yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

性差を問わない牧師按手について

「男と女」

~互いに向き合い協働するパートナーとして~

 

*これまたハードディスクから発見されたのでアップします。いつまとめていつ発表したのか、しなかったのか、全然覚えておりませんが・・・。このブログ、ワードからコピペすると、ちゃんと脚注は、文末に注として入れてくれるんですね!びっくり!

 

はじめに

 筆者が所属する日本ルーテル教団(NRK)では、現在、女性の牧師按手をめぐり、その是非についての議論がされている。その中で、聖書的には、1974年教団総会におけるいわゆる「名尾文書」がNRKの唯一の公式見解である。すなわち、聖書において、女性に対する牧師按手は明確に定められても禁じられてもいない、いわゆる「アディアフォラ」の事項であり、それゆえ、もし地域教会が女性の牧師を必要とする時には、教団総会における教団規則の改正という正規の手続きを経て、これを導入できるという立場である[1]。NRKは、これを総会の総意として受け入れ、今もその立場を継承しており、筆者も基本的にそれに同意するものである[2]

 米国ミズーリルーテル教会(LCMS)と私たちNRKとの間の協議会において、私たちがこの女性牧師按手について決断する際に、何よりも聖書を基盤として考えることが大切であることを、LCMSもNRKもともに確認した。しかし、女性牧師職についてアディアフォラな事項であるとするNRKの見解に対して、LCMSは女性牧師職が聖書の教えに合致しないものであるという立場であり、両教団の聖書的理解の一致をみることはできなかった[3]

 本稿では、女性牧師職を聖書では明確に定められても禁じられてもいないとする従来の見解を認めつつも、そこからさらに一歩進んで、女性と男性がともに牧師職に仕えて働くことのより積極的な聖書的な意義を、筆者なりに考察したものをまとめたい。

 

1.創造の秩序の観点から[4]

(1)創世記1章

 創世記1章は、神が人間を創造した際の様子を次のように伝えている。≪神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。≫(1:26~27)[5]

 このように、神はご自分に似せて、ご自分にかたどって人を創り、この世の命を支配する務め、すなわち、神が創造したこの世界を大切に支え配慮する使命を、人に与えている。ここで、神に似せて、神にかたどって創造された人は、男と女の両性であった。また、この世界を支え配慮する務めを神が与えたのも、男と女の両性に対してである。

 それゆえ、男だけが神のかたちを反映しているのでもないし、男だけで神から与えられた務めを担うことを神が意図しているのでもない。繰り返しになるが、神は、ご自分のかたちを反映する男と女の両性に対して、この世を支え配慮する務めを与えられたのである。男のみならず、女もまた、男と同様に、神のかたちを反映し、神から託された務めを担うべく創造され生かされているのだ。

 この創造について、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と創世記は伝えている(1:31)。男性と女性がともに神のかたちを反映するものとして、神から託された働きに両性が協働して仕えること、これが創造の秩序に適う「極めてよい」状態であり、私たちもまた目指し、立つべきところである。

 

(2)創世記2章

 創世記2章における創造物語では、1章とは多少異なり、神はまず初めに一人の人を創造し、その後にもう一人の人を創造したことが伝えられている。そして、そのことの経緯について、次のとおり語られる。≪主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」≫(2:18)

 ここで「助ける者」と訳されている言葉は、誤解されて受け止められることが少なくない。すなわち、最初に創造された男の下で助けて働く、助手やアシスタントのような存在として、後から創造された女を受け止める理解である。しかし、この「助ける」は、もっと積極的な強い意味を持つ言葉である。ここで、ヘブライ語「エーゼル」という言葉が使われているが、これは、もともとその存在がなければ、自分の命が危うく、自分が存在しえないような力強い助け手のことを意味する。聖書の別の個所では、「神が私たち人類を助ける」という意味で用いられる言葉である。たとえば、詩編121編1節~2節で、この「エーゼル」が用いられている。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」それゆえ、創世記2章18節で言われる「助ける者」も、「女が男の下で、男より低い立場で、助手・アシスタントのように働く」ということを意味しない。男にとって、女はなくてはならない存在として与えられるのだ。

 また、「彼に合う助ける者」は、以前私たちが用いていた口語訳聖書では「ふさわしい助け手」と訳されていた。この「ふさわしい」ヘブライ語「ケネグド」という言葉が用いられているが、これは「相対する」、「向き合う」という意味である。すなわち、「彼に合う助ける者」「ふさわしい助け手」は、「互いに向かい合って助け合い、補い合って、お互いの存在にとってなくてはならないかけがえのないパートナー」の意味である。

