yukaina_gorilla’s diary

ごりらぼくし(大麻ルーテル教会/北見聖ペテロ・ルーテル教会)です。聖書や教会のこと、社会のこと、ペットのことなど書いていきますね。

2018年4月1日 礼拝メッセージ(主の復活)

復活祭 2018年4月1日

 

「どんな国の人でも」

使徒言行録10章34~43、マルコ16章1~8)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

2千年前のあの日曜日の朝早く、日が出るとすぐ、ヨハネによる福音書では、外はまだ暗いうちにとありますので、本当に早朝に一目散にとある場所に急ぐ一行がありました。それはイエスさまに従ってきた女性たちで、彼女たちが急ぎ向かっていた場所は、お墓でした。

 

日の出から墓に向かって一目散に急ぐ人々。この彼女たちの姿は、また、それから二千年の時を経て、そして場所も福音書の舞台とは大きく異なる、この日本の北海道で生きる私たちの姿でもあります。私たちもまた、この世に産声を上げ、この世の光を受けるや否や、誰しもが確実に墓に向かって、つまり死の現実に向かって歩んでいるのです。そしてこの忙しい世の中にあって、私たちは生き急いでいる、あるいは死に急いでいる、そんな風に言えるかもしれません。お墓に向かって急ぐ彼女たちの姿に、私たちの姿が重なります。

 

彼女たちはその途上、一つの大きな懸念がありました。それは、墓の入り口を塞ぐ大きな重い石についてでした。彼女たちは口々に語り合います。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。この彼女たちの心配を理解するためには、当時のお墓について説明が必要でしょう。当時、福音書の舞台となっている地方では、人が亡くなったらその亡骸を洞穴、洞窟の中にそのまま寝かせて納めたのです。そして、墓を荒らす人やまた野生動物からその亡骸を守るために、その洞穴の入り口に大きな重い石で蓋、封印をしたのでした。

 

エスさまが十字架にかかり亡くなったのは、金曜日の午後3時頃のことでした。そして間もなく日没を迎え、ユダヤ教安息日を迎えました。安息日の間は、人の死に関わる作業をすることが許されておりませんでしたので、イエスさまのご遺体は急いで安息日を迎える前に墓の中に葬られたのです。でも、イエスさまを愛する人たちにとって、それは納得のできる葬り方ではありませんでした。私たちも同じです。私たちの愛する人が亡くなった時、それが亡骸だからと言って、ただそのまま粗末に土の中に埋められたり、火葬場の炉の中に投げ入れられたりしたらどんな思いになるでしょうか。決して納得できない悲しい腹立たしい思いになるはずです。少しでもそのおからだをきれいにしてあげたい、お花で飾ってあげたい、そんな風に思うでしょう。当時のパレスチナは土葬でしたから、イエスさまのおからだによい香りのする油を塗ってあげたい、そう彼女たちは願いつつ、イエスさまのお墓へと急いだのです。

 

けれども、大きな不安は、その墓を塞ぐ大きな重い石。自分たちの力では到底どうすることもできないその石をどうするか彼女たちは心配しながら、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と語り合いながら、墓へと向かっていました。墓へと向かう彼女たちの前に立ちはだかる、自分たちではどうすることもできない、その大きな重い石。これもまた、今日の私たちに他人事ではないメッセージが聞こえてくるような思いがいたします。先ほど、私たちは誰しもが、産声を上げ、この世の光を見るや否や、墓に向かって、死に向かって、生き急いでいる、死に急いでいる、そんな風に申しました。その私たちの行く先にも、大きな重い石が立ちはだかっています。私たち自分の力ではどうすることも、そこを乗り越えることも、その現実を覆すこともできない、墓の大きな重い石。まさにその重い大きな石こそ、私たちの力ではどうすることもできない墓の現実、死の現実を私たちに突きつけるのです。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」、これはまた私たちの不安の心の声なのです。

 

けれども、福音は私たちに告げて言います。「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」そうです。彼女たちの心配をよそに、その非常に大きかった彼女たちの不安の石は、既にわきへと転がされてあったのです。彼女たちは不安の中で、心配の中で、墓に着いても、自分の目の前の墓を直視することはできなかったのでしょう。でも、いつまでもそこから目をそらしているわけにはいきません。彼女たちは目をあげてみました。すると、もはや既にその石は取りよけられていた。私たちも確実に墓に向かって死に向かって一歩一歩歩みを進めているはずなのだけど、普段の生活では、あまりその現実を考えずに毎日を過ごそうとしているかもしれません。いつか必ず死んで葬られなければならないのに、そこから目をそらして生きているのです。でもいつまでもそうしていることはできません。日一日とその日は近づいています。年を老いたり、病になったり、災害に遭ったり、事故に遭ったり、親しい愛する人を失ったりする中で、私たちはその現実を知らされるのです。

 

でもそこで目をあげたい。いつまでも下を見たり、どこか違うところを見たりして、墓の現実、死の現実から目をそらすのではなく、目をあげて、それを直視したいのです。すると、私たちには自分の力でどうすることもできない、決して乗り越えることも、状況を覆すこともできないと思われていた墓の現実、死の現実の前に立ちはだかる大きな重い石は既にわきへ転がされています。

 

