、何も「トイレの後に手を洗わなければ君はダメな人間だよ」とか、「友達が悲しむようなことを言ったら罰が当たるよ」とかいうことを表すのではなく、「トイレの後に手を洗うと黴菌が落ちて、悪い病気を予防出来て、健康に過ごすことができるよ」とか、「友達が悲しむことを言わないでいたら、友達も自分も喜びをもって楽しく仲良く過ごせるよ」とかいう、「結局は自分のためにもみんなのためにもなるよ」という教えであり、聖書の中の十戒も、同じように、自分も神さまも周りの人もみんな、より喜びをもって、豊かに生きていくことができる、そのために神さまが人々に教えてくださったものです。

 

安息日を守ってこれを聖別せよ」という今日のみことばも、そうした神さまの私たちへの思いが込められた大切な教えです。安息日とは週に一度、神さまを礼拝する日であり、その日に神さまを礼拝することが私たちが神さまの御前で、人々と共に、喜びをもって豊かな人生を送るために大事なことだという、神さまからの私たちへの、私たちを思って与えてくださったお約束、それがこの安息日を守ってこれを聖別せよ」の心でした。しかし、しばらくの歳月が経過していく中で、その最初の神さまの思いは残念ながら段々と忘れられていってしまいました。「安息日を守らなければ、絶対にダメだ!ゆるされない!」そんな風に人々はそれを受け止めるようになり、安息日にはあれをしてはならない、これをしてはならないという細かいきまりが、沢山作られていきました。遠くへ歩いて行ってはならないとか、どんな作業もしてもならないとか、そんな感じです。現代もイスラエルの人たちに、そのたくさんのきまりは有効だそうで、安息日に火を使ってはならないから、イスラエルのホテルでは安息日には暖かい料理は出ないだとか、エレベーターを操作することも安息日に仕事をしてはならないので駄目なため、安息日にはエレベーターがすべての階に自動的に停止する設定になっているとか、ユダヤ教の会堂のトイレは人が操作しなくても開閉できるように、自動ドアになっているとか、そのような事実があるそうです。そうした安息日をめぐるいろんなきまりの中で、人はそのきまりに雁字搦めになり、窮屈な生活を強いられるようになったのです。

 

今日の福音書は、そうした安息日について、イエスさまが語られたことが伝えられています。まず2章の終わりですが、イエスさまの弟子たちが畑で麦の穂を摘んで食べていたことに対して、当時の宗教の指導者たちがイエスさまに「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と非難したことが伝えられています。つまり、イエスさまの弟子たちが、「安息日に禁止されていた収穫の作業をしているのはけしからん!」というわけです。しかし、結局彼らは、それに対するイエスさまの答えの前に黙るしかなかったのですが、けれども、ただそれだけでは終わらず、今日のもう一つの出来事3章の初めの出来事に続いていきます。そこでは、安息日の礼拝に、一人の手の不自由な人が参加していました。イエスさまに敵対する人たちは、イエスさまがその人にどう接するか、注目していました。なぜなら安息日に人を治療する行為は禁じられていたからです。もしイエスさまがその人を癒されるなら、安息日のきまりを破ったという重大な罪で、イエスさまを訴えようと彼らは企んでいました。それに対しても、イエスさまはとても大事なことを語られて、その人のことを癒されるわけですが、それに納得がいかない彼らはイエスさまを殺す=死刑に処すことを相談し始めるのでした。

 

さて、私たちに大切なことは、そこでイエスさまが安息日について何を語られたかということです。イエスさまはまず2章でおっしゃいます。安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」と。つまり、先ほどお話しましたように、神さまは、安息日を守りこれを聖別せよ」というお約束を、決して人があれをしてはならない、これをしてはならないと、そんな風に雁字搦めにされてしまうために、人に与えたのではなく、人がより良く豊かに喜びをもって生きることができるために与えられたものだということを、ここでイエスさまはお話されるのです。弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べていたのは、彼らが飢えて空腹に耐えられなかったかもしれないし、あるいは、ちょっと「あれ採って食べちゃおうか」という遊び心であったかもしれません。聖書の解説が書かれた注解書によって、その解釈は異なりますが、しかしそのいずれの理由だったとしても、「あいつら安息日に、あんなことしてけしからん!律法違反だ!」と眉をひそめて、人を非難して裁くための安息日ではなく、神さまに生かされていることを喜び、私たちがより豊かに生きるために安息日がある。そのように、「人の子」、つまり、イエスさまが、神さまの本来の意図を伝えるのでした。