 最初に創られた人であるアダムは、このように神によって与えられたかけがえのないパートナーであるエバと向き合い、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女と呼ぼう/まさに、男から取られたものだから。」(2:23)と喜びの叫びをあげた。ここで、人は初めて男女として性を持つ者として互いに向き合い、いのちを分かち合う存在として、喜びをもって歩む者とされる。

 新約聖書テモテへの手紙一2章12節、13節では、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。」とあるが、しかし、創世記2章そのものの脈絡から受け止める時、この最初の男女が互いに向き合うまでは、創世記は、いわゆる性別について明確に語ってはいない。彼らが互いに向き合った時はじめて、彼らは男と女として出会い、その二つの性が互いに協働するパートナーとして歩む関係が生み出されるのである。

 また、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創2:25)と伝えられるように、男と女はお互いの存在をありのまま喜び合い、受け止め合って歩んでいく。そこにはどちらが上で、どちらが下という区別は語られていない。

 このように、私たちは創世記2章の創造物語からも、男と女が互いになくてはならない存在であり、ともに助け合って協働することが、神の創造の秩序に従う私たちの姿勢であることを受け止めることができる。また、それゆえに、前掲のテモテへの手紙一2章の記述をもとに、創造の秩序によって女性牧師職が禁止されていると判断し、主張することはふさわしくないと考える。

 

(3)創世記3章

 創世記2章で、そのように互いに向き合うかけがえのないパートナーとしての歩みを始めた男と女であるが、創世記3章では、残念ながら、その歩みに重大な破れが生じたことを伝えている。その破れは、善悪を知る木から決して実を採って食べてはならないという神の命令を、最初に創造された男女が守らなかったことに起因する。

 はじめに女がその実を採って食べ、次に男も女から実を受け取って、それを食べたことを創世記は伝えている。これについて、前掲のテモテへの手紙一2章では、「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。」(2:14)と語っている。たしかに蛇から直接騙されたのは、女であるエバであった。しかし、だからと言って、男アダムは罪を犯さなかったのか?断じてそうではない。アダムもまたエバから言われるままに、その実を採って食べたのである。

 しかも、神から直接「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創2:16,17)との命令を聞きとったのは、他でもなくこの男アダムである。その時エバはまだ創造されていなかった。そうであるならば、たとえエバが実を採って食べたとしても、アダムはそれを拒否しなければならないだろうし、さらに、アダムには神のことばを直接聞きとっている者として、エバを咎め、その罪を止めさせる責任があるはずだ。

 そうであるのに、エバと一緒になって、それを食べた「アダムはだまされませんでした」というのは、あまりにも男性(の筆者・そして読者)にとって都合が良過ぎる解釈である。これは、それこそ、創世記3章で、アダムの罪を問う神に向かって、彼が「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(3:12)と反論し、責任逃れしている姿と同じであると言わざるを得ない。創世記3章は、アダムもエバも神のことばに従い得なかった、最初に創造された男も女もともに罪を犯したという事実を伝えているのであって、テモテへの手紙が語るように、どちらか一方の性の罪深さを指摘しているのではない。

 この罪の結果、女エバは神から裁きのことばを受ける。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」(3:16)。ここで男と女の間で支配と服従の関係が生まれた。しかし、あくまでこれは人の罪の結果として生じた不均衡である。それゆえ、私たちは、この支配と服従という不均衡な関係の中に安住してよいのではない。「男が上、女は下」、「男は支配し、女は服従する」、私たちは、こうした罪の結果を乗り越えて、神が本来意図した関係、すなわち、互いに向かい合い、助け合い、喜び合う協働性を目指し、努力し、実践しなければならないのである。

 

2.聖書の中での女性の働き

 旧約聖書の中に、モーセの姉ミリアム(出エジプト記民数記)・預言者ならびに士師デボラ(士師4章・5章)・王妃エステル(エステル記)など、指導的で重要な立場でイスラエルの民を導いた女性たちが登場する。人々は、彼女たちを神が立てた指導者として敬意をもって接したことを、聖書の記述から私たちは受け止めることができる。