彼女たちが目をあげると、大きな重い石がわきへ転がされていたので、彼女たちは墓の中に入っていきます。「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」と福音は告げています。そうです。墓の現実、死の現実から目をそらすのではなく、目をあげてそれをしっかりと直視しようとするとき、そこへ向けて一歩を踏み出すとき、彼女たちは、白い長い衣を着た若者、つまり神の天使に出会うのです。天使、それは、神から遣わされ、神からのメッセージを告げる者です。死から目をそらすのではなく、目をあげて、死を直視して、そこへ向かう時にこそ、私たちはそこで天使に出会う、つまり神が告げる言葉を聞くことができるのです。

 

「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」

 

今までは死こそ、墓こそが、人の人生の最終目的地でした。ターミナルケアという言葉があります。人が人生のターミナル終着駅である死を目前として、受けるケアのことです。私たちの人生のターミナル終着駅は死であり墓である、それが私たちにとって常識であり、時には残酷な悲しい決して逃れることはできない、万人に共通な現実でありました。どんな国の人でもという今日メッセージのタイトルを付けましたが、どんな国の人でも死をもって人生は終わり、それが常識であったのです。

 

でも若者、天使は告げるのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と。死で終わり、そして墓に葬られて終わりだと思ったら、そこには何もなかった。この2千年間イースターのたびごとに言われてきた言葉で表現するなら、墓は空っぽだったのです。そこはもはや空しい墓であったのです。死を超えた、墓を超えた、墓を空しく、死を空しくする驚くべき出来事が、今や起こったのでした。それがイエス・キリストの復活でした。

 

エスさまが十字架にかかられ、墓に葬られた。これは完全にイエスさまが亡くなられたという事実を、私たちに告げています。でも、その完全に死なれた方が、今や死の現実、墓の現実を破り、復活なさったのです。そして、「ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」死と墓の現実を打ち破る新しい命の現実を私たちにもたらすのです。

 

それではその復活なさったイエスさまと私たちはどこで出会うことができるのか。どうやったら私たちもその復活なさったイエスさまと共にその新しい命に生きることができるのか。若者、天使は告げて言います。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」

 

そうです。イエスさまの周りにいた人たちが、復活なさったイエスさまと出会い、そのイエスさまから死と墓の現実を打ち破り、死と墓を超えた新しいいのちをいただいて、その命に生きる場所は、何も特別な行くのに難しい場所ではありませんでした。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。そうです。ガリラヤです。それはイエスさまと一緒に過ごした者たちにとって、何ら特別な場所ではありませんでした。なぜなら彼らが、時には笑いながら、時には涙を流しながら、あるいは時には憤りながら、毎日毎日ごくごく普通に生活していたその場所、それがガリラヤでした。イエスさまは、そのガリラヤに彼女たち、弟子たちより先に行かれる、そこでお目にかかれると、今、告げられるのです。

 

そして、天使は今日私たちにも告げて言います。「復活なさったイエスさまは、あなたがたのガリラヤへ、あなたがたより先に行かれる。そこでお目にかかれる」と。ガリラヤなんて私たちにとって遠いじゃないか、そう思われるかもしれません。いえ、そんなことを天使が告げているわけではないのです。私たちのガリラヤです。そうです。私たちが毎日毎日生活しているその場所です。私たちが笑ったり、泣いたり、怒ったり、苦しんだり、そうしながら毎日を過ごし、生きているその場所、その私たちのガリラヤで、私たちは復活なさったイエスさまと出会うことができるのです。イエスさまが私たちより先に、私たちに先立って、その私たちが生きるその場所、その生活のど真ん中へいらしてくださっている。それゆえ、私たちが何か特別な場所へ行ったり、特別なことをしたりすることによってではなく、淡々と毎日の生活を送るそのただ中で、私たちは復活なさったイエスさまと出会い、そして、毎日の生活の中で死と墓を打ち破り、死と墓を超えた新しい命をいただき、その命に生かされることができるのです。

 

ところで天使は、イエスさまの復活を告げる際に、わざわざ一人の名前を付けくわえて告げています。「さあ行って、弟子たちとペトロに告げなさい」。このように、わざわざ「ペトロに」と言うのです。ペトロだって弟子たちの一人ですから、この言葉はいらないはずです。でもわざわざ「ペトロに」と言っている。私はそこに大きな慰めを覚えます。ペトロ、彼は、自分は絶対イエスさまを見捨てない、逃げない、裏切らないと言いながら、いとも簡単に三度もイエスさまのことを知らないと言ってしまいます。呪いの言葉さえ口にしながら本当にひどい言葉でイエスさまの弟子であることを否定したのです。そして、そんな自分に大泣きしました。きっと彼は絶望のどん底にいたでしょう。もはや立ち上がれないそんな思いだったと思います。自分のせいで主は死んでしまったのだ。そんな思いでいたかもしれません。もう生きているのが嫌になったかもしれません。でも、天使は、告げるのです。「ペトロに告げなさい」と。

 

そうです。どんだけイエスさまを裏切ってしまったとしても、どんなに取り返すことができない大きな罪を犯してしまったとしても、そのことでもう生きているのが嫌になったとしても、もう信仰なんて自分にはふさわしくない、もう続けられないとそう思ったとしても、でもその者にこそ、復活の福音は、名指しで告げられるのです。失敗して罪を犯してもそれで終わりじゃない。新しい命があなたのために備えられている。だから逃げずに、あなたのガリラヤ、あなたの生活のど真ん中で生きろ、そこに復活なさったイエスさまがあなたより先に、あなたに先立って行かれる。そこでお目にかかれると。

 

