yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年7月2日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第4主日 2017年7月2日

 

「あなたを招くために」

(マタイによる福音書9章9~13)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

この前の木曜日6月29日は、教会の暦で「使徒ペトロの日・使徒パウロの日」でした。ペトロとパウロ、二人の信仰の生涯を思う時に、二人とも、イエスさまによって招かれた人物であるという思いを強くいたします。

 

ペトロは、兄弟たちと共にガリラヤの湖で漁師の働きをしていた時に、イエスさまによって「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声を掛けられ、すぐに網をそこに置いて、その日からイエスさまの弟子として従うようになったのでした。また、パウロはそれまではユダヤ教ファリサイ派という厳格なグループに属しており、イエスさまの弟子たちを迫害する急先鋒でしたが、ある日、突然まばゆい光に打たれ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と彼に語りかけるイエスさまの声を聴き、それをきっかけに、イエスさまを伝える者となったのです。このように、それぞれそれまでの生活がありながらも、イエスさまの招きをいただいて、イエスさまの弟子としてイエスさまに従う新しい歩みをすることになったのでした。

 

いま日本のルーテル教会では、礼拝式文の改定作業が進められており、私もその務めに任じられています。その改定作業の際、大切にしたことの一つに、神さまの招きということが挙げられます。今回の改定式文は、「神は、すべての人が救いの恵みに与るように、礼拝に招いてくださいました。私たちは招かれて、ここにいます。父と子と聖霊の御名によって。アーメン」という言葉から始まります。このように、私たちが礼拝に来るのも、神さまの救いに与るのも、神さまの招きによると、まず確認をしたうえで礼拝を始めることとなっているのです。

 

私たちがこのように教会に来て、礼拝をして、神さまを信じて、救いを受け入れて、永遠の命に生きる。それは、今の表現なら、すべて「私たちが」を主語とする出来事であるかのように聞こえるかもしれません。けれども、そこで実際に起こることは、本当は、「神さまが」が主語の出来事です。つまり、神さまが私たちを礼拝に招き、信仰に招き、救いに招き、永遠の命に招いてくださる。すべては神さまの招きによるです。

 

さて、今日の福音は、一人の人物がイエスさまに招かれ、イエスさまに従う弟子としての新しい歩みを始めたことが伝えています。彼の名は、マタイです。今、私たちが、毎週日曜日ごとに聴いておりますマタイによる福音書にだけ登場する、マタイさんです。他の福音書にも似たような出来事は伝えられておりますが、その人物の名前はマタイではなく、レビという名前になっています。ですから、このマタイ福音書のマタイさんと他の福音書のレビさんは、もしかしたら同じ人物なのではないかと議論されてきました。これについてはまた後でお話しします。まずは、今日の福音が伝えている出来事を見てまいりましょう。

 

マタイは、毎日、収税所に座っていました。なぜなら、彼は、人々から税金を徴収する仕事をしていたからです。しかし、この人々から税金を徴収する、「徴税人」と呼ばれる職業は、決して人気のある仕事ではなく、むしろ人々から嫌われ、蔑まれていた職業でした。それには理由がありました。当時のイスラエル、特にイエスさまが活動されたガリラヤ地方に住んでいた人たちは、決して裕福な暮らしをしていたわけではありません。むしろ質素な暮らしをして、あるいは、貧しい暮らしを余儀なくされていました。そうした中で、自分たちが一所懸命働いて得たお金が税金として徴収されていくのですから、面白いわけありません。人々から反発を食らいます。

 

でも、ただそれだけではないのです。当時、イスラエルの人たちは、ローマの国の支配のもとにありました。徴税人たちが人々から徴収していた税金は、そのローマに納められるものだったのです。ですから、イスラエルの人たちからすれば、徴税人は自分たちと同じイスラエル人の一人なのに、なぜあの憎きローマの国の片棒を担ぎ、うちらのお金をローマに納める仕事をしているのか、あいつはローマの手下か、ローマの犬か、そんな風に嫌われていたのでした。

 