 また、新約聖書においても、イエスの母マリアやイエスの復活を最初に証言したマグダラのマリア、そして、使徒「ユニア」(ローマ16:6。新共同訳では「ユニアス」と男性名とされているが、古い写本や教父たちの説明によれば、「ユニア」という女性であったとされている[6])、奉仕者フェベ(同1)、家の教会の主宰者プリスカ(同16:3、使徒18<「プリスキラ」は、「プリスカ」と同一人物である>、Ⅰコリ16:19、Ⅱテモテ4:19)など、初代教会の宣教の最前線で働き、教会の基礎を築いたリーダー的立場であった女性たちが少なくなかったことを、私たちは知らされる。

 男性たちが書き記し、男性たちが解釈して伝えてきた聖書であるため、たしかにそうした女性たちの働きは男性たちのそれと比較するとき、数としては少なく記述されていることは否めない。しかし、そうであっても、そうした中で、なお、聖書記者たちがこのように女性たちの働きを無視することができなかったということは、旧約聖書の時代のイスラエル共同体も、また新約聖書の初代教会も、女性と男性の協働により神の働きに仕え、その働きを神が用いて、救いの歴史が進められていった事実の証言として受け止めることができるだろう。神は男性をも女性をも自由に、ご自分の救いの働きのために用いたもう。私たちがそれを拒むことができようか。

 

3.イエス・キリストの弟子としての働き

 イエスに従ってきた弟子たちのうち、男性たちは自分自身の地位を求め、少しでも自分が上に立ち、自分たちの働きに他の者の働きを従わせようとし、自分たちの意に従わない者を排除しようとした(ルカ9:46~56など)。そうした弟子たちに対して、イエスは、十字架の歩みに従い、仕えることの大切さを教えた(マルコ9:35,10:43ほか)。しかし、彼ら男性の弟子たちは、イエスの十字架を前に、イエスを裏切り、イエスのもとから逃げてしまった。それに対して、女性の弟子たちはなおも最期までイエスに仕え従う歩みをした。

 「イエスは男性だけを使徒として選んだのだから、それゆえ、女性は牧師職に就くことができない」と主張される場合がある。しかし、福音書は、男性よりも女性の弟子たちを最期までイエスに従い仕え、イエスの御心を行う弟子としてふさわしい歩みをしたことを伝えている。そして、そうした彼女たちが男性の弟子たちよりも早くキリストの復活に出会い、主の復活を宣べ伝える証人とされていくのだ。

 また、「男性であるキリストに代わって、人々の上に立つ牧師の働きを、女性が担うことは許されていない」という主張もなされる。しかし、そもそも牧師職は、「人の上に立つ」働きなのだろうか。牧師職は、そのように「上に立つ働き」ではなく、イエスが教えるように、十字架の歩みに従い、主と人に仕える働きではないだろうか。イエス自身、次のように語っているとおりである。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)

 さらに、「キリストに代わる」と言っても、私たち牧師がキリストの身分を代理するわけではない。ましてや、私たち宗教改革の伝統に立つ教会にとって、救いの働きはただ神のみが一方的な恵みとしてなさるものであり、私たちがそれを「代理する」ことなど不可能である。また、キリストの生涯も、ただ一度きりのものであって、それを私たち人間の側で繰り返すことなどできない。それゆえ、牧師職は、キリストが教会に委ねたみことばと聖礼典の執行の使命を、その務めに召された者が担って実践するものであり、それは男性だけが可能で、女性には不可能な働きという性質のものではない。

 イエスは次のように語っている。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)。このイエスの選びと招きの言葉を、男性だけに向けて語られていると私たちが聴き取るのか、あるいは、男性と女性の両性に向かって語られていることばとして聴き取るのか。筆者はもちろん後者として受け止めたい。女性も男性もともに、キリストはご自分の弟子としての働きへと招いておられる。

 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26~28)

 

結び

 私たちNRKにおいても、これらの聖書が語る精神をより積極的に受け止めて、女性と男性がともにキリストに従い仕えて、牧師職に従事し、福音宣教の働きを、両性の協働の中で進めることが可能となることを、筆者は切に祈り願っている。

 今日の日本でも、多くの女性が男性とともに社会の中で活躍している。また、少なからずの混乱や不安を抱えるこの国の中で、多くの女性が女性固有の悩みや課題を抱えながら過ごしている。社会の中で、あまりに男性が中心で優位に立って営まれてきたことにより、多くの歪みがいま見られる。私たちのNRKにおいても、教会員や求道者の割合は圧倒的に女性が多い。

 そうした現状の中で、今までのように男性だけが牧師として働くことをもっては、私たちが主から託されている福音宣教の働きを十分に展開することができないのではなかろうか。女性も男性も協働する中で、それがより豊かに進められ、主の委託に応えることができることを、筆者は信じる。