わざわざ名指しで復活の福音を告げ知らされた、イエスさまを裏切ってしまった弱いペトロは、その後、復活なさった主と出会い力づけられ、福音を宣べ伝える働きに召されていきます。そして今日のみことばで、彼は、神は分け隔てなさらず、どんな国の人だって、どんな人だって、この復活の福音に与ることができると告げています。そうです。私たちにも、私にも、あなたにも、今日復活の福音が伝えられるのです。死と墓の現実を超えて、そして、失敗と罪の中から立ち上がって、あなたは新しい命に生きよと、あなたが生きている今その場所で、復活なさった主は命を差し出しながら、告げておっしゃるのです。だから私たちも、現実を誤魔化して恐れながら目をそらすのではなく、目をあげたい。そこから新しいいのちの世界が始まります。

 

ハレルヤ、主キリストは復活なさいました。本当に復活なさいました。ハレルヤ。主イエス・キリストのご復活、イースターおめでとうございます。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

この世に産声を上げたときから、死と墓に向かって歩み、しかし、その死と墓をどうすることもできなかった私たちを、御子の復活によって新しい命に生きる者としてくださったことを感謝いたします。私たちの生活のただ中で目をあげて、主の復活に出会い、復活の信仰を抱いて歩んでいくことができますように。たくさん失敗をし、罪を重ねてしまう弱い私ですが、にもかかわらず、命に招いてくださることを感謝いたします。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。アーメン

 

動画 2018-04-01.MP4 - Google ドライブ

 

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2018年3月25日 礼拝メッセージ

主の受難 2018年3月25日

 

「神にも人にも」

(マルコによる福音書14章1~15章47)

 

わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。

アーメン

 

今日は、灰の水曜日の日より過ごしてきた四旬節の最後の一週間のはじめ、主の受難の礼拝を迎えています。イエスさまの十字架を思い起こし、ご復活の祝いへの最後の備えをする聖週間、受難週を今年も迎えました。

 

今日の礼拝の初めに、イエスさまのエルサレム入城の出来事を記念いたしました。人々が木の枝を振りながら、あるいは道に敷いて、歓迎する中を、イエスさまがエルサレムに入られました。そのイエスさまのお姿を思い起こし、私たちもまた、私たちのただ中においでくださる救い主イエスさまを、今日改めてお迎えします。

 

その際に人々は「ホサナ、ホサナ」「お救いください、お救いださい」と大喜びのうちにイエスさまを迎えました。ある意味、たいへん熱狂的にイエスさまを迎えた人々の姿に出会います。そのように人々から迎えられたイエスさまが、その後、どういう歩みをされたのかを、私たちは今、福音書記者マルコが伝えているイエスさまの受難物語を通して、今、聞いてまいりました。

 

14章の初めから15章の終わりまでという、たいへん長い箇所でしたが、私は、このようにその年のために与えられている福音書を通して告げられているイエスさまの受難物語を通して聞くことに、とても大きな意義を受け止めています。

 

普段、福音書をそれぞれの個所だけ読む場合には、それぞれの箇所で点として、そこでそれぞれ伝えられているイエスさまのなさったことや語られたことを受け止めることができるわけですが、このように私たちが、イエスさまの受難物語を福音をずっと通して一度に聞くことを通して、それぞれの点がばらばらに点在しているというのではなく、その点が並んで一本の線へとつながり、前後の脈絡の中で、イエスさまの十字架への歩みが見えてきますし、さらにはその線が、面となって広がって、その広がりの中で、一連の出来事としてより豊かに受け止めることができるようになってくるのではないかと思います。

 

たとえば、イエスさまの足に香油を塗った女性の出来事、最後の晩餐、そしてゲツセマネの園での出来事と、それぞれの出来事からも私たちはいろんなメッセージを受け止めることができるわけですが、それを続けて読み進める時に、イエスさまの葬り、つまりイエスさまの死を受け止められない弟子の姿、そしてそれが結局、イエスさまがイエスさまを敵対視する人々に売られる原因になってしまう、そうした中でもご自分の体と血、苦しみながら神の御心に従ってその命を差し出されるイエスさまの命がけの愛、そのイエスさまの愛に応えられず裏切ってしまう弟子たちの姿と、そうした一本の線となり見えて来ます。

 

さらには、今日、私たちはイエスさまの十字架をめぐって登場する人たちの言葉を、みんなで声に出して読みましたが、自分の無理解や不信仰、弱さや罪の中で、イエスさまを捨ててしまったり、イエスさまの前から逃げてしまったり、信実を見失ってしまったりするその人々は、他でもなく私たち自身であるということに気づかされる。そしてそうした私たちをなおも包み込み、赦し、救おうとされるイエスさまの十字架の大きな愛が見えて来る。一つの面となって、広がりを持った出来事として、イエスさまの受難の出来事が見えてくるのです。

 

今日のメッセージのタイトルを「神にも人にも」としました。イエスさまは十字架の上で神にも人にも見捨てられたのでした。

 

自分の側近である弟子に売り飛ばされたり、見捨てられてしまったり。よくイエスさまを裏切った弟子としてイスカエリオテのユダについて言われます。彼はたしかにイエスさまの十字架を受け入れることができず、イエスさまをイエスさまに敵対する、当時の宗教的な指導者に売り飛ばしました。そしてそれがきっかけでイエスさまは裁判を受け、十字架刑に処せられてしまいます。その意味ではたしかに彼の果たした役割というかその罪はとてつもなく大きなものです。

