yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2017年7月30日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第7主日 2017年7月30日

 

「重荷をおろして」

(マタイによる福音書11章25~30節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

私たちは、毎日、実に様々なことを考え、色々なことを行いながら暮らしています。外での仕事や家での働き、人とのかかわりや自分自身のこと、あるいは社会や、この国や、世界のことなど、やるべきこと、考えるべきことが本当にたくさんあります。その中で、心身ともに、くたくたになりながら、あるいは、のどが渇くように心がからからに渇きながら、このように今日も礼拝に集められました。礼拝において、みことばと聖餐、また、祈りや賛美を通して、神さまからの癒しと潤いをいただいて、また元気にされて、一週間の生活へと出かけていきたいと、そう心から願って、ここに集っているのです。そうした私たちに、イエスさまは今日も慰めのみことばを語ってくださっています。

 

エスさまはおっしゃいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは、本当にスッと私たちの心の中に入ってきて、心の隅々にまで沁みとおるみことばです。いろんな疲れを感じながら、また、重荷を負いながら過ごしている私たちにとって、このイエスさまのみことばは、たいへん大きな慰めです。ここで、イエスさまは「だれでも」とおっしゃっています。そこに例外はありません。「だれでも」です。たとえ自分では「私なんか、ふさわしくないよな」とそう思っていても、また「あの人は、ふさわしくないよ」とそう思っても、私も、その人も、イエスさまは「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いてくださっています。そのイエスさまの招きから漏れる人はだれ一人としておりません。「だれでも」みんなが招かれているのです。

 

ところで、イエスさまは今日のみことばの初めにおっしゃいました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」これは、イエスさまの祈りの言葉です。ここでは、イエスさまがお語りになったことを「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と、イエスさまはおっしゃっています。この「知恵ある者や賢い者には隠して」という言葉と、初めにお話しした「だれでもわたしのもとに来なさい」とみんなが招かれているということと、一見、矛盾するように思えるかもしれません。「だれでも」とおっしゃいながら、「知恵ある者や賢い者」は除外されるのだろうかと。

 

しかし、もちろんそうではありません。イエスさまは「だれでも」すべての人を招いてくださっています。そこには何の例外もありません。イエスさまから招かれていない人など、誰一人としていないのです。これはどれだけ強調しても強調しすぎることはない、大切で、また確かな事実です。それでは、それに先立って、イエスさまがおっしゃっている「知恵ある者や賢い者には隠して」とは、一体、どういうことなのでしょうか。それは、イエスさまは「だれでも」例外なくすべての人を招いてくださっているのだけれども、その招きを「自分への招き」「私への招き」として受け取ることができない人たちがいるということだと思います。それが「知恵ある者や賢い者」だということです。この「知恵ある者や賢い者」は、「幼子のような者」と対比して語られています。これは、きっとこういうことではないかと思います。「知恵ある者や賢い者」のように、私たちが頭の中であれこれ難しく考えているならば、イエスさまがお話しなさっていることを自分に語りかけられている招きの言葉として受け取ることは難しい。大切なのは、そのように頭の中で難しく考えてみことばを受け取ろうとすることではなく、「幼子のよう」に受け取ることだと。

 

では、「幼子のような者」とは、どういうことでしょうか。「知恵ある者や賢い者」が頭の中で難しく考えて、イエスさまのみことばを受け取ろうとして、結局、受け取ることができない人ならば、「幼子のような者」とは、そのように頭の中で難しく考えてみことばを受け取ろうとするのではない、それとは違った受け取り方をする人のことであると言えるでしょう。それは、「幼子のよう」に、「素直に」「まっすぐに」イエスさまのみことばを受け入れる人ということかもしれません。もちろん、そうした意味合いもあるでしょう。頭の中であれこれ難しく考えるのではなく、素直にまっすぐにみことばを受け入れる姿勢は大切なことですし、そうした人のことを私たちは尊敬をいたします。しかし、同時に、もっと違ったことがここで語られているのではないかとも、私は考えています。

 

「幼子」とは、親などのおとなの助けなしには生きていけない存在です。おとなにご飯を与えてもらって、おとなに守られて、また、おとなからいろんなことを教えてもらって、その中で養われて、はじめて生きていくことができる存在です。この「幼子のような者」という言葉で、イエスさまの前で、私たちがそうした者として生きていくということを、イエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。つまり、イエスさまの助けなしには生きていけない者、イエスさまから必要なものを与えていただいて、イエスさまから何が大切なのか教えていただき、イエスさまに守られて生きる、そうした者として、私たちがイエスさまに養われ生かされる、頭の中であれこれと難しく考えて、結局、みことばを受け取ることができずに生きるのでなく、「このイエスさまのみことばなしには私は生きていけないんだ」と、「このみことばが私のことを生かしてくれるんだ」と、切にみことばを求めて生きていく、そうした生き方を、イエスさまはここでおっしゃっていると思うのです。

 

ですから、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエスさまのみことばもまた、「このみことばがなければ、私は生きていけない」、「このみことばが私を生かしてくれるんだ」と、そんな思いで切実に、喜び感謝して、私に語られた招きの言葉として受け入れたいと思います。

 

ところで、イエスさまは今日のみことばで「休ませてあげよう」とおっしゃっています。「もうこの先あなたは疲れなくなる」とはおっしゃいませんし、「もうあなたの重荷はすべてなくなった」とも、おっしゃっていません。私たちは、イエスさまのもとで休んで、また、立ち上がって再び歩み出すのです。その中で、また疲れを覚えるし、さらにいろんな重荷を負いながら歩んでいかねばなりません。イエスさまのもとに行ったら、もう疲れないとか、もう重荷がなくなるというのではなく、イエスさまのもとに行っても、疲れるし、重荷を担いながら歩んでいく私たちです。ですから、たとえ、もし私たちがいろんなことで悩み苦しんでも、「こんな風に悩むなんて、私の信仰はダメなのだろうか」とか、「苦しみを感じるなんて、自分はクリスチャン失格なのではないだろうか」と、そんな風に悩まないでください。イエスさまを信じていたって、私たちは、くたくたに疲れてしまいますし、いろんな重荷を負って苦しみながら生きていかねばならないのです。そうした中で、イエスさまのもとに赴くならば休んで、力を得て、また、再びそこから新たに出発することができると、イエスさまはおっしゃいます。

 