 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19,20)、牧師就任式でも語られるこの大宣教命令は、男性だけに向けて語られているものではない。女性と男性の協働の中で担われるべき働きである。

以上


補論 女性の牧師職を禁じるとされる聖書箇所について

 

1.コリントの信徒への手紙一14章13節、14節

 「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」、この聖書のことばをもとに女性が牧師職に就くことを認めない立場の教会があり、人々がいる。私たちNRKのあの1970年代もこの聖書のことばがクローズアップされた。

 これは、「名尾文書」が語るように、「語る」ということが「べちゃくちゃおしゃべりする」という意味であると受け止めることもできるだろうし、あるいは、当時のコリントの教会では、かなり力を持った女性預言者たちが活躍していて、パウロはその働きに脅威を覚えていたという解釈もなされる[7]。そのいずれにしても、当時のコリント教会の置かれた脈絡の中でパウロ個人が語っているものとして、この言葉を受け止めるべきであって、これを全時代の全教会を規定する「戒律」「律法」のようなものとして受け止めるべきではない。

 むしろパウロがこのように戒めなければならないほど、女性たちが教会の中で豊かに教え、語っていた可能性(もしかしたらその働きが、かなり行き過ぎたものであったかもしれないという可能性を含めて)を、この聖書のことばから私たちは受け止めることができよう。

 

2.1テモテ3章1~7節、テトス1章7~9節

 この二つの聖書の箇所は、私たちNRKの教団規則第2章第5条一の牧師職を男性と限定する条項の根拠として掲げられている。しかし、この聖書のことばを、牧師の身分的な条件として、男性であることを規定している教えとして受け止めることはふさわしくない。

 まず、この聖書のことばを牧師職の身分的な条件を定める規定とするならば、女性のみならず、独身男性もまた、牧師として働くことが不可能となる。しかし、今までNRKにおいて牧師となる者が結婚しているか否かは問題とされてこなかったし、実際に、独身男性が牧師職に仕えて働いていた事実が、つい近年もあった。

 ここでは、男性か女性かということよりも、もっと根本的な姿勢が問われているのだ。

 ≪この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。≫(Ⅰテモテ3:1~7)

 はたして私たちNRKのすべての牧師たちが、自分は「非の打ちどころのな」い人物であると言えるだろうか。また、「節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができ」ているだろうか。「酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている」、これらの言葉をすべてしっかりと守る生活ができているであろうか。「高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねない」、これを自分にとって無縁の言葉として受け止めることができるだろうか。少なくとも筆者自身は、これらのことばの前に、ただ反省と悔い改めに導かれるばかりである。

 「監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません。そうでないと、健全な教えに従って勧めたり、反対者の主張を論破したりすることもできないでしょう。」(テトス1:7~9)とのことばの前にも同様、やはり真摯に反省することしかできない自分自身の姿を思う。

 こうした自分の姿勢を省みる時、ここで指摘されているのは、実は男か女かという性差の問題ではなく、私たち自身の献身する者としての資質が問われているということに気づかされる。もし、ここで特に、男性の牧師たち(もちろん筆者自身を含めて)がこれらの聖書のことばを根拠として、女性の牧師が認められないと主張するならば、同じ聖書のことばで自分たちもその働きにふさわしくない者とされていながら、それについては不問に付していることとなり、そうした立ち方は二重規範ダブルスタンダードとしか言いようがないであろう。

 男も女も神の前に自らを悔い改めつつ、与えられた職務に謙虚に仕え働くことの大切さを、私たちはこれらの聖書のことばから受け止めつつ、性差を超えて福音の宣教のために、そして、牧会の働きのために協働する者でありたい。

以上

 

《 資 料 》 

1974年教団総会決議

(いわゆる「名尾文書」)

婦人按手に関する説明

1970年10月31日付、美唄ヨハネルーテル教会代表、林忠憲、牧師エルノ・セドラック両氏から、常議員会宛に、下記のような議案が提出されました。この本文は1970年度の第四回常議員会議事報告の付録にあります。その要旨は、日本福音ルーテル教会が熊本での総会で、婦人に牧師職につく按手をほどこしたことは聖書の教えに反するので、日本福音ルーテル教会と交わりを持つわが教団はこれに対して公に抗議しなければならない、ということです。