さらにもう一つ、徴税人がイスラエルの人たちから嫌われていた理由がありました。徴税人たちの中には税金をごまかして騙し取っていた者たちもいたのです。税金だと言われれば人はそれを納めざるを得ないわけで、その時に少し多めの金額を伝えて、その多く納められた分を自分の懐に入れていた、悪どい徴税人も少なくなかったのでした。そうすると、人々は自分が汗水流して働いて得たお金をローマに納めなければならないだけでなく、お前たちにまで騙し取られるのかとの思いになり、徴税人たちを自分たちの敵のような憎しみや蔑みの目で見るようになるわけでした。

 

毎日、収税所に座っていたマタイもまた、そこを通りかかる人たちみんなからそうした冷たい目で見られていたことでしょう。彼が実際に、人々から決められた金額以上、税金を騙し取って自分の懐に入れるようなことをしていたかどうかは、私たちには分かりません。けれども、人々は彼もきっとそうしているに違いないという目で、彼を見ていたと推測することは、私たちにとって難しいことではありません。だから彼に罵声を浴びせる人だって少なくなかったはずです。聞くに堪えないような言葉だったでしょう。そのようにされる中で、初めは適正に税金を集めていたとしても、やがて「そんなに言うのならわかったよ。あんたがたが言うとおりにしてやろうじゃないか」そんな風に自棄になって、規定以上の額を騙し取るようになったことだって考えられます。

 

そこら辺は実際にはわからないわけですが、でも毎日毎日冷たい目で見つめられ、酷い言葉を浴びせられていたマタイ、彼もまた人々を冷たい目で見つめ返し、酷い言葉で応酬していたことでしょう。そんな彼は満たされない思い、悲しく辛い思い、何とも腹立たしい思い、寂しい孤独な思い、いろんな思いが心の中で渦巻いていたに違いありません。彼は、その日もそんな何とも言えない思いをもって、収税所に座っていました。

 

彼の人生を変えたその日も、彼を見つめる視線を感じました。でも、その視線はいつものような憎しみに満ちた視線でも、蔑みの視線でもありませんでした。何とも暖かな視線でした。愛に満ちたまなざしでした。そうでありながら、心の中まで見通されるかのような鋭い視線でもありました。その視線の主が彼に近づいてきて、彼にたった一言声をかけました。それは、いつものように彼を傷つけ、悲しませ、腹立たせるそうした言葉とは違いました。温かく優しさに満ち、そして力ある一言でした。その方はおっしゃいます。「わたしに従いなさい」

 

それを聴いて彼は驚きました。だって今まで誰ひとり、そんな声を彼にかける人などいなかったからです。「お前なんて死んでしまえ」「さっさと消え失せろ」「むかつくんだよ」「ああ汚らわしい」そんな言葉ばかり、彼は浴びせられていたはずです。でも、その方は違いました。「わたしに従いなさい」。つまり、「わたしについてきなさい」「わたしと一緒に生きていかないか」「あなたと一緒に生きていきたいんだ」「わたしにはあなたが必要だ」「あなたにもわたしが必要なはずだ」そんな声として彼の心に響きました。

 

彼は迷うことなく、その声に従い、優しい愛のまなざしが注がれる中、立ち上がりました。彼に向けられたまなざしと声の主は、イエスさまでした。今日のみことばに、「彼(マタイ)は立ち上がって、イエスに従った」とあります。この「立ち上がって」は、「復活した」とも訳せる言葉です。マタイの復活の物語がここに伝えられているのです。イエスさまと出会い、イエスさまの暖かなまなざしと招きによって、新しい命に復活した彼の物語がここで伝えられているのです。彼の新しいいのち、新しい人生の日々が、このイエスさまの招きによって始まったのです。

 

彼は喜んで、自宅にイエスさまや弟子たちを招き、大きな宴会を開きました。彼と同じ境遇にあった徴税人仲間や、様々なことで人々から見捨てられ差別されて「罪人」と見なされていた人たちも、その宴会に招きました。きっとおいしい食べ物やお酒もたくさん用意されていたことでしょう。飲めや歌えやの賑やかな集いだったと思います。

 

でも、その様子を見て、半ば呆れかえりながらブツブツ文句を言う人たちがいました。それは当時の宗教的な指導者たちです。彼らは、イエスさまの弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難しました。それを聞いて、イエスさまが反論しました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