エスさまは続けておっしゃっています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」エスさまは、ここで「軛」ということをおっしゃいますが、これは、現代の私たちにはあまりなじみのない言葉かもしれません。私も調べなければわかりません。軛は、牛などの二頭の家畜の首の上に横棒をつけて、それぞれ別の方向に行ってしまわないようにする道具です。そうして二頭をつなげて、荷物をひかせるのです。

 

ここでイエスさまがおっしゃっていることには、二つの意味があると考えられます。まず一つは、当時の宗教とのかかわりです。当時は、神さまを信じるとは、いろんなきまりを守って生きることで、そのきまりを守らなければ、その人は罪人であって、神さまから裁かれてしまうと、人々はそのように教えられていました。ですから、神さまを信じることは、当時の人たちにとって、必ずしも喜びではなく、きつく苦しいことでした。それに対して、イエスさまは、神さまを信じるとは、そのようにいろんなきまりにがんじがらめになって苦しんで生きることではなく、神さまの赦しや救いをいただいて、平安のうちに喜びと感謝をもって生きることだと教えられました。そして、その神さまの救いを私たちに与えてくださるために、イエスさまご自身が十字架を引き受けられるのです。そのことを信じて平安に生きていきなさいということが、ここでイエスさまが「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」ということであり、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」とおっしゃっていることの一つの意味であると考えられます。

 

もう一つは、軛でつながれて一緒に歩む二匹の家畜のように、私たちがイエスさまと一緒に重荷を負って生きるということです。私たちにとって、自分独りで重荷を負わなければならない。そのことが本当につらく大変なことです。だれも私の辛さをわかってくれない。だれも私を助けてくれない。私たちは、そのことに余計に辛く悲しくなってきますし、時には腹立たしくなってすらきます。でも、そんな私たちに、イエスさまが「わたしがあなたと一緒にあなたの重荷を負って歩もう」とおっしゃるのです。イエスさまが、私の隣で、私の重荷の片棒を担ぎながら歩んでくださるというのです。もうひとりぼっちで、私たちが苦しみながら歩んでいるのではありません。自分だけでこの重い負担を負わなければならないのでもありません。イエスさまが私とともに歩んでくださっている。イエスさまが一緒に私の重荷を負ってくださっています。

 

もちろん、だからと言って、先ほどから申している通り、私の重荷はなくなることはありません。イエスさまを信じていても、私たちは重荷を負い続けなければならず、いろんなことに悩み苦しみ疲れながら過ごさねばなりません。でも、もはや独りじゃない。イエスさまが一緒です。重荷も、イエスさまが一緒に担ってくださっているのだから、単純に考えても、それは今までとは、半分の重さになります。実際には、半分どころではなく、イエスさまが一緒なら、私たちにとって、かなりの負担の軽減になります。何よりももう「誰もわかってくれない」とか「私一人で大変な思いをして」という、そんな思いから解放されて過ごすことができます。イエスさまが一緒です。イエスさまがわかってくださっています。ともに私の苦しみを負ってくださっています。

 

さらに、イエスさまは十字架を引き受け、私たちのどんな重荷をも、ご自分の身に引き受けられたお方です。私たちが自分では負いきれないあらゆる重荷を、イエスさまがご自分の身に引き受け、十字架にかかられました。そして、命すら惜しまずにささげられるのです。そのイエスさまが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、今日私たちにおっしゃって、招いておられます。これは決して気休めの空しい言葉ではありません。命がけの言葉です。この言葉を前にして、私たちはあれやこれや頭の中で難しく考えなくてもよいのです。このイエスさまのことばがなければ、私は生きていけない、このことばがあるから私は生きていくことができる、このことばにこそ私の救いがある、そんな切実な思いで、イエスさまの懐に飛び込んでいけば、それでよいのです。その時、他のものからは決して得ることのできない、真の安息、本当の癒しが、私たちに与えられます。

 

そして、そのイエスさまのもとからまた、私たちの新しい歩みが始まるのです。もはや独りぼっちではなく、イエスさまとともなる歩みが始まります。もちろんその後も、いろんなことが私たちの身に降りかかることでしょう。大きな重荷も担わなければならないこともあるでしょう。自分のこと、家族のこと、友のこと、社会のこと、様々なことで私たちは疲れを覚えます。でも、もう独りじゃありません。隣を見れば、そこにはイエスさまがおられます。イエスさまが十字架を担ぎながら、命がけで私の重荷を共に負いながら歩んでくださっているのです。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」このイエスさまのことばを胸に刻んで、新しい一週間も、ここから歩み出したい、そのように願うものです。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

多くの重荷を担い、いろんな疲れを覚えて生きる私に、イエスさまが「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と語りかけてくださいます。感謝します。どうかイエスさまのもとで休み、癒され、また新しい歩みを始める力が与えられますように。私の隣にイエスさまがおられ、ともに重荷を担っていてくださることを信じて歩ませてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン。

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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2017年7月23日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第7主日 2017年7月23日

 

「一杯の水の重さ」

(マタイによる福音書 10章34~42節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

もう何度もお聞きでしょうが、今年はマルティン・ルター宗教改革から500年です。私たちがこの500年を覚えることは、ただ宗教改革500年おめでとうと打ち上げ花火的なお祭り騒ぎをして祝うことではなく、また500年前の過去の出来事を記念するということでもありません。500年前から今もずっと続いている宗教改革の中に私たちもそこに連なっているということを心に刻みたいと思います。そうした思いの中で、私たちがこの宗教改革500年を覚えることには、大切にすべき3つの大きなことがあるのではないかと、私は考えています。

 

まず一つ目は、この宗教改革500年を、私たち自身の改革の機会とするということです。私たちの教団の宗教改革500年のテーマは、このことを明確に伝えています。それは、「ルターの宗教改革から500年 そして私たちの改革」というテーマです。私たちが、今から500年前にルターによって再発見された宗教改革の福音の信仰に立ち返り、そのことを通して、私たち自身の信仰、また私たちの教会の歩みを改めて見つめ直して、より福音の信仰にふさわしく歩むことができるように、新しく改革されることを祈り目指していくのです。宗教改革を過去の出来事にするのではなく、日々改革されていく私たちの信仰、絶えず改革され続けていく私たちの教会、そのことを大切にしたいですし、宗教改革500年が、改めてそのことを心に刻む機会としたいと思います。

 