 

次に3章でイエスさまは、その手の不自由な人に「真ん中に立ちなさい」と、彼を会堂の真ん中に招かれた上で、人々に向かっておっしゃいます。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と。神さまを礼拝する日である安息日に、人々は、手が不自由で生きる上での困難を抱えている人のことを、イエスさまがどうされるか、それ次第ではイエスさまを訴えようという思いで見ていて、その人の抱えている痛みだとか苦しみだとかそんなことを一切無視していたことに、イエスさまはきっと耐えられなかったのだろうと思います。だから彼を真ん中に招きます。こうした傷ついている人、困難を抱えている人こそ、神さまの御前に招かれており、あなたがたの共同体のその真ん中に招かれるべきであり、安息日はそうした日にほかならないと。だから、安息日にあれをしてはならない、これをしてはならないと、あなたがたが考えているそんなことよりも、もっと大切な神さまの御心は何か、それを忘れてしまっているあなたがたは、神さまが望まれる善よりも悪を、人の命を救うよりも殺すことをしているのではないかと、イエスさまは彼らに問われるのです。

 

安息日、それはもともと二つの意味を持っていました。一つは、神さまによるいのちの創造を覚える日です(出エジプト20章)。神さまが天地を創られ、私たち人類をも造られて、七日目に神さまはその働きを終えてお休みされた。そのことを覚え、私たちも神さまによって創られた者として、そのことを感謝し、いのちの充電をしてまた新たな一週間を生きていく、そのための日だったのです。もう一つは、神さまによる解放と救いを覚える日です(申命記5章)。エジプトで奴隷だった人々を神さまはその苦しみから解放され、彼らを救われた。そのことを週に一度は思い起こし、私たち自身、神さまに救われ自由が与えられている者であり、また私たちの周りのいのちも神さまの救いと解放の中にある、そのことを感謝して、喜びをもってまた新しく生きる、そのための日でした。このように、神さまが人々のためにと定めてくださった大切な喜びの安息日が、その本来の意図からあまりにもかけ離れていたことに、イエスさまは憤られ、悲しく思われた。そして、黙っていることができなかったのです。

 

エスさまは、神さまを礼拝する日である安息日を、神さまから与えられた命のあふれる日であると、そのことこそ、私たちに大切なことなのだと、神さまの本来の意図を取り戻し回復されようとなさいます。その本質をあなたがたは見失ってしまっているではないかと、イエスさまは彼らを糺されるのです。けれども、その言葉は彼ら全員に届いたわけではなく、先ほども申しましたように、これをきっかけにイエスさまに敵対する人々の間でイエスさまを殺すための相談がされ始めます。そして事実、やがて、イエスさまは安息日の律法を破った者として彼らから訴えられ、十字架にかけられて殺されてしまうのでした。

 

しかし、そうした人の企みを超えた神さまの大きな働きと計らいにより、驚くべきことがそこで起こります。神さまを礼拝する安息日に、なお一つな重大な新しい意味が加えられることになりました。安息日が、イエスさまの十字架を思い起こし、ご復活を祝う日として、私たちの真の救いと永遠のいのちを喜ぶ日となったのです。それまでユダヤ教安息日、礼拝の日は土曜日でした。しかし、やがてキリスト者たちは、日曜日を、彼らの礼拝の日、安息日として守るようになりました。なぜなら、イエスさまが十字架の死から復活なさったのが日曜日の朝だったからです。このように神さまによるいのちの創造の日である安息日、神さまによる解放と救いである安息日を、イエスさまが、ご自身の十字架と復活によって、より豊かなまことのいのちと救いの日として、より新しく、より大切な日となさいました。イエスさまが「人の子は安息日の主でもある」とおっしゃっているように、まさに、イエスさまこそが、安息日のまことの主となられたのです。