きっと彼ら指導者たちは、イエスさまが何をおっしゃっているのか表面上でしかわからなかったのではないかと思います。イエスさまが、罪人を招くために来た、人生の病人を招くために来た、そのこと自体は、言葉どおりには「ああそうなんだ」とわかったかもしれない。でも、彼らは、それを自分には関係のない話として聞いたであろうと思います。でも、イエスさまのこの言葉は、すべての人に向かって語られているものです。これを自分には関係のない話だなどということは、本当は誰ひとり言うことはできません。

 

なぜなら、みんな、一人ひとり神さまの前に病を抱えているからです。みんな自分にはどうすることもできない、死に至る病を抱えているのです。それがイエスさまが続けておっしゃっている罪の問題です。みんな誰しも罪を抱えており、それを自分ではどうすることもできないのです。だからイエスさまが、わたしはそのために来たとおっしゃっているのに、今日のみことばに登場する宗教的な指導者たちは、それを自分には関係のない話として受け止めたのです。

 

どれだけ重い病気でも本人が自分は病人だと認めなければ、お医者さんにかかることも、治療を受けることもしません。そして、病気はますます悪化して、もはや手がつけられなくなってしまいます。彼らは、まさにそうだったのです。自分にも死に至る病がある、自分にも罪がある、そのことを彼らは気付くことができず、自分は聖書で決められているいけにえをちゃんとささげているし、聖書もたくさん勉強してお祈りもいっぱいしているから大丈夫、まったく問題ない、すべて適切に行われていると、そんな風に、どこかの国の官房長官のようなことを言っていたのです。せっかくイエスさまが彼らの死に至る病をも癒し、罪から救うためにおいでになったのに、自分には関係のないことと思ってしまっていた。それゆえ、彼らは、せっかくのイエスさまの招きを喜ぶことができませんでした。イエスさまが与えてくださる新しいいのちを歩み出すチャンスを逃してしまうのです。

 

さて、きょうのマタイがイエスさまと出会ったこの出来事は、マタイによる福音書にしか記されていないと初めにお話しました。他の福音書ではレビという人の出来事となっていると。それでマタイとレビが同じ人物であると言われてきたというお話もしました。しかし、私は、マタイとレビが同じ人物であったというよりも、むしろレビの出来事が元々のオリジナルだったであろうと思っています。でもこの著者が、この彼とイエスさまとの出会いの物語は、私たち一人一人の物語だと受け止めて、このマタイの名を冠した福音書に、マタイさんの出来事として、この物語を載せたのではないでしょうか。

 

エスさまは、きょう、私たち、私のこと、あなたのことをも招いてくださいます。「わたしに従いなさい」。「わたしについてきなさい」「わたしと一緒に生きて行かないか」「あなたと一緒に生きていきたいんだ」「わたしにはあなたが必要だ」「あなたにもわたしが必要なはずだ」と。

 

私たちも、このイエスさまの招きを聴いて、自分自身の抱えている病をしっかりと見つめ認めたいと思います。そして、イエスさまの招きに応えて立ち上がりたいのです。あなたがたとえどれだけボロボロでも、ダメダメでも、みんなから何と言われていようとも、自分自身でどう思っていようとも、イエスさまはそんなあなたを愛のまなざしで見つめて招いてくださいます。「あなたと一緒に生きていきたい、あなたが必要だ」と。そのイエスさまの声に応えて、きょう、私たちも立ち上がりたい。そして、マタイと同じように、今ここでの復活を体験し、新しいいのち、新しい人生の一歩を踏み出そうではありませんか。

 

「わたしに従いなさい」と、イエスさまの招く声が聞こえてきます。さあ、そのままのあなたで立ち上がりましょう。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

み前にふさわしくない私ですが、にもかかわらず御子イエスさまが「わたしに従いなさい」と暖かく招き、教会の交わりに迎え入れ、福音の宣教の働きのために用いてくださることを心から感謝します。どうかその招きの声に応えて立ち上がり、新しい命の歩みを始めることができますように導いてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

http://www.todayscatholicnews.org/wp-content/uploads/2015/09/30callingmatt.jpg