yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

黙想 マタイ22:1~14

マタイによる福音書22章1~14

1エスは、また、たとえを用いて語られた。2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」 

 

黙想

 

天の国のたとえ。「ある王が王子のために婚宴を催した」。王~主である神、王子→御子キリストを、それぞれ表す。天の国での王子の婚宴~天の国でのキリストの大きな喜びの宴。

 

しかし、その願ってもみない宴席に、予め招かれていた招待客たちが来ない。神の恵みを忘れてしまったり、天の国を捨ててしまったりしてる私たちの姿。

 

王は、使いを出して、彼らを呼びに行かせる。神は、天の国の招きを忘れて過ごしている私たちに、恵みを思い起こさせてくださる。そして、再び天の国へと招いてくださる。

 

「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」。神の招きを無視する私たちの姿がここで語られる。「畑」のことや「商売」のことに夢中になる人たち→自分の日々の生活のため、収入を得てそれを浪費する欲のため、そのように、天の国よりも他の様々なことに忙しい私たち。さらには、神の招きを無碍に扱い、自分の心の中から追い出して、なかったことにしてしまう。

 

天の国の宴に連なることをどれほど大きな、尊い恵みとして受け止めているのか。軽いちっぽけなものとしてしまっていないだろうか。

 

最初の招待客が婚宴に集わなかったため、王はその補充として違う人たちを招かれる。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい」「だれでも」である。そこで資格は問われない。本当ならふさわしくない、招かれなかったはずの人たちが、ただただ神の恵み深い招きのみによって、だれでも天の国に招かれる。

 

「見かけた人は善人も悪人も皆集めてきたので、婚宴は客でいっぱいになった」。このように善人も悪人にも天の国に招かれた。ただ神の招きのことばをかけられたという事実によってのみ。みことばのみ、聖書のみ。

 

また、言い換えるならば、たとえどれだけの善人であっても、その人が善人であるという理由によっては、天の国に入ることはできない。彼らは最初は招かれていなかったのだ。神の招き、神の恵みがあって初めて、天の国に招かれる。どれだけ素晴らしい善人であろうと、どれだけ極悪な悪人であろうと。行為義認ではなく、恩寵義認。私たちの行いに先立つ神の恵み。

 

さて、そこに一人礼服を着ていない人がいた。その理由を王に尋ねられたが、彼は黙っていた。もし正当な理由があるなら、彼は申し出ればよい。しかし彼は黙っていた。きっと礼服を着ることを拒否したのであろう。すると、結局、彼はその宴席から追い出されてしまった。そしてそこで悲しみ苦しむことになる。せっかく招かれたのに、何と残念なことか・・・。

 

これは何を意味しているのか。天の国に入るために、私たちは着飾らなければだめなのか。ありのままの私ではだめなのか。自分を覆い隠す必要があるのか。自分でない自分にならなければならないのか。

 

ここでは、天の国への招きに応える私たちの姿勢について語られていると受け止めたい。私自身のそのまま姿では、やはり天の国にふさわしくないのだ。なぜなら、私たちは神の前に罪を抱え、汚れある一人ひとりだから。

 

だから、礼服を着て、天の国の招きに応えねばならない。それでは、礼服とは何か?

 

私たちにとっての天の国の宴に着ていくべき礼服は、イエス・キリスト十字架の小羊の血によって洗われた白い衣を着る(黙示録)。イエス・キリストを身に帯びて生きる。キリストを着て生きる(ガラテヤ3:27、ローマ13:14)。

 

恵みのみに応えて、贖い主キリストを着る私たち。恵みに応える信仰。信仰のみ。

 

礼服は既に用意されている。神の招きの言葉に応え、その礼服キリストを着て、天の国の宴に行こう。私の側に何の理由もないが、ただただ神の恵みによってのみ招かれたその宴に、ふさわしいのはキリストを着て集う者なのだ。

 

宗教改革主日。恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ。

 

神の恵み深い招きの言葉、聖書によってのみ恵みを知らされる。人の側に救いの理由はこれっぽっちもなく、ただただ善人も悪人も誰であっても招かれる恵みのよってのみ、私たちも天の国の民とされる。その恵みを、私たちはキリストを着て、キリストの救いを信じることによってのみ受け入れるのだ。

 

その恵みをいただいた者として、救いの完成の日を待ち望みつつ、罪の世界を忘れ、前を向いて、ひたすら走り続ける。(第二朗読 フィリピ3:12~16)

 

宗教改革500年・大麻ルーテル教会50年礼拝。この信仰によって500年、また、50年を重ねてきた私たち。今ここで、その歩みを続けていく。新たな気持ちをもって、喜びと感謝のうちに。

 

「立て、我らはシオンに上ろう、我らの神、主のもとに上ろう」!(第一朗読 エレミヤ31:1~6)