 

私たちも、神さまによるいのち、神さまによる救い、そして、何よりもイエスさまの十字架と復活を心に刻む、その喜びの日、いのち溢れる日として、この安息日も、神さまから礼拝に招かれています。大いなる喜びと心からの感謝をもって礼拝に与りたい、そして、いのちの充電をし、自由を与えられて、この礼拝から一週間の歩みに送り出されたいと心から願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、あなたが与えてくださった安息の日、あなたからの命と救いを喜び、御子イエスさまの十字架を思い起こし、復活を祝う日として、私たちが大切にし、喜びと感謝をもってあなたを礼拝することができますように、これからも豊かに導いてください。安息日の主、イエスさまのお名前によって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-06-03.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年5月27日 礼拝メッセージ

三位一体祝日 2018年5月27日

(掲載が遅くなりすみません)

 

「新しく生まれる」

ヨハネによる福音書3章1~17節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは先週、聖霊降臨祭を迎え、今日は、その次の主の日、聖霊降臨後第一主日ですが、毎年、私たちはこの日を三位一体の祝日として礼拝をいたします。

 

三位一体、これは、私たちが信じる神さまが、父と子と聖霊のお方であり、しかし、だからと言って、三人の神さまがおられるというのではなく、神さまはただおひとり唯一のお方であるという信仰を表す言葉です。この三位一体を私たちがどういう言葉で説明しても、なかなかしっくりくるように説明することは難しいです。今までいろんな人が、なるべくわかりやすく三位一体を説明しようと、いろんなたとえを使って説明をしてきました。水と氷と水蒸気はどれも元素記号で表すならば同じHOだけど、それぞれ違う現れ方をしているだとか、ある一人の男性が、同じ一人の男性であっても、彼の親から見れば息子であり、彼の子どもから見れば父親であり、彼の妻から見れば夫であるという三つの役割があるだとか、ひとつの卵は、白身、卵白と、黄身、卵黄と、殻から成り立っているだとか、一つの三つ葉のクローバーには三つの葉っぱがあるとか、三位一体を少しでもわかりやすく説明しようと、そうした説明がなされてきました。でも、実際には、そのどれもが三位一体の信仰とは、なんとなく違った感じでの説明になってしまっています。

 

それでは、この私自身が三位一体をどう受け止めているのかというと、これまた不十分な説明になってしまうその限界を受け止めつつお話しするなら、神さまの私たちへの永遠の愛、その関わりから考えています。つまり、神さまは天と地のすべてのものをお創りになり、それらとともに私たちをもお創りくださった。神さまがそのように創造の働きをなさり、それで神さまの私たちへのかかわりが終わってしまったのかというと決してそうではない。神さまの前に罪に陥り、神さまから離れてしまった私たちのため、独り子である神、主イエス・キリストが人となり、十字架と復活によって、私たちを救い、私たちに永遠の命を与えてくださった。そのように神さまが救いのわざを成し遂げてくださって、「じゃあ、あとは自分たちでちゃんとその救いを信じて生きていきなさい」と、神さまは私たちを放置なさるのではない。聖霊なる神さまが、キリストの体である教会と、教会に属する信仰者たちを通して、私たちに神さまの救いのメッセージ、福音を届けてくださって、私たちの心を開き信仰を与えてくださり、私たちがこの地上の生涯を終えて天に召されるその日まで、あるいはこの世の終わりの救いの完成のその日まで、私たちをしっかりと導いてくださる。その働きをなさるため、キリストの教会も支え用いてくださる。

 