これに対し、常議員会は70-119で、この問題の重要性を認め、特に教団が他の教会に公に抗議する場合、総会の議決を得なくてはならないので、議長がこの問題を検討し、教会と牧師と連絡をとって報告するようになっています。

その後、美唄教会を訪問し、セドラック牧師とも数回文通したり、面談してこの問題についての理解を深めてきましたが、特に1972年6月1日付のセドラック牧師から私への質問に、婦人が牧師職につくことは第1テモテ2:11-14と第1コリント14:33-38に明らかに禁じられているではないか、とありました。

本報告では婦人の教会における地位などのことは省略し、上記の聖書箇所が明らかに婦人が牧師職につくことを禁じているかどうかを調べてみることにします。(セドラック師には同年6月12日付返事、発送は義母の葬儀などで遅れた)

この問題について、私はできる限り多くの論文やセドラック師の北海道地区教職会におけるこの問題についての論文も参考にしました。

婦人が牧師職につくことが聖書に明らかに禁じられているか、いないか、それをいかに今日の教会に適用するかの問題は、解釈学と教理学の立場で検討されなくてはなりません。教理学上、聖書に、はっきり教えていない教理をアディアフォと言います。アディアフォの箇所は、聖書全体から見直し、教会の秩序を保つために現代の教会の規則として用いなければなりません。

次に解釈学の立場で上記の聖書の箇所がアディアフォかどうかを調べてみます。事実、この聖書箇所はルーテル教会ミズーリ・シノッドが教会における婦人の投票権を禁ずる教理の根拠として取り上げていた箇所であり、わが教団の初代期にも問題になったにがい経験を私は持っています。昨年のミズーリ・シノッドの総会には何人もの婦人の教会代表者が出席していました。アディアフォラの適用は時代と場所によって変わるものであることが分かります。

(1)まず、牧師職というとき、その最初にして最も重要な務めは、聖書の福音を純正に説教することであります。上記の聖書箇所は、婦人が教会で説教することを禁じているかどうかを調べてみます。

この箇所に限らず、ある特定の箇所を文脈(コンテクスト)から切り離して、その文字どおりを現代に適用すべきではありません。聖書記者が当時の状況のもので伝えるメッセージの中で、その箇所を解釈して現代に適用しなければなりません。

(2)まず第1テモテ2:11-14の中で、特に11節一12節を取り上げてみます。それは婦人が教会で説教をするのを禁じるためにこの箇所がしるされているかに関係するからです。この章全体の主旨は信徒が(2節)当時の社会にあって、家庭で敬虔にまた静かな一生を過ごすため(2節)にしるされています。それで8節が男について、9節以下が女についてであります。ここに使われている女という原語は次章(第1テモテ3:2、12、5:9)に使われている「妻」と同じ原語であります。この語はマタイ1:20、24、5:31など多数が妻の意味です。8節の男も、上記の次章の3:2、12、5:9で「夫」であります。

ですから12節の「私は女が教えたり男を支配したりすることを許しません」はエペソ5:22節以下の妻たちの夫に対する従順さを教えているのと同様であります。ここでは女性一般の教会での生活を言っているのではなく、家庭にあっての夫婦関係の生活について教えているのです。

でなければ、15節に「女は子を産むことによって救われます」というのは未婚の婦人にとってはできないわざです。12節の「黙っていなさい」(新改訳)は口語訳の「静かにしているべきである」のように、この原語は2節の「静かな一生」や第2テサロニケ3:12の「静かにする」ことで説教に関係ありません。

(3)次に第1コリント14章全体は教会(集会)において預言し、異言を語る場合、秩序が立てられなければならないことを教えています。第1コリント11:4では女も集会で祈り預言しているからです。この14:33-35の女も上記(2)の場合と同じく妻を意味しています。それで34節に「女は教会で黙っていなさい」と言い、35節で「もし何かを学びたければ家で自分の夫に尋ねなさい」とあります。これが女性一般であると文宇どおり解釈すれば、現代の教会で未婚の女性はどうしたらよいでしょう。美唄教会で会員の方々と懇談したとき、ひとりの婦人にご主人はキリスト者ですかと尋ねたところ、未信者の方でありました。婦人が教会で何かを学びたいとき(35節)、それでも未信者の夫や家庭の人々に相談しなければならないとここで教えているのでしょうか。この箇所は第1ペテロ3:1-2が参考になります。