 

でも、ではこのユダだけが問題なのかというと、決してそんなことはないということに、私たちはイエスさまの受難物語を通して読む中で気づかされます。イエスさまから「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」と言われたら、みんな代わる代わる「まさかわたしのことでは」と心配になる弟子たちでしたが、そうした中でもペトロは「あなたがたは皆わたしにつまずく」とのイエスさまの言葉に対して、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と豪語するわけです。しかし、イエスさまは、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とペトロに告げるわけですが、ペトロはそれでもまだ「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」なんて格好の良いことを力強く言うのです。そしてマルコは、さらに一言加えるのです。「皆の者も同じように言った。」弟子たちみんな勇ましく「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」とイエスさまに向かって言ったというのです。

 

でも実際はどうだったか。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」そう伝えられています。ペトロは、イエスさまが告げられた通り、鶏が二度なく前にイエスさまのことを三度も知らないと言ってしまう。最期なんか《ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた》と伝えられています。その時鶏が二度目に泣くわけですが、《ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした》のでした。なんとも惨めな情けない姿です。

 

さらに、こんな弟子もいました。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。」自分もイエスさまと同じように捕まるのが怖かったのでしょうか。素っ裸で逃げてしまうのです。これまた情けない姿です。一説によれば、これはマルコ自身のことではないかとも考えられています。そうであるなら、自分もイエスさまを見捨てた一人なんだということを、マルコは忘れないためにこれを記録したのかもしれません。

 

このように、イエスさまに従った弟子たちみんながイエスさまを見捨てて裏切ったのです。そして、それは私たちにとって他人事の話ではありません。彼らの中に、イエスさまに従っていこうと願いつつ、従えないことの多い私たちもいるのです。

 

弟子たちだけでありません。イエスさまに無実の罪を着せた宗教的な指導者たち、イエスさまをバカにしたり暴行を加えた兵士たち、イエスさまを罪に定め自らの保身を図ったピラトやバラバ、そして世の流れに扇動されてイエスさまに向かって「十字架に付けろ」「十字架に付けろ」と叫んだ民衆たち、みんながみんなイエスさまを見捨ててしまったのでした。私たちもその場の雰囲気で、信実を曲げたり、その場の流れに流されちゃったり、人を助けるより自分の身の安全を考えたり、このようにイエスさまの受難の物語に登場する彼らと同じ姿があるのです。

 

このようにイエスさまは人々から捨てられて、十字架の上で苦しみ死んでいかれました。

 

さらには、イエスさまは十字架の上で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。これがマルコ福音書の中で伝えられているイエスさまの最後の言葉であり、たいへん凄まじい叫びです。イエスさまが洗礼を受けられたとき、また山の上でそのお姿が変わられた時、「これはわたしの愛する子」と、イエスさまに向かって天からの声がかけられたことを思い起こします。しかし、その神の愛する御子であられるイエスさまが、なんと十字架の上で神に見捨てられる苦しみの中で、壮絶な叫びをあげながら死んでいかれたのです。

 

このように神にも人にも見捨てられて死んでいかれたイエスさまでした。それもすべて私たちの救いのため、私たちへの愛のゆえでした。本来ならば、罪を抱え、イエスさまを見捨てて裏切って生活している私たちこそが、神にも人にも見捨てられながら、孤独のうちに壮絶な叫びをあげながら世を去らなければなりませんでした。イエスさまの十字架上の姿は、本当は私たちの行く末なのです。でも、イエスさまが、それをご自分の身に引き受けてくださいました。神の愛する御子であられるイエスさまが、そして人々をその極みまで愛されたイエスさまが、神にも人にも捨てられて、その苦しみの極みの中で死なれた。ただそのことによってのみ、私たちへの救いの道が開かれたのです。

 

私たちの罪のためにわざわざ神の御子が死ななくてもよいではないか?と思われるかもしれません。いえ、そうじゃない。神の御子が死なない限り、私たちの罪はどうにもできません。それはなにも私たちの被害妄想なんかじゃないし、自分の罪を過大に受け止めていることの表れでもありません。私たちの罪がそれほどまでとてつもなく重いものであること、すなわち私たちがこれほどまでとてつもなく罪深いものであること、そしてそれを超えて、神の救い、イエスさまの愛がこれほどまでとてつもなく大きなものであることを、私たちは今日改めて心に刻みたいと思います。

 

そのイエスさまが、今、私たちを救うために、私たちのもとにおいでになります。ご自身苦しみ死なねばならない十字架のことを知っていながら。ですから、私たちも「ホサナ、ホサナ」「お救いください、お救いください」と信頼と喜びと感謝をもって、救い主イエスさまを私たちの教会に、そして私たちの心の中に迎えたいと願います。

 

そして、イエスさまのご生涯は、十字架の苦しみと死をもって終わりませんでした。徹底的に神にも人にも捨てられて、そのことにより、私たちをお救いくださったイエスさまを、神さまはそのまま捨て置かれることはなさいません。そうしたイエスさまの愛のご生涯、その最後を受け止め、それを尊いものとされ、イエスさまを復活させられたのです。

 

今日の礼拝ではイエスさまのエルサレム入城の枝とそしてまだ咲いていないつぼみのユリを飾っておきました。ゆりは復活のシンボルとされる花です。主の十字架の先には復活がある。そのイエスさまのご復活の祝いをより豊かな喜びとして祝うためにも、この聖なる一週間をみことばと祈りと、悔い改めの時として、主の苦しみを心に刻んで過ごそうではありませんか。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