このように、天地創造、この世の初めから、救いの完成、この世の終わりまで、神さまは父と子と聖霊のお方として、一貫して、私たちへ関わり続けてくださり、私たちへの愛を注ぎ続けてくださるお方であって、三位一体の神さまのそのどれ一つも欠けては、神さまのその永遠の愛とかかわりは成り立たないし、あるいはそれぞれがバラバラに存在してもそれは成り立たない、神さまがまさに三位一体のお方であるときに初めてそれが成り立つ、だから神さまは三位一体のお方でなければならない、そのように私は三位一体の神さまへの信仰を抱いています。

 

でも、これも初めに申しましたように、どこかで不十分なところがある理解であり、信仰です。私たちがどのように説明しようとしても、また、どのように理解しようとしても、神さまはこういうお方で、三位一体というのはこういう信仰だということを、しっかりと十分に完璧に言い表すことはできません。しかし、それでよいのだと思いますし、そうした不十分さを私たちが受け止めていることは実はとても大切なことなのではないかと、私は思っています。なぜなら、私たちが信じる神さまは、私たちが自分の頭で理解し、口で説明できるほど、ちっぽけなお方ではないからです。私たちが捉えきれない、私たちの理解も説明も遥かに超えた偉大なお方、神さまはそうしたお方ではないでしょうか。「信仰の神秘」という言葉があります。何でもかんでもいとも簡単に水戸黄門の印籠やトランプのジョーカーのようにそれを掲げるのは、何かずるく、いい加減のような気もしますが、けれども、三位一体の信仰については、やはり「信仰の神秘」という言葉で表現するのがいちばんぴったりくるし、しっくりくると、私は思っています。私たちの理解を超えて、でも、たしかに存在し、私たちを愛し関わり、共にいてくださる神さま、これが父と子と聖霊の三位一体の神さまです。

 

さて、三位一体について説明しきれないと言いながら、その説明が長くなってしまいましたが、今日の福音のみことばを聞いてまいりましょう。今日は、一人の人物、ニコデモについてのみことばです。彼はファリサイ派に属する」人物で、ユダヤ人たちの議員であった」と言います。熱心な信仰を持っており、また人々から尊敬も寄せられていた人物だったことでしょう。ファリサイ派というのはユダヤ教の一派であり、聖書やユダヤ教の伝統の中で大事にされてきたいろんなきまり、律法を厳格に守ることを大切にしていた人たちでした。

 

彼が「ある夜」エスさまのもとを訪れます。なぜ彼は昼間ではなく夜にイエスさまを訪れたのか。昼間はユダヤ人たちの議員として」自分がやるべきことが忙しかったからかもしれません。あるいは、イエスさまとファリサイ派の人たちは少なからず対立していた関係にありました。そうした中で、日中の目立つ時間に、ファリサイ派の一員であるニコデモが、イエスさまのもとを訪れるのは、他の仲間たちに何を言われるかわからない、そんなことを彼が気にしたかもしれないとも考えられます。または、彼は熱心な信仰者として、どうしてもわからない、不安なことがあった。どうしてもそれを解決したい、答えを得たいと願って、ある夜、イエスさまのもとを訪れたのかもしれません。

 

ニコデモは、イエスさまのことを高く評価していました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」エスさまにそう語りかけます。それに対して、イエスさまはおっしゃいました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ここで福音は「イエスは答えて言われた」と伝えていますが、ニコデモのはじめの言葉に対して、このイエスさまのおっしゃった言葉は、別に「答え」になっていないように思います。あまりにも唐突なことを、イエスさまはおっしゃった、そんな風に思えます。でも、まさに、これこそニコデモが、わざわざ夜にイエスさまのもとを訪れた動機でありました。彼の心にあった信仰の疑問や不安、その求めを、彼が具体的に語りだす前に、イエスさまは先立って、ずばり、そのことについて答えられ、お話なさるのです。

 