(4)この34節の「女は教会で黙っていなさい」の「黙する」の原語にも「静かにする」(使12:17)の意がありますが、ここは文字どおり「黙る」ことで、これは28節、30節の男たちも「教会では黙っていなさい」と言われているとおり、預言する順番を待って集会での秩序を保つためであります。

次に「彼ら(女たち)は語ることを許されていない」の"語る"の原語は古典では「おしやべり」の意に使われ、新約では話す、語るとして多く用いられ、黙示録4:1ではラッパが「鳴る」、10:4では雷が「とどろく」意味に使われています。

次の「律法も言うように、女は服従しなさい」というのは、女は語ってはならないと律法(旧約聖書)に禁じているのではなく、その用例もありません。ここでは「服従しなさい」ということだけを夫婦関係で前記の第1テモテ2:11、12と関連して創世記3:16に言及していると思われます。

35節の「教会で語ることは女にとってふさわしくない」(新改訳)「教会で語るのは、婦人にとって恥ずべきことである」(口語訳)の「女」「婦人」も前述のように「妻」の意味で、集会に夫婦そろって出席しているとき、何かの問題をべちやべちやしやべってはならない、何かわからないことがあれば(35節)教会では黙っていて、家に帰って自分の夫に尋ねなさい、と言って集会での秩序が乱されないために、このことが言われているのです。この"語る"はどうしても説教することには解されません。むしろ39節ではみんなが「預言すること異語を話すこと」をすすめています。そして最後(40節)に「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい」と結んでいるのは、そのためです。

(5)こうして前記の聖書箇所は、婦人が教会で説教することを明白に禁じていません。これはアディアフォラの問題であるので、現代の教会では、教会の秩序を保つために、その必要に応じて適用しなければなりません。

私たちの教団では1970年の総会の席上、全教会が現在、婦人を牧師として招聘する意志がないことが表明されましたから、今日は、憲法規則を変更する必要はありません。しかし教会が必要とする場合は、そのとき、改むべきでありましょう。

(6)日本福音ルーテル教会が婦人に牧師職の按手を施したのは、教会の秩序を保つ必要からであって、これは明らかに聖書の教えに反した行為でないので、わが教団がこれに公に抗議する必要はありません。抗議するときには、明らかに聖書の教えに反する行為があったときのみで、その場合は聖壇と講壇の交わりも絶つべきときであります。

アウグスブルグ信仰告白は、聖書の根本的な教理を受け入れる以外には、何事においても一様さが必要でないことを主張しています。

 

[1] 「名尾文書」は、1974年の教団総会で当時の教団議長、名尾耕作名で発表され、可決された文書。当教団と聖壇と講壇の交わりの関係にある日本福音ルーテル教会が女性に対して牧師按手を実施したことに対して、これに公に抗議すべきという提案が一地域教会から出された。それに対して、抗議しない旨の執行部提案の根拠として、同文書は発表された。文書は、日本ルーテル教団「教会だより」525号に掲載されている。なお、その後、第12回教団総会に向けて、女性牧師職実現のため、教団規則改正の提案を計画していた地域教会がNRKの「信仰と職制委員会」に女性牧師職について諮問した際に、この「名尾文書」が現在も私たちの教団の聖書的公式見解であると答申がなされた。これについても「教会だより」525号を参照のこと。

[2] ただし、アウグスブルク信仰告白第7条に「教会は聖徒の交わりであって、その中で福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行される。そして、教会の真の一致のためには、福音の教理と聖礼典の執行について同意すれば、それで十分である。」(「一致信条書」、聖文舎、38頁)と述べられており、教会が教会であるための基本である福音の説教と聖礼典の執行に携わる教職者について私たちが考える際に、この重要な課題を「アディアフォラ」であるとすることに対しては、筆者の中に疑問も残ることを注記しておく。

[3] 「女性牧師按手をめぐるNRKとLCMSの協議会 共同声明」を参照。「教会だより」547号に掲載。

[4] 本論の(1)(2)については、日本フェミニスト神学宣教センター主催の第一回セミナーにおける山口里子の発題が参考になった。(発題内容は、同センター「通信」第2号を参照のこと)

[5] 以下、聖書の引用は、特に断りがない限り、日本聖書協会「新共同訳」による。

[6] 荒井献「初期キリスト教の霊性―宣教・女性・異端」(岩波書店)2009ほかを参照のこと

[7] A.C.ワイヤ(絹川久子訳)「パウロとコリントの女性預言者たち―パウロの修辞を通して再構築する」(日本キリスト教団出版局)2001ほかを参照のこと