エスさまを裏切り、あなたを悲しませて生きている罪深い私です。でもその私たちを救うために御子イエスさまが私たちのもとへおいでくださり、十字架を引き受け、神にも人にも見捨てられる苦しみの中で死なれた出来事に私たちは今日思いを馳せました。イエスさまの命がけの愛を感謝いたします。イエスさまの十字架を心に刻み、あなたの救いをいただいた感謝をもって、来週のご復活の祝いを喜び祝うことができるように、私たちを導いてください。私たちのためにすべてをささげられた救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 今回は、主の受難の礼拝をFacebookで配信したものです。

https://www.facebook.com/masaki.shirai/videos/1646445248767943/

 

http://wp.production.patheos.com/blogs/friendlyatheist/files/im/gXK8cTC.jpg

 

復活祭(イースター)

復活祭(イースター)のごあんない

 

https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTNUEc1H5FIG3EHsAyCS4LNLibQ46l6O5Pfukr-1_mcn_cZZr0lfQ

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(聖書)

 

北見ルーテル教会

 3月31日午前10時30分 主の受難と復活の礼拝

 礼拝後(お昼前頃)から イースター祝会

  北見市公園町5-1 運動公園近く

 

大麻ルーテル教会

 4月1日午前11時00分 主の復活の礼拝

 礼拝後(お昼過ぎ頃)から イースター祝会

  江別市大麻園町32-1(ひかり幼稚園となり)

 

 どうぞどなたでもご自由にいらしてください。

 こどもも おとなも 大歓迎!(子ども向きのメッセージあります)

礼拝後の祝会は楽しくおいしい集いです。(食べ物の持ち寄りを歓迎いたします)

 

お問い合わせ 白井真樹牧師   shirai_masaki0527@ybb.ne.jp

北見ルーテル教会現会堂最終礼拝

北見ルーテル教会 現礼拝堂 最終礼拝のごあんない

 

日本ルーテル教団

北見ルーテル教会

 

♰ 主の平和!

私たちの救い主イエス・キリストのご受難を偲びつつ。

私ども北見ルーテル教会は、教団のご支援ならびに北海道地区のバックアップをいただきながら、今春の雪解けより現会堂の解体工事を行い、新会堂を建築する計画を現在進めております。

つきましては、下記の通り、現会堂の礼拝堂における最終礼拝と感謝の集いを行います。みなさまのお祈りに覚えてくだされば感謝でございます。また、ご一緒に最終礼拝に参加なさることが可能なみなさまにおかれましては、ぜひおいでくださいますよう、ご案内申し上げます。

みなさまの四旬節の歩みが支えられ、ご復活の祝いに向けたよき備えの日々を過ごされますように心よりお祈り申し上げます。

主にありて

 

    記

日 時 2018年4月14日(土曜日)午前10時30分より 復活節第3聖日礼拝において

場 所 北見ルーテル教会 礼拝堂

         〒090-0015 北海道北見市公園町5−1

          電話/fax 0157-61-3391 牧師携帯090-6210-7485  メールkitamichurch@gmail.com

内 容 一 部 復活節第3聖日 北見ルーテル教会現礼拝堂最終感謝礼拝式

       司式 白井真樹牧師(北見教会)

       説教 木村繁雄牧師(小樽教会、元 北見教会牧師)

    二 部 感 謝 の つ ど い (会食・現会堂の思い出など)

 

以上

 

北見ルーテル教会新会堂建築募金

北見ルーテル教会新会堂建築募金ご協力のお願い

 

日本ルーテル教団

北見ルーテル教会

 

 

♰ 主の平和!

私ども北見ルーテル教会では、現在、新会堂を建築すべく再建計画を進めております。

当教会の会堂は、かつて青少年宿泊研修所を運営するために建築された建物を、運営終了後、教会堂として用いてきたものです。しかし、教会員の人数に比べ、敷地と建物の規模が大きすぎ、夏の除草や冬の除雪、暖房費など維持が困難な状態が続いておりました。また、雹害や雪害等で修繕を余儀なくされてきました。

このため、現在の敷地の大部分を売却し、残りの土地に身の丈に合った小さな会堂を建てることを、会員の総意として希望し決断するに至りました。しかし、現在のところ建築資金が不足しておりますため、全国のみなさまにお祈りと募金のご協力を賜りたくお願い申し上げます。

日本そして東アジア最北の地にあるルーテル教会において、これからも宣教と礼拝を続け、主の福音が前進するための拠点としての、北見教会の再建のため、ご協力賜りますならば、誠に感謝でございます。何卒よろしくお願いいたします。

末筆ながら、みなさまと共に、神さまの祝福が尚一層豊かにありますことを心よりお祈り申し上げます。

                                                                       主にありて

 

                       記

建築期間

  2018年雪解けより 現会堂取り壊し

  2018年遅くて10月末 竣工・献堂予定

予定総工費 2270万円(礼拝堂椅子など備品を含む)

  資金内訳  教団援助  1788万円(土地売却益より)

        自己資金   352万円(貯蓄全額及び会堂建築指定献金

        地区拡援助   80万円(8年返済)

        全国募金   100万円(目標額)

 

募金送金先 以下の口座までご送金くださいますようお願いいたします。

 