それは人が神の国を見る」ということについてでした。神の国に入る」とか神の国に生きる」と言い換えてもよいでしょう。ニコデモは、熱心に信仰生活を送り、厳格に律法を守って、一所懸命、議員として奉仕していても、その神の国への疑問、不安を解決することはできませんでした。イエスさまはそんな彼に対して、人が神の国を見るために、新たに生まれることが必要だと、おっしゃるのです。このイエスさまの答えにニコデモは驚きました。彼は、それなりの年齢になっていたと考えられます。そんな自分が新たに生まれるなんて、そんなことができるのか、無理ではないかと、彼は思ったのです。ですから、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と、彼はイエスさまに答えます。年を取ってもう一度母親のお腹の中から生まれるなんてことできないでしょうと。

 

でもイエスさまは彼にさらにおっしゃいました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」エスさまはここで「新たに生まれる」とは、「水と霊によって生まれる」ことだとおっしゃいます。つまり、ニコデモが言ったように、もう一度母親のお腹に入ってそこから生まれることではなく、一度、母親のお腹の中からこの地上に生まれた者が、ただその人生を生きていれば自動的にやがて神の国に入ることができるというのではなく、「水と霊とによって生まれる」ことが必要だと、イエスさまはおっしゃるのです。この「水と霊とによって」とは、洗礼の水によって、そして神さまの霊、聖霊によってということです。また、イエスさまが「新たに生まれる」とおっしゃったこの言葉は、聖書のもともとの言葉ギリシア語から直訳するなら、「上から生まれる」という意味になります。つまり「天から=神さまによって生まれる」ということです。このように、ただ母親のお腹の中から地上に生まれたその人生をそのまま生きていればよいというのではなく、神さまによって生まれさせていただき、神さまとのかかわりの中で生きる、それが新たに生まれる、神の国に入る生き方なのです。

 

エスさまはそれを今日の福音で、「肉から生まれた者」「霊から生まれた者」という言葉で説明なさいます。肉から生まれた者、それは母親のお腹の中から生まれた者ということです。霊から生まれた者は、神さまによって新たに生まれた、神さまとのかかわりの中で生きる者ということです。私たちみんな肉から生まれた者です。でもただ肉から生まれた者として「肉として」生きるだけでなく、神さまを信じて、神さまとのかかわりの中で、霊から生まれた者として新たに生まれさせていただき、「霊として」つまり霊的に生きる、そのことが今日語られています。

 

エスさまは続けて、「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」とおっしゃっています。これは、私たちが新たに生まれる、水と霊とによって生まれるということは、私たちが自分で難しく考えて理解するものではなく、風が思いのまま吹くように、私たちの理解を超えた神さまの御心によりなされる働きだということです。私たちがそんなことが可能なのかと考えることではなく、また、自分がそれにふさわしいのかと悩むことでもなく、神さまがあなたを新たに生まれさせようとお決めになり、神さまがあなたにそうしてくださる、そうした出来事だと、イエスさまはおっしゃっています。

 

ニコデモはなおも理解できず、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言います。イエスさまがそんな彼に「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」とおっしゃっていますが、ニコデモは聖書の専門家、教師として頭がよい人だったのでしょう。だから自分で考えて自分で理解して自分で納得する、それがこれまでの彼の生き方だったのだと思います。でも信仰の事柄は、ただそのように自分の頭で考え理解し納得するということでは解決できないことがあるのです。先ほど三位一体について「信仰の神秘」という言葉を言いました。私たちには捉えきれず理解しきれないことがある。神さまの働きとはそれほど大きなものだと。そのことを認めることが、私たちに必要です。小さな土の器である私たちを遥かに超えた偉大な神さまです。このことを認める時、私たちは、初めて、新たに、水と霊とによって、生まれることができるのです。

 

今日のみことばの結びでイエスさまは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とおっしゃっています。これは、聖書の中の聖書とも呼ばれる、とても大切なみことばです。私たちの理解を超えた神さまの深い愛が、私たちに注がれています。私たちが救われ、永遠のいのちに生きることができるようにという神さまの熱い愛です。あなたに生きろ、生きてほしい、一緒に生きていきたい、神さまはそう切に願っておられる。聖書や信仰に関していろいろ難しいことや分からないことがありながらも、この神さまの熱い愛を受け入れるとき、その中で、私たちは新たに生まれさせていただくことができます。三位一体の信仰もまた、この神さまの永遠の熱い愛の中で受け止め、大事にしていきたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