宗教改革500年を覚える際に大切にしたい二つ目は、私たちが教会の一致を願い目指すということです。ルターは、今から500年前、当時の教会にとって、ふさわしくないところを修正し、改善しようと呼びかけました。また、彼が再発見した福音に基づいて、礼拝での説教をし、教会の形成をし、多くの著作もいたしました。それはとても大切な尊い働きでしたが、同時に、その宗教改革の出来事をきっかけとして、当時の教会が大きく分裂してしまったという事実があります。ローマ・カトリック教会と、プロテスタントの教会の分裂、さらにはプロテスタント内でも実に多くの教派に分かたれていきました。その分裂は、その後500年、こんにちに至るまで解消されていません。しかし、イエスさまは、十字架にかかる前の夜、イエスさまを信じる者たちが一つとなるように切に祈られました。そして、そのことを通してこの世の人たちが、イエスさまがこの世に遣わされたことを知るとおっしゃいました。ですから、私たちはこのイエスさまの祈りに応えるためにも、宗教改革500年をきっかけとして、教会が一つとなるように祈り願い、そのことを目指すのです。小さな取り組みですが、私たち道内のルーテル教会がこの秋に計画している宗教改革500年合同修養会では、私たち日本ルーテル教団と、また聖壇と講壇の交わりの関係にある日本福音ルーテル教会の共同の取り組みとして行われます。また、記念講演会では、カトリック教会の信徒である阿部先生に講演をしていただき、500年合同礼拝では日本聖公会の司祭である広谷先生に説教をしていただきます。このように私たちの足元から、教会一致のための歩みに仕えていきたいと思います。

 

そして、宗教改革500年を覚える際に大切にしたい第三のことは、宣教です。私たちが神さまから与えられた救い、その救いの福音を、私たちの周りの人に、また次の世代を担う人たちに分かち合い伝えていきたいのです。自分が福音に生かされたことを感謝し喜ぶことは、とても大切なことですが、私たちがただそこに留まるのではなく、そこから一歩踏み出し、その感謝と喜びを伝える歩みをしていく。個人としても教会としてもそのことを目指し、実践していくことが、私たちが宗教改革500年を覚える際にとても大切なことです。ルターも自分で福音の喜びを見出して、ただそこに留まらず、それを一人でも多くの人に知ってもらいたい、そして一緒に喜びあいたいと願って、いろんな人と語り合ったり、いろんな文章を著したり、そして礼拝でお話ししたりしたのです。それが、宗教改革という大きな運動として展開されていきました。私たちも、ルターの姿勢に倣い、福音の喜びを伝える教会でありたいですし、一人ひとりでありたいと願います。

 

そのように宗教改革500年を機に、改めて宣教の歩みを目指す私たちにとって、ここ数週間の礼拝ごとに与えられているマタイによる福音書の9章の終わりから10章のみことばは、とてもふさわしいメッセージが伝えられています。私たちがイエスさまから宣教の働きにこの世界へと遣わされていること、そして、私たちが世に遣わされている者としてどのような心構えで歩んでいけばよいのか、また、イエスさまが私たちにどのようなかかわりをしてくださるのか、そうしたことが語られてきましたし、今日のみことばもまた、私たちがイエスさまによって宣教の働きに遣わされて歩む、その歩みの中で一体どんなことが起こるのか、そこでどう歩めばよいのかが語られています。

 

しかし、今日のみことばで語られていることは、たいへん残念な内容です。イエスさまを信じ宣べ伝える際に、それを聞いたみんなが喜び受け入れてくれるのかと言うと、そうではなく、むしろ理解してくれず、特に、家族など身近な人たちと対立するようなことになってしまう。そして、そこでなかなか生きるのが苦しくなってくるし、また生きていく存在すら認められないようなことだって起こってくる。イエスさまはそのように告げられるのです。

 

私たちは、イエスさまを「平和の主」と信じています。けれども、今日のみことばでは、イエスさまは「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」と、何ともびっくりすようなことをおっしゃっています。けれども、私たちが実際にイエスさまを信じて生きる、また、イエスさまを宣べ伝える歩みをしていくときに、このイエスさまのことばが、分かるような思いがいたします。

 

私たちはもちろん誰しもが平和を願っています。みんな仲良く助け合って笑顔で過ごしたいとそのことを切に求めています。でも、イエスさまを信じ、イエスさまを伝える歩みをする中で、先ほど申しましたように、特に身近な人になかなかそのことが受け止めてもらえない、時にはそのことが原因で口論になってしまうようなことや仲違いしてしまうこともある、さらにはそこで自分の存在すら認めてもらえなくなってきたり、一緒にいることが難しくなってきたりすることも多いのです。平和を願いながらも、そうした剣の現実を、私たちはイエスさまを信じる信仰やイエスさまを宣べ伝える働きのゆえに引き受け、その中を生きていかねばなりません。イエスさまは、そのことを今日告げておられるのではないでしょうか。

 

身近な人とのかかわりにおいても、私たちにもし信仰がなければ、結構いろんなことをスルーしてただ笑っていればよいかもしれないようなことも、私たちがイエスさまを信じる信仰に立つがゆえにスルーすることができずに、「いや、それはおかしいと思う」とか、「ごめんなさい、それは私にはできないわ」とか言わければならないことがあります。そうすると家族の中に波風が立ってしまったり、関係に亀裂が入ったりしてしまうわけです。信仰があるがゆえに、愛する者との関係において、余計に苦しみ悩まねばならないことも少なくありません。

 

そうした中で私たちは心をすり減らしながら生きていかねばならない。ただ心の内面的なことにとどまらず、身体すらおかしくなってきてしまう。まさに魂を、命をすり減らしながら、私たちは剣の現実を生きていくのです。イエスさまは、そうした私たちの一つ一つの歩みが、私たちにとっての十字架であると、今日、おっしゃいます。そのように愛する者とのかかわりの中で、剣の現実の中を命をすり減らしながら生きるわたしたちの歩みですが、しかし、イエスさまはそれを私たちにとっての大切な十字架として受け止めてくださっていて、そのように十字架を負って従うときに、豊かな命を約束してくださるのです。私たちには、そうした苦しい現実を誤魔化しながら生きていくという術もあるかもしれません。しかし、そうした生き方は命を失う生き方だと、イエスさまはおっしゃいます。十字架を負いながら苦しみ悩み傷つきながら生きる生き方、確かにつらい歩みですが、そこにこそ実は豊かな命があると、イエスさまはおっしゃるのです。

 