郵便局(ゆうちょATM)から

【記号】19790 【番号】15846221 

【名義】北見ルーテル教会 

 

他行から 

【金融機関名】ゆうちょ銀行

【店名】九七八(キュウナナハチ) 【店番】978 

【預金種目】普通預金 【口座番号】1584622

【名義】北見ルーテル教会

 

*勝手ながら、お申し出のない場合、金融機関への振込依頼書・払込受領書・ご利用明細票をもって領収書に代えさせていただきます。

教会からの領収証が必要な方は、お手数をおかけいたしますが、ご送金日とご送金の際に記入(入力)されたお名前および領収証を発送させていただくご住所とご氏名を、以下までメールにてご連絡ください。

          白井真樹牧師 メール kitamichurch@gmail.com

 

以上

2018年3月18日 礼拝メッセージ

四旬節第5主日 2018年3月18日

 

「一粒の麦」

エレミヤ書31章31~34、ヨハネによる福音書12章20~33)

 

わたしたちの父である神と、主イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。アーメン

 

金曜日、大麻教会に隣接するひかり幼稚園で卒園式が行われました。そこで園長である吉田先生がなさったお話に感銘を受けました。「神さまはみんなのことが大好きで、みんながいい子に育ってほしいと本当に心から願っている。けれども、もしいい子になれなくても、悪いことをしてしまっても、失敗してしまっても、でも神さまはそれでもみんなことが大好きで、最後までみんなの味方です。幼稚園の先生方も同じです。みんながよい子に育ってほしいとそう願っているけど、悪いことをしてしまっても、失敗しても、ずっとみんなことが大好きでみんなの味方だから、いつでも幼稚園に来てほしい。みんなのおうちのお母さんやお父さんも同じで、どんなことがあってもみんなの味方です。」

 

これを聞いて、まさにキリスト教保育の心はそこにあると思いました。一般の感覚によれば、「いい子に育つ」ことが教育の目標で、もし子どもが悪いことをしてしまうなら、それは教育の失敗ということになってしまうかもしれません。宗教的にも、いいことをしている人を神さまは顧み、悪いことをするなら神さまは裁かれて罰を与えるというのが一般的な感覚かもしれません。でも聖書に導かれ、神さまの愛を大切にするキリスト教保育は、それとは違います。もちろんいい子に育ってほしいそう願い、そのことを神さまに真剣に祈りながら、子どもに関わります。でも、もう一面、キリスト教保育では、どんな子だって、神さまの前に罪を犯してしまうことがあるし、失敗してしまうこともあるということを受け止めます。では、それでその子はもうダメな子なのかというと決してそんなことはない。罪を犯しても失敗しても、なおも神さまに愛され続けていて、神さまの救いはその子に向けられ続けられている。そのことを大切にします。次のような歌詞の子どものさんびかがあります。「よいこになれない わたしでもかみさまは あいしてくださるってイエスさまのおことば」。よい子だから神さまが愛してくださるのでなく、良い子になれなくたって神さまの愛はなおも子どもたちに注がれ続けているのです。だから保育者もまた、悪いことをしたら、もうその子はダメだと見捨てたり、諦めたりするのではなく、その神さまの愛を信じてなおも愛し続け関わり続ける。そしてそのことが大切だということを、子どもの保護者達にも伝える。それがキリスト教保育です。

 

卒園した31名の子どもたちの心に、吉田先生のメッセージが届き、人生の折々に思い出してくれればいいなと思いましたし、私たちもその心を大切にしてこれからも子どもたちに接していきたいと改めて思いました。

 

今日もみことばに聴いてまいりましょう。まず今日の第一の朗読、エレミヤ書から聴いていきたいのですが、そこで神さまは「新しい契約」について語っておられます。「新しい契約」とおっしゃるのですから、その前の「旧い契約」「もともとの契約」があったということになります。それはどんなものであったのかと言うと、それは神さまがおっしゃっているように、「かつてわたし(神さま)が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの」その契約でした。つまり、あのモーセを通して民に与えられた十戒を始めとする、神さまの定められた掟、すなわち律法のことです。神さまがエジプトでの強制労働の苦しみからイスラエルの民を救い出してくださいました。その彼らに、「これからお前たちは、わたしのみ前で、また人々と共に、あなたがたの主である私が定めるように、このように生きていきなさい」と、神さまは彼らへのお約束として、契約を与えられたのです。

 

しかし、神さまは、今日のエレミヤ書「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った」とおっしゃいます。そうです。人々は、神さまのお約束を守らなかったのでした。神さまの教えを破り、神さま以外のものに走り、自分の都合の良いものを彼らの神として、自分の好き勝手な生き方をしてしまっていた。また人を愛すどころか人を傷つけたり陥れたりするようなことをしてきた。そんな彼らであったわけです。ですから、神さまは「もうお前たちのことなんて知らない」と、彼らのことを見捨ててしまっても仕方ありませんでした。でも神さまはそうなさらず、彼らに新しい契約を授けるのです。もう一度、彼らに、もう一度やり直そうよ。もう一度ちゃんと生きていこうよと、ワンモアチャンスを与え、語りかけられるのです。

 

神さまはおっしゃいます。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」

 