父と子と聖霊の神さま。あなたの深い愛を私たちに注ぎ、その偉大な働きによって、私たちを創り、救い、導いてくださっていることを感謝します。あなたの導きの中で、私たちがあなたを信じ、あなたへの感謝の中を歩むことができますように。父と子と聖霊の唯一の神に栄光が代々限りなくありますように。アーメン

 

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。アーメン

 

動画 2018-05-27.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年5月20日 礼拝メッセージ(聖霊降臨祭)

聖霊降臨祭 2018年5月20日

 

「本当のいのち」

エゼキエル書37章1~14節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

今日は、第一朗読、旧約聖書エゼキエル書の37章からみことばを聞いてまいりたいのですが、そこには、たいへん不思議で、かつ、たいへんグロテスクな出来事が伝えられていました。

 

預言者エゼキエルは、神さまによって、ある谷へと連れて行かれます。「そこは骨でいっぱいであった」と言います。エゼキエルはその谷を一周させられました。するとどこも骨、骨、骨。辺り一面夥しい数の骨で満ちていました。しかもそれらの骨は、みな「甚だしく枯れていた」と伝えられます。そこにはもはや命の痕跡は一切なく、全くの死そのものの現実だけがそこにあった。そうした光景を私たちは受け止めます。

 

なぜそんなに大量の骨がそこにあったのでしょうか。9節に「これらの殺された者」という言葉があるように、そこにある枯れ果てた数多くの骨は、多くの人たちの命が奪われたもので、生きることが許されなかった。そのことを表しています。生きることを途中でやめさせられ、命奪われ、殺されてしまった人たちの骨で満ちている、その谷に、エゼキエルは独り立たされるのでした。実に壮絶な光景です。

 

多くの人たちが殺されている、その状況を思う時、私たちは、そんなに沢山の人たちの命が奪われてしまうなんて、何と酷いことがそこで起こったのだろうと思います。いろんなテロや戦争、大量殺人のニュースを聞いた時もそうした思いになります。しかし私たちがそこで忘れてはならないことは、もちろん沢山の人たちの命が奪われたわけですが、そこには一人ひとりの生きていた人がいて、その一人ひとりの命が奪われて、それが夥しい数になったということです。もし百人の骨がそこにあるなら、百人一人ひとりそれぞれの人生が奪われたということ。千人でも一万人でも、千人一人ひとり、一万人一人ひとりの人生が奪われたということ、私たちはそのことを受け止めたいと思います。

 

さて、夥しい数の枯れた骨で満たされたその谷、そこで一体どんな酷い出来事が起こったのかと考えるわけですが、神さまは驚くべきことをおっしゃいます。11節、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と」。これらの骨は実際に死んだ人たちのものというのでなく、実際は生きているイスラエルの人たちの姿だと言います。彼らが生きながら『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と絶望のうちに言っているというのです。

 

イスラエルの人たちは、神に背いた結果、国を失ってしまい、バビロニアという近隣の大きな国に強制連行されていました。彼らはそこで本当に辛い日々を過ごさねばなりませんでした。かつて戦時中、日本にも朝鮮半島や中国から多くの人たちが強制連行されてきて、辛い生活を余儀なくされました。敗戦後、外国の地に残され、大変辛い思いをした日本の人たちもいます。また、沖縄は長い間アメリカの占領下で主権を奪われて人々は暮らしていました。このように他の国で、あるいは他の国の占領下で生きるということはたいへん辛いことです。イスラエルの民は、その生活の中で疲弊し、命が枯れて、希望を失ってしまう苦しみを経験していたのです。生きながらにして死んでいる、命奪われてしまっている、そんな現実の中で暮らしていました。まして、それが自分たちの罪のゆえであり、それゆえに神さまとの関係も絶たれてしまった。彼らにとって耐えがたい日々でした。