そのように私たちが歩んでいく際に、その関わる相手をどう見て、どう接するかについても、イエスさまはおっしゃいます。私たちのことをわかってくれない、私たちに攻撃をしてきたり敵対したりする、そうした相手を、私たちもまたその人のことを自分の敵のように思ってしまいがちです。多くの人が自分のことを理解してくれなければ、みんなが自分の敵のようにすら思えてきます。でもイエスさまは本当にその人があなたの敵なのか、今一度、立ち止まって見つめなおしてみるように、今日「一杯の水」について語る中でおっしゃっています。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。

 

私たちがイエスさまを信じ、イエスさまを宣べ伝える歩みの中で、コップ一杯の冷たい水を忘れるなと、イエスさまはおっしゃるのです。いえ、私たちに忘れるなとおっしゃるだけでなく、イエスさまがその人のことを必ず顧みてくださると約束なさるのです。

 

私たちが人とのかかわりであまりうまくいかなくなったとき、相手が自分にいやなことをしたり言ったりしてくるとき、もうその人のすべてが憎くなってくるということも少なくありません。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのような感じに、です。でも、そこで、その人が自分に差し出してくれるコップ一杯の小さな水が、どれだけ自分にとって助けになるか、ありがたい感謝すべきものか、忘れずに受け止めることができる心を大切にするように、イエスさまはおっしゃいます。

 

どれだけ憎い人でも、どれだけ大きく対立している人でも、ただその人を敵として背中を向けて生きるのではなく、そんな人でも実は時には、あるいはいろんなことで自分に助けとなるかかわりをしてくれているということを見過ごさずに、その小さな一杯の水の重さを受け止めて、喜び感謝し平和を求めるそうした心をもって接していくことの大切さを、今日のイエスさまのみことばから思います。

 

私たちがイエスさまからこの世界へ宣教の働きのために遣わされているとお話をしました。そしてその働きは、宗教改革500年を迎える私たちの歩みにとって大切なものであると。確かに尊く大切で偉大な働きです。でもそこで、何か自分自身が偉大な者になったかのように勘違いしないようにしたいのです。私自身は小さなものです。ルカ福音書の中に「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」とイエスさまはおっしゃっていますが、まさに私自身は「取るに足らない僕」であって、ただただ「しなければならないことをしただけ」であることを忘れてはなりません。洗礼者ヨハネが言ったように、大切なのは「あの方(キリスト)は栄え、わたしは衰えねばならない」という姿勢です。偉大なのは私ではなく、神さまでありキリストです。私たちは主の導きの中で、主の栄光のために仕えて働いているにすぎません。「誇る者は主を誇れ」ということを忘れずにいたいのです。

 

ですから、私たちは、謙虚さ・仕える心を絶えず忘れずに、たとえそれがたった一杯の水であっても、相手が差し出してくれる小さな助けを見過ごすことなく、また、忘れることなく、それを何か当然なことともせず、とても価値あるささげもの・奉仕として感謝して受け止めたいのです。そこから宣教が始まっていくのだと思います。パウロ「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と語った言葉を思います。感謝を忘れたところに宣教はありません。苦虫を嚙み潰したような顔では、イエスさまの愛は伝わりません。相手への感謝をもって笑顔で接していく中でこそ、宣教が展開されていくのです。

 

先日、友人と話していたとき、「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えることができる」という言葉が話題になりました。昔からよく言われる言葉ではありますが、宣教も、相手を変えることでなく、まずは自分が小さなことに喜びと感謝をもって毎日を過ごすことを大事にする中でこそ、そこから新しい一歩が始まるのではないでしょうか。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

神さま、あなたを信じ、福音を宣べ伝えて歩む私たちですが、なかなか理解されず、対立したり、生きにくさを感じたりいたします。その中で傷つき辛い思いをしますけれども、しかし、そうした剣の現実を、私の十字架として背負いながら歩んでいくことができますように。その歩みを通して豊かな命を与えてくださるとの、御子の約束を感謝して信じます。また、出会う人たちが私たちにしてくれる小さなかかわりを喜び感謝して歩んでいくことができますように。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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ありがとう

マタイによる福音書10章34節~42節

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 

私たちが、世にあって、神を信じ、キリストに従って生きていく際に、たしかに多くの厳しさを伴う。

そして、その歩みの中で、私たちの周りの人の理解を得られなかったり、攻撃を受けたり、葛藤が生じたりすることも少なくない。

信仰を持たずに過ごしていれば、スルーすることができることも、信仰を持っているがゆえにそうすることができず悩まねばならなかったり、また、信仰を持たずに過ごしていればただ笑って付き合っていればよくても、信仰を持っているがゆえに、他者との間に亀裂が生じてしまうようなことも多い。

平和を心から望んでいても、そうした剣の現実の中を、私たちは過ごさねばならない。それが私たちが、自分の命をすり減らしながら、負うべき十字架である。

でも、だからと言って、私たちはそこで、ただ世を、また人々を、敵に回してはならないし、敵認定してもならない。そうした歩みの中で、(たとえ普段は対立していても)私の周りにいる人が差し出してくれるコップ一杯の水、それが私の歩みにとって、どれだけありがたいものか、どれほど大きな助けになるのか、忘れないでいたい。

キリストの愛に生かされるものは、世や、周りの人をただ敵として背中を向けて生きるのではなく、その一杯の水の重さに気づき、感謝し、喜びながら歩んでいくかが大切ではないか。

そしてその時、剣の現実の中にあっても、喜びと感謝と平和の心で過ごしていくことができるかもしれない。

キリストに遣わされて、私たちが担う働きは、とても尊い価値あるものだ。でも、そこで私たち自身が驕ってはならないし、なにか自分自身が大きなものであるかのような勘違いをしてはならない。大きいのは主であり、私の働きは主の導きの中で主の栄光の中でなされるものである。

私自身は「取るに足りないしもべ」であり「しなければならないことをしただけ」(ルカ17章10)であり、「あの方(キリスト)は栄え、わたしは衰えなばならない」(ヨハネ3:30)ことを忘れてはならない。「誇る者は主を誇れ」(2コリント10章17)。

だから謙虚さ・仕える心を忘れず、相手が差し出してくださる小さな助け、それを見過ごすことなく、それを何か当然なことともせず、とても価値あるささげもの・奉仕として感謝して受け止めたい。

他の誰でもなく、私自身がそのように生きる時、私の周り、この世界、教会が変わる一歩になるかも!