かつて、モーセを通して、イスラエルの民に、十戒をはじめとする様々な掟を、神さまからのお約束、契約として授けられたときには、それは二枚の石の板に刻んだと、聖書は伝えていました。その石の板は、人々が神さまの掟に反して金で子牛を造りそれを礼拝していたことを目撃したモーセがブチ切れて、彼らに向かって投げつけて粉々になってしまったのでした。それで、神さまはもう一度彼らのために新しい石の板に掟を刻んでくださったわけですが、それもやがてイスラエルの国が他の国に攻められたり占領されたりする混乱の中で失われてしまいます。でも、神さまは、今、彼らに授ける新しい契約はそのように石の板に刻まれて、壊れてしまったり、どこかに失われてしまったりするようなものではないと、おっしゃいます。「彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と。神さまがしっかりと、一人ひとりの心の中に刻みつけてくださると、神さまはおっしゃるのです。そして、そのことで、本当に神さまが身近な方になられる。もう「神を知れ」なんてお互い言わなくても、「あなたはわたしの神です」、「お前たちはわたしの民だ」という本当に密接な関係で結ばれる。「小さい者も大きい者も」、すなわちどんな人だって、「わたしを知る」神さまのことをちゃんとわかる。神さまと深い交わりの中で生きていくようになる。そして、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」神さまの赦しと憐れみの中で、どんな人も生かされると、神さまはおっしゃるのです。

 

これは、時を超え、場所を超え、私たちにも語られている、神さまの約束です。私たちも神さまの御心を、聖書のみことばを通して知らされます。でも、それに従えないことも多いのです。神さまをの教えに反して、罪を犯し、それを幾度も幾度も繰り返してしまう私です。神さまの教えの石の板を、私もまた、粉々にしてしまい、あるいはどこかに無くしてしまっているのです。でも、神さまはそれでもなおも、私を見捨てず、なおも愛し続けてくださいます。本当なら「もうあいつはだめだ」と見捨てられて、裁かれてしまっても仕方がない存在なのですが、神さまはそうなさいません。子どものさんびかにあったように、「よいこになれない わたしでもかみさまは あいしてくださる」これは私にも与えられている神さまの約束なのです。神さまは私の心の中に、新しい契約をしっかりと刻み込んでくださり、神さまがどんなお方なのか私たちに教えてくださいます。そのことによって、私もまた、ただただ神さまの赦しと憐れみの中で生かされるのです。

 

それでは、私たちにとって、私の心の中に刻まれる神さまの新しい契約とは何でしょうか。今日の福音のみことばがそのことを私たちに告げています。このみことばは、イエスさまがエルサレムに迎えられた出来事の直後の出来事として伝えられています。イエスさまがろばに乗ってエルサレムに入り、人々が熱狂的にそのイエスさまを迎えた。その後の出来事が、今日の福音で伝えられていることなのです。

 

その時、ギリシア人たちが、イエスさまにお目にかかりたいと、イエスさまの弟子のひとりのフィリポに告げました。すると、フィリポはアンデレにそれを告げて、アンデレとフィリポはイエスさまにそのことを伝えました。なぜここでフィリポが直接イエスさまにそれを伝えず、アンデレにわざわざ話してワンクッション置いたのか、疑問ですが、もしかしたら、「おい、アンデレ、すごいぜ。ギリシア人まで、先生に会いたいってよ」「そかそか、じゃ先生に伝えよう」とそんなやりとりがここでなされたのかもしれません。あるいは、「おい、アンデレ、ギリシア人が先生に会いたいって言うんだけど、どうかな?大丈夫かな?」「うーんどうかわからないけど、とりあえず先生に伝えてみるか」そんなやりとりだったかもしれません。つまり、みんなエルサレムでの出来事で高ぶった気持ちの中で、イスラエルの人たちだけでなくギリシア人までもイエスさまのもとに!と、彼らが得意げに感じしたか、あるいは、イスラエルの人たちではない、宗教的に穢れているとされていた外国人、つまり異邦人であるギリシア人をイエスさまに会わせてよいのかと、そんな風に感じたか、いずれかではなかったか。このため、フィリポはわざわざアンデレにそれを告げたのではないでしょうか。

 

けれども、そのいずれも、イエスさまのお心を、彼らが理解していないことの現れでした。イエスさまはおっしゃいます。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」エスさまはここで「栄光」ということをおっしゃいます。これは、もともと「輝き」ということを表す言葉です。「わたしが輝きを受けるときが今こそ来た」と、イエスさまはここでおっしゃっているわけですが、その輝きとは何か。人々がみんなしてイエスさまを熱狂的に迎えたことや、それを見てギリシア人までもがすごいと思ってイエスさまに会いたいと思ったことかというと、そうではありませんでした。そのイエスさまの栄光、イエスさまの輝きとは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とイエスさまがおっしゃっているように、イエスさまが死なれること、つまりその十字架にこそ現れる。イエスさまはそのことをここで告げられるのです。イエスさまが十字架で死なれることにより、その実、その収穫として、多くの人たちが救われ、生かされる。

 

そうです。これこそ、エレミヤ書で告げられていた、神さまが私たちの胸に刻み込んでくださる新しい契約です。つまり、神さまが約束なさった新しい契約とは、イエスさまの十字架、その命に他なりません。命がけで私たちを愛し、私たちを生かしてくださる、その愛、それこそが、神さまの前に罪を犯してしまう私たちを見捨てず、なおも私たちを赦し、御許に招いてくださる神さまの愛の契約です。

 