 

そうした状況の中で、神さまはエゼキエルに尋ねます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるのか」。普通に考えるなら、もはや生き返るのには難しい、無理な状況です。枯れ果てた骨、命の欠片もないその骨、希望を失い命が枯れて生きている人々。もはやそこに命の希望を見出すなんて不可能なそんな状態です。でもエゼキエルは答えます。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」私たち人間的な目で見るなら、そこには命も希望も全くない。すべては枯れ果ててしまっている。でも、そうした中で、なお一つの望みをエゼキエルは神さまに託すのです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。神さまあなたのみが、ただあなただけが、この状況をどうにかしてくださいますと。

 

しかし、神さまは、ただ超自然的な現象でその枯れた骨をパッと生き返らせるのではなく、エゼキエルに命じます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしは主であることを知るようになる」。

 

そうです。この枯れた骨、命も希望も絶たれた人たちが今一度生き生きと生き返るのには、主の言葉が彼らに語られることが必要でした。神の言葉が語られる、ただこのことによってのみ、枯れた骨、命奪われ、希望を失った人たちが、もう一度生きる者とされるのです。そして、そのための働きが預言者エゼキエルに命じられます。神がパッと起こす超自然的な現象によってではなく、神さまは、ご自分のしもべ、働き人を用いて、生きる希望を奪われている人たち一人ひとりにみことばを語りかけることにより、命の希望を届けられるのです。

 

エゼキエルは、神さまの語ることに従い、主の言葉をその枯れた骨に語りかけました。すると何とも不思議なことが起こるのです。「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨が近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」。ありえないことがここで起こります。枯れていた骨が、カタカタと音を立てて、もう一度生きる者とされたのです。神の言葉が語られることによってです。命も希望も奪われたところ、そこに主の言葉が語られるとき、命が生じます。人に新たな命、新たな希望が与えられるのです。

 

けれども、その生き返りつつあった人々にまだ一つだけ欠けているものがありました。「しかし、その中に霊はなかった」と、エゼキエルが証ししている通りです。天地創造の出来事を思い出します。神さまは初めの人アダムをお創りになられた時、土でその形をかたどられました。けれども、それはまだ土の人形、土くれであり、生きた者にはなりませんでした。そこで神さまはどうされたか。その土の人形、土くれに、神さま自らが命の息を吹き込まれたのです。その時、初めてそれは人として生きる者となりました。神さまの命の息が人の中に吹き込まれること、そのことが人が人として生きるためにどうしても必要だったのです。私たちもただ生きているだけでは、本当の意味で人として生きていることになりません。神さまの命の息が吹き込まれて、神さまとのかかわりの中で生きて、初めて人として生きる者とされます。

 

今日のエゼキエル書では、「その中に霊はなかった」と語られていますが、実はこの「霊」という言葉と、創世記の命の息の「息」という言葉は、旧約聖書のもともとの言葉であるヘブライ語では同じ言葉です。人の中に霊がないということは、神の命の息がないということを表しています。神さまはエゼキエルに命じておっしゃいます。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る」。エゼキエルは神さまに命じられた通りにしました。すると、霊が人々の中に入り、生き返って自分の足で立ったと、今日のみことばは伝えています。「彼らは生き返って自分の足で立った」印象深い表現です。今まで枯れ果てて命も希望も奪われていた彼らが、神の言葉が語られ、その霊が自分の中に吹き込まれると、生き返り、自分の足で立った、自立した歩みをするのです。そして「彼らは非常に大きな集団となった」といいます。満たされていた枯れた骨がみんな生き返り、命満ちる谷となりました。

 

「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と嘆いていたイスラエルに、神はエゼキエルを通して語られます。「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く」。神さまはこのように「わたしはお前たちの墓を開く」とおっしゃいます。墓、もう望みもなく、命もない、その終焉の場所。けれども、神さまはそこで人に命を与えられます。その墓の中から人を引き上げ、イスラエルの地、命の故郷へと連れ帰ってくださるのです。何の希望もない。もうだめだ。死ぬしかない。そんな墓の現実。でもそこでこそ、主の言葉が語られ、神の霊が吹き込まれて、墓から引き上げられ、新たに生きる者とされるのです。

 

これはエゼキエルの時代に起こった出来事を証しているものです。けれども、私たちはこれをただの過去の歴史上の出来事として聴くだけではなく、私たちの物語として受け止めることが、今日求められています。私たちの周りで沢山の枯れた骨を実際に目にすることはないかもしれません。けれどもこの世の大きな力の中で、生きながらにして生きる希望を失っている人たちが大勢います。命枯れた思いの中で過ごしている人たちがいます。悲しみの涙も枯れてしまい、心がカラカラで生きている人が多いのです。いろんな凶悪な全国な事件が私たちに知らされます。これもまた生きる希望を失った人たちの現実でもあります。このように枯れた骨で満たされた谷は、何も過去のエゼキエルの時代のことだけでなく、今日のこの私たちの社会の現実でもあるのです。

 

神さまはそうした中で私たちに尋ねられます。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるのか」。私たちは、その問いに何と答えることができるでしょうか。命枯れてしまった人たちで満たされたこの社会で、その人たちが生き返ることができるのか。この問いに私たちは答えを持ち合わせておりません。でもエゼキエルの声が私たちの心に響いて聞こえてくるのです。「主なる神よ、あなたのみがご存じです」。そうです。この現代においてもまた、人々が生き返ることができるのかというその問いに、私たち自身は答えを持ち合わせていないけれど、神さまだけがその答えを知っている。神さまだけがそこに答えを与えてくださるのです。

 

神さまは私たちにも命じます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。」もうだめだ、何の希望もない、生きていけない、そう思われるまさにそうしたただ中、枯れた骨の谷の真ん中で、私たちは主の言葉を語ることが命じられています。何らかの希望があるから、実りを期待できるから、神の言葉を語るというのではありません。一つも希望がない、何の期待もできない、枯れ果てたその場所で、私たちは神の言葉を語るのです。

 

その神の言葉をどう語るのか。ただ字面を追って語るのではありません。ただ学問的に教えるのでもありません。神さまは私たちに命じておっしゃいます。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る」。そうです。その人に神の霊が、神の命の息が吹き込まれて、その人が生き返り、自分の足で立って歩むことができるように願いつつ、生ける神の言葉を語るのです。その時、命の奇跡がそこに起こります。

 

枯れ果てた骨がカタカタと音を立てて組み合わされ、肉や皮膚がつき、立ち上がり、神の霊によって生き返る。普通に考えるならあり得ない驚くべきことが、主の言葉がその人に語られ、その人に神の霊、命の息が吹き込まれるとき、そこに起こるのです。

 

今日は教会の暦で聖霊降臨祭、ペンテコステです。イエスさまの復活から50日たった五旬祭の日、イエスさまの弟子たちに、神さまの霊が降り、彼らが力強く神の言葉を宣べ伝え始めました。そのことで多くの者がキリストの救いを信じ、永遠のいのちに生かされ、信じる者の交わりであるキリストの教会が誕生したのです。それからおよそ2千年が経過した私たちもその出来事の流れの中にあります。私たちも、この枯れた現代に、神さまの霊に導かれ、出会う一人ひとりに神の言葉を語り、命の息がその人に与えられることを願って働きたいと思います。

 

何の希望もないようなところでも、何の期待を持てないようなところでも、そうした枯れた骨の谷のただ中で、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と、神さまの働きを信じ、私たちに託された働きを担い続けたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

神さま、あなたのみことばと聖霊によって私たちを生き生きと生かしてください。どうか私たちが困難を抱えるこの現代に、あなたの霊に導かれて命のみことばを語り続けることができますように、主イエス・キリストによって。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

 

動画 

2018-05-20.MP4 - Google ドライブ

 

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