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節)

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礼拝豆知識 アコライト

教会の礼拝で、主に信徒による「アコライト」と呼ばれる奉仕があります。

私たちのルーテル教会では、もっぱら、聖餐卓の蝋燭をつけたり、消したりすることが、その「アコライト」の役割のように考えられていて、実際、そうした役割でしかない教会も少なくありません。

ですから、「アコライト」の「ライト」を、光を意味する「light」だと勘違いしている方々も少なくありません。

でも、「アコライト」「Acolyte」で、もともとギリシア語「ἀκόλουθος」(アコルトス)に由来する言葉で、「従者」の意味です。カトリック教会で「侍者」と呼ばれる役割ですね。ですから、「ライト」は、lightではありません笑 

聖壇で、司式者の傍でお手伝いをする役割を担う人のことを言います。その中の一つに、蝋燭の点火消火もあるわけですが、その他にも、入堂の際の十字架を運んだり、聖餐のお手伝いをしたり、司式者が式文を見やすいように持って見せる役割だったり、聖書朗読だったり、それらがみな、アコライトの務めで、とても大切な役割であり、式服も着用する場合も多いです。日本のルーテル教会でも、そうしたアコライトの多様な役割を回復できるとよいかもしれませんね。

なにはともあれ、まずは「アコライト」の「ライト」は「light」ではないですよ、ということは覚えておいてくださいね^^

 

2017年7月16日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第6主日 2017年7月16日

 

「心配と恐れを超えて」

(マタイによる福音書10章16~33節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

先週は、私たちが、イエスさまによって、この痛みある世界に遣わされているというお話をしました。今日のみことばは、その続きになります。

 

エスさまはおっしゃいます。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」エスさまにより遣わされている私たちですが、それは決して平坦な歩みではないと、イエスさまはまず告げられます。「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と。聖書の元々の言葉では、「見よ、私があなたがたを、狼たちのど真ん中の一匹の羊のように遣わす」という表現です。たいへん危険で、その羊がどうなってしまうか、想像するだけでも恐ろしい。決して太刀打ちできず、一瞬にしてやられてしまいます。

 

だから、そこで必要なのは、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」ということです。狼たちのど真ん中に羊が送りこまれるとき、ただ真正面からぶつかっていっても決して好ましい結果は望めません。だから、「蛇のように賢く」ふるまいなさいと、イエスさまはおっしゃいます。私たちがイエスさまによってこの世に遣わされるということは、この世の強い力、私たちには太刀打ちできない大きな力のそのど真ん中に、私たちがぽつんと送りこまれることです。そこでいろんな危険に晒されながら、その働きを担っていかねばなりません。もちろん世の力に怯まず恐れず、真正面からぶつかっていくということも大切かもしれませんが、その結果、ただ世の力に押しつぶされて、砕け散って終わってしまうなら、実に悲しいことになってしまうでしょう。だから私たちは、「蛇のように賢く」ふるまうことが大切なのです。

 

この「賢く」という言葉は、「慎重に」とか「思慮深く」という意味を持つ言葉です。あの創世記3章で、エバを騙した蛇のように、狡猾、ずる賢いのとは違います。私たちが世の力にただぶつかって玉砕するというのではなく、慎重に、思慮深く、賢く、イエスさまから託された働きを担っていくのです。これは具体的にはどういうことを表すのでしょうか。私たちが良く考えて、良くシミュレーションをしてということでしょうか。もちろんそうしたことも大切でしょうが、ここで言われている賢さとは、そのような私たちがどうするかということとは少し異なります。では、どういうことか。それは、私たちの思いで突っ走るのでなく、神さまへの祈りの中で、答えを求め、それに従って判断し、実行することです。ただ自分自身の判断によるのではなく、神さまが与えてくださる道を歩み、神さまが示してくださる方法を実践していく、そのことを「蛇のように賢く」という言葉で、イエスさまは告げておられるのだと思います。

 

だからそれに続けて、「鳩のように素直になりなさい」とも、イエスさまはおっしゃるのです。「素直になりなさい」と言っても、何も周りのみんなの言うことをただ「はい、はい」と素直に聴いて働きなさいと、おっしゃっているのではありません。これもまた、神さまの前での素直さです。神さまが示されたことを素直に受け入れ信頼して従うのです。ここでも私たちの自分の判断によるのではなく、神さまが与えてくださる道を歩み、神さまが示してくださる方法を実践していく、このことをイエスさまは「鳩のように素直になりなさい」という言葉で伝えようとされているのだと思います。

 

このようにただ私たち自身の判断に従ってではなく、神さまへの祈りの中で、何をどうしようか考え実践するとなると、時に、自分の思いと違うことが起こって来ることもあるでしょう。「私はこうしたいのに」とか、「私はこうしたほうが良いと思うのに」ということと、祈りの中で神さまが与え示される道や方法が異なるという場合です。このことを考えるとき、私は、世界中で愛されて大切にされている、ある一つの祈りを思い出しました。こんな祈りです。「神さま、私たちに、変えることのできないものは、それを受け入れることのできる心の静けさを与え、また、変えることのできるものは、それを変える勇気を与えてください。そして変えることができるものとできないものを見分けることができる分別を私たちに与えてください。」とても印象深い祈りだと思いますが、この祈りで言われていることは、私たちが自分の思いによって、それに従って、どうこうしようとするのではなく、神さまの導きの中で、変えられないものを静かに受け入れ、変えるべきものは大胆に変えて、そして一つの物事について、それが変えることができるものなのか、それとも変えられないものなのかを見極めることのできる知恵をいただいて歩む姿勢です。

 

神さまが示してくださる応えに従って、私たちは判断をし、なすべきことをするのです。つまり、神さまが私に命じていることは信頼して積極的に大胆に動く、あるいは、神さまの導きの中で、いまの自分には変えることはできない、あるいは変えてはならないということは、静かに潔く手を引く。そのどちらであるのか祈りの中で尋ね求める。そうした歩みが、きょうイエスさまがおっしゃっている「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」ということであり、狼たちのど真ん中の一匹の羊のように弱い私たちが、とてつもなく強く大きな世の力の中で、イエスさまの働きに仕える際に大切なことだと思うのです。

 

それが具体的にどういう歩みか、イエスさまは続けておっしゃいます。つまり、人々になかなか理解されなかったり、攻撃をされたり、捕らわれたりする中で、私たちは恐れ心配するわけですが、私たちはそうした痛みを負うけれど、でも、そこで、何をどう言おうか心配は要らない。神さまがあなたに語る言葉を与えてくださり、神さまの霊があなたのうちにあって、語るべき言葉をちゃんと話させてくださると、イエスさまは、おっしゃいます。神さまが与えてくださる言葉を、あなたがたは語ればよいと、そうおっしゃるのです。

 

