yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

マタイ9章9~13節 黙想

マタイは来る日も来る日も収税所に座っていた。そこで人々から税金を徴収するのが彼の仕事。

しかし、その徴税人の仕事は、人々から受け入れられる職業ではなかった。なぜなら、徴税人自身もイスラエルの民の一員でありながら、同じ同胞たちから、みんなが一所懸命苦労して働いて得た金を、税金として徴収して、当時、イスラエルを支配していたローマに納めていたからである。だから徴税人は、ローマの手下、ローマの犬、そんな風に蔑まれていた。しかも、徴税人たちの中には、ごまかして余分に人々からお金を納めさせて自分の懐に入れる者たちもいたようだ。

マタイ自身が、そのようなことをしていたかどうかはわからない。でも、みんなからは、彼も自分たちのお金を騙し取っていると思われていたことだろう。そうした中で、自棄になって、そんなんだったら!と、彼も騙し取るようなことをするようになったかもしれない。

そんな彼のもとを人々が通るとき、どれだけ冷たい視線を彼に送っていただことだろうか。憎しみの視線、蔑みの視線も投げかけられていたことだろう。しかし、その日は、今までにない、いつもとはまったく違った視線が彼に向けられた。彼を暖かく優しくそして鋭く見つめ、彼に声をかける人がいた。そう、イエスだ。「わたしに従いなさい」そう。「わたしについておいで」「わたしと一緒に生きていこう」「わたしには君が必要だ」「君にもわたしが必要なはずだ」という声が。

彼はその声にすぐに立ちあがった。今まで誰もそんなこと言ってくれる人はいなかった。「お前なんかあっち行け」「死んじまえ」「見たくねぇんだよ」そんな声ばかり。そして、彼もまた、「うるさい」「さっさと支払え」「文句言ってないで早く行きやがれ」そんな言葉ばかりみんなに向かって叫んでいた。

だからその日の「わたしに従いなさい」そんな風に言ってくれたのが嬉しくてうれしくて、彼はすぐ立ち上がった。この「立ち上がった」という言葉は、「復活した」とも訳せる言葉。そう、彼の新しい命がその日から始まったのだ。彼はその日から本当の意味で生きる者となったのだ。

彼は、その嬉しさで、自分の家で大きな宴会を開いた。みんな自分と同じ思いで働いていた仕事仲間たちも呼んで。また自分と同じようにみんなから差別されて何だかさびしそうにしている人たちもみんな招いて。みんなで喜び合いたかった。その喜びをみんなで分かち合いたかった。イエスもイエスの弟子たちもみんな来てくれた。

それを見て、宗教のお偉いさんたちが「なんであのイエスってのは、あんな奴らと一緒に飯食ってるんだ?」とブツブツ言ってる。イエスは言った。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

きっと彼らお偉いさんたちには、イエスのこの言葉がわからなかっただろう。なぜなら、彼らは自分が病人であるとは思っていなかったから。いくら病気でも、自分が病気だと認めないで大丈夫と思っている限り、その人は自分から医者には行かない。本当は医者が必要でも、必要と思わなく、自分には無縁であり不必要だと思ってしまうのだ。そして病気が悪化して、取り返しのつかないことになってしまう。また、彼らは人一倍聖書を学んで、決められたささげものもちゃんとしていた。だから何にも問題ないと思っていた。でも、神さまがみんなのことを愛してくださっているということや、みんなを愛してほしいと神さまが自分たちに望んでいるなどということは忘れていた。モノで解決する信仰だったのだ。さらに、自分は正しい大丈夫問題ないと思っている限り、せっかくの救いを喜びながら過ごすことはできない。自分の罪深さを知れば知るほど、神の救いを喜ぶ思いも大きくなる。

これがマタイとイエスの出会いの出来事だが、この「マタイ」の出来事は、彼の名を冠したマタイ福音書にだけ伝えられている。マルコやルカでは同じような物語は、「マタイ」ではなく、彼と同じ徴税人である「レビ」という人物の出来事とされている。それゆえ、マタイとレビは同一人物だともされてきた。そうかもしれない。でも、私は、レビがもともとのオリジナルではなかったかと考えている。この福音書の記者が、レビとイエスの出会いの出来事を知って、これこそ自分が伝えたいことだ!、そう考えて、この福音書に冠する名前と同じ名前を、この出来事の主人公に位置づけたのではないだろうか。

そして、わたしもまた、こんにちのマタイである。わたしも、イエスによって「わたしに従いなさい」「さあわたしについておいで。わたしと一緒に生きていこう」「わたしにとって君が必要だ」「君にもわたしが必要なはずだ」そのように招かれ、癒された病人、赦された罪人なのだ。

だから、きょう、イエスの招きに応えて立ち上がろう。わたしの復活、わたしの新しい命がここから始まる。