そこにはイスラエル人であるとか、ギリシア人であるとかいうことも、そのどっちが神の民で、どっちが汚れているなんて、もはやそんな差別はありません。イエスさまが今日のみことばの結びで、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃっているように、すべての人が、十字架に挙げられたイエスさまのもとに引き寄せられ、十字架の愛のもとに、その命のもとに集められるのです。エレミヤ書で、「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである」と告げられているように、どんな人だって、十字架に挙げられたイエスさまのもとへと引き寄せられ、そのことを通して神さまの深い愛を知り、その愛が私たちの心にしっかりと刻み付けられるのです。

 

エスさまはおっしゃいます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」エスさまにとっても、十字架は心騒ぐほどの大きな痛みであり、苦しみでした。でも、イエスさまは「わたしはまさにこの時にために来たのだ」とおっしゃって、十字架をご自分の身に引き受けられます。私たちへの愛の故に。私たちを何とかして救いたいと願って。そのイエスさまに対して、神さまが「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」と力強く告げられたように、そのイエスさまの十字架にこそ、イエスさまの栄光、その輝きがあるのです。私たちも、イエスさまの十字架のもとに引き寄せられて、その愛を私たちの心にしっかりと刻まれて歩みたいと願います。

 

主よ、私たちを導いてください。

 

あなたの御前に罪を犯し幾度も繰り返して歩んでいる私を、あなたはなおも見捨てず、御子の十字架によって私たちを赦し、新たに歩ませてくださいます。どうかこの御子の十字架のもとへ私たちすべての者を引き寄せ、またその愛をあなたの新しい契約として私たちの心に刻んでください。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

 

あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るように。アーメン

 

動画 2018-03-18.MP4 - Google ドライブ

 

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東日本大震災を覚えての祈り

司式)「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

 

先唱)天地の創り主である神さま。今日、私たちはあの日から7年を迎え、心新たにあなたに祈ります。2011年3月11日、東北地方を中心に大地震津波が襲い、一瞬にして多くの人たちの命が失われました。また、その後もこの地震に関連して、命を失った人たちが大勢いらっしゃいます。その中には、失望と悲しみのうちに自ら命を絶った人たちも少なくありません。神さま、その一人一人の尊い命を、あなたの深い憐れみにより、御手のうちに受け取ってください。
  会衆) 主よ、憐れんでください。

先唱)被災された方々と共に、いま、私たちは祈ります。家族や友人を失った人たち、家や仕事を失った人たち、たくさんの思い出と希望にみちた将来を失った人たちを顧み、あなたからの慰めと癒しをお与えください。そして、様々なつながりから断たれた人々や、避難を余儀なくされている多くの人々、さらには様々な柵のゆえに避難を望んでも それがかなわない人たちを、あなたの愛で満たしてください。
  会衆) 主よ、満たしてください。

先唱)地震の被害によって悲しみに心引き裂かれた人々と共に、いま、私たちは祈ります。一人ひとりの嘆きや悲しみの叫びを聞き届け、憐れんでください。その試練の中にあって、恵みの神と出会い、希望を見出すことができますよう、あなたへの信頼をお与えください。私たちの苦しみに先立って、十字架で苦しみ命をお与えくださった御子が、いつどんな時も、一人ひとりと共にいてくださることを知ることができるように、心を開いてください。
  会衆) 主よ、信じます。

先唱)福島第一原子力発電所の事故を覚えて、いま、私たちは祈ります。あなたの創られたこの世界、そしてあらゆる命に対して、取り返しのつかない大きな事故となってしまいました。私自身と、また、この国に暮らす一人ひとりの無関心や傲慢さを深く悔い改めます。私たちの罪を赦し、同じような事故を再び繰り返すことがないように、原発に頼らない社会を目指し、そのために取り組むことができるように導いてください。国の指導者たちがあなたの御心に従い、謙虚に、また大胆に決断をすることができるように支えてください。一人ひとりの健康をあなたが支え、すでに健康が害されてしまった人たちをあなたが癒してください。
  会衆) 主よ、ざんげします。

先唱)復旧・復興を願って、いま、私たちは祈ります。大きな苦難の中で、残された家族や仲間とともに手を取り合って、世界中から寄せられた祈りと支えに力を得て立ち上がろうとしている人たちに、あなたの祝福をお与えください。私たちが、その歩みに連帯することができるように、お遣わしください。国と地方自治体が、その責任を果たすことができるように導いてください。復旧、復興の厳しいあゆみに希望の道のりを示し、あなたがそのために必要なものを備えてくださり、また、その道を共に歩んでください。
  会衆) 主よ、共に歩んでください。

先唱)国内外の様々な災害の被害に遭われた方々とともに、いま、私たちは祈ります。東日本大震災と共に、国内外の各地で多くの災害が起こっています。あなたがそれらの災害の被害に遭われた一人ひとりをも助け、慰め、平安を与えてください。私たちが、あなたの導きの中で、被害に遭われた方々と共に歩むことができるように導いてください。
  会衆) 主よ、導いてください。

先唱)み子の苦しみによって示された変わることのないあなたの限りのない愛によって、すべての人が絶望の中に希望を、悲しみの中に慰めを見いだせること、そして、私たちをそのために用いてくださることを感謝して、この祈りを私たちの主イエス・キリストによって祈ります。 
  会衆)アーメン

 

祝 福
司式)憐れみ深い神が、あなたがたと、災害の被害に遭われた方々及びその家族や友人に、豊かな祝福と慰めを与えてくださるように。父と子と聖霊の御名によって。
  会衆)アーメン