このことは、牧師をしていると、とてもよくわかります。私自身は、今のところは、実際に肉体的に捕えられたり鞭打たれたりするそうした厳しい状況に置かれたことはありません。でも、毎週、礼拝で何を語るかとても悩みます。けれども、今までおよそ18年間、説教ができずお休みしたことは一度もありません。しんどいながらも、何とか礼拝の説教の時間には説教を組み立ててくることができました。これは私が何か特別に優れているからとか、頭がいいからとか、話しが得意だからというわけではありません。全然優れていませんし、頭もよくなく、話すのは苦手です。でも、不思議と言葉が心の底から沸き上がって来るのです。頭に思い浮かんでくるのです。そして、それに従って、画面を見ながらパソコンのキーボードを叩いて原稿を作る、このことをおよそ18年間続けてきました。その結果、毎週、休むことなく、みことばを分かち合ってくることができました。これは決して私の力でも才能でもありません。神さまが与えてくださった、聖霊が心のうちから言葉を沸きあがらせてくださった、ただそのことのゆえであると信じて感謝しています。

 

何も牧師だけでありません。みなさんも神さまのことを自分の周りの人に伝えるとき、幼稚園の先生なら子どもたちに神さまのお話しをするとき、あるいは教会の礼拝で証しをしたりメッセージをしたりということもあるでしょう、その際に、自分自身を見るなら、なかなか話せない、思いつかない、できない、無理と思います。でもその思いが大切です。なぜなら、自分自身の力や才能で話すのではないというところに、しっかりと立つためです。そうした難しい、無理と思う中で、神さまに祈りつつ備える中で、神さまの側から言葉が備えられるのです。心の底から言葉が沸き上がるように、神さまの霊が導いてくださるのです。

 

このように豊かな導きをいただくことができるわけですが、でも、イエスさまに遣わされる歩みには、いろんな困難や厳しさが伴います。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」とイエスさまがおっしゃっているように、他の人の理解をなかなか得られず、愛する人と対立したり、さらには存在自体が認められなくなったりということも起こります。そこで私たちは本当にしんどく思い、傷つきながら過ごさねばなりません。そのように過ごす私たちに、イエスさまは「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と約束をしてくださっています。圧倒的な強く大きな世の力の前に、押し潰されそうになる時だってあるでしょう。でも、イエスさまが、そのように私たちが耐え忍びながら歩んでいることをちゃんとわかっていてくださり、そんな私たちのために救いを用意してくださっている、この約束を胸に刻んで歩みたい。「だから、恐れるな」エスさまがおっしゃっているこの言葉を繰り返し噛み締めて歩んでまいりたいと思います。

 

ところで、今日、イエスさまはそのように「最後まで耐え忍ぶ」ことを私たちに勧め、この世の大きな力の中で「だから、恐れるな」と励ましてくださっていますが、同時に、それと矛盾するようなこともおっしゃっています。23節です。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」「最後まで耐え忍ぶ者は、救われる」とおっしゃって、また「人々を恐れてはならない」ともおっしゃったイエスさまが、「他の町に逃げて行きなさい」とも、おっしゃるのです。これは驚きです。なぜなら私たちの普通の感覚からするなら、「最後まで耐え忍ぶ」ことと「逃げて行きなさい」ということでは、まるで違う正反対の矛盾することと思うからです。最後まで耐え忍ぶなら、逃げてはならないのではないか、これが私たちの普通の感覚です。途中で逃げてしまうようなら、それは最後まで耐え忍ぶことができなかったことではないかと、そのように普通考えます。苦しくても逃げずにそこで留まる、そのことが耐え忍ぶということではないかと思うのです。でもイエスさまは「逃げて行きなさい」とおっしゃいます。

 

実はこれとても大切なことだと思います。もちろん逃げ出さずにそこに留まり続ける勇気も素晴らしいものでしょう。しかし同時に、そこから逃げる決断をする勇気もまた大切なことではないでしょうか。もちろんそう簡単に逃げたり怠けたりすることはよくありません。でも一所懸命努力して頑張って耐え忍んで、その結果、そこから撤退して、新たな歩みへ移るということは、時として必要であるし、それが尊い決断となることもあるのです。そして、その時、新たな歩みに新たな展開が待っていることだってあるでしょう。

 

エスさまの弟子たちは、このイエスさまのことばに従って、自分たちが迫害される苦しみの中で、自分たちを守るため、また家族を守るために、実際に、その町から他の町に逃げて行った様子が聖書の使徒言行録に伝えられています。きっと彼らを迫害していた人たちは、自分たちが勝利して、キリストを信じ宣べ伝える者たちが負けたと考えたことでしょう。ところがどっこい、だれも予想しないことが起こったのです。それは、信仰者たちが逃げて行った新たなその町で福音宣教が盛んになり、その町でもイエスさまを信じる者たちが加えられていったということです。信仰者が逃げれば逃げるほど、次から次へ新たな町でそのことが起こったのでした。

 

逃げるは恥だが役に立つというタイトルのドラマがありました。逃げることは私たちにとって恥のように思えます。でも、時には大胆に逃げる、そのことを神さまが用いて豊かな実りを与えてくださることがあります。魂をすり減らして苦しんで段々と疲弊し、希望を失うというより、祈りのうちに、そこを立ち上がり、そこから新たな歩みへ移ることの大切さをも受け止めたいと思います。そして、イエスさまはそうしているうちに、「人の子は来る」、つまり神の国が到来すると約束されます。私たちが苦しみの中で逃げて新たな歩みを始める中で、神の国は前進するのです。

 

エスさまは、きょう「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」ともおっしゃいます。自分の姿を鏡で見るとき、私の髪の毛はイエスさまにとって段々と数えやすくなってきているなと思うのですが、そのように私自身は年を重ね、衰え、シワは増え、髪の毛は減っていきます。でも、そんな弱い私たちのことを、イエスさまがともにいて助けてくださっています。そのことを信頼して祈りのうちに、世の強く大きな力の中でも、心配と恐れを超えて、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」遣わされている働きに仕えてまいりたいと願います。

 

主よ、わたしたちを導いてください。

 

世の強い力の中で、弱い私たちです。あなたの御心を尋ね求めつつ、それに従って、あなたが示す道を歩む中で、遣わされた働きを担うことができるように導いてください。どうか私たちに語るべき言葉を与えてください。また、時には、そこから立ち上がって、新たな道へ移る決断をもお与えください。いつどんな時もどこにいても、共にいてくださる救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

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逃げるは・・・

「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」(マタイによる福音書10章23節)

逃げないで立ち向かっていく勇気も尊いけど・・・

逃げる決断をする勇気も尊い

エスの弟子たちは実際にこのイエスのことばに従い、迫害に遭ったら、他の町へ逃げていった。

きっと迫害をした者たちは、自分たちはその町で勝利したと思っただろう。

ところがどっこい、今度は逃げた町で福音宣教がさかんになって、多くの者たちがイエスを信じる者に加えられたのだった。

逃げるは恥だが役に立つ」というドラマがあったが、まさに逃げることが福音宣教に役立ったのだ。

また、イエスは、そうしているうちに、人の子は来るという。

逃げなきゃならないことがある。

私たちはそれを恥に思うかもしれない。

でもその逃げた先で、新たな道が備えられる。

そして、神の国は前進する!

 

あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。」(同30節)

ぼくの髪の毛は、日々、神さまにとって、数えやすくなっていることだろう。

 

だから、恐れるな。」(同31節)

あーめん!

2017年7月9日 礼拝メッセージ

聖霊降臨後第5主日 2017年7月9日

 

「痛みある世界へ」

(マタイによる福音書9章35節~10章15節)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。アーメン

 

聖書で、神さまは、私たちの父として位置付けられています。イエスさまも「天の父」と神さまを呼ばれ、私たちにも神さまにそう呼びかけて祈ることを薦めておられます。ですから、私たちも、「父なる神」とか「天のお父様」とお祈りいたします。これは、神さまが私たちに命を与え、私たちを保護し、養ってくださるお方、私たちに教え鍛えてくださるお方、私たちのすぐ近くで私たちを愛してくださるお方であるということを表しているのであって、なにも神さまが男性であるということを表しているわけではありません。神さまは、男性でも女性でもない、あるいは、男性でも女性でもある、私たちが考える性別を超えたお方です。このことは、神さまが人をお創りになられた際に、人を御自分に似せて「男と女に創造された」と、創世記が伝えていることからも言えることです。男だけでなく、あるいは、女だけでもなく、男も女もともに、神さまに似せて創られた存在であり、それゆえ神さまが男だとか女だとか、いずれか片方の性であるということはありえません。

 

そうは言っても、聖書で、神さまを「母」と呼んでいるところはないではないかと思われるかもしれません。たしかに、直接的には、そのように「母なる神」という呼ばれ方はされてはいませんが、しかし、聖書をよく読むと、神さまを私たちの母として伝えている表現に出会うことができます。旧約聖書は、もともとイスラエルの人たちの言葉であるヘブライ語で書かれているものなのですが、そのヘブライ語の聖書には、神さまを表す言葉の一つとしてエルシャダイという言葉があります。このエルシャダイは、「全能の神」と私たちが用いている日本語の聖書では翻訳されているのですが、もともとは「乳房の神」つまり「おっぱいの神」という意味を持つ言葉であったと考えられます。母親から生まれた赤ちゃんがお母さんのおっぱいを飲んで育つように、神さまによって命を与えられた神の子である私たちが、神さまから霊的なおっぱいをいただいて養われる。そのように神さまは母として、私たちを養い育ててくださるお方であるという意味でしょう。また詩編などでは、神さまの翼の陰に私たちが守られ養われるという表現がなされます。たとえば詩編91編では、「神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる」と語られています。これは、雛鳥が母鳥の翼の陰に包まれて、敵から守られ育てられるように、神さまも私たちの母として、私たちを守り養ってくださるというイメージを、私たちに伝えているわけです。

 

そして、聖書が、神さまを私たちの母として伝えている表現のもう一つは、今日の福音のみことばにもある、「憐れむ」という言葉です。今日の福音は、次の言葉から始まっています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」福音書新約聖書であり、もともとはギリシア語で書かれているわけですが、この「憐れむ」という言葉は、旧約聖書ヘブライ語も、新約聖書ギリシア語も、もともと同じ意味を持つ言葉に由来しています。それは、女性の子宮です。母親のおなか、胎を表す言葉がもとになっているのです。なぜそのように女性の子宮、母親のおなかを表す言葉から、「憐れむ」という意味を表す言葉が生まれたのかと言いますと、母親が自分の子宮に宿し、自分のおなかを痛めて産んだわが子のこと、特にその子が困難な状態、辛く悲しい状態にあることを思って、母親自身が自分のこととして、あるいは自分のことよりももっと深い、悲しみや苦しみや痛みを覚える、その姿から、「子宮」という言葉から「憐れむ」という意味を持つ言葉が生まれてきたのです。このように、聖書には、神さまは私たちの父であるとともに、私たちの母であると伝えられています。

 

さて、今日の福音で、イエスさまが当時の人々の姿をご覧になり、「深く憐れまれた」という、この言葉は、今、申しましたように、母親がわが子の苦しみを思い、自分自身の痛みとして感じる様子を表しています。つまり、イエスさまは、ご自分のこととして、いえ、それ以上に、人々の痛みを感じ取られた、わが子のことのように人々の苦しみを受け止め、痛みのうちに心配なさったということが伝えられているのです。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」とありますから、イエスさまが回ったどんな町や村でも、会堂で教えていた際も、また福音を伝えていた時も、さらには、人々のいろんな病気や患いを癒された時でも、本当に深く傷ついた人たちがいた。それはあたかも「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」そんな姿として、イエスさまの目に映ったのでした。いえ、イエスさまの目でご覧になったからこそ、他の人には気づくことができない、人々の奥底にある痛みや苦しみが、ご自分の痛みとして、イエスさまに感じ取られたのでしょう。

 

以前の復活節、よい羊飼いの主日の際にお話ししましたが、羊が安心して元気に過ごすためにはよい飼い主、羊飼いが必要です。羊たちを野原に連れて行き、草を食めるようにして、いろんな危険から羊たちを守ってくれる、そうした羊飼いがいなければ、羊たちは迷ってしまい、また草を食むこともできず弱ってしまい、飢えてしまい、臆病なので震えて過ごさなければなりません。野獣や羊泥棒にやられてしまうかもしれない。当時のイエスさまが出会った人たちがそうした羊たちの様に、イエスさまの目に映ったのでした。

 

経済的に生活が苦しかったり、あるいはローマの支配下にあって自由が奪われて脅えていたり、宗教的にも指導者たちの厳しい勧めに応えられず委縮してしまったり、何とも言えない虚しさや孤独を感じていたり、生きる意味を見失っていたり、真理から遠ざかっていたり、病や患いに押し潰されそうになっていたり、いろんなことでもうボロボロになっていた人たちの姿を、イエスさまは見て取ったのでした。顔では笑っていても、心では泣いている人たち、強がっていても、実は恐れを持っている人たち、人々のそうした真実の姿が、イエスさまの心の目にははっきりと見えたのです。イエスさまは人々の痛みを、そのまま放置しておくことはできませんでした。ご自身の激しい痛みとして感じ受け取られます。「本当に大変だよね、苦しいよね、辛いよね」、イエスさまは深く共感なさったのです。

 

いま私は、聖書日課の執筆の担当をしています。前回は5月の末が締め切りで、ちょうどクリスマスの時季の日課の執筆の担当でした。これから夏となり、だんだん暑くなっていくこの時期に、クリスマスや大晦日のメッセージを執筆するのは、何とも不思議な感じがしましたが、その際に、12月24日のクリスマスイブを迎える日曜日の朝の日課として、フィリピの信徒への手紙の4章にある「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」というみことばからのメッセージを書きました。その日の夜からクリスマス、イエスさまのお誕生のお祝いに入るということで、ぜひクリスマスと関連したメッセージを書きたいと思ったのですが、なかなか思いつかず、何を書いたらよいか結構悩みました。悩みながら、このみことばをもとに、ある著名な神学者が、クリスマスのメッセージを書いていたのを思い出して、もう一度それを手に取って読み直してみました。かつて最初に読んだ時にはあまりたいした感じるものはなかったのですが、今回改めて読んで、たいへん深く感動しました。

 

そこで言われていることは、クリスマスにこそ、この「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」というみことばがふさわしいということです。なぜかと言うと、イエスさまが人となり、私たちの経験するすべてをご自分のものとして引き受けてくださったのだ!だから、私たちが苦しみの時、イエスさまを思い起こせば、そこで私たちのその苦しみがすべて既に解決し勝利していることを知る、だから私たちがもう思い煩う必要はなくなったというメッセージでした。イエスさまは、ご自分の身に私たちのすべてを引き受けられたお方です。私たちのどんな苦しみや悲しみや困難も、イエスさまご自身の痛みとして受け取り、乗り越えてくださったのです。

 

私たちがたとえ顔では笑っていても、表面上は強がっていても、イエスさまは心の奥底にある私たちの真実の姿を見て取り、「本当苦しいよね、たいへんだよね、辛いよね」と、「あなたの気持ち、あなたの大変さ、ほんとわかるよ」と、私たちの母である神としての愛をもって共感してくださいます。イエスさまがそうおっしゃるのは、決して口先だけでありません。イエスさまが、そのように私たちの痛みをご自分のこととして引き受けてくださる、その証しが、あの十字架です。初代教会より、十字架にかかり苦しみ死なれたイエスさまの姿を語っていると受け取られてきたイザヤ書53章のことばを思い起こします。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」。まさにイエスさまは私たちの苦しみ、痛み、病、それらすべてをご自分の身に引き受けて、苦しみ死なれるのです。わが子が病気や災害に遭った時に、「なぜ私でなくこの子が…」と悲しみに暮れて、「私がこの子に代わってあげたい、だからこの子を元気にして、あるいはこの子の命を返してほしい」と訴えるお母さんがいます。まさに、イエスさまは、私たちの痛みをそのように受け止めてくださり、事実、イエスさまは愛する私たちのために、苦しみを一身に引き受けてくださったのが、あの十字架なのです。

 

今日のみことばのはじめ、9章の35節と36節のところをお話ししただけで、こんなに長くなりましたが、それに続くところでは、イエスさまがそのように人々の痛みをご自身の痛みとして受け取られたその思いの中で、弟子たちを宣教の働きに遣わされたことが伝えられています。その際に、イエスさまがおっしゃったのは、イエスさまの心を自分の心として、一人ひとりに接していくようにということでした。イエスさまが人々の痛みをご自分の痛みとして受け取られたように、私たちも、人々の痛みを自分の痛みとして引き受けていく。ただ言葉だけで「福音を信じなさい」と、そう呼び掛けるだけでなく、実際に、目の前の人の痛みに触れ、癒されるように祈り、その人が本当に「天の国は近づいた」と実感できるようにかかわっていく。

 

私たちがかかわるべき人が「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と、具体的にリストアップされています。病気で苦しむ人、生きる希望を失った人、生きる価値がないとみんなから言われている人、みんなから差別され排除されている人、もうどうにもならないと周りのみんなから見捨てられた人、そうした一人ひとりを見捨てず、しっかりと寄り添い関わり、命と希望を分かち合うのです。その働きのために、神さまがすべて必要なものをあなたに備えてくださるから、その力もちゃんとわたしがあなたに授けるから大丈夫、あなたは何も心配しないで、与えられた働きに仕えていけばそれでよいのだと、イエスさまは弟子たちに、そして私たちに告げられます。

 

ただし、そのようにイエスさまの言葉に従って私たちが働いたからと言って、いつもそう簡単にみんなに受け入れられてもらえるわけではありません。なかなか受け入れられないかもしれない。でも、そうであっても、私たちは「シャローム「平和があるように」と伝えるように、イエスさまはおっしゃいます。これは、私たちの側で、「あの人は無理だ」と最初から決めつけてしまわないようにしなさいということでしょう。宣教は、神さまの働き、イエスさまのみわざです。私たちは、それに仕えるのです。私たちが、その人をキリスト教に改宗させようとか回心させようとかするのではなく、神さまが働かれるその働きに、私たちは仕えて、イエスさまが成し遂げてくださるそのみわざを信じ、委ねつつ、私たちは祈りをもって、目の前の人に仕え、寄り添っていくのです。

 

今日の福音には、イエスさまの12使徒の名前が記されています。そこに私たち一人ひとりの名前もあることを、今日、受け止めたいと思います。私たちもまたイエスさまから、痛みあるこの世界へと遣わされています。痛みを抱えて生きる人の痛みを自分に引き受けて、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、そうした歩みをしてまいりたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

御子イエスさまが私たちの痛みを引き受けるために人となり、また十字架を引き受けられ、私たちとともに苦しまれる深い憐れみを、私たちは今日知りました。ありがとうございます。私たちもイエスさまが私にそうしてくださったように、隣人の痛みを自分の身に引き受け、喜ぶ者とともに喜び、泣く者と共に泣く中で、御国の福音、そしてあなたにある平安を分かち合って歩むことができますように用いてください。救い